それぞれの想い-6-
ベッドの上で静かに眠るセシリアの横顔を見ながら、何度も繰り返し聞かされた注意事項を反芻する。
「要求は全部無視しろって言われてもな……」
セシリアの両手足はこれ以上ないくらい頑丈に縛られていて、時折苦しそうな呻き声が漏れたかと思えば、形の良い眉を顰めていた。
悪い夢でも見てうなされているのだろう。
可哀想だが拘束を緩めるわけにはいかない。
せめて少しでも寝つきが良くなるよう、柔らかい布を水で濡らし額に浮かんだ汗を拭ってやると、苦しげな表情が僅かに和らいだ気がした。
リュミエールの屋敷は鉱山における救出作戦で発生した大量の怪我人で溢れていた。
あちらこちらから苦痛を伴った呻き声や、怒声に近い治療の指示が飛び交っている。
この部屋も重症者の為に用意されていたのだが、今はセシリア1人の為に貸切られており、内外の音を遮断する消音魔法まで展開されていた。
おかげで薄い扉一枚を隔てた先の戦場の音は少しも漏れてこない。
「別に特別扱いって訳じゃないのよ」
自分の事を医者だと言った女性は案内役のプレイヤーから事情を伝えられると、フィアをこの部屋に案内してから人払いを行った。
絶対にこの部屋に入るな。近付きもするな。
とにかくセシリアを刺激しないよう、外の音を遮断する消音魔法まで展開する徹底ぶりだ。
「後は起きない事を願うしかないわ。本当は付きっ切りで見てあげるべきなんでしょうけど、今は蛇の手も借りたいの。蛇に手はないって? 借りられる手はもうどこにもないってことよ。だから彼女の事、任せるわね」
一秒を惜しむほどに忙しいのだろう。
必要な措置を手早く終わらせると、いまいち事態を飲み込みきれていないフィアに構うことなく部屋を出て行く。
音のない部屋では時間の経過が普段より遅く感じられた。
もう随分とこの部屋に居る気がしているのに、蝋燭の光から逆算してもまだ半刻といった所だ。
今夜は長い夜になりそうだと思いながら、用意して貰った飲み物に口を付ける。
いつまでかかるか分からないという理由で、この部屋には数日分の食料まで運び込まれていた。
「んぅ……」
不意にセシリアの口からはっきりとした呻き声が漏れた。
同時に殆ど動かせない身体をむずがるように身じろぎする。
「セシリア」
フィアが恐る恐る声をかけると、閉じられていた瞳がゆるゆると開いた。
「フィア……?」
寝ぼけ眼が心配そうに顔を覗き込んでいるフィアをぼうっと捉える。
ほんの少しだけ首を傾げて、どうしてこんなところに居るの? と尋ねる姿は年相応の愛らしさに満ちていた。
しかしそれも束の間。
思うように開かない目を手で擦ろうとした瞬間、全く動かせない事に気付き、緊張に強張った。
「えっと、とにかく現状を話すから落ち着いて聞いて欲しいんだ」
フィアは両手を上げて危害を与える意志がない事を示しつつセシリアの顔色を窺う。
もし自分が目を覚ました時に手足を拘束されていたら間違いなく動揺する。
ましてセシリアは時々忘れそうになるものの、自分より年下の女の子だ。
泣かれたらどうしようと気が気ではなかったのだが、意外にもしっかりとした視線を向けていた。
これなら話を聞いてくれそうだと胸を撫で下ろし、早速本題に入ろうとした瞬間。
「えっと、フィアの趣味は分かったけど、私には難易度が高いかなって……」
「違うんだぁぁぁぁぁっっ!」
申し訳なさそうな声を振り絞るセシリアに、生涯で二度とない程の大絶叫をする羽目に陥った。
「大丈夫、ちゃんと分かってます」
よりにもよって気になっている相手にアブノーマルな趣味を強制したように思われて凹んでいると、すかさずセシリアのフォローが飛んできた。
聡明なセシリアの事だ。寝ている女の子を無理やり縛る趣味がないって事くらい最初から分かっていたに違いない。
そうだ、これはさっきのはただの冗談だっんだ。
心の底から安堵してセシリアの顔を覗き込むと、
「フィアだって男の子だし、そういう趣味や嗜好もありますよね。でも、寝てる女の子に同意も取らなないでしちゃうのはまずいと思うの」
あからさまに視線を逸らされた。
「違うんだ……。違うんだよ……」
すこしもだいじょうぶじゃない。
完全に誤解された。
それでもなお優しい言葉をかけてくれるセシリアに否定の言葉を吐き続ける自分は、きっと酷く醜い生き物なのだろう。
嘘を言っている訳ではないのに、どうしてこんなにも心が苦しいのだろうか。
「変なことしないなら、フィアの趣味に付き合っても良いです……、でもこれはきつすぎます。少しで良いですから緩めて貰えませんか?」
そう言って辛そうに身を捩る。
穢らわしい男の趣味を前に、傷つけまいとフォローするどころか受け入れようとさえしてくれるセシリアは女神にも等しかった。
今すぐにでも縄を解いて無実を証明したい衝動に駆られる。
だが、それは決して許されないのだ。
「えっとな、カイトが言ってたんだ。まず相手を理解する素振りを見せて懐に入り込んだ後、ほんの少しの妥協を迫ってくるから気を付けろって……」
何も聞いていなければ縄を解いていたと思う。
しかし、カイトの話したセシリアの行動予測が最後の一線で歯止めになった。
「違います。私はそんなつもりで言ったんじゃなくて……。これ、本当に痛いんです。お願いします、ちょっと緩めてくれるだけで良いから」
今にも零れ落ちそうほど涙を溜めたセシリアの瞳は儚げで保護欲を掻き立てられる。
老若男女問わず、守ってやらなければならないという気持ちを引き起こすには十分だった。
だが、それは決して許されないのだ。
「失敗したら良心の呵責を攻めてくるって、カイトが……」
本当は上空百メートルから飛び降りるような奴が縄如きで悲鳴を上げるわけないだろうとまくし立てていたのだが、こちらに関しては心の中にひっそりとしまっておくことに決める。
「あと、それもダメだったら泣き落としに掛かるって」
がくりと項垂れてみせたセシリアが不自然に身体を硬直させた。
本当は女の涙なんて集中豪雨の雨くらいの価値しかないと息巻いていたが、やはりこれも胸の中に留めておくべきだろう。
次に顔を上げた時、先程までセシリアが浮かべていた弱々しさや儚さは綺麗に払拭されていた。
「アセリアの中にはリリーさんが取り残されているんですよ……。きっと今頃一人で寂しい思いをしています。もしかしたら怖がってるかもしれません。フィアはそれでもいいの?」
確かにその可能性はある。
まだ入学したての見習いだった自分でさえ避難誘導に駆り出されたのだ。
被害範囲が拡大すればリリーの入学した魔術学園に同様の要請が行われる可能性がないとは言い切れない。
アセリアへ助けに行く術は目の前のセシリアが持っていた。
なら、縄を解いて一緒に助けに行くべきではないのか。
だが、それは決して許されないのだ。
「悪い。カイトから感情論を交えながらの理詰めは全部聞かなかった事にしろって言われてるんだ」
セシリアを行かせればどんな無茶をしでかすか分からない。
リリーを助ける為にセシリアを犠牲になんて出来る筈がなかった。
「それに、俺はカイトやセシリアの仲間を信じてる」
一瞬だけ、セシリアが本当に泣き出しそうな顔になる。
「それから、これもカイトの忠告な。『理詰めも無理ならセシリアはお前を怒らせる為に挑発を繰り返す。それはどっちの心も傷つけるからやめておけ』だってさ」
引いてダメなら突き放せ。
思いつく限りの罵詈雑言で相手を責めて、勝手にしろと怒らせて、この部屋からフィアを退室させればセシリアの目論見は叶う。
「セシリアが優しいのは良く分かってる。だから、何を言われてもここを離れるつもりはないし、それがセシリアの本心だとも思わない」
きっぱりそう告げると、セシリアは小さく溜息を零した。
「……カイトの馬鹿。全部ばらしてくれちゃって。これじゃどうしようもないじゃない」
不意打ちだから感情を揺さぶれるのであって、最初から予見されたのでは期待通りの効果を得られる筈がない。
ネタのバレた芝居なんてただ寒いだけだ。
カイトはセシリアの教師役でもあり、同時にすべてを知り尽くした、この世でただ一人の天敵だった。
交渉が無意味だと悟ったセシリアはすぐさま行動を切り替える。
縛られた縄を手足ごとホーリーランスで引き千切るくらいわけはない。
監視役として配置されているフィアの目の前で自傷行為に走れば、負い目を感じさせてしまうかもしれないと遠慮していたが、他に策がないのであれば仕方ないと割り切る。
セシリアが躊躇いもせずに実行へ移すべく魔法を展開した瞬間。
「最後のカイトからの忠告だ。全部ダメなら実力行使に出る」
フィアはベッドの上で転がるセシリアを背中から抱きしめた。
「っ!?」
背に回された手を縛る縄を断ち切ろうとしてもフィアの身体が邪魔をする。
「邪魔しないでっ! わ、私は回復魔法が使えるんだから、フィアごと貫いた後に回復する事だってできるんですっ」
セシリアのホーリーランスなら人一人分くらいの障害は十分に貫けるだろう。
本気で実行に移せば、フィア越しに両手の拘束を断ち切る事もできるのだ。
「痛い思いをするだけ無駄ですっ」
「かもな」
けれどフィアは少しも怯まず、逆に回した腕へ痛くない程度に力を籠めた。
「そこまでされたら俺にはどうしようもないけどさ、だからってすごすごと退散するつもりもないんだよ」
部屋の中が不自然に明るく照らされる。
覚悟を決めた時のセシリアが見せる遠慮のなさはフィアも良く知る所だ。
カイトは大丈夫だと言っていたが、普段よりも危うい精神状態の今では実行に移さないとも言い切れない。
「やれるならやってみろ」
挑発とも取れるその一言が合図となり、展開された光の槍が一斉に射出され、破砕音が狭い部屋の中に反響した。
「こんなに震えてるのに、出来る訳ないだろ」
結局、魔力の槍は部屋の調度品を破壊したのみで、近くやベッドには刺さりもしなかった。
小刻みな震えはフィアに命中してしまう可能性に対する怯えだ。
たとえ治せると分かっていても、傷を負わせるなんてできない。
だからセシリアは次善の策を用いた。
「誰かっ!」
おまわりさんこいつです。
ベッドで、両手両足を拘束されて、背後から抱きつかれている絵面はさぞかぐわしい犯罪の香りに満ちている事だろう。
勘違いした誰かがフィアを引き離せばセシリアの目論見は達せられる……のだが。
「そういう事だったのか……。あー、悪いんだけど、絶対誰もこの部屋に来ないし、声も外に漏れない手筈になってるんだ」
カイトが想定しきれなかった可能性を、あの女医は見事に潰していた。
流石は精神的なケアの専門家、と言うべきか。
敵に徹底的な対策を施されている上、援軍もなし。
状況はセシリアにとってこれ以上ないくらい詰んでいた。
帽子屋に掴まっていた時の方がまだ活路を見いだせただろう。
普通なら万策尽きて諦めても良い筈だ。
けれどセシリアにも、そう出来ない理由があった。
「お願いだから、行かせてください」
今までとは違ったか細い震え声にフィアの心臓が跳ね上がる。
いつの間にかセシリアが声を押し殺しながら泣いていた。
両手足を拘束された女の子に背後から抱きつくのが最低最悪の限りを尽くす行為だという事くらいフィアも理解している。
年下の、それも女の子が受けるであろう抵抗感や嫌悪感は計り知れない。
泣かれても仕方ないと思っていたし覚悟もしていたが、実際に目の当たりにすると罪悪感で死にたくなった。
おまけに触れ合った部分から伝わってくる温もりや柔らかさがもたらす高揚感が罪悪感をこれでもかと後押しする。
フィアにとってセシリアは特別な存在だ。
嫌われるのは確実として、もう二度と口を聞いてくれないどころか、事が終われば自由の翼から出て行けと告げられてもおかしくない。
カイトの案に乗るのはフィアにとってセシリアを諦めるのと同義だった。
でも、今縄を解いてあげればそんな未来を回避できるかもしれない。
セシリアの能力は圧倒的だ。案外あっさりと事件を解決して、縄を解いたのは良い判断だと見直してくれるかもしれない。
今まで自分はセシリアに我が儘なお願いばかりしてきた。
なら、ここはセシリアの頼みを聞くべきではないのか。
次々と身勝手な妄想が湧きあがった。でもそれは次の瞬間に否定される。
セシリアと自分の想い。尊重されるべきがどちらかなんて、考えるまでもなかった。
「ご、ごめん。べたべたされて気色悪いのは分かるし後で幾らでも謝る。だけど今だけは我慢してくれ」
瞳から零れた大粒の涙が白いシーツに丸い染みを作る。
「そうじゃない……」
てっきり罵倒の言葉が返ってくるかと思っていたのだが、セシリアはゆるゆると首を振った。
セシリアは何かに怯えていた。
背後から抱きすくめているフィアに、ではない。
「声が、聞こえるんです。耳を塞いでも」
「声……?」
「みんなの悲鳴が。私を呪う声が。どうして見捨てたのかって。どうしてお前だけが生きてるんだって」
計り知れない後悔と懺悔に滲んだ言葉にカイトの話していた『拷問』というフレーズが脳裏に木霊する。
「違うの! 私だって助けたかった! でも、みんな私を呪うの!」
まるで何かに許しを請うように、或いは言い逃れるかのように、セシリアが虚空に向けて叫んだ。
眼は虚ろで焦点を結んでいない。まるでここではないどこかを見ているかのようだった。
いや、事実セシリアはここにはいない筈の、かつて拷問を受けた人達の姿を深く刻まれた記憶を通して視ているのだ。
恐怖に慄くセシリアをぐるりと取り囲んで、不自由な身体を引き摺りながら彼女達は思い思いに呪詛の言葉を吐きつける。
「夢の中でみんな酷い傷を負ってるの。なのに幾ら魔法を掛けても治せない。痛いって泣くの。苦しいって叫ぶの。どうして治してくれないのって、苦しむ自分達を見て楽しんでるんだって私を呪うの。違う……。違う、違う! でも私には治せないの。だってみんな、もう死んでるからっ!」
尋常ではない震えが腕を通して伝わってきた。
泣き声はますます酷くなるばかりで、虚空に向けて謝罪の言葉をただひたすらに繰り返す。
ごめんなさい……。ごめんなさい……。ごめんなさい……。
フィアの心が捻じ切れそうなほど傷んだ。気付かない内に溢れていた涙がフィアの瞳からも零れ落ちる。
セシリアが何をされたのかは分からない。
しかしそれが、どれほど深くセシリアの心を抉り、歪めてしまったのかは分かる。
「全部私のせいなの。私がこの世界に居たから。私が生まれたから、みんな苦しんだ」
「……違うだろ」
ただただ自分を責め続けるセシリアに分かって欲しくて、否定を言葉を投げかける。
けれど、頑なに自己否定を続けるセシリアには届かない。
「だから助けなくちゃいけないの。私なんかどうでも良い。一人でも多く助けなきゃ、本当に生きてる意味が、ここに居てもいい理由が消えちゃう……」
悲しかった。意味がなければ生きる事すらできなくなってしまったセシリアが。
何より悔しかった。そんなセシリアに何もしてやれない自分が。守られるばかりで、救う事の出来なかった自分が。
「謝らなきゃいけないのは、俺の方だろ……」
セシリアは自由の翼への加入を反対した。
それを強引に押し切って弱点を作ったのは他でもない自分自身だ。
もしあのまま村で大人しくしていれば、今頃こんな事にはなっていなかったのかもしれない。
「だけど、俺は謝らないよ」
そんなものは無意味な仮定だ。起こってしまった事はなくならない。
セシリアと一緒に行動してた日々を、楽しい事ばかりではなかった今日までを、なかった事にしたくない。
「誰かを犠牲にして生き残ったとしても、その誰かの為に自分を犠牲にするなんて間違ってる。だってそれじゃ、結局誰も助かってない。悲しい事も辛い事も全部乗り越えるしかないんだ」
唐突にセシリアの身体が大きく跳ねた。
「……いやだ。怖い、怖いよ。誰か助けて、助けてよ」
身体の震えは激しさを増し、嗚咽の合間に荒い呼吸が入り混じり苦しげに呻く。
「セシリア……? 大丈夫か!? どうしたんだよ!?」
その様子は演技の範疇を超えている。
迷いはしたが、背後から抱きつく体勢を正面から馬乗りになる形に変えた。
見下ろしたセシリアの顔は熱病にかかったかのように赤く、身体のラインがはっきりと浮かび上がるくらい汗もかいている。
焦点の定まっていない瞳は虚ろで、何を恐れているのか、「怖い」と「助けて」を狂ったように繰り返していた。
明らかに様子がおかしいけれど、ここから離れるのも不味い。
かといって助けを呼ぼうにもこの部屋の外に声は届かない。
いっそこのまま背負って部屋の外にでるべきかと考えた瞬間、タイミングを見透かしたかのように部屋の扉が開き、セシリアをこの部屋に寝かせた女医が顔を覗かせた。
「あら、お楽しみ中だったかしら?」
「どうすればそう見えるんだよ!」
場違いな声にフィアが抗議の声を上げる。今はふざけている場合ではないのだ。
「さっきからセシリアの様子がおかしいんだ! 医者なんだろ? 助けてくれ!」
彼女は残念そうに首を竦めるとセシリアに近づく。
「あぁ、いいわ。そのままにして頂戴」
診察の為にどこうとしたフィアを片手で制するとそのまま顔を覘き見るなりあっさりと言った。
「離脱症状が始まったみたいね」
「りだつ……?」
意味が分からずにフィアが首を傾げる。
「簡単に言えば、薬の効果が切れ始めてるの。彼女は拷問によって植え付けられた不安や恐怖を薬の力で無理やり押さえ込む事でどうにか仮初の人格を保っていたらしいわ。だから薬が切れると本来の精神状態に戻るんだけど……想像以上ね」
女医は震えるセシリアを見て眉間に皺を寄せていた。
「俺は一体どうすればいい」
「一番は彼女の抱えている不安や恐怖を拭い去ってあげる事だけど……会話もままならないんじゃどうしようも……。ちょっと脈を計らせて」
一言断ってから首筋に手を伸ばそうとした瞬間、セシリアが死に物狂いで身を捩った。
女医は驚くべき速度で手を引っ込め、セシリアから大きく距離を取る。
「駄目ね。私じゃ彼女を刺激するだけみたい。……馬乗りになってる男より警戒されるってちょっと傷つくわ」
「いや、俺だって好きでやってる訳じゃないんだが……」
フィアの反論に「あら、そうなの」と素気なく返事を返しつつ、真面目な顔で向き直る。
「ともかく、貴方は彼女にとって特別って事。こんな恐慌状態でも傍に居られるって事は、余程信頼されてるのね」
ほっとしたような物言いにフィアは何とも言えないむずがゆさを感じて話を戻す。
「それで、俺はどうすればいいんだ」
「傍にいてあげて。それから声をかけてあげて。貴方の声なら届くかもしれないわ」
「それだけで良いのか……?」
そんな簡単なことでセシリアが元に戻るのか、と言う意味で問いかけたのだが、女医は複雑そうな顔をしてからベッドの脇に置かれたサイドテーブルを指差した。
「そうね。それからもう一つ。そこの一番上の引き出しの中に短剣が入ってるわ。もし彼女が魔法を使おうとしたら、それで胸を刺しなさい」
「なっ……」
衝撃的すぎる内容に言葉が上手く出てこない。
「出来る訳ないだろ!?」
やっと出てきた怒声にセシリアがびくりと震えた。
女医は窘めるような視線を送ってから、深く息を吐く。
「そんなの分かってるわ。でも今の彼女は酷い恐慌状態で不安定なの。ふとした拍子に、目の前の全てを敵だと思い込んでしまいかねないくらいにね。そうなったら目につく物全てを手当たり次第に攻撃するわ。そこに貴方が含まれない保証なんてないのよ。私が手を出した時の怯えようは見たでしょ? 少なくとも私は躊躇なく殺そうとするでしょうね」
思いもよらない忠告に今度こそフィアが硬直する。
「……強制はしないわ。もしもの為の保険よ。そうならない事を本当に、心から願ってる。私は急いで怪我人を避難させるから、これで失礼するわ」
そう言い残して、女医は足早に部屋から出て行ってしまった。
避難が必要なほどの最悪な事態になりつつある事を、フィアはようやく理解した。
相変わらずセシリアはうわ言のように『怖い』と『助けて』を繰り返している。
「大丈夫だ、今度は俺が守るから」
どうすればセシリアを安心させられるだろうか。
考え抜いた末に思い付いたのは、以前セシリアが一緒に寝ようと提案した時の会話だ。
理由は今でも不明瞭だが、自分を安定させる為にはそうする他ないとまで言っていた。
「だからこれは過去の経験に基づく行動であって、何か下心がある訳じゃ……」
誰宛てでもない言い訳を口にしつつ、嫌がる素振りを見せたらすぐに離れようと心に決めてそっと抱き寄せる。
1秒……2秒……3秒。セシリアに動きはない。
どう判断すべきかと悩んでいると腕の中で定位置を探るかのように動いた。
納まりが良い場所を見つけたのか、それっきり何の動きもなくなる。
うわ言が減ったわけでも、嗚咽が止んだわけでもないけれど、少しは何かの足しになれば良いと思い、胸の辺りにある頭を撫でる。
そう言えばあの女医は声をかけてあげて欲しいと言っていた。自分の声なら届くかもしれないと。
「俺がこうして生きていられるのはセシリアが居てくれたからだ」
考えずとも口が動く。セシリアと出会っていなければ激情のままにオークの集団を襲撃して返り討ちにあっていただろう。
「爺さんもリリーも。村のみんなも、セシリアに助けられたんだ」
セシリアがくれた物はたくさんある。
それに気付かず、自分の人生が意味のない物だったと嘆く姿を黙って見ていられない。
「リュミエールでもセシリアの話には事欠かなかった。オークに襲われた集落の人達を危険を顧みずに救出した現代の英雄だって。御伽話みたいだろ? でも、全部本当の話だ。誰もが小さな英雄を誇らしげに話してたんだ。酒場なんて毎日その話題で埋まってた」
死を覚悟して首都防衛を掲げた部隊が、結局一人の犠牲者も出さずに凱旋できたのだって、セシリアが居たからだ。
戦地へ赴いた家族の帰りを待つ人々が無事な姿を見てどれだけ救われたか、知っているのだろうか。
フィアの知るセシリアの功績を一つ一つ思い返しては語り続ける。
こうして振り返ってみると、呆れるほどの数があって、蝋燭の光はじりじりと減り続けた。
「他の奴らが何て言うかは分かんないけどさ、俺だけは何があってもセシリアを肯定し続ける。いいや、俺だけじゃない。リリーも、カイトも。きっとこのギルドの皆も同じ気持ちだ。だからさ……」
長々と話したけれど、結局伝えたかったはこれなのだろう。
「だから、生まれてこなければよかったなんて言うなよ」
フィアの中に渦巻く想いが少しでもセシリアに届くよう、強く抱き寄せる。
不意に零れ続けていた嗚咽が止んだ。
恐る恐る腕の力を緩めると、光を取り戻した双眸がフィアを見上げていた。
「……見捨てたの。こんなに苦しいならもういいやって。相手はもっと苦しかった筈なのに。なのに、どうして私だけ助かったの?」
関わった人達を一人残らず助けるなんて神様にしか出来っこないのに、セシリアはそれを求める。
だけどやっぱり人は神になれない。
神になるという事は、あらゆる責任を背負う事と同義だから。
今のセシリアの様に、押し寄せてくる重圧に潰されてしまう。
「なら、こんな事になる前に助け出せなかった俺はどうすればいい? 今のセシリアみたいにあらゆる責任を背負い込んで自殺紛いの行動を繰り返せば許されるのか? もし俺がそうしたらセシリアは救われるのか?」
「っやだ! そんなの絶対にだめ!」
手を使えないセシリアがせめてもの抵抗とばかりに身体を押し付けてくる。
「俺にはその場に居合わせたセシリアの悲しみや悔しさや怒りを本当の意味では分かってやれない。けど、ぐちゃぐちゃになってる気持ちを聞くくらいならできる。それとも俺はその程度の頼りにもならないのか?」
「そんなこと、ないっ。でも怖いの。一人はいや。汚い私を知られて嫌われたくないっ」
甘える子どものようにセシリアがフィアに飛びつく。
「なんだ、そんな事かよ」
思わず呆れて苦笑を漏らすと、セシリアが泣きそうな表情でフィアを見返す。
「そんなことありえない。セシリアが俺を嫌うならともかく、何があろうと俺がセシリアを嫌ったりするもんか。だから話してくれないか。ある物全部吐き出せば少しくらいはスッキリするからさ」
どうすべきか悩んでいるのだろう。だからフィアは何も言わず、セシリアを見守り続ける事にした。
最初の一言を吐き出してくれたのはそれから暫く後だ。
後は栓が外れたかのように貯めていたあらゆる言葉が口から溢れだした。
先程までの懺悔とは違う『頑張ったのに』という一言は、セシリアが言いたくても言えなかった紛れもない本心なのだろう。
ありったけの理不尽を嘆いて、ありったけの涙を流して、ただ流れ落ちるだけの不明瞭だった言葉が意味を持ち、会話になる頃には当初の落ち着きを取り戻していた。
「……ありがとう」
恥ずかしいのか、フィアの胸に顔をうずめたままセシリアがポツリと言う。
口から出た言葉が謝罪でなかったことにフィアはひとまず安堵した。
「でも今は興奮状態が続いた事で薬効が疑似的に再現されてるだけで、きっとまたすぐに壊れます」
フィアにはよく意味が分からなかったが、気にする必要もない。
自分のすべきことは変わらないのだ。ずっと傍で話を聞いてあげればいい。
「そうなったらまた落ち着くまで傍に居ていいか?」
恥ずかしそうに頷いたセシリアを見てフィアは満足げに笑った。
「それでその、ホッとしたらお手洗いに行きたくなりまして……」
「って振り出しかよ! カイトが言ってた、トイレに行きたいは9割方逃げる為の方便だって」
「それは大いに認めますが、今回だけは違うんです。本当にやばいんです! というか拘束しておいてその可能性を考えてないんですか!? どうみても数日分の食料まで完備されてるのに、その間1度もお手洗いに行くなって、私はいつの時代のアイドルですか!」
「え、いや……。感情を交えての理詰めは無視しろって……」
「考えてなかったって顔しながら言われても説得力の欠片もないから! じゃあフィアは完全に薬が抜けきるまで少なくとも丸一日は1回もお手洗いに行かないんですね!?」
「でもカイトからあらゆる要求を無視しろって言われて……」
「修正を要求しま……っ!?」
「……セシリア?」
「……お願い。もう縄は解かなくて良いから。運んで脱がしてくれるだけで良いから……」
「ちょ、ちょっと待て! それは色々まずいだろ!」
「ベ ッ ド 揺 ら さ な い でっ!」
「ご、ごめん、でも女の子のトイレに付き合えとか、流石に……」
「そういうのどうでもいいから早く!」
「わ、分かった。じゃああの医者を探すからっ」
「無理ですそんな余裕ないですあと運ぶ時に絶対揺らさないでください間に合わなかったら恨みます絶対にゆすさない」
「分かったから! 無表情でぶつぶつ言うのはやめてくれ!」
「無理、もう無理。というか何で女の子ってこんなに持たな(ry」
「すぐそこだから! あとちょっとだから! 持ちこたえてくれ!」
ふぃあの じゅなんは まだ はじまってすら いない!