とある図書館での出来事
「君はどうしたいの?」
外をぼんやり眺め考えていると、誰かがささやきかける。振り返るが、そこには誰もいない。図書館で、この声を聞いたのは、大学が長期休暇に入った8月のことである。
小高い山の上にある木造の図書館は、1920年頃に建てられたものである。何がそう感じさせるのかわからない。館の入口をくぐると、普段でも空気がピンと張りつめ、どこからともなく気配を感じた。
私は、毎日のように図書館で勉強をしたり本を読んだりしていたが、そういうときには、人でない何かの気配を感じることがなかった。だが、大学が夏休みに入り、学生の出入りが少なくなると、“このなにか”の気配を感じるようになった。
図書館の一番奥には、見晴らしのよい窓際の席がある。そこに座って木々の隙間から見える町を、私は暇をみつけては、眺めていた。
この日、いつものように窓際の席に座り、片肘をつきながら、一枚の抽象画を描き始めた。下書きを終え、「赤色にしようか青色にしようか」と、悩んでいるときだった。
「眼の色は、赤だよ……」
「この形は、濃い色がいいかも……」何処からともなく透きとおった可愛らしい声がした。
後ろを振り返ってみたが、そこには誰もいない。「どうして幼い女の子の声が、聞こえたんだろう?」と疑問は残った。でも気持ち悪いわけではなく、怖い感じもしない。
「やっぱりあれは、自分自身の心の声だっだのかな」と納得し、再び作業を続ける。
色が決まり、迷いがなくなると、私は一心不乱に塗ることだけに集中した。今度は、先ほどの声が、はっきりと聞こえはじめた。その声で私は、雲の上に浮いているような不思議な状態になった。気分が落ち着くためか、作業もスムーズに進んだ。
しかし私が、絵の形に迷い作業が止まると、
「ここの形は、こう変えたら~」と少女がイメージした映像を私の頭の中に流すこともあった。
アドバイスに納得すれば、それに従うこともある。だが、意見が合わず、「いや、この形はこのままでいいんだ」と私が言っても、この少女が、反論することはない。彼女は、一方的に声をかけてくるだけで、私と会話をすることはない。
こんなやりとりを繰り返して、私と彼女は、一枚の絵を仕上げていった。絵の完成が近づくにつれ、周りの景色や図書館の独特な匂い、暑さなどの感覚が戻ってくる。それに比例するように、彼女の存在や声はしだいに消えていった。
絵が完成して我に返ると、そこには誰もいない。窓の外を眺めると、真っ暗な空が広がっている。
館内は、またいつもの静寂につつまれていた。