Extra Episode:世界は理不尽に満ちている
僕と有子は幼馴染だ。
小学生低学年の頃に、もっと静かな場所で暮らしたいと願う両親が都会からやや離れた分譲地を購入して家を建てた。
街ぐるみで住民の誘致を行っていたのだろう。
すぐ隣の分譲地もほぼ同時期に売れ、2つの家族が引っ越してきたのは見計らったかのように同じタイミングだった。
初めて会った時の有子は僕が笑いかけても両親の背の後ろに引っ込んでしまうくらいの恥ずかしがり屋さんで、その反応が面白くて毎日話しかける内に、いつの間にか一緒に遊ぶのが当たり前になっていた。
小さい頃は暗くなるまで駆けまわり、砂や泥に塗れては両親に呆れられたものだ。
最初は有子のことを引っ込み思案で恥ずかしがり屋かと思っていたが、一緒に居る内に意外と強引で無鉄砲なのだと知らしめられた。
有子の提案で近くの山まで探検に出かけて迷いかけたり、足を滑らせて川に落ちたり、子どもながら僕が見て居なきゃダメだと何度も思ったし、頭を抱えたくなった時もある。
けれどそんな時、彼女は決まって底抜けに明るい笑顔で笑うのだ。
何の邪念もない、純粋でいて、太陽のような暖かさに満ちた優しい笑顔だった。
僕はその笑顔に惚れていた。
「もう、ゆうこはぼくがみてなきゃだめなんだから」
そんな言葉を理由に、僕等は楽しい小学生時代を歩んだ。
でも、ただ楽しんでいればよかった時代はすぐに終わりが来る。
僕等は順当に成長し、大人に見えていた中学生の仲間入りを果たした。
だけど、真新しい制服に身を包んでも僕は何も変わらなかったし、大人になった実感も得られなかった。
なのに隣を歩く有子の制服姿はとても様になっていて、緊張で硬くなった笑顔も相まって凄く大人びていて、どこか遠くに感じてしまった。
まるで自分だけが取り残されてしまったような感覚。
実際には見慣れていない有子の制服姿にまいっていただけだったのだが、その頃から次第に有子との交流は細くなっていった。
思春期にありがちな男の意地とでも言うべきか……。
要するに女の子と一緒に何かするのが妙に気恥ずかしくなったのだ。
有子は少しも変わらず自分に接してくれているのに、つれない返事しか返せない。
だからだろう。僕は本当に大事なものを失う事になる。
有子は傍から見ても向日葵のように明るく可憐な少女だった。
なのに僕はいつも隣にいるのが当たり前で、当然のように感じていた。
だから、有子に好きな人が出来たと聞かされて目の前が真っ暗になった。
相手の男子の事は知っている。
小学生の頃からずっと遊んでいた奴で、調子が良い時もあるけれど根は良い奴だ。
有子を好きになったと僕に話し、告白することまで教えてくれた。
先を越す気はないけど、気長に待つつもりもない。
彼は僕に真っ直ぐな目を向けてこう言った。
「もしお前が有子の事を好きなら、先に告白してくれ」
僕には自分の気持ちに正直な彼がとても眩しく思えた。
だって僕は結局有子に何も言えなかったから。
傲慢だったのだろう。何も言わなくとも、僕と有子は同じ気持ちだと思い込んだのだ。
僕は好きだと言う覚悟も、万が一断られる覚悟も持ち合わせていなかった。
そして有子は僕の隣から居なくなった。
僕はただの一度も有子に好きだと伝えていない。
だから、例え僕以外の誰かとそういう関係になったとしても、文句を言う権利なんてなかった。
手を繋ぐだけでも顔を赤くするような2人は初々しくて、僕には見ていられなかった。
その席は僕の物だったのにと思う事がない訳じゃない。
だけど、幸せそうに笑う有子を見ていると、邪魔をするような真似はしたてもできなかった。
あの太陽のような笑顔が失われてしまうことだけは、何としても避けたかったから。
朝、学校に行く時に偶然出会えば一緒に行く。
でも、迎えに行く事も迎えに来てくれる事もなくなった。
母におつかいを頼まれ、スーパーで偶然会った時には荷物持ちを申し出る。
でも、その後で彼女の家に上がりこみ、一緒にお茶を飲む事はなくなった。
風邪で休んだ時にプリントを届けに行く。
でも、彼女の部屋に入ってお見舞いをする事はなくなった。
僕等の関係は友達以上で恋人未満。
多分これが、仲の良い幼馴染という関係なのだろう。
すぐに受け入れられたわけじゃない。
僕は胸の中のもやもやを長い時間を掛けて全部飲み込んだ。
この関係を受け入れる事にしたのだ。
彼と有子が恋仲になっても、僕と彼との友好は途絶えなかった。
好きな相手を取られた憎しみを向けるなんてみっともない。
それに、彼と有子は共通の友人で、仲違いをすれば有子に責任を感じさせてしまうかもしれない。
何より彼は有子の事を本当に大切にしているのだと、傍から見ていてもよく分かったから。
僕と彼は友達で、僕と有子は幼馴染で、彼と有子は恋人同士。
だからか、この奇妙な取り合わせの3人で一緒に行動する事が多くなった。
カラオケに行って、遊園地に行って、ゲーセンに行って、買い物して。
デートコースを3人で歩く時の僕の心境は筆舌しがたかったけれど、彼と有子は僕の前で特にいちゃつくこともなく、傍から見れば仲のいい3人組にしか見えなかっただろう。
事実、僕もいつの間にかこの奇妙な交友関係が気に入って、胸の中のもやもやを無理に嚥下することもなくなっていった。
でも、幸せな時間は長く続かない。
彼と有子が付き合い始めてから1年後。
有子が病気になった事を知らされた。
最初は小さな違和感だったらしい。
歩くと足がもつれて転ぶことがある。
細かな作業をしていると手が上手く動かなくなることがある。
疲れていれば誰にでもありそうな症状だったが、日に何度も起これば流石に不信感が生まれる。
彼の勧めで検査を受けた有子は、そこで脊髄小脳変性症だと告げられた。
神経疾患の一つで、世界的にもまだまだ症例が少なく、難病だと言われている。
最初はほっとしたのだ。
難病という言葉が、原因も分からず治療方法も確立していない不治の病を示す物だとは知らなかったから。
意味を知った僕は目の前が真っ暗になって、楽観的に捉えていた自分を殺したくなった。
検査の為に入院していた有子はもうこのまま病院から出られないのではないかと思った事もある。
けれど、本当に病気なのか疑わしいくらい簡単に日常へと復帰した。
時々足をもつれさせることがあるから体育は休みがちになったけれど、それ以外は何一つ変わらず、有子が病気だという事さえ忘れそうな日々だった。
今になって思う。この病気は、だからこそ他の病気に比べて殊更残酷なのだと。
少しずつ、本人も気付かないような速度で病気は進行し、確実に運動能力を奪い続けていく。
僕等が中学3年になったある日、有子が帰り道で転んだ。
一生懸命起き上がろうとしているのにどうしても起き上がれず、彼も居なかったので僕がおぶって帰った。
家に辿りつくと有子の両親が顔を真っ青にして病院へ車を走らせるのを、心配しながら見送って、でもすぐに良くなると思っていた。
翌日、見舞いもかねて病院に行くと、有子の母親が泣きはらした顔で出迎えてくれた。
その向こうで、有子は諦めと投げやりな気持ちが入り混じった声で言ったのだ。
「私ね、もう二度と一人じゃ歩けないんだって」
有子の病気は治せない。
それは、進行してしまった病状を巻き戻す事も出来ないという意味だった。
足が使えなくなればもう二度と歩けず、手が動かなくなればもう二度と手を使う事もできず、呂律が回らなくなれば話すことさえできなくなる。
「このままどんどん身体の自由が利かなくなって、いずれは起き上がる事もできなくなるって」
なのに本人の意思だけは常に明朗で、壊れていく自分の身体とひたすら向き合い続けなければならない。
それがずっと、死ぬまで終わらないのだ。
僕はこの時になってようやく有子の抱えている病気の重さを理解した。
どうしてこの世界はこんなに理不尽なのだろうか。
何も悪い事はしていないのに、ただ運と言う乱数が悪い数値を示しただけでもう二度と自分の足で歩けなくなった。
成長期と重なったのが災いしてるのか、有子の病気は一般的なケースと比べて進行が速い。
それでも、数年で死に至るほど早くはない。
真綿で首を絞めるようにじわりじわりと、五年か、十年か、或いはもっと沢山の時間を掛けて有子から知能以外の何もかもを奪い続ける。
そんなのまるで、拷問じゃないか。
どうしてそうしたのかは分からない。
気付けば僕は有子の身体を抱きしめていた。
「どうして、私なの……?」
何も言えなかった。
理由なんてない。誰かが悪い訳でもない。
変われるものなら変わってやりたいとさえ思う。
でもそれを口にした所で何かが変わったりはしない。
きっと有子も、自分の病気を正確に理解したのはこの時が初めてなのだろう。
口で聞かされても、自分で調べても、実際に起こらない限り、本当の意味で理解するのは難しいから。
足に不調が続いていたのは有子も理解していた筈だ。
でもそれを理解したくなくて無理を続けた。
最初は小さな無理だったけれど、日を追う毎に無理は増え続け、遂に限界を迎えた。
腕の中で人目もはばからず泣いているのは諦めきれないからだ。
そんな有子に、僕は一体どんな言葉をかければいいんだろうか。
大丈夫、きっとよくなる。そんな根拠のない言葉を並べられるのは僕が当事者じゃないから。
結局僕は何も言えず、有子が泣き止むまで頭を撫でることしかできなかった。
それから有子はリハビリの毎日を過ごす事になる。
病気の進行を止める事はできなくとも、遅くする事は出来るかもしれない。
筋力の低下を防ぐ為、出来る限り自分の力で歩く方が良いと言われ、杖を使って歩行する訓練を始めた。
僕は有子の希望で行き帰りのお供をしている。
危なくなった時は咄嗟に手を貸せるように隣を歩いて、前から人や自転車が来た時は自分の身体で壁を作る。
学校から家までの決して長くない距離を2人で時間を掛けてゆっくり歩く。
「もう、ゆうこはぼくがみてなきゃだめなんだから」と言っていた頃に戻ったような気がしていた。
「少し休んでいこうか」
リハビリを始めてから3つほど月を跨いだ頃には休憩が必要になっていた。
今の有子にとっては杖を使って歩く事さえ酷く体力を使うのだろう。
杖での歩行にさえ、限界が見え始めていた。
「まだ、大丈夫だから」
そう言って歩こうとする有子がバランスを崩すが、そうなるだろうと予測していただけあって身体を支えるのは簡単だった。
「無理してもよくないよ。ちょっと飲み物買ってくるから待っててよ。勝手に動いちゃだめだよ」
制服が汚れないよう、自分の鞄を地面に置いてその上に座らせる。
「……もう辞めようかな」
去り際に有子がぽつりと漏らした一言は今でもはっきりと耳に残っている。
それは、僕が聞いた最初の弱音だった。
卒業を間近に迎えたある日、有子の心が折れた。
でも、誰がそれを咎められる?
通学は車椅子に変わっていた。
押すのは僕の役目で、有子はただでさえ小さな身体を更に小さくしてちょこんと椅子の上に腰かけている。
だけど、こんな真似が出来るのは僕等が同じ学校に通っている今だけだ。
卒業すれば僕はもう少し遠くの高校へ通う事になる。
残念ながらその学校には自力で歩けない有子を受け入れられる設備が整っていなかった。
有子の事を考えれば、設備の整った専門の学校に行くのが望ましい。
でもそれは有子に僕等との違いを一層強く認識させてしまった。
「もうイヤ。治らないのに意味ないもん」
有子がどれだけリハビリを頑張ったかなんて、周囲の人間なら誰もが理解してる。
それでも、最初に診断を受けてからたった2年半で彼女は歩けなくなった。
「もうなにしたって無駄なのに、どうして頑張らなきゃいけないの」
膝を抱えて顔を埋める彼女に、頑張れなんて無責任な応援はできなかった。
医者は鬱症状と診断するだけで何の役にも立たない。
いや、一つだけ。
突発的な自傷行為に走る危険性があるから気を付けろと言う警告だけは役に立ったか。
人は希望があるから生きていられるのだと言う。
有子にとっての希望とはなんだろうか。
この瞬間に有効な新薬が発見されたとしても臨床試験に少なくとも10年はかかる。
その間に有子の病気は進行を続けるだろう。
或いは、取り返しのつかない事態になっているかもしれない。
希望なんて何処にもないのだ。
ある日突然奇跡が起きて、彼女の病気が綺麗に治る以外は。
でも、そんな脆弱な奇跡を希望に据えて生きていくなんて無理だ。
あらゆる物をすべて捨てて、たった1枚の宝くじを手に、これが当たれば問題ないと胸を誇る人が居たら、それを見ている他人はどんな反応をするだろうか。
馬鹿なことだと、無謀なことだと、散々笑うだろう。
奇跡を希望に据えて生きるという事は、つまりそういう事に他ならない。
そして、決定的な事件が起こった。
「俺、有子と別れたから」
最初は何を言っているのか分からなかった。
昔馴染みの彼は調子が良い所もあるけれど、根は真面目で誠実だった筈なのに。
「お前には誤魔化してたけど、もっと都会の高校に行く事にしたんだ。だからあいつとはあんまり会えなくなる」
有子は病気で、付き合うには普通の子より大変なのかもしれない。
それを強要するのが間違いであることくらい分かっていた。
「俺にはもう無理だからさ、これからはお前が見てやれよ」
だけど、感情がそれについて行く訳ではない。
「っっざけんなっ!」
人生で初めて本気で人を殴った。
硬い物に当たった拳がずきりと痛む。目の前では彼が胸を押さえて蹲っていた。
苦しそうに何度も咳き込んだ後、ゆらりと立ち上がる。
「ま、自業自得だわな……」
自嘲気味に呟いた彼はそう言って地面にどかりと座り込んだ。
「気の済むようにしてくれて構わねぇよ。だけどな、これだけは言っとく。有子が好きなのは昔からお前だけなんだよ。俺じゃどんなに頑張っても支えになれねぇんだ」
もう一度殴り飛ばそうと振るった腕が止まる。
「ふざけんなって言いたいのは俺の方だよ。俺がどんなに話しかけても、あいつは少しも振り向いてくれてねぇんだよ!」
彼が何を言っているのかわからなかった。
「気付けよ間抜け。俺とあいつが付き合ってるなら、なんでいつもそこにお前が居るんだよ。どんなに仲良くてもデートにお邪魔虫を誘う訳ないだろ」
彼は有子が好きだった。
でもその視線の先にいつも僕がいる事を知っていた。
そんな折、有子から最近僕に避けられていると相談を受けたらしい。
彼からすれば僕と有子がどんな気持ちでいるのか、手に取るようにわかったのだろう。
だから彼は自分の目的を果たしつつ、2人の要望も叶えるような案を口にした。
「俺達が付き合ってる事にしたら、あいつも自分の気持ちに気付くんじゃないか?」
彼は、僕が有子を避けているのは普段から距離が近すぎるからで、一度失ってみればそれがどれだけ大切な物なのか気付くはずだと説明した。
結果は言わずともがな。僕は意気消沈して有子からますます距離を取った。
だから彼は帳尻を合わせるために僕を頻繁に誘い、有子と3人で行動するようにした。
そうやって、いつか2人が自分の気持ちに自然と気付くまで待とうとした。
形式上は彼と有子は付き合っていて、話す機会も多かったのだろう。
或いは、巻き込んでしまった事への負い目があったのかもしれない。
多分有子も、彼の気持ちに気付いていた。
そうやってこじれた思惑が絡まりあってどうにもならなくなってしまった時に、有子の病気が発覚したのだ。
こんな病気の身体では好きだと伝えたところで迷惑にしかならない。
有子は自分の想いを胸の中に封印した。でも、彼にはそんな事、最初からずっとお見通しだった。
「俺さ、医者になろうと思うんだ」
有子が病気になってから3人で出かける機会は減っていた。
その時間を、彼はひたすら勉強に注いで、都会の有名な進学校に受かるまでになっていた。
「俺があいつにしてやれることって、多分それくらいだからさ。それにほら、医者って稼ぎが良いだろ?」
彼は有子の病気を諦めなかったのだ。
希望がないのなら、自分が希望になればいいんだと、恥ずかしそうに笑った。
「だから烏帽子、俺が帰ってくるまであいつの事はお前に任せる」
彼は僕の苗字を呼びながら笑顔で親指を立てて見せた。
彼はとても強い。そんな彼を見て、僕もこのままではいけないと思った。
有子の病気は直接命を脅かす物ではない。
身体が上手く動かなくなっていくだけだ。
病状が進行して寝たきりになってしまうと合併症の致死率が飛躍的に上がってしまうが、継続的なリハビリによって身体を維持できれば、十年以上の時間を稼ぐ事もできる。
僕らの長い長い役割分担が始まった。
リハビリは肉体だけでなく精神な苦痛も伴う。
どうしてこんなに簡単なことができないのか。
昔ならこんなに苦労しなかったのに。
昨日までできていた事がどうして今日はできないのか。
不安や不満の種はそこら中に転がっている。
時に投げやりになってしまうのも無理なかった。
「翔ちゃんに私の気持ちなんてわかんないよっ」
昂ぶった感情が爆発する事もよくあった。
僕だって苛立ったりする事がなかったわけじゃない。
でも、時間をおいて向き合えば彼女はちゃんと答えてくれる。
「無理しなくてもいいのよ」
一度だけ、彼女の母親にそう諭された事がある。
毎日欠かさずお見舞いを続ける僕は、周りからすると無理をしているように見えていたのかもしれない。
けれど僕にとっては何でもない日課なのだと説明すると、ありがとうと、深く頭を下げられた。
誰の元にも時は平等に流れる。
有子の病状は進行を続け、呂律にも影響が出始めた。
頭の中ではきちんと話しているのに、ちゃんとした言葉になってくれない。
この世界に神様がいるのだとしたらどうしてこんな病気を作ったのか。
きっと、この世界に神様なんていないのだ。
世界は理不尽に満ちている。
有子と同じ年齢の少女の多くが自由を満喫している傍ら、病に苦しみ歩く事さえできない人も居る。
この世界が平等だと言うのなら何故有子だけがこんな目に合わなければいけないのか。
苛立ちと不満ばかりが募った。
こんな理不尽な世界など壊れてしまえば良いと思った。
でも現実にそんな事が起こる筈もない。
楽しそうに話しているクラスメイトが憎たらしく思えるようになった。
無邪気に遊んでいる子ども達の姿に苛立ちを覚えるようになった。
青春を謳歌している人を見る度に、有子が隣に居られない現実を思い知らされ、胸を引き裂かれる想いだった。
「ソツギョウ、オメデトウ」
いつからか有子は自分で喋らなくなった。
呂律のまわらななくなった声がどうしても受け入れられないのだ。
その代わりに自動で音声を合成するソフトを使っている。
今から少し前、一人の脳科学者が脳内の電気信号を機械語に翻訳する方法を発見した。
この世紀の大発見によって、失われたからだの機能を機械で代用する技術が飛躍的に進歩した。
この合成音声発生装置もその内の一つだ。
以前はキーボードや手書き用の機器に入力した文字が言葉として変換される仕組みだったのだが、今では頭に取り付けた冠状の電子機器が思考を読み取り、言葉として発しようとした物だけを音声にしてくれる。
普通に話す感覚で機械合成された音声を操れるのだ。
僕は今日で高校を卒業した。
有子も数か月前までは設備の整っていた高校に通っていたのだが、合併症の悪化によって自宅での療養が続いている。
最近は体力が落ちてきたせいで、ただの風邪が肺炎までこじれてしまった。
幸い肺炎自体は回復したが、まだ外に出られるほどの体力が戻っていない。
たった6年だ。有子の病気が診断されてから、たったそれだけしか経っていないのに、恐れていた寝たきりの状態になってしまった。
原因は何となく分かっている。
有子の中の生きる気力が明らかに陰りを見せていた。
病気の進行は精神にも影響を受ける。
そうでなくとも、彼女には笑っていて欲しい。
いつか見せてくれたあの太陽のような笑顔をまた見せて欲しい。
でも、非力な自分に一体何が出来ると言うのか。
ただ傍にいるだけでありがたいのだと有子は言ってくれた。
でも僕はただ傍にいるだけじゃなくて、もっと別の何かがしたかった。
都会で医者になる為、猛勉強に励んでいる彼とは今でも頻繁にメールをしている。
その中で有子の気力が陰っている事を話していた。
負担の少ない室内でできる、気晴らしになりそうなものはないだろうか。
すると彼は丁度良さそうなものがあったから調べておいたのだと、資料が添付されたメールを返してくれた。
それが世界初の完全な仮想世界で稼働するMMORPG、『World's End Online』だった。
「まぁ要するにリアルな夢とでも思ってくれればいいよ。夢と違って記憶にばっちり残るけどさ。有子の病気は大脳に影響を及ぼさないし、脳の委縮も限定的だろ? 認識に問題はないと思うんだ。仮想世界とはいえ、自由に動き回れれば気晴らしになるんじゃないか? 室内で出来るから身体に負担もかからないしな」
電気信号によってのみ稼働する仮想世界でなら、彼女は病気が進行していなかったときと同じようにまた動ける。
僕は飛び上るほど嬉しかった。
ただし、一つだけ問題がある。
World's End Onlineの初期ロットを入手するには、倍率数百倍とも言われる抽選に受からなければならない。
知り合いに片っ端から連絡を取り、World's End Onlineの初期ロットに応募して貰った。
その甲斐あってか、手に入ったアカウントは2つ。
親戚の男性と女性で、名義は違うけれど、協力を取り付けることができた。
僕はそれを使って、有子をゲームに誘ったのだ。
フルダイブシステムを起動してから、デフォルトで搭載されているメッセージ機能で有子と連絡を取る。
『私、ゲームなんて初めて』
『気軽に楽しめばいいんだよ。複雑なルールとかは、必要になったら覚えればいい』
『うん、そうするね。あ、キャラクターの名前ってどうすればいいの?』
『うーん……そうだね、本名は使わない方が良いかな』
『でもあんまり違い過ぎると、何となく私じゃない気がする』
『それなら、名前の有子をもじってみたらどうかな。例えば……アリスとか』
『あ! それいい! じゃあ翔ちゃんは帽子屋さんだね!』
『はは、言われてみるとぴったりな気がしてきたよ』
そうして、僕等は仮想世界に降り立った。
その時の『アリス』の感動っぷりは今でも忘れられない。
現実世界の動かなかった身体が嘘のように、この世界の身体は俊敏に動いた。
なくしてしまった彼女の可能性を、この世界は再び与えてくれたのだ。
有子の生きる気力は見違えるほど回復した。
進行を遅らせる為のリハビリも以前のように積極的に頑張るようになった。
ただのゲームが彼女にとっては大きな希望になったのだ。
『私、もっとこの世界の事を沢山の人に教えたい!』
目をキラキラと輝かせながら有子は言った。
同じ病気を抱えている人や、治る見込みもなくただ死を待つ人々にとって、この世界は救いになる。
『じゃあその人達の居場所を作ろうか』
『居場所? どうやって作るの?』
『僕等でギルドを作るんだよ。きっと、初めてでどうしたらわからない人も多い筈だ。そういう人達に、同じ境遇のアリスが面倒を見てあげればいい』
『うん、それ凄く良い!』
『それならギルド名を決めなきゃね』
帽子屋が居て、アリスが居るなら、名前なんて決まっているようなものだった。
僕等は声を揃えてその名を呼ぶ。
『『A-Mad-Tea-Party』』
狂ってしまった人生でも救いはある。
有子は自身の境遇と、World's End Onlineの世界がいかに素晴らしいかをブログに綴った。
反響は予想以上に大きく、有子を担当していた医師からも末期の患者の心理的なケアに転用できるのではいかと話を聞かれることもあった。
気が狂いそうだった日々に暫しの休息を。
アリスのブログは目立つものではなかったが、医師から話を聴いた患者の閲覧は多く、お茶会には似たような境遇の難病を抱えた、明日をも知れない人達が集まるようになった。
三日月ウサギという名前でログインした彼も、そんな狂った人生を世界から押し付けられた内の一人だ。
『信じられないでござるよ』
彼は幼い頃にバスの横転事故に巻き込まれ、視力と四肢の機能を失った。
一人では何もできず、ただひたすらに空虚な日々を過ごすだけ。
いっそ殺して欲しいと懇願した事さえある。
でも、彼の願いを叶えてくれる者は誰も居なかった。
何より不幸なのは、彼自身でさえ、その願いを叶えられなかった事だ。
何もかもを恨み、あらゆる事を諦めていた彼にとって、この世界は救いだった。
『これでおにゃのことにゃんにゃん出来る機能があれば完璧でござったのに』
閉口するアリスに三日月ウサギは慌てて言い繕う。
『男子たる者エロいのが当たり前でござる。現実で身体が動けば、きっと今頃可愛いおにゃのこの一人や二人くらいゲットしていたでござろう』
多分それは、いつかの彼が思い描いた夢なのだろう。
人は夢を見る生き物だ。叶わないと知りつつも、見られずには生きられない。
久方ぶりの自由な世界に羽目を外して常識から外れる行動を取ったり、他人に迷惑を掛けたりもしていたが、アカウント剥奪の処分に気を付けるよう言うだけで咎める気にはなれなかった。
世界は彼に理不尽を押し付けた。
なら、彼がこの世界に理不尽を押し付けて、一体何の問題がある?
ちょっとした意趣返し。
彼が現実で理不尽を背負うなら、彼によってこの世界の住民が多少の理不尽を背負されるくらい、良いじゃないか。
……分かっていた。こんな行為に意味なんてない。
でも僕にとっては意味があった。
笑い合えるだけの毎日がどれほど幸せに満ち溢れているかを、僕は有子から教わった。
何も知らず、与えられた自由がどれ程の価値を持つのか理解もせず、ただ無為に日常を過ごし、不満と不平を漏らす圧倒的多数が妬ましかった。
その陰で嘆いている人達がいるのに、まるで自分が一番不幸だとでも言いたげな彼らを理不尽に恨んだ。
今でも楽しそうな人達を見ると壊したくなる衝動に駆られる事がある。
空想の中では何度も彼らを傷つけて世の理不尽さを知らしめていた。
どうして彼女だけが苦しまなければならない!
どうして彼女以外が笑っている!
そんなものは理不尽だ! 不公平だ!
何もかもをぶち壊して、誰もが苦しんでしまえば良い!
時に我を忘れ、激情に身を任せてしまいそうな時もあった。
その度に必死に抑えてはいたが、いつか空想を現実にしてしまいそうな自分がいるのも事実だ。
分かっている。僕は少しずつ狂っているのだ。
まるで水銀を扱う帽子屋が少しずつ身体を蝕まれるように。
有子と過ごす毎日が、決して止まらない病気の進行が、何もできない自分自身が。
少しずつ、僕の中にある何かを蝕んでいた。
月日は流れ、有子の病状はますます悪化の一途を辿り、もはや一人では身体を動かせなくなっていた。
最初の診断から7年と少し。
合併症はより深刻化し、医師から次に体調を崩せば持ち直せるかどうか分からないと告げられた。
残された時間は少なかったが、生きようとする強い意志のおかげでどうにか現状を維持できている。
有子にとって、World's End Onlineというゲームはそれだけの価値があったのだ。
でも世界は、懸命な努力を続ける有子に更なる理不尽を強いた。
『リンクにエラーが発生しました』
有子の病気は小脳や脳幹から脊髄にかけての神経を奪い続ける。
そしてフルダイブシステムは脳のパルス信号を解析して仮想世界と繋げるのだ。
有子の脳は、その解析が行いにくくなるほど萎縮が進行していた。
近い将来、有子はもう一つの世界を失う事になると通告を受けたのはそれから暫くあとの事だった。
『私ね、ここに来れなくなったら、もういいかなぁって思うんだ』
……何がもういいのか、聞かずとも分かってしまった。
つい最近まで満ちていた生きる気力が少しずつ色褪せている。
世界は理不尽に満ちていた。
一度ならず二度までも、折角手に入れた新しい世界さえ奪い去っていく。
それが有子にとってどれほど残酷なのかなんて考えるまでもない。
もしそんな事が起これば、有子の中にある希望は全て奪い尽くされてしまうだろう。
抜け殻になった有子は、きっと長くない。
それから有子は冒険を止めた。
『星が綺麗なマップがあるんだって!』
レベルアップの為の狩よりも所々に実装されている観光名所への旅行を優先し始めたのだ。
エラーによる切断は日常になっていた。
この世界にいつまで居られるか分からないから、今の内に見られる物を見ておきたい。
僕は有子のお供として、この世界を回った。
でもそれも、もう限界なのかもしれない。
有子はMAP移動に伴うロードで切断されるのを防ぐ為、アセリアに篭りきりになってしまった。
小さな部屋の中でなら情報のやり取りは最小限しか発生しない。
溜まり場として使っているアセリアの一室はバルコニーから屋根へ上がれるようになっている。
夜空には手を伸ばせば触れられそうな程に近い星々が煌めいていた。
『綺麗ね。こんなの、あっちじゃ絶対見れないよ』
うっとりと星を見上げながらアリスは懐かしい歌を口ずさむ。
きらきら光る 小さな星よ
小さい頃に夜空を見上げてはよく2人で歌った懐かしい記憶が脳裏を過った。
それはアリスも同じだったらしい。
不意に、歌声がすすり泣く声に変わる。
『どうして、ずっとここに居られないの……?』
『……アリスは同じ境遇の人達をたくさん救ったよ』
『でもやっぱり、私も救われたかった』
その時のアリスの顔を、僕は言葉に出来ない。
一体なんと言えばよかったんだろうか。
励ましの言葉は未来のない彼女にとって何の救いにもならない。
生きていても辛い事ばかりで、やっと見つけた希望さえもが潰えようとしている。
そして何より、これ以上を望むのは難しい。
だけど黙ったままでいる事もできなくて、僕は彼女の口ずさんでいたメロディーを引き継ぐ。
『Twinkle Twinkle Little Bat』
もしもこの世界に神様がいるのであれば。
『How I wonder what you're at』
今この時をこのままで止めて欲しい。
『Up above the world you fly』
物語の帽子屋が女王に替え歌を捧げた事によって、時間の止まったお茶会が永遠に続くように。
『Like a tea tray in the sky』
今がずっと続けばいい。
叶う筈のない願望だというのは分かっている。
それでも僕はいるかもしれない神様に強く、強く願った。
そして……。
世界は静止し、再構築された。
神様はその願いを叶えたのだ。
世界が揺れたような感覚と共に視界が一瞬だけ黒く染まる。
何らかのラグだろうかと思った瞬間、目の前のアリスの身体がぐらりと傾いた。
「アリスっ!」
咄嗟に手を伸ばして彼女の身体を支える。
不安定な足場の上でも、レベル上限に達したスニークの身体は物ともしない。
「どうした、しっかりしろっ」
腕の中の彼女は呼んでも返事をしなかった。
急いでログアウトしなければ。しかし、見慣れているメニューウィンドウが何処にも見つからない。
それどころか、腕の中のアリスの身体は異常なほど柔らかく、そして微かに甘い香りまでする。
「……これはいったい」
ポリゴンとは一線を駕した、まるで生身としか思えないアリスに驚きを隠せずにいると、空から1枚の紙が降ってきた。
「アリス! 起きてくれ! 起きてこれを見てくれ!」
興奮を隠し切れず、流し読みした紙を手にアリスの身体を揺する。
なのに彼女は少しも人間らしい反応を返してくれなかった。
「……アリス?」
息はしている。脈もある。心臓も動いている。
なのに、意識だけが一向に戻らない。
まるで願いを叶える代償に、永遠の眠りについたかのようだった。
帽子屋はアリスを腕に抱き抱えるとバルコニーに降り立ち、部屋にあるソファへ寝かせる。
「待っていてくれ。僕が……いや、『私』がこの世界に君の居場所を作ろう。君の為に終わらないお茶会を開こう」
アリスの事は心配だったが、今は優先すべき事があった。
ソファの周囲にお茶会のメンバーが近寄り、揺すっても声をかけても目を覚まさないアリスに愕然としている。
直前まで来週の攻城戦の打ち合わせをしていた彼らは、幸運にも首都アセリアの溜まり場に勢揃いしていた。
「これは一体どういう事でござるか!?」
目の前のアリスもそうだが、彼らは現実とは違う身体にも狼狽していた。
ゲームでは感じられなかったリアリティに溢れ、自由に動きまわれる。
まるでここは作られた箱庭ではない、本当の世界のようだった。
「全員聞けっ!」
そんな彼らに向けて帽子屋が一喝する。
「アリスを死なせたくないなら、手を貸して欲しい」
彼らはアリスに救われた。
その彼女が命の危機に瀕していると言われて全員が静まる。
考えろ。時間はない。
まずは紙に書かれていたアイテムを手に入れるのが絶対条件だ。
しかしそれだけでは足りない。
アイテムを奪い返しに来る者達が必ず現れる。
対策を講じる時間を稼がなくては。
アイテムを奪おうとする連中と敵対してはダメだ。数の力では勝ち目がない。
その為に必要な方策は何が考えられる?
……そうだ、敵の敵は味方だと言うじゃないか。
こちらの戦力を2分して彼らの目の前で争って見せれば、味方だと思わせ意のままに操れるかもしれない。
いや、かもじゃない。僕はやり遂げなければならない。他ならぬ、彼女の為にも。
「ウサギさん、手伝って欲しい事があります。もし我々がゲームと似た異世界に迷い込んだとして、帰還を望みますか?」
「いきなりぶっ飛んだ事を聞くでござるな……。ま、そんな事があったなら絶対に帰らないでござるよ」
「もし、誰かが強制的に元の世界へ帰そうとしたら?」
「死ぬまで抵抗するでござる」
頭の中のピースがカチリと音を立てた気がした。彼以上の適役はいない。
ゲーム内での素行の悪さも、きっと今と言う瞬間の為に神が作り上げた必然なのだと思えた。
「邪魔をする相手を、殺せますか?」
降ってきた紙を彼にだけ見せる。
「なるほど。これはそういう事でござるか。であるならば……当然でござる」
帽子屋の計画が幕を開けた瞬間だった。
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無事に帰還用アイテムを手に入れた帽子屋は三日月ウサギに当分の間どこか発覚しない場所に潜伏するよう指示してからギルドへ戻る。
計画の為には仲間が必要だ。それも、なるべくレベルが高く、元の世界に帰らない動機のある仲間が。
帽子屋は思う。まるで誂たようではないかと。
お茶会を結成したのは決して偶然などではない。
この世界の大いなる意志がこの日の為にお茶会を作ったのだ。
我々はこの世界に選ばれ、受け入れられたのだ。
我々の世界には常に理不尽が満ちていた。
誰もが望まぬ役目を押し付けられ、今日までを苦しみ抜いてきた。
嘆いた者も居るだろう。
怒りに震えた者も居るだろう。
何故だ? 何故我々だけが喘ぎ続けなければならない?
誰も答えてはくれなかった筈だ。
理由などありはしないからだ!
世界がそうあるように、我々は終焉の日まで苦しみ続ける他にない。
だから諦めたのだろう?
仕方がないのと受け入れたのだろう?
同類を求め、傷を舐め合い、自らを慰めたのだろう?
本当は違う筈だ。
諦めたくなどなかった筈だ。
同じ苦しみを抱えた者が去っていく姿など、見たくなかった筈だ!
だから彼女の示した希望に縋ったのではないのか!?
願いを叶える為にこの世界へ来たのではないのか!?
彼女は言っていた、この世界が救いになれば良いと!
いつか起こるかもしれない奇跡を、せめて笑顔で待ち続けていられるようにと!
そして今、奇跡は成ったのだ!
彼女の身を削る程の想いが、今を望む我々の願いが、この世界の神へと届いたのだ!
だがしかし、我々は再び理不尽の前に立たされている!
この奇跡は弱く儚い。守ってやらねば花は咲かない。
私はこの世界を守りたい! 彼女の想いを、諸君らの願いを未来へと紡ぎたい!
諸君らの望んだ全てがここにはある!
無限に広がる可能性がここにはある!
それでもなお、夢を諦めるのか!
世界は理不尽に満ちている。
かつての我々は抗う術を持たなかった。
だが今はどうだ!
深闇と崩壊の先に、奇跡へと至る道がある!
敵は多い。苦難もまた、多い。
我々は悪魔と罵られるだろう。
果たしてそれは真実か?
考えろ、この世界を捨て去るその意味を、その結果を!
彼等はこの世界でも生きられる。
だが我々はこの世界でしか生きられないのだ!
我々はこの世界に、生きる事を許されたのだ!
彼等の目的は決して元の世界への帰還だけではない! 我々の殺害でもある!
我々を悪魔と罵る者達もまた、我々を殺そうとしているのだ!
問おう、我々は悪魔か? ……否だ。断じて否だ!
世界は理不尽でできている!
しかし、今度の理不尽は我々に降りかかったのではない!
自分の力で外の世界を歩き、何も知らぬ癖にさも自分が不幸であるが如く振る舞っていた多くの者達に降りかかったのだ!
今この時を以って我々と彼等の立場は逆転した!
我々は己の身の理不尽を、行き場のない想いを、彼等への憧れを、かつて一度でも暴力と言う手段で訴えか!?
否、否だ!
我々はひたすらに歯を食いしばりこれまでの理不尽に耐えてきた!
ならば、彼等はどうすべきか!
受け入れる筈だ。受け入れなければならない。否、受け入れなければおかしい!
我々は耐えた! ならば彼等も耐えるのが道理!
それがどうだ! 彼等は我が身の可愛さ故、我々に再びの理不尽を強いようとしている!
答えよ! 悪魔はどちらか! 我々か、彼等か!
彼等の横暴をただ黙って受け入れるのか!
ここに宣言する!
今こそ、勝利を掴む時!
我が名は帽子屋、正義そのものだ!
これは戦争だ。
理不尽を背負ってきた我々と、理不尽を背負わされた彼等の生存を賭けた戦争なのだ!
撤退はない、降伏もない、我々にはこの道しか未来はない!
我々はもう二度と、理不尽を背負わない!
賛成する者は居た。
理解はするが、人を殺せないという者も居た。
彼らは仲間だ。手を貸さない者は未だ眠り続けるアリスと共に別の街へ移住させ、邪魔をしない事を条件に見逃した。
彼らも本心では元の世界に帰りたくない。元の世界に戻ったところで、待っているのは絶望だけだ。
彼らにも等しく未来はない。計画の邪魔にはならなかった。
前途多難だった計画を懸命に育て上げ、少しずつ現実味を帯びるようになった。
時を同じくして、眠り続けているアリスも時折声を出したり、身を捩るようになった。
きっとアリスは待っているのだ。この計画が完成し、夢が夢でなくなる時を。
終わらないお茶会の幕開けを。
アリスの存在を悟られない為にも、定期的な報告を受けるだけに留め、ずっと会っていない。
だからこうして、かつてアリスと一緒に星を見たバルコニーに登り、同じ空に浮かぶ星へ願う。
「もう少しです。もう少しで私はこの戦いに勝利する。だからその時は、どうか目を開けてください。そしてもう一度、あの笑顔を見せてください」
アセリア内の上位プレイヤーと自由の翼を、この世界に残る最大の悪魔を葬る計画が、あと数時間後に迫っていた。
さらっと読める感じで纏めようと思った帽子屋さんの過去話です。
誰かの幸せを祈った分だけ、他の誰かを呪わずにはいられない。
そんなどこかの魔法少女さんと同じ運命を辿った少年のお話でした。
本文中に伏線を散りばめようかなぁとも思ったのですが、途中で判明すると面白くなくなりそうなのでほぼ明かしていません。
三日月ウサギが初登場していた時、『魔王の策略によって隔離されていた』の件が、目も見えず身体も動かせない現実の彼を比喩してたくらいの圧倒的薄さです。
厨二じみた台詞も心からの本音です。
前半にWorld's End Onlineの技術が医療分野で幅広く利用されてる描写を入れているのも、使っている患者さんが居る事を暗に示していたと言って信じる人が居るでしょうか。
実は親方の首から下が麻痺しているのも、そういう人が他にも居るかもねっていう伏線だったりします。
お暇な方が居りましたら読み返して頂くと帽子屋の行動が理解できるかもしれません。
偉い人は言いました。人の数だけ正義があり、争いがあり、敗れた者を悪と呼ぶのだと。
果たして、この世界に明確な悪はあるのでしょうか。
ちなみにお茶会のモチーフは不思議の国のアリスです。当然だけど。
・不思議の国のアリス
→ナンセンス文学=常識的な約束事や論理性を無視し、いっそのこと破壊してみようと試みる文学の総称
転じて、登場人物である帽子屋やお茶会の根底にある要素、素質
アリスが見ている夢の世界=World's End Onlineそのもの
夢である限り(現実への帰還の可能性があり続ける限り)アリスは眠り続ける
・お茶会ギルド
→気違いの集う場所≒氣違いの集う場所
中国語の氣は生命活動の原動力、転じて氣違い=生命活動に支障が出ている人
或いは受け入れられない現実を前に気が狂わずにはいられなかった人=帽子屋もその一人
この辺りの言葉遊びは短編で書いた『みちあんない』みたいなものです、はい。
彼等にとっては時間の止まったお茶会だけが唯一の希望であり、救いであり、存在意義でした。
・帽子屋
→「帽子屋のように気が狂っている」という英語の言い回しから
帽子職人は時に水銀を扱う為、頭のおかしくなる人が多いと言う比喩
アリスを取り巻く理不尽な環境≒彼にとっての水銀
幸せな人達を憎む事でしか自分を保てなかったが、終わりのない憎悪は積み重なる一方で心を蝕む
・三日月ウサギ
→3月はウサギにとっての発情期で、落ち着かない振る舞いが狂っているように見えると言う比喩
別にウサギが望んだわけでもないのに、世界がそういう性質に作り上げた
事故で四肢と視力を失った三日月ウサギもまた、望んだわけではないのにそういう風になった
どうしようもない運命、或いは世界に押し付けられた性質
・眠りネズミ
→お茶会で帽子屋にポットへ押し込められた可哀想な子
お茶会≒アセリア≒帽子屋の影響範囲
抑圧された状態にある彼ら全般。
特に捻る事もなくそのまんまです
帽子屋の計画がここまで順調に進んでいたのも、実は理由があります。
この世界はMMORPGを元にして作られました。
そこにはMMORPGに求められる概念も含まれているのです。
MMORPGは現実と違って時間とリソースをかけた人が必ず報われます。
前半のセシリアは誰よりも強く元の世界に帰りたいと願い、弛まぬ努力を続けました。
その結果、世界はセシリアの行動をあらゆる面から後押ししています。
そしてそれはお茶会も同じです。
アセリアで元の世界に戻らない為の様々な工作が成功したのも、世界が後押ししたからという側面がありました。
セシリアが帽子屋の策略にはまったのも、セシリア一人の願いより、帽子屋率いるお茶会の願いの方が強かったからです。
しかし、セシリアを奪われた事で自由の翼は認識を改め、一人一人がセシリアの為に何か出来ないか努力を始めます。
一人はみんなの為に、みんなは一人の為に。
その数は圧倒的で、お茶会の願いの強さを上回りました。
これで物語中の伏線はほぼ解決されたはず、です。
疑問とかあればお答えしますのでどうぞお気軽にっ!
【全然関係のないNG集】
「深闇と崩壊の先に、奇跡へと至る道がある!」
両手で机を台パーン!(ノーマナー
「今こそ、勝利を掴む時! 我が名は帽子屋、正義そのものだ!」
答え:コロンビアァァァ!(ドヤァァァ
負け犬繋がりでパロりました。
気付いた方、意味が分かった方、どうも同類です。
知り合いに言われてそうとしか見えなくなった……。
汚れてない頃の純粋だった心を返して!
※プライバシー保護の為、一部台詞は改変されています。