それぞれの想い-9-
すっかり陽も昇りきった、昼食と言うにはやや遅い時間帯。
セシリアとフィア、ようやく戻ってきたカイトとリリーの4名は仲良く昼食にありついていた。
ただし、その中でセシリアだけは隣に座るフィアに寄り添って雛のように小さな口を開けている。
「次はそっちの煮物です。ちゃんと冷ましてくださいね?」
「いや、もう縄は解いたんだし、自分で……」
フィアの言う通りセシリアの手足に縄はない。しかし、痛々しいまでの赤黒い痣が今でもしっかりと残っていた。
「『両手両足を縛って一晩中抱かれた』せいで何も持てそうにないんです」
わざと一部分だけを聞こえよがしに大声で告げるとフィアが慌てて冷ました煮物を運び口を塞ぐ。
「ばっ! 大声でなんて事を!」
だが時既に遅し。あちらこちらから露骨に冷たい視線が突き立てられた。
これが普段の自由の翼なら『またやってる』程度の認識で済むのだが、今は鉱山から連れ帰ってきたプレイヤーも多く、フィアとセシリアの事情を知るものは少ない。
きっと噂が噂を呼び、ギルドきっての危険人物と目される日も近いだろう。
「兄様」
正面に座るリリーからも容赦なく冷たい視線が飛ぶ。
「手は出すなって言ったよな?」
それを面白がってか、遂にカイトまで参入する始末だ。
「待て、そもそも縛ったのはカイトだろ? 責任があるとすれば俺よりカイトだ!」
いい加減食堂に集まる全員からヘイトを向けられるのが辛くなって、加害者の一人でもあるカイトを仲間に引きずり込むべく話を振る。
当然カイトが素直に頷く筈もなく、澄ました様子で「覚えてない」と素知らぬ顔を突き通した。
「兄様。人のせいにするのは最低だって村長さんが言ってました」
危ない所を助けられたリリーはさも当然とばかりにカイトを庇う。
「そりゃ確かにそうだが違うんだよ!」
「兄様。言い訳ばかりです」
いつもは味方で居てくれる妹にまで論破されフィアが身悶えた。
そこへ先程の煮物の咀嚼を終えたセシリアが遠慮なく追撃をかけに来る。
「フィア、新しい料理が追加されたみたいです。どんな料理か見たいので運んでください。誰かさんのせいで歩けないくらい激しく……」
「分かった、分かりました! 誠心誠意仕えさせて頂きますからもう許してくれっ!」
再びとんでもない一言が漏れそうな気がして咄嗟に遮るなり、周囲の視線も気にせずにセシリアを抱き上げ、料理の並べられたテーブルに駆けた。
傍から見ると完全に犬である。
「お姉様、少し変わりました」
「あぁ、そうだな」
残された二人は料理の並ぶテーブルの前でも騒ぎを起こしている2人を遠巻きに眺めながら呟く。
「線が消えかかってる」
「兄様にも可能性が出てたんでしょうか」
言葉は違くとも考えている内容に相違はない。
「「でもセシリア(お姉様)に自覚がない(ですね)」」
フィアをからかうにしても、ああも露骨にベタベタする必要なんてないだろうに。
普段のセシリアならもっと別の方法で思う存分遊び尽くしたはずだ。
そうしない理由なんて考えるまでもないだろう。そうしたくないから。いや、そうしたいから、か。
なのに本人はその自覚がまるでない。最悪だった。
「線が完全に消えたわけじゃないから、本人はそんなつもりなんてないんだろうな。だからわざと理由を作って相手にさせて、言い訳できるようにしてるのか? ……ってことは、仮にそうなったら受け入れるつもりがあるのかねぇ?」
「でも兄様は変なところで真面目ですから、絶対に進歩しない気がします」
何にせよ。
周囲の露骨に冷たい視線が『少女に乱暴を働くなんて最低』と言う意味ではなく、『公衆の面前でいちゃついてんじゃねぇぞ』と言う意味である事にそろそろ気付くべきだと2人は思った。
片や生き生きと。片や徹夜明けで疲れきったようなげっそりとして。
対照的な表情のフィアとセシリアは昼食を終えるなり屋敷の一室に向かった。
セシリアの両手足についていた痛々しい痣はひたすら許しを乞うたフィアに免じて治療済みである。
「フィア、お座り。ここで私が帰ってくるまで待っててね?」
「……わん」
居ても居なくても変わらない見張りとして配置すると満足げに微笑んで扉を潜った。
近場の椅子に腰かけると待つまでもなく続々と人が雪崩れ込んでくる。
「それじゃ、そろそろ始めようか」
壇上に立つケインが集まったメンバーを見渡しながら言った。
「最初にこの世界に来たとき、僕等はどうすればいいのか分からなかった」
混乱したプレイヤーが事件を起こしてしまったこともある。
良識のないプレイヤーが騒ぎを起こした事もある。
「それに比べて今はやるべき事が見えている」
独白にも似た演説に方々から同意の声が上がった。
「僕等は元の世界に帰るんだ。これから、帰還アイテム奪還作戦の最終調整を行う」
自由の翼は基本的に出入り自由だった為、帽子屋の影響範囲が分からない以上、作戦の全てを教えるわけには行かない。
特にポータルゲートを阻害する結界に関してはケイン、カイト、セシリア以外には完全に伏せられていた。
まずは方々から集められた情報を集約する。
「哨戒班から報告。敵は未だ籠城を続けています。要塞周辺の半径200メートルには不規則に設置魔法が展開されており、60以下では即死の危険性あり。属性も統一されていない為、耐性装備での突破は不可能です」
「同じく哨戒班から報告。サモナーの召還獣を使って上空からの偵察を試みましたが全て撃墜されました。高レベルの探知系スキルを持つ弓手が警戒に当たっている模様。フレアドラゴンの連隊でも5秒で殲滅されたそうです。推定110以上かと」
「ポータルゲートを使った森林からの奇襲も多発しています。幾つか転移場所を特定しましたが網に掛かりません。哨戒班に帽子屋の内通者が紛れている可能性もあります。現時点で被害者は31名。襲撃直後に撤退するので大きな被害こそ出ていませんが、いつ何処から襲われるか分からない不安が哨戒班に広がりつつあります。反撃も難しく、有効な対策が取れていません」
お膳立ては整っているが状況は決して楽観視出来ない。
敵の退路を絶っただけで彼我の戦力差が縮まったわけではないのだ。
「やっぱり攻城戦に慣れているだけあって鉄板は外しませんね」
罠による進軍の妨害。背後からのゲリラ的な襲撃による心理的なプレッシャー。
深追いせずに当初の目的を終えたらすぐに帰還する統率力も厄介だ。
「哨戒班の配置を変更しましょう。襲撃の際は連携して対応できるように範囲を狭めます。奇襲なら数人でしょうし、数の利があれば敵も仕掛けにくくなるはずです」
こちらの仕掛けを戦場に施すにはまだ暫く時間が掛かる。
その間、少しでも被害を抑えるべく哨戒範囲を当初より狭める事にした。
これなら範囲内の人口密度が向上し、もしもの時の増援も送りやすくなる。
迅速な撤退といい、絶対数の少ない敵は無駄な損耗を恐れているのだろう。
警戒度が高まれば暫くの間は様子見に徹する筈だ。
「当面の対策はそれで良いとして、問題は要塞をどう落とすかだよな」
ゲームの頃の攻城戦には幾つかのセオリーがあった。
防衛側は城の周囲に設置魔法を配置し、纏まって進軍してくるプレイヤーの数を減らしつつ、辿りついた少数のプレイヤーを各個撃破する。
攻撃側は死んでもすぐにセーブポイントから復帰できる利点を生かして愚直な突撃を繰り返し、進軍の足枷となる設置魔法をとにかく潰して再展開を遅らせる。
通称ゾンビアタックや死体掃除と呼ばれているのだが、残念ながらこの世界では通用しない。
防衛側だけがセオリーを活用できている事に理不尽さを感じる声が漏れるが、それならこちらもゲームでは実装されていなかった仕様を突けば良いのだ。
「実験の結果はどうでしたか?」
「はい、良好です。若干心苦しい気もしますけど、頼まれていた物も確保できそうだと連絡がありました」
セシリアは思いついた実装されなかった仕様を突いた仮説を裏付ける為の実験の成功を聞いてあきらかにほっとする。
「仕方ないです。それで私達が無傷で抜けられるなら安いものですから」
戦争に犠牲はつきものだ。それが人間以外であるなら迷っている場合じゃない。
第一関門を突破できる目処がついた事で議題は次のステップに移る。
設置魔法を片付けたとしても、敵は要塞からこちらを睨んでいるのだ。簡単に近づかせてくれる筈がない。
「必要なのは魔系と弓系の対策ですね」
「合流したプレイヤーに呪術師が居たのは幸いだった。耐魔の森があれば魔法はどうにかなりそうだな」
耐魔の森は呪術師が使う空間支配系のスキルで、範囲内の魔法によるダメージ効果を敵味方問わず大幅にレジストできる攻城戦向けスキルだ。
ただし、便利なスキルである反面、制約も多い。
スキルの使用には特殊な触媒が必要で、とあるダンジョンのそれなりに強力な敵しか落とさず、今から集めるのは難しい。
また、耐魔の森には効果時間のほかに耐久値が設定されており、敵からの攻撃で耐久値が尽きると強制的に解除される。
その耐久値も決して高いとはいえない。
「となると警戒すべきは弓手の方か」
弓手は遠距離物理攻撃を得意とするアタッカーで単体攻撃力が高い。
本来は付与術師が持つ属性付与スキルか、武器自体に複数の属性がエンチャントされていない限り武器の属性を変更できないのだが、弓手だけは矢を切り替えることによってあらゆる属性に対応できる。
耐魔の森は地属性。火矢を使って高威力のスキルを連発されれば十秒ともつまい。
だがそれも、この世界でなら対策が打てる。
「攻城戦が防衛有利なのはゲームの中だけだ。この世界では足枷にしかならない事を知らしてやろうぜ」
一人のプレイヤーが発した威勢のいい声に誰もが明るい声で頷き返す。
しかしセシリアだけはただ一人、思いつめたような表情を崩さなかった。
本当の難関はここからのような気がしてならないのだ。
ポータルゲートが使えず退路を絶たれ、要塞の中に多数のプレイヤーが押し入ってきたら、彼らは降伏を受け入れるだろうか?
……受け入れる筈だ。
大量の人員が要塞内部に立ち入った時点でお茶会は詰む。
アセリアの勢力を取り込んだ今なら戦力は拮抗しているのだ。
この会議でもそう思っている人が圧倒的に多く、だからこそ、議題の内容はいかにして要塞内へ安全に侵入するかに傾倒している。
だがもし、彼らが絶望的な状況でも降伏を受け入れず、徹底抗戦の構えをとったとしたら。
果たして、人を殺した事のないプレイヤーが、人を殺す事に慣れてしまった彼らに勝てるのだろうか。
「まさか、ね」
セシリアはそれをありえない妄想だと振り払う。
この世界で何をしても、元の世界に帰れば無罪放免だ。
追い詰められた彼らが逃れる方法はたった一つだけ残されている。帰還用アイテムを使えばいいのだ。
彼らは森の中で自由の翼相手に帰還用アイテムを破壊すると豪語したが、それはありえないと踏んでいた。
それどころか、あのアイテムは様々な制約が施されていると睨んでいた。
ほぼ確定しているのはあのアイテムが『破壊不能オブジェクト』に設定されている可能性だ。
セシリアの存在が知れたのはリュミエールから出て行ったプレイヤーがアセリアに辿りついた時である。
帽子屋はそのずっと前から期間用アイテムを手に入れていた。
本当に壊すつもりがあるのだとすればもっと早くに壊している筈だ。
わざわざプレイヤーの前で見せびらかすなんて不都合しかない真似をする筈がない。
帽子屋の手元に未だ形を保って存在しているのは、壊したくても壊せないからと考える方がしっくりくる。
それからもう一つ。恐らくあのアイテムはインベントリに収納できない。
ゲーム内でもインスタンスダンジョンではイベントの都合上、インベントリへ収納できないアイテムが存在していた。
何の嫌がらせか、運び役はそれ以外の一切の行動を制限される巨大かつ重いアイテムを、ギミックだらけのダンジョンの奥地へ運ばなければならないイベントがあったのだ。
途中で攻撃を受けたりして落とすと暫くはその場に存在し続けるが、死んでしまったり湧いたモンスターの対応にかまけて一定時間拾わずにいると元あった場所へ勝手に戻ってしまう。
おまけにダンジョンにはそこら中に罠が仕掛けられており、うっかりミスるとやっぱりアイテムは元あった場所へ戻る仕掛けだ。
まるで横スクロールアクションをさせられているようだとプレイヤーからの不満は多かったのに、ホームページ上では大成功の文字が躍っているから不思議でならない。
それはともかくとして、三日月ウサギはプレイヤーを挑発する為に帰還用アイテムを取り出した時、インベントリではなく懐を漁っていた。
このゲームではポケットよりも安全で確実なインベントリがあるにもかかわらず、だ。
わざわざ不確定な懐に入れる必要性も、懐から取り出したように見せかける必要性もセシリアには感じられない。
なのに彼はわざわざ弱点にもなり得るアイテムを要塞に安置するでもなく自分で持ち運んでいた。
違和感を感じて然るべきだろう。
慎重な彼らの事だ。
肌身離さず帰還用アイテムを持ち歩いていたのは、どうしようもなくなった時の緊急避難と考えれば辻褄は合う。……合う筈だ。
(なのにどうして、こんなに不安なんだろう)
帽子屋から受けた拷問の恐怖が消えたわけではない。
幾ら考えても答えが見つからない以上、心のどこかで彼と敵対するのがまだ怖いだけだと、セシリアは自分を納得させるしかなかった。
日没直前にセレス王から準備が整ったとの連絡が届いた事で明朝の決行がケインから告知された。
視界を確保できる日の出と同時に打って出る。
漏洩を警戒した為、告知に具体的な作戦内容は殆どなく、適時出される指示に従えとしか書かれていない。
そんな不透明な作戦にも不満の声は聞こえてこなかった。
自由の翼は作戦の立案者であるセシリアとケインを信頼し、助けられたプレイヤーに拒否権はなく、アセリアのプレイヤーはお茶会への憤りで出撃の時を今か今かと待ちわびている。
いよいよ元の世界に帰れるとだけあってプレイヤー達の士気は高かった。
明日に備え今日は早めに休むようにとの通達を最後に、半日近くに渡って続けられた会議が終わる。
だがプレイヤー達の興奮は中々収まらないようで、今も屋敷の庭では武器を片手に模擬戦をする人影で溢れていた。
セシリアは一人で普段より賑やかな廊下を歩く。
フィアやカイトには反対されたが、どうしても一人で行かなければならない場所があったのだ。
扉に控えめなノックを響かせる。やや間延びした声の後、ちょっと変な格好をした女性が目を見開いていた。
「えっと、こんばん……うわっ!」
夜の挨拶が突然抱きつかれた事で斬新な発音に変わる。
「良かった、本当に良かった……」
リディアは何度もそう言って、セシリアの存在を確かめるように強く抱き寄せた。
「……心配かけてごめんね」
普段なら迷う暇もなく撤退を選択するのだが、今回だけは大人しくなすがままにされる。
「良いよ。ちゃんと戻って来てくれたから。……それに、あたしの方こそセシリアに謝らなきゃいけないことがあるの」
今のリディアは両手にしっかりと力が籠められていて、セシリアは何を言いたいのかを察した。
「腕、治ってたんですね」
言い出すタイミングがなかなか見つけられなかった、というのはただの言い訳だが、タイミングさえ合えばちゃんと話そうと思っていたのは事実だ。
言うより先に気付かれてしまったことに肩を落としつつも、素直に頭を下げる。
「うん。あたし、セシリアにもうあんな事して欲しくなくて、それで、嘘をついたの」
「酷いです。本当に凄く悩んだんですよ。死にたくなるくらい悔やんだんですよ」
「知ってる。ざまーみろ。あたしだってそのくらい悩まされたんだから」
「じゃあこれでおあいこですね」
リディアの吐いた嘘で死にたくなるほど苦しい思いをしたのは事実だ。
セシリアにだって文句の一つくらい言いたい気持ちはあるけれど、こんな自分を想って吐かれた優しい嘘への感謝の方がずっと大きい。
セシリアはリディアに対して、リディアはセシリアに対して、心のどこかで負い目を積もらせていた。
そんな物を背負ったまま過ごせば負い目は積もるばっかりで、だからここで綺麗に洗い流すのだ。
そうして二人はようやく心の底から笑い合えた。
「ここに帰ってきたのは知ってたし、本当はすぐにでも会いに行きたかった。でも、ダメだって言われて……」
セシリアが危険な状態で戻ってきたと言う噂は幅広い人脈を持つリディアの耳にもすぐ届いた。
何がどう危険なのかは分からなかったが、じっとしていられるはずがない。
ところが当のセシリアは面会謝絶で、それどころかリディアにだけは何があっても会わせられないと名指しで警告される始末。
会えばセシリアが壊れるかもしれないとまで言われてしまい、理由を聞けば身に覚えがありすぎた。
「自業自得です。あの時の私は本当に少しの余裕もなかったから、私の被害者の一人でもあるリディアを見たらもっと取り乱していたかもしれません」
リディアが何と言おうと、セシリアの中にある罪悪感や後悔は決してなくならない。
セシリアにとって、リディアは自分の罪の象徴だった。
リディアもそうなるつもりでセシリアに嘘を吐いた。
自己犠牲に徹し切れなかったから彼女を傷つけたという想いは、帽子屋の拷問とよく似ていて、更なる自己嫌悪に陥っていただろう。
その隣で優しい言葉の一つでもかけられればどうなるか。
傷つけた相手に庇われる情けない自分を消してしまいたいと願ったに違いない。
「後でフィア少年とずっと一緒だったって聞いてびっくりだよ。よりにもよって男の子となんて! 大丈夫だった!? 何か変な事されなかった!? 言い寄られたり良い雰囲気になってしっぽりむふふとかされなかった!?」
「フィアがそんな事する訳ないじゃないですか!」
今にも血涙を流しそうなリディアの勝手な言い分にセシリアが思わずムっとして言い返す。
「……え?」
信じられないとばかりに目を見開いたリディアの前でセシリアは更なる否定の言葉を積み上げた。
「万年発情期の誰かさんとは違うんですからっ」
セシリアはどうせ据え膳食わぬは男の恥だ! とでも思っているのだろうと当たりを付ける。
確かに同じ状態でリディアと一晩過ごしたら無事で居られるビジョンが思い浮かばなかった。
「そっかぁ。……先、越されちゃったなぁ」
「はい? 先って何がですか?」
唐突にリディアが寂しそうな声を出す。なのに顔はどこか嬉しそうで気味が悪いとセシリアは思った。
リディアが驚いたのはセシリアの想像とは違って、不機嫌さを醸し出すくらい本気でフィアを庇ったからだ。
なのに、本人だけがそれに気付いていない。
もしやと思ってリディアはセシリアに問いかける。
「前に人を好きになった事がないって言ってたよね。それって、今でもそうなのかな?」
「今はフィアもカイトもリリーさんも。……それに一応、身の危険を感じますけど、リディアのことも好きですよ」
多分、素なのだろう。きょとんとしてからごく自然に答えるセシリアに、リディアは苦笑交じりで訂正する。
「違う違う。そっちの好きじゃなくて、ラブの方」
「……この姿で誰を好きになれって言うんですか」
呆れたような口調で当然だとばかりにセシリアが言った。
「あー……そっか。なるほど、そう来たかぁ……。いっそ不憫だなぁ」
その理由のややこしさに納得し、さぞ振り回されているであろうフィアを心の中で同情する。
リディアにとっての恋愛は理屈でするものじゃない。感情でするものだ。
だからほんの少しだけ不憫な同類に助け舟を出してあげる。
「あたしはさ、『女の子』が好きだよ」
「知ってます。さっきから警戒度がたきのぼりです」
セシリアらしい回答にリディアは思わず噴き出してしまった。
知ってるだけで、全然分かってない。
だけどこれでサービスタイムはおしまい。これ以上、敵に塩を送るつもりはないのだ。
「あたし、負けないから」
「……? 明日の事ですか? そうですね、絶対に取り戻しましょう」
リディアは最後まで勘違いを続けるセシリアにおやすみのキスを迫る。
あと少しのところだったのにセシリアが驚異的な身のこなしでかわし、可愛らしい悲鳴をあげながら走り去ってしまった。
その背中に向けてもう一度だけ叫ぶ。
「君の初めてはあたしが貰い受ける!」
セシリアの足がもつれて盛大に転んだ。
この様子ならそこまで進んではいまいと、セシリアの進行状況に当たりをつけたリディアが密やかに唇を吊り上げた。
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老朽化の目立つ煉瓦造りの一室には帽子屋や三日月ウサギを始めとしたお茶会のメンバーがひしめき合っていた。
中央の広いテーブルに置かれた巨大な地図は持ち寄られた報告でびっちりと埋まっている。
討伐に参加させたプレイヤーの戦力を分析し、都合の良い形で東部・中央・西部に振り分け、効率的に始末するだけの単純な計画だった。
餌も大義も用意した。これさえ成功を収めれば帽子屋の目的は達せられたも同然だった。
「自由の翼に勝ち目はない。敗走した奴らを狩る為に前衛は分散して退路に配置する。随分と立派な作戦でござったな」
三日月ウサギの嫌味に帽子屋の眉がピクリと蠢いた。
自由の翼は低~中レベル層の後衛が中心で、遠距離からの激しい魔法戦になるのは最初から予想できた事だ。
お茶会の後衛陣は精鋭揃いで、いかに人数差があろうとも火力負けはありえない。
激しい弾幕の中に味方の前衛を投入するより、伏兵として彼らの後方に配置し、退路を断つ方がより効率的に自由の翼を排除できるという考えは間違っていなかった。
目を瞑っても動けるよう演習を繰り返し、入念な計画も練り上げた。
だというのに、たった一人のせいで万全だった作戦は瓦解したのだ。
だが、それだけならまだ想定の範囲内と言いれる。
自由の翼が早々に戦力差を理解し、撤退する可能性は考慮していたし、戦略的に撤退されれば一人残らず始末するのは現実的じゃない。
ある程度の損害を与えられれば、リュミエールへ逃げ帰られても作戦に支障は出ないよう計算されていた。
中央・西部の配置は熟考を重ね、お茶会はアセリアの上位プレイヤーに対し、圧倒的に相性が良い構成にしている。
そのまま戦えば100回中100回とも負けはないと断言できた。
アセリア内部にもお茶会の息が掛かったプレイヤーはいるのだ。
中央と東部のプレイヤーは三日月ウサギと手を組んでいた自由の翼の攻撃を受けて半壊、お茶会と繋がっているプレイヤーだけが生き残った事にすればいい。
同時に狂気薬を使って洗脳したプレイヤーをアセリアで暴れさせ、わらわらと群れるしか能がない低レベルの寄生虫どもを一層。
森から戻って来たお茶会が暴れているプレイヤーを制圧し、しぶとく生き残った虫けらどもの前で『自由の翼の構成員だ』と自白させれば後はどうにでも扇動できる。
信じようが信じなかろうが時間さえ稼げれば残ったアセリアのプレイヤーなど奴隷にしてしまえば良い。
手痛い打撃を受けた自由の翼は必ず離反者が出る。
餌と大義を前に釣り上げて利用すれば自由の翼を罠に嵌める事だってできた。
不確定要素である自由の翼を抑え込んでいる間に中央と東部の片付けを終えるだけ。
そんな簡単で、単純で、万が一にも失敗はありえないと確信していた作戦だった。
想定外だったのは自由の翼が鉱山奴隷の居場所を短期間で突き止めた事だ。
鉱山へ配置していたお茶会メンバーの大部分を作戦の前日に回収していたのも災いした。
安穏と暮らしてばかりで働く筈がないと思い込んでいた低レベルの虫けらが鉱山奴隷を解放し、戦力として組み込むなど悪夢にも等しい。
だが、これもまだ修正の及ぶ範囲だったと言い切れる。
余裕があるにもかかわらず帽子屋が先んじて撤退を選択したのは臆病風に吹かれたからではない。
帰還用アイテムをわざと目の前でちらつかせたのだ。逃げれば追いかけたくなるのが人の心理である。
手に入れればすべてが解決する。
そんな単純な考えに支配された自由の翼が追撃を仕掛けてくれれば、その分だけ中央と東部の作戦に必要な時間を稼げると思っていた。
即座に諦めた上で戦力を2分し、首都と他の地域への加勢に向かわせたセシリアの判断は帽子屋の想定していたシナリオの中で最悪の展開と言っていい。
だが、これだけの逆境を引き続けてもなお帽子屋の計画は想定の範囲内に留まっている。
たとえ自由の翼が中央と東部の加勢に向かったとしても、フリーになったお茶会が彼らの背後からタイミングを見て強襲すればいいだけだ。
元より戦力差がある上で挟撃の形を取れば一瞬でケリがつく。
実際、帽子屋の思惑通りに事が運んでいれば、加勢に向かった自由の翼は今頃、一人残らず冷たい骸と化していた事だろう。
そうならなかったのは帽子屋のシナリオが想定外の展開を転がり落ちたからだ。
そもそも、眠りネズミの度重なる警告と迅速な行動によってお茶会の不意打ちが効果的に働かず、作戦が予定よりも遅れていた。
とはいえ、彼我の戦力差は歴然。時間さえかければ目論見通り、邪魔なプレイヤーを一人残らず排除できただろう。
暫く後に自由の翼が大挙して押し寄せてきたが、大部分は低レベルの役立たずに過ぎない。いわばただの飾りつけだ。
冷静に対処しつつ時間を稼ぎ、背後から帽子屋や三日月ウサギを始めとしたお茶会メンバーが強襲を掛ければすぐに瓦解する。
ところが、想定外の数の増援が来たと勘違いした一部のメンバーがあろうことかこの大事な局面で尻尾を巻いて逃げだしたのだ。
お茶会のメンバーは絶対数が少ない。
そこでこの世界に留まりたいと願うプレイヤーに試験を課し、合格した者を駒として使うべく加入させていた。
彼らの大部分は豪華な生活や違法な娯楽が目的なのであって、生死をかけた血みどろの戦争に興味はない。
少しでも不利を悟った瞬間、大局を考えもせずに逃げ出したのは当然の帰結と言えよう。
何せ彼らは他のプレイヤーから殺されても仕方ないだけの理由を犯しているのだから。
戦線は増援を待たずに崩壊し、当初の目的であった中央と東部の殲滅という最低限の成果すら得られなかった。
逃げ出した臆病者を幾ら殺したところで帽子屋の煮えくり返った腸は一向に収まらない。
帰り道で捕まえた虫けらの1匹に参戦した理由を聞いた際、『セシリアの為』だと抜かしたのも拍車をかけていた。
翅をもぎ、胴を引き裂いても未だにあの時の怒りが薄れないのだ。
「セシリア……っ!」
帽子屋は怨嗟に震える声で圧倒的だった戦況をひっくり返して見せた少女の名を呪う。
「鉱山奴隷なんてさっさと始末すれば良かっでござるよ」
狂気薬の精製に膨大な金をつぎ込んだお茶会にとって、定期的な収入を生み出す鉱山奴隷は必要な歯車だった。
この作戦が成功していても、その後の資金繰りにもたついたのでは成す物も成せない。
だからこそ、奴隷の居場所が知られないようポータルを鉱山の中に取り、お茶会のメンバーにさえ場所を教えなかった。
知っているのは自分とポータル役と取引先の貴族だけ。
貴族には十分な監視を付けており、怪しい相手との商談には同席までして情報が漏れないよう気を払っていた。
ポータル役は屋敷から出していないし、自分が情報を掴ませるようなヘマをする筈がない。
にも拘らず自由の翼はセシリアなしで情報を引き出した。
「目先の利益に囚われてここ一番で失敗したんじゃ意味なんてないでござる」
「お前は黙っていろ!」
度重なる挑発を受け、ついに我慢の限界を迎えた帽子屋が三日月ウサギの襟首を掴み、拳を振り上げる。
「誰に口を聞いているでござるか。黙るのはお前の方でござろうが」
その拳が振り抜かれるより早く三日月ウサギが怒気を顕わに膝を見舞った。
「セシリアさえ居なければ自由の翼は烏合の衆だと侮った事がそもそもの敗因。拙者達は大事な勝負に負けた。勝負の前から勝った気でいれば当然でござる。そしてこれはもう変わらん。負けた勝負をいつまで女々しく嘆いているつもりでござるか。ここに集まったのはお主のくだらない言い訳を聞く為じゃないでござる。過去の反省など5秒で十分。それにさっきからセシリアセシリアと拙者の所有物を気安く呼ぶなでござる」
あまりの正論に殴り返そうとしていた帽子屋が忌々しそうに睨みを利かせながらも手を降ろす。
「……年中発情期のウサギに諭される日が来るとは思いませんでしたよ」
三日月ウサギの言う事にも一理ある。
湧き上がる怒りで前が見えなくなるなど司令官としては失格だ。
帽子屋は落ち着きを取り戻す為に幾度か深呼吸を繰り返した。
「元を正せば貴方がセシリアを欲しがった結果ではありませんか。私が責任を感じる必要などなかった」
「言ってくれるでござるな。セシリアをただ殺す程度じゃお主の心が満たされない。だからセシリアがこの世界に居ると知るなり拙者の案に乗ったのでござろう? 安心するでござる。その暁にはお主の望み通り、殺すより酷い目に合わせてやるでござる。拙者を『騙した』罪は重いでござる。この世界の身体でとくと反省して貰うでござる」
売り言葉に買い言葉。軽い調子で言葉の応酬を繰り広げた後、2人はおぞましい声でケタケタと笑い合った。
「それで、一体どうするつもりでござるか?」
「私とした事が、確かに終わった事を嘆いても意味はありません。やるべき事は変わりませんよ。我々は元の世界に帰らない」
狂わせたプレイヤーや始末する予定だったプレイヤーがそのまま残ってしまった以上、もはや言い訳はできない。
アセリアとリュミエールのプレイヤーにとって、お茶会と三日月ウサギは同一の敵と認識され、もはや覆す術などない。
「我々の目的を達する為には彼らの監視の届かない所に逃げ延びるしかありません。しかし、この要塞は既に包囲されている。一点突破を狙うのは難しくありませんが、敵はこの世界の権力構造と手を組んでいます。指名手配されれば居場所はいつか突き止められる。永遠の鬼ごっこに興じるのも一興ですが、それにはリスクが付き纏います。いずれ帰還方法はアセリアだけでなくこの世界全体に広まるでしょう。そうなれば我々を追いかけるプレイヤーは増え続け、逃げる事は出来なくなる」
低レベルのプレイヤーなら返り討ちにできるが、同じレベル上限達成者相手となればそうもいかない。
いずれジリ貧になるのが分かりきっている作戦など愚策だ。
「ですから、諦めようではありませんか。……全ては」
帽子屋は思いついた奇策を口にする。
単純で、いや、単純だからこそ可能性のある選択を。
「……分かったでござる。確かにそれが最善でござろう。ただし、帰還用アイテムを帽子屋が持つことは許さないでござる」
三日月ウサギを筆頭に、説明を受けたお茶会のメンバーが神妙に頷く。
「分かっていますとも。私だけは現実に帰っても不利益がない、そう仰りたいのでしょう。ですが見くびらないで頂きたい。この帽子屋、既に現世に興味などありません」
言わずともがな、帽子屋はお茶会の頭脳だ。
これまでもこれからも、この世界に留まり続ける為ならあらゆる物を犠牲にできる。
否。今度は奴らが犠牲を払う番でなければならないのだと帽子屋は訴える。
「それでは各員入念な準備を。包囲する虫けらどもを一人残さず潰して、潰して、潰して回りましょう」
夜は更ける。それぞれの想いを絡めながら。
両者の命運を賭けた最後の戦いが幕を開けようとしていた。