それぞれの想い-5-
「急いで外壁に向かってください! 風向き次第で火の手が向かう恐れがあります!」
寝巻きのまま駆け回る住民の中で真新しい騎士服に身を包んだ見習い達が声を張り上げる。
だが、努力も虚しく避難誘導が捗っているとはとても言えない状態だった。
「なぁ、何が起きてるんだよ!?」
「家には明日に納めないといけない商品があるんだ! あれを置いてなんて行けない!」
誰にとっても我が家は大切だ。
火の手が迫っていると言われても目に見える範囲に炎はなく、危機感はないに等しい。
身一つで逃げた隙に泥棒が入ったらどうしてくれるのかと迫られれば押し黙るしかなかった。
実際、この混乱に乗じて火事場泥棒や略奪が頻発している。
中には火の手が回ってくるはずないと決め込んで家に残る住民もいた。
「良いから早く行け! 市民は騎士の指示に従うのが義務だ!」
それらの不満を無理やりにでも押さえ込んで与えられた責務を果たそうとするが、住民の反応は芳しくない。
「騎士っても見習いじゃないか」
「本物の騎士はどうしたんだよ」
端的に言えば舐められている。何せ彼らは皆10代半ばの子どもなのだ。
今回の避難誘導にしたって騎士のお使いのようにしか見えず、住民達もいまいち本気で取り合っていなかった。
それがきっかけとなって住民達は自分達の家へ戻ろうとし始める。
「クソッ、どうしたらいいんだッ」
思い通りにならない現実に騎士見習いの一人が苛立ちを近くの家の壁へ叩きつけた。
このままでは叙勲どころか反省部屋に一直線だ。かといって、住民を従わせる方法は見つからない。
「ともかく、ここに留まっていても仕方ない。避難させるのが無理ならせめて現場近くの班を手伝おう」
火が迫ってくれば彼らも避難せざるを得ない状況に立たされるだろう。
そうならないのが最善だが、そうなるにしても今暫くの猶予はある。それを有効活用しない手はない。
「分かった、じゃあ向こうの明るい方に……」
誰かがそう告げて指を刺した瞬間、ズゥゥンという重低音が響き渡り、地面を揺らした。
「……何の音だ?」
「多分、燃え広がらないように火の手の回った建物を崩した音です」
聞きなれない音に首を傾げた青年はなるほどと感心して歩き出そうとした。
その瞬間、先程の音が再び、今度は立て続けに響く。揺れも先程より幾分か大きかった。
「大きな建物を打ち崩したんでしょうか……」
しかし、重低音は止むどころかどんどん大きくなっている。
「なぁこれ、もしかして……」
「こっちに近づいてる!?」
一体何が起きているのか確かめるべく音源へ駆けだすと、その方向から大勢の住民が必死の形相で雪崩れ込んで来た。
「助けてくれッ! こ、殺されるっ」
彼は意気も絶え絶えな様子で近場にいた騎士見習いへ縋りつくと恐怖に歪んだ顔で何度も懇願する。
「落ち着いてくださいっ! 一体何があったんですか!?」
けれど男性は何かに怯えきっているようでまともな会話が成立しない。
火事場の物盗りや略奪にしては様子がおかしいと、彼の来た方向を見やった瞬間、男性と騎士見習いの意識は突如として吹き荒れた暴風によってぷっつりと途絶えた。
「おい……なんだよあれ!」
男性と騎士見習いが一瞬にして消し飛んだ瞬間を離れた場所から目の当たりにしてしまった同期の騎士見習いが悲鳴を上げる。
砂塵の向こうには一人の、まだ年若い青年が立っていた。
本来なら彼にも避難を勧告すべきなのだろうが、誰も近寄ろうとすらせず、ただ唖然と眺める事しかできない。
何故なら、その腕に一本の豪奢な剣が握られていたから。
何より、先の一撃が彼の何気ない一挙動からもたらされた物だから。
先程まで響いていた重低音は燃え広がった建物を打ち崩す音ではなく、目の前の青年が引き起こしたのだ。
今回の火災が人為的な物だと聞かされていた騎士見習い達は目の前の青年がその犯人なのだと直感する。
そこからの行動は同じ騎士見習いの中でも完全に二分した。
「なら、あいつを捕まえれば事件は解決するってことかっ! お前ら行くぞ、訓練の成果を見せてやれ!」
敵はたった一人だ。いかに屈強な騎士と言えど、対応できる人数には限度がある。
その限度以上の騎士見習いを引き連れ、勇敢にも立ち向かおうとする一派。
「おい待てッ! そいつは普通じゃない!」
今しがた見た破壊の傷跡を見てここは一旦引くべきだと判断した一派。
結果はすぐに出た。
周囲から取り囲む形で散開した騎士見習い達に向けて、青年が剣を幾度か振り抜く。
たったそれだけで暴風が巻き起こり、頑丈そうな煉瓦造りの建物をいとも簡単に吹き飛ばす。
その威力を真正面から受けた騎士見習い達は断末魔の一つさえ残すことなく散らされた。
「なんだよ、これ……」
風が治まるにつれて寸断された身体の一部が転がり、そこかしこから悲鳴が上がる。
敵はその悲鳴を敵性と判断したのか、再び手に持った剣を振り上げた。
太刀筋が自分に向いている事を悟った騎士見習いが絶望的な表情で目を瞑る。
掲げられていた剣が振り下ろされ、猛烈な風が吹き荒れた刹那。
「アクアスラストッ!」
襲い来る衝撃波をフィアの全力を籠めた一閃が迎え撃った。
青い軌跡と不可視の衝撃は虚空で互いの威力を飲み込み四散する。
「早く逃げろ!」
自分が何故助かったのか分からずに呆然としていた一団に向かってフィアが叫ぶ。
敵は明らかにフィアの一撃を警戒していて彼らから注意が逸れている。逃げるには今を置いて他にない。
爆風で倒れていた一般人を強引に引き起こすと安全な場所に向けて駆け出した。
「君はどうするつもりだ!?」
最後の一人を担ぎながら騎士見習いの一人がフィアに向かって尋ねる。
「あいつをここから引き離す」
このまま住宅街に放置すれば被害は拡大する一方だ。無茶なのは承知の上。今は自分に出来る事をしなければ。
「それに、こんな簡単な事すら出来ないでセシリアに届くわけねぇ」
貰った薄青の剣を油断なく構えながら大きく息を吸う。体内を巡る力の一部を剣に注ぎ込むと刀身が深い青色に染まった。
「来やがれ、俺が相手になってやる!」
再び1発。今度は籠めた力の半分を使ってアクアスラストを叩き込んだ。
相手が防御姿勢を取ったのを確認してから構えをとき、街の外に向かって一直線に駆ける。
「まずはヘイトの管理。一撃を当てた後、自分に有利な距離を維持しつつ戦うっ」
カイトからの受け売りを頭の中で反芻しつつ背後を振り返ると、敵は脅威と判断したフィアを追いかけていた。
本来この手のヘイト管理は単純な思考しか持ち得ない魔物相手にしか使えないのだが、狂気薬によって理性を奪われたプレイヤーは本能的な、魔物に近い思考回路に変わるらしい。
幸いにもフィアの想定通りに事が運びつつあった。
逃げている最中も敵は小まめに衝撃波を放ってくる。
しかし、移動しながらの一撃の威力は先程と比べ物にならないくらい低い上に精度も高くない。
「剣での攻撃は殆どが直線。太刀筋さえ見とけば避けられるっ」
時折背後を振り返りながら狙いを見極めれば避けるのは難しくなかった。
どうしても回避が難しい攻撃だけをアクアスラストで的確に迎撃し力の温存に務める。
そうこうしている内に街を抜け、見渡す限りの農地が続く外郭へと辿りついた。
ここなら本気で戦っても周囲の被害を気にする必要はない。
走り通しで荒れた息を整えながら振り返ると、敵も度重なるスキルの連打で荒い息を吐いていた。
状態は五分五分と言った所か。
「どうして街の人達を襲った!」
「殺さなきゃ……。早く殺さなきゃ!」
フィアの詰問にも青年は反応を示さず、うわ言の様に同じ言葉を繰り返す。
目は虚ろなのに、漲らせている殺気は肌で感じられるくらい強力だ。明らかに正気じゃない。
出来れば気を失わせるくらいで済ましたかったが、青年の実力を鑑みれば手加減などできるはずもなかった。
「……死ぬなよ」
小さな声でぽつりと呟いてから加減なしの本気の一撃を剣に載せて振るう。
描き出された青い軌跡が実体を伴って青年へと襲い掛かった。
威力も位置も申し分ない。確かな手応えを感じた一撃を、しかし青年は真っ向から剣で受け止める。
「ガァァァァァッ」
獣染みた叫び声を上げつつ振るわれた剣が青い軌跡に食い込む。
通常のアクアスラストより多くの魔力を篭める事で強化された一撃が重くのしかかり、青年の身体が地面を滑る。
しかしそれも束の間の事。青年の剣が輝きを増すと青い軌跡が砕かれ霧散する。
だがフィアとてその光景をただ黙ってみていたわけではない。
1発目を防いだ無防備な青年の身体へ出力を抑えた2発目、3発目が連続して叩き込まれる。
剣での防御が間に合わず、青年の身体は派手に吹き飛ばされて地面を転がった。
「これならっ!」
再び剣へと力を籠めたフィアが青年に向かって駆けた。
遠距離から放ったのではどうしても威力が減衰してしまう。
残り少ない魔力で確実に青年を倒すには至近距離で全力のアクアスラストを直撃させるしか思いつかなかった。
「これで終わりだッ!」
地面を転がった青年は未だ立ち上がれずにいる。
その無防備な身体へ至近距離からアクアスラストを放つべくフィアが剣を振り上げた瞬間。
「嫌だ、死にたくないッ!」
心の底から搾り出したような悲鳴が脳を揺さぶり、フィアの腕がほんの僅かに停止してしまった。
「っ!」
ほんの一瞬の油断と葛藤が絶対にあってはならない致命的な隙を作り出し、フィアと青年の立場をそっくり入れ替えた。
いつの間にか伸びていた手が足を絡め取り仰向けに引き倒される。
馬乗りになった青年は愉悦に満ちた表情で剣を振り上げた。
「(こんなところで終わるのかよ……)」
やけにゆったりと流れ出した時間の中で必死に活路を見出そうとするが、最早逃れる事も受け流す事も叶わず、刻々と迫る凶刃をただ眺める事しかできそうにない。
「(……嫌だ。まだ何もしてないのに、こんなところで終われるかっ!)」
手立てはなくとも最後の瞬間まで足掻いてやると決め、目を見開いて振り下ろされる剣を睨みつけた直後。
フィアの視界が薄青に染まった。
硬質な音が響き渡り、振り下ろされていた剣が障壁に阻まれ弾かれる。
何が起こったのか理解の追いついていない2人がほんの一瞬だけ硬直した。
「その子に、触れるなっ!」
その僅かな隙を突いて猛然と迫る影から少女が魔法を展開。
刹那の間に生み出された光り輝く5本の槍が立て続けに射出され、フィアの上に跨っていた青年を串刺しにしながら吹き飛ばす。
「セシリア……? なんで、ここに」
フィアはセシリアの姿を見上げながら訳が分からないといった様子で目を丸くした。
「もうだいじょうぶ、すぐにあれ、ころすから」
セシリアはフィアを一瞥してから闇夜の中でも煌めきを失っていない杖を構える。
四肢と腹を貫いたホーリーランスは敵にとって完全な致命傷だった。
HPを9割近く残していても、全身を貫く痛みにもがき苦しむのが精一杯で立ち上がる事も出来ずにいる。
だがセシリアは完全なる無力化に成功していると言うのに、なおも攻撃の手を緩めない。
敵を中心に展開された魔法陣が爆発的な魔力を伴って膨れ上がる。
長い詠唱はかつて一度、フィアがオークの襲来を受けて燃え上がった村で聞いた物だ。
たった1発で頑強な造りの家屋を苦も無く倒壊させた圧倒的威力を持つ魔法を、動けなくなった敵に放てばどうなるか。
「何、してるんだよ……」
沸き立つ魔力によって風が生まれ、髪と服が暴れ出す。
詠唱は佳境に差し掛かっていた。
脅しではない。今まで見た事のない、言葉を失うほどの冷え切った本気の眼差しだった。
「待てって!」
フィアが押し倒すような形で無理やり詠唱を中断させる。
別に相手を庇いたかったわけではない。
ともすれば殺されかけたのだ。フィアだって相手を殺してでも止める覚悟はある。
でもそれは、そうせざるを得ない状況に陥ってしまった場合にだけ発揮されるべきで、無力化した相手をわざわざ殺すほど倫理観に乏しい訳ではない。
なのにセシリアは躊躇う素振りも見せずに碌な抵抗もできない相手を殺そうとしていた。
「一体どうしちまったんだ!」
「こわいの? だいじょうぶだよ、フィアはわたしがまもるから」
まるで小さな子をあやす様な柔和な笑みを浮かべると、フィアの頭を胸に抱き寄せてから優しく撫でる。
だというのに、その瞳だけは相変わらず空虚で背筋が凍るような冷たさを含んだままだ。
「だからすこしまってて? すぐにおわるから」
フィアの身体を押し退けて立ち上がったセシリアは再び同じ詠唱を始めた。
会話がまるで成立しない。
何かが、いや、何もかもがおかしかった。
目の前の少女はセシリアの姿をしただけの別人だと言われた方がよっぽど信憑性がある。
けれど、そんな筈はない。目の前の少女は確かにセシリアで、なのにフィアの知るセシリアとはかけ離れている。
「ダメだ!」
未だに訳は分からない。
だが、このまま魔法を使わせるわけにはいかない事だけは分かる。
あの男を殺させてしまえばセシリアの中の大事な何かがもう二度と元に戻らないような気がするのだ。
もう一度セシリアを押し倒す。
しかし、地面に転がったセシリアは何の反応も示さず、詠唱は途切れることなく続いていた。
(魔法の詠唱は極度の集中を要求されるんじゃなかったのかよ!?)
騎士学校で魔術師と敵対した際は、石礫や矢による遠距離武装で意識を魔法から剥がせば唱えている詠唱を中断できると聞いたのに、セシリアは少しも意に介していない。
異様なほどの集中力を一体どうすれば掻き乱せるのか。
思いついた案は一つだけ。
「……緊急事態だ、仕方ないよな」
ほんのりと赤くした頬で誰にともなく言い訳を呟くと、腕の中のセシリアをしっかりと抱きとめて唇を触れ合わせる。
効果はばつぐんだった。
「――っ!?」
膨れ上がっていた魔力が周囲へ霧散するのを確認してから唇を離す。
言いたい事があり過ぎて逆に言葉が出てこないのか、セシリアはただひたすらと腕の中で金魚の様に口を開閉している。
ワンテンポ遅れて自分がフィアの腕の中にいる事に気付いたのか、警戒する小動物の様に飛び退り距離を開けた。
熱を持った顔は夜の闇に紛れていても分かるくらい赤い。
そのおかげか、先程まで瞳に浮かんでいた異様な冷たさも、今は綺麗に溶け消えていた。
「にゃにするんですかっ!」
噛み噛みの抗議にフィアの顔がようやく綻ぶ。
その姿は紛れのない、自分の良く知るセシリアその人だった。
「殺したらダメだ」
「……でも、フィアを殺そうとしました。危険は排除すべきです」
先程とは違って会話が成立する事にフィアがほっと胸を撫で下ろす。
自分以外を優先する人の良い性格は何も変わっていない。
なら、ちゃんと順序立てて説明すれば納得してくれる。
そう思いつつも、フィアは未だセシリアから感じる違和感を完全に拭い去れなかった。
「セシリアに無理やり入れられた騎士学校は無用な殺生を禁じてるんだ。それに実行犯を捕まえて事情を聞き出さなきゃいけないだろ?」
「……はい」
セシリアは暫くの間反論の術を探して、結局何も見つからずに小さく頷いた。
違和感の正体はすぐに思いつく。
セシリアがあれほど明確な殺意を向けたのだ。
反射的に止めたはいいものの、もしかしたらすぐにでも殺さなければならない理由があったのではないか。
それを知らずに邪魔してしまった事で計画が狂い、大変なことになるのではないかと内心では戦々恐々としていた。
これはお仕置きされても文句が言えないと覚悟していたのに、何の面白味もない説得に反論はなかった。
もし殺さなければならない特別な理由がないのなら、どうしてセシリアは生かしておいて情報を聞き出すと言う、最も妥当な方法を取らなかった?
セシリアなら真っ先に気付いて然るべきだというのに。
「今のセシリアは自分の感情を制御できないんだ。だから殺したい相手がいれば迷わず殺そうとする。……助かった、止めてくれてありがとうな」
フィアが疑問に頭を悩ませていると、いつの間にかすぐ傍にカイトが立っていた。
「上空から青い衝撃波を見てお前に気付いたんだよ。で、高度百メートル付近から飛び降りた」
普通なら即死してもおかしくない。
仮に一命を取り留めても地面に叩き付けられた衝撃で身体は動かずポーションの類も飲めないし、回復魔法を使う余裕があるとも思えない。
放置されれば出血による継続ダメージでやはり死ぬ事に変わりはない。
だからセシリアは地面に叩き付けられる直前に『聖域』を展開した。
この魔法は設置後、術者の状態に関係なくしばらくの間は効果を持続させる性質を持つ。
地面に叩き付けられた満身創痍の身体では魔法が使えなくとも、予め設置さえしておけば傷ついた身体を瞬く間に修復してくれると言う寸法だ。
こうしてセシリアは安全な高度まで落として駆けつけたカイトよりずっと早くフィアを助けられた。
理論的には一番効率が良い。なにせプレイヤーは死ななければ回復できる。
だとしても、それが常識的な行動かどうかは問うまでもないだろう。
セシリアは当然の様にそれを思いつき、何の疑いもなく実行してしまうくらい、狂っていた。
「……よく分かったよ。俺の考えが甘かった。セシリア、ひとまずフィアをリュミエールに退避させる。城壁の外まで移動するぞ」
カイトはそう言って滞空しているフレアドラゴンに合図を送る。
セシリアにも異存はなかったが、当のフィアだけが慌てたように遮った。
「ちょっと待ってくれ! 俺は騎士学校の任務の一環でここに来てるんだ、勝手に持ち場を離れる訳にはいかない」
無理やり入学させられたとはいえそれなりに気に入っているし、力を付ける為には丁度いい。
何より一人だけ逃げ出すような真似はもう二度としたくなかった。
「ちょっと来い。セシリアはそこに居ろ、男同士の大事な話だ」
離れていく2人にセシリアがぽつりと呟く。
「……カイトは違うじゃん」
「こまけぇ事はいいんだよ!」
カイトは半ば強引に話し声が聞こえない場所までフィアを引き離してから耳元で囁いた。
「フィアもセシリアがおかしいことくらい気付いてるだろ。今のセシリアは危険すぎる。誰かが傍に居てやらないといけないんだよ。本当なら俺が一緒に居るべきなんだけどな、生憎と仕事が山積みなんだ。……頼む、今セシリアを任せられそうなのはお前だけなんだよ。一緒に居てやってくれないか」
騎士団と大切な人。天秤にかけるまでもない。
フィアが騎士団に入ったのはその大切な人を守りたいからだ。
「分かった。具体的に何をすればいいんだ?」
「それは後で教える。今は何も聞かず一緒に来てくれ」
城壁を超えた先にある平坦な草原に降り立つなり、セシリアはポータルゲートを展開する。
まだまだ仕事は山ほど残っているのだ。
フィアを退避させたらすぐにアセリアへ戻り、今度はリリーを保護しなければならない。
「くれぐれも一人で出歩かないでくださいね。部屋で大人しくしてるんですよ」
フィアは小さな子どもに言い聞かせるように告げるセシリアを尻目に、このまま乗っていいのかを確認すべくカイトに視線を向ける。
するとカイトは懐から小瓶を取り出し、息を止めるようにジェスチャーを返した。
セシリアは死角にいるカイトに気付いていない。
「セシリア、ちょっとこっち向いてくれ」
何気ない口調で呼ばれたセシリアがなんだと振り返った瞬間、蓋を開けた小瓶を顔に振った。
たったそれだけでセシリアの身体がゆらりと傾ぐ。
「セシリア!?」
「安心しろ、少し眠って貰っただけだ。……大変なのはこれからだけどな。ちょっと手伝ってくれ、手足を縛るからな」
同じフレアドラゴンに同乗していた数人がカイトの指示を受けて、セシリアの腕を掴み、後ろ手にきつく縛り上げる。
もう一人も同じように足を厳重に縛り上げていた。
「な、何してるんだっ」
突然仲間を縛り始めた一向にフィアが目を丸くして抗議の声を上げる。
「事情は今から説明する。セシリアの様子がおかしかったのは分かるよな。それは全部こいつのせいなんだよ」
カイトがインベントリから赤い液体の満ちた小瓶を取り出した。
「狂気薬。効果は色々あるけどな、端的に言えば人を狂わせる。セシリアは帽子屋の元で手酷い拷問を受けた。自我を保つには薬に頼るしかなかったんだよ。そのせいでセシリアの人格はかなり歪んじまってる」
淡々と語られた真実にフィアは絶句するしかなかった。
自分を襲った相手を殺そうとした時の、底冷えするような冷たい瞳。
あんな風にさせてしまった原因は間違いなく……。
「自分のせいだと思うな。責任があるのは俺も同じだ」
自分にある。そう思った瞬間、カイトもまた辛そうに顔を歪めた。
「だから何としても元に戻す。その為にはまず薬を身体から抜く必要があるんだ」
しかし、それは今回の件が落ち着いてから行われる筈だった。
この作戦はセシリアが提案した物だし、本人もそれを望んでいたからだ。
だが今となってはもっと早く止めるべきだったと後悔している。
フィアを助ける為に取ったセシリアの行動はまともじゃない。
もはや一刻の猶予も残されていないのは明らかだった。
このまま作戦に同行させれば、セシリアは自分の身を塵ほども省みず、無謀を通り越した捨て身の行動を繰り返す。
元の世界に帰る為に自分へ課していた絶対に死なないという一線を、セシリアはとっくに飛び超えていた。
狂気薬の効果時間はそう長くない。
だからこそ摂取するペースも速く、依存性はまずます高くなる。
それは裏を返せば身体から抜けるのも早いという事だ。
問題はセシリアの性格と、身体の中の薬物濃度が薄まった際に起きる離脱症状をどうやって克服するか。
「アセリアは今、帽子屋の起こした事件のせいで混乱を極めてる。そんな所にフィアやリリーが居るのに待てと言われて待つような性格をしてると思うか?」
お上品な説得が通用しないのはフィアにも十分すぎるほど理解できた。
なればこその実力行使。
セシリアにポータルゲートを開かせてから眠らせ、拘束した上で送り届ける。
後は薬の効果が切れ、容態が落ち着くまで待ち続けるしかない。
「セシリアは過去の教訓で睡眠耐性を上げてる。多分、眠らせ続けるのは難しい。フィアにはセシリアが起きた後の事を頼みたいんだ。本当はリディアに頼みたいところだが、あのバカまだセシリアに腕の話を切り出せていないせいで逆効果になっちまう。これから細かい説明をするが、やるべき事は簡単だ。良いか、何を言われても、何を乞われても、絶対に縄を解くな。目を離すな。傍から離れるな」
フィアは矢継ぎ早に話す注意事項を一つも漏らさないよう必死に留める。
「後はそうだな。抵抗できないからってセシリアに手を出すなよ? もぐからな」
カイトはついでとばかりに、片手で何かを潰す様な挙動をして見せた。




