それぞれの想い-3-
「お待ちしておりました。さぁ、こちらへどうぞ」
100人近い狩組がアセリアへ転移した途端、帽子屋が待っていましたとばかりに近寄ってくる。
その隣には3日前と同じ、感情の窺えない能面のような表情を貼りつけたセシリアの姿があった。
とてもつい最近まで朗らかな笑顔を向けてくれていた少女と同一人物だとは思えない。
同時に何があっても助け出さなければとケインは思いを新たにする。
今日は何もできずに唇を噛んでいた以前とは違うのだ。
「……本当に三日月ウサギからアイテムを取り返すつもりがあるのか?」
「ええ、勿論ですとも。必ずや私の手に取り戻して見せると誓いましょう」
狩組の一人から漏れ出た疑問に帽子屋は大仰な素振りで胸に手を当て一礼しながら答えてみせる。
彼は未だ『自分達は対抗勢力を揃える為に多少強引な手段を取った』というスタンスを崩さないつもりらしい。
底が透けて見えると幾人かが嘯いたが、帽子屋は気にする様子もなく仲間と思しき最大主教へポータルゲートを依頼する。
ここを潜れば戦場だ。成功するにせよ失敗するにせよ、決着が付くまで戻る事はないだろう。
自由の翼に躊躇いはなかった。誰もが無言のまま、いつでも応戦できる態勢を整えてポータルゲートへ足を踏み入れる。
帽子屋はそんな彼らの姿をとても楽しそうに眺めていた。
帽子屋の用意したポータルゲートで三日月ウサギが根城にしている要塞跡地の前に茂った森の入口へと転送される。
「思ったよりもレベルの低い方が多いようですね。人数は……これなら申し分ないでしょう」
最後に転移してきた帽子屋は自由の翼からの参加人数を確認すると満足げにほくそ笑む。
「それでは早速現地へ向かいましょうか」
帽子屋はそう言って、ゲーム時代からお茶会に属していた高レベルプレイヤーが集まる一角を指差した。
自由の翼は彼らと合流し、布陣の中でも一際離れた西端を担当する事になっている。
隷属の首輪を着けたセシリアの姿を大々的に見せたくないのだろう。城塞都市アセリアのプレイヤーが多く集まる部隊とは意図的に距離を置かれていた。
しかしそれも、自由の翼の目的を鑑みれば寧ろ好都合と言える。
「それでは出発致しましょう」
帽子屋は監視も兼ねて先頭を歩くお茶会の集団には混ざらず自由の翼と共に行動するようだ。
右手の人差し指には主従の指輪が嵌められており、何気ない動作に交えて幾度となく見せつける。
口にせずとも、不審な行動を取れば指輪を使うと物語っていた。
だがケインはそんな帽子屋の挑発を真っ向から受け止め、感情を抑えた硬い口調で言う。
「その前にもう一度、今後の方針と編成の説明を。本当に要塞へ攻め込むのであれば最低でも互いの職構成を把握するべきです」
作戦の前に詳細を確認するのは当然だ。寧ろ大規模な攻勢をかけようとしているのに職構成さえ把握しない方が不審と言える。
……という建前の元、別働隊が鉱山から奴隷達を救出する為の時間稼ぎに走る。
「手早く済ませましょう」
帽子屋が申し出を受け入れるかは未知数だったが、一言前置きを置きつつも意外にすんなりと頷き返した。
彼らにとっても自由の翼の構成を把握しておいて損はないという事か。
森を抜けるまでに直線距離で約200メートル。暗がりの中を慎重に進んだとしても30分は掛からない。
別働隊が少しでも多くの時間を掛けられるようになるべく出発を遅らせたいが、怪しまれずに時間を稼げる方法は限られている。
結局、互いの構成と布陣の確認にたっぷり20分を費やしたところでこれ以上の遅延は怪しまれると判断し話を切り上げた。
既に別働隊の作戦開始から40分以上が経過している。目的地までの時間を考慮すれば約1時間といった所か。
後はもう無事に成功している事を祈るしかない。
森の中は思った以上に暗く、見通しの利かない地面に転がっていた石や浮かんだ木の根で何度も躓きかけた。
明かりの一つでもあればいいのだが、暗闇の中だと遠く小さな光であっても簡単に発見されてしまう。
無言で歩き続けること10分。入口はとっくに多い茂った木々で隠され、振り返っても暗い夜の森が続くだけだ。
頭上にも分厚い葉が覆い被さっており、空に浮かんでいる筈の月の光も殆ど入ってこない。
暗闇でも視力を維持できるスキルを持った弓手が居なければ今頃進むべき道を見失っていただろう。
「流石にお気付きのようですね」
まだ目的地まで半分近くも残していると言うのに、帽子屋は足を止めて振り返った。
そのタイミングを見計らって森の中に幾つもの明かりが浮かぶ。
見渡せば多数の魔術師が暗いダンジョン内を照らす為の光源用魔法を幾つも展開していた。
これだけ明るければ森の向こうにある三日月ウサギの根城からも良く見えるだろう。
「もう茶番はおしまいってことかな」
この事態を半ば予想していただけあって、自由の翼に動揺はない。
適度な距離を維持しつつ立ち止まると武器を手に取って油断なく構えた。
「あなた方もそれを望んでいるようでしょう? それで、どこまでお気づきになられているのですか?」
自由の翼と正面から向き合う形で展開されたお茶会の布陣の中心に立つ帽子屋が悠然と構えて尋ねる。
「僕らを力ずくでも排除したがっている事くらい、かな」
ケインの答えに彼はくつくつと押し殺したような笑い声を上げた。
「正解……と申し上げたいところですが、50点です。やはり貴方では張り合いがありませんね」
さも残念そうに肩を竦めて侮蔑の念を顕わにする。そこには普段の紳士然とした態度は微塵の欠片もない。
「関係ないさ。何が目的であれ、ここで君達を倒せば丸く収まるんだ」
最初から帽子屋の計画が建前に過ぎず、もっと別の思惑を隠している可能性は考慮していた。
しかし、だとしたら何の為にこんな嘘を吐いたのか。
その答えを朧げながらも見いだせたのは帽子屋を森の中で強襲する計画を立案した時だった。
自由の翼はアセリアに閉じこもっている帽子屋を正面から襲撃できない。
だからこそこうして、彼らが外に出る瞬間を狙おうと計画したのだ。
だがそれは敵にも当て嵌まるのではないか?
帽子屋もリュミエールに閉じこもっている自由の翼を正面からは襲撃できずにいる。
だからこそ彼らもまた、三日月ウサギの根城を襲撃するという動機をでっち上げて自由の翼を外へ誘き出そうとした。
セシリアを始めとした自由の翼のプレイヤーを誘拐したのだって、作戦への参加を強制し、外に出ざるを得ない状況を作り出す布石だと考えれば筋は通る。
「まさか我々を相手に勝てるとでも?」
「見込みがなければ来たりしないさ」
帽子屋が挑発的な笑みを浮かべると、対するケインも不敵に笑って見せる。
お茶会は高レベルプレイヤーが多いけれど、人数はそう多くない。
おまけに今回の遠征では3つの班が作られ、それぞれ離れた場所から森に入り、敵の拠点を包囲制圧する計画が立案されていた。
そのどれにも一定数のお茶会メンバーが指揮系統として割り振られている為、ただでさえ少ないメンバーが更に減っている。
この班のお茶会のメンバーは多めに配置されているが、それでもたったの30人程度。自由の翼とは3倍近い人数差がある。
親方、ユウトを始めとする高レベルプレイヤーを主軸に戦えば勝てる見込みは十分にあった。
けれど、ケインはそう簡単に事が運んでくれると思っていない。
明らかに少ないお茶会の人数は自由の翼に勝てると思い込ませ、この場へ引きずり出す為の罠。
敵が数の不利を覆す方法を用意しているのは明白だ。
帽子屋に三日月ウサギの拠点を攻めるつもりがないのであれば、それがなんであるかもまた、明白だった。
「居るのは分かっています。さっさと出てきなさい」
帽子屋が声を張り上げると頭上を覆う葉がざわりと揺れ、一人の青年が身体をくるくる回転させながら地上へ降り立つ。
背後からは森の奥に潜んでいた一団も姿を現し、帽子屋の勢力と合流する。
「大声で呼ぶとはなっていないでござるな。こういう時は登場の雰囲気が大切なのでござるよ」
藁で編まれた帽子。素顔の見えない仮面。場違いなほど明るい声。
想像通りの顛末に、自由の翼の一団があらためて武器を握る手に力を籠める。
「三日月ウサギ……!」
「誰かと思えばいつかの守護者ではござらんか。ゲーム時代から無垢なセシリアたんに纏わりついてべたべたべたべたと……! 思い出しただけでも忌々しい、今日こそこのカタールの錆にしてくれるでござるっ」
カイトの怒声を聞いた三日月ウサギは胡乱げに視線を向けると、不快感に顔を歪め腰に下げたカタールを引き抜いた。
途端に一触即発といった雰囲気が立ち込めるものの、睨み合うだけで自分から仕掛けようとせず、相手の動きをただじっと待ち続ける。
カイトは盾型で、自分が縦横無尽に駆け回り攻勢に出られるタイプではない事を十分理解している。守護者の真価は防御にこそあるのだ。
一方で三日月ウサギも相性で劣る守護者相手においそれと手を出す訳にはいかない。
防御に徹した守護者をを暗殺者が単身で打ち破るのは不可能と言って良かった。
何かで注意を惹きつけた所を不意打ちするくらいでなければ攻撃が通らず、仮に通ったとしても手痛い反射ダメージが戻ってくる。
本格的な戦闘が始まるのはどちらかの陣営が仕掛けた瞬間からになるだろう。
「相変わらず節操のない方ですね。それより先にすべき事があるでしょう」
だが帽子屋は決定的瞬間が訪れるよりも早く三日月ウサギを下がらせた。
自由の翼も斬り込むタイミングを見失い、武器を構えたまま注意深く動向を伺うに留まる。
結果的に全員の視線を集めた帽子屋は、傍に控えさせていたセシリアの腕を無造作に掴んで三日月ウサギの前へと引っ張った。
ゲーム時代からの天敵を前に、今まで感情を感じさせなかったセシリアが怯えた表情で小さく身体を震わせている。
「当然『未使用』でござろうな」
全身をじっくりと舐めまわすように見渡している三日月ウサギへ帽子屋は勿論だと頷いた。
「誰にも手出しはさせていませんし、薬品の類も使っていません。もっとも、この世界に飛ばされた直後に1度捕まっているようですから、その時の保証は致しかねますよ」
「大丈夫でござる。その時に何があったのかはこちらで確認済みでござるよ。ぶち殺してやるつもりでござったが、気色悪い中年相手に穴を掘られていると知って笑いが止まらなかったでござる。流石はセシリアたんでござるよ!」
三日月ウサギは満足そうに何度も頷くと、話の中に出てきた中年と遜色ない気色悪い笑みを浮かべながらごそごそと懐を漁って、眩いばかりの銀に煌めく宝珠を取り出した。
「……さぁ、それを渡して頂きましょうか」
感慨深げに呟いてから、帽子屋はケインを仰ぎ見て三日月ウサギの手のひらで転がされているアイテムを指差す。
燦然とした輝きを宿した宝珠は幻想的で、何かしらの強力な力を秘めた魔法具であることは一目瞭然だった。
ケインはこのゲームに出てきた魔法具を全て把握している訳ではない。
けれど、答えは一つしか思い浮かばなかった。
「……それが帰還用のアイテムか」
「ええ。私の探し求めていた夢の欠片です」
帽子屋は惚けるように宝珠をじっと眺めてから三日月ウサギに向き直る。片腕は相変わらずセシリアの腕を掴んだままだ。
「約束通りお望みのセシリアを用意しました。早速ですが、それをこちらに渡して貰いましょうか」
帽子屋がどうしてあれ程までセシリア個人に拘っていたのかをケインはようやく理解する。
三日月ウサギが僅かな差で持ち去ってしまった帰還用アイテムを手に入れるには殺して奪うか交渉して譲って貰うしかない。
帽子屋は三日月ウサギ達の持つ戦力を鑑みて、セシリアと言う飴を条件に自分の側へと引き込んだのではないか。
だからこそ殺す事はおろか、薬品を使って狂わせる事もできなかった。
帽子屋は本当に三日月ウサギから帰還用アイテムを取り返そうとしている。
……何の為に?
彼のこれまでの言動を信じるなら元の世界へ帰る為だ。
この取引が無事行われれば帽子屋は帰還用のアイテムを発動し、全員が元の世界へ強制的に帰還する。
でもそれはありえない。ありえるはずがない。
三日月ウサギがセシリアを求めたのは歪んだ欲望を満たす為だ。
帽子屋が帰還用アイテムを発動すれば折角手に入れたセシリアを失うどころか、彼女は元の身体、つまり男性へ戻る。
セシリア信者である三日月ウサギがそれをよしとするとは到底思えない。
悪い予感しかしなかった。
この取引だけは何としても成立させてはならないと本能が告げている。
「それを手に入れてどうするつもりだ」
「決まっているではないですか、破壊するのですよ。二度と元の世界へ帰還できないよう、欠片一つも残さずにね」
「そんな事をさせるわけにはいかないっ! 全員突撃、敵勢力を殲滅するんだっ!」
三日月ウサギと帽子屋の距離はまだ離れていて、取引が完了したわけではない。
ケインは咄嗟に指示を飛ばしてから真っ先に帽子屋へ駆ける。
頭に過った最悪の可能性。それは帰還用のアイテムが『破壊』される事だ。
三日月ウサギと帽子屋が大分前から組んでいたのは疑うまでもない。
両者の間で何らかの協議があり、三日月ウサギがセシリアを交換条件に持ち出したのだとしたら、帽子屋の手に渡った瞬間に破壊され、元の世界へ戻る手段が永久に失われてしまう。
だが帽子屋は口角を上げ、それだけは避けねばと殺到する自由の翼をせせら笑った。
「どこまでも烏合の衆ですね。そう来ると思ってましたよ!」
先陣を切ったケインが帽子屋に向けてさらなる一歩を踏み出した瞬間、足をついた地面が不自然なまでに沈み込む。
反射的に危険を察知し、ふんばるのではなく身体を転がしてその場から離れた、刹那。
先程まで立っていた場所から太く鋭利な岩が突き上げ、片手に持っていた盾を弾いた。
身体まで巻き込まれそうになったところでどうにか手を離し、盾だけが枝と葉が絡み合った天井を突き抜ける。
魔導師の持つ設置型魔法の一つだ。
どうやら先程の睨み合いの時に隙を見て発動していたらしい。
振り返るとケインに続き果敢に攻めこもうとしていた幾人かが身体を貫かれて血を吐く。
「すぐに治療しますっ」
凄惨な光景を目の当たりにしたプリーストのクロが後方から順に回復魔法を発動させる。
設置型魔法の用途は接近を阻害する為の物で威力自体は低く設定されている。
しかしお茶会と自由の翼のレベル差は大きく、中には今の一撃で7割近い体力を持って行かれた前衛も居た。
地中に埋もれている魔法を的確に回避するのは難しい。
歩けばそのまま身体を刺し貫かれて死ぬかもしれないと言う恐怖が前衛の足を明確に鈍らせる。
その隙を帽子屋が見逃す筈もなかった。
「守護者は後衛の詠唱を死守、魔導師は鈍っている前衛を全力で迎え撃ちなさい!」
指示を受けた2人の守護者が左翼と右翼に展開された魔導師の集まる陣に向けてダメージを肩代わりするスキルを発動した。
直後、自由の翼の弓手が放った詠唱を妨害用の矢がその中の一人に突き刺さる。
しかし、痛みに顔を顰めたのは守護者だけで、始められた詠唱が止まる気配はない。
物理的なダメージから保護された魔導師の詠唱を止めるには専用の魔法が必要になる。
ならばせめて守護者へのダメージを蓄積しようと試みるが、振り回される大型の盾によってその全てが悉く弾かれ、自由の翼の後衛陣に動揺が走った。
「付与術師は敵の詠唱妨害急げ!」
敵と同じく後衛を守るべく配置についたカイトが持前の知識を活かして矢継ぎ早に指示を飛ばす。
付与術師には詠唱中の魔法を強制的に中断させるスキルが備わっていた。
ただし射程は短く、単体にしか効果は及ぼさない上に、自由の翼が用意できたスキル持ちの付与術師は僅か4人。
両翼にそれぞれ7人ずつ展開された計14人もの魔導師の詠唱を全て抑えるには圧倒的に手数が足りなかった。
懸命に妨害を務めているものの、中には間に合わず発動してしまうケースも出始める。
一方、自由の翼の魔術師部隊は圧倒的な人数を有しており妨害にも強い筈なのに、持前の火力をいまいち発揮しきれていない。
付与術師の最上位職である敵の呪術師が高レベルプレイヤーだけを対象に詠唱を阻害しているからだ。
流石は大規模PvP参加経験者といったところか。
先程から位置を特定されないようちょこまかと場所を変えながら詠唱を通そうとしているユウトですら、未だ一度も詠唱を通せていない。
低レベルプレイヤーの魔法では守護者の体力を雀の涙ほどにしか削れず、足元に展開された敵の最大主教の『聖域』がある限り意味を成していなかった。
数の力でどうにか戦線を維持できているものの、状況は芳しくない。
いずれ付与術師の集中力が途切れ、敵の魔法の阻害に失敗し炸裂した時点で勝敗は決するだろう。
「せめてもう少し派手に敵陣を荒らす事ができれば……」
自陣の後衛に向かって飛んでくる矢を弾きながらカイトは悔しそうに唇を噛み締める。
敵の構成は後衛に寄っている。半分以上が火力となる魔導師、補助に最大主教が4人、妨害用の呪術師が4人、盾が2人。前衛は僅か8人しかいない。
設置魔法を駆け抜けて敵陣で暴れられれば抑えるのは難しく、後衛職の意識も逸れる筈だ。
しかし、ダメージ覚悟で敵の設置魔法を駆け抜けるならそれなりの装備と体力が必要になる。
そのどちらも持ち得ているカイトは後衛の盾役に徹しざるを得ず、前線には参加できない。
設置魔法や相対した敵の前衛の苛烈な攻撃に着々と倒れつつある仲間の姿を前に憤りと焦燥感ばかりが募っていく。
「目の前にセシリアが居るってのにっ」
飛来する魔法弾に向って苛立ちを叩き付けるように剣を振った。
本来なら触れた瞬間に爆ぜ、周辺を巻き込みながら炎上する筈の高位魔法は断ち切られると共に霧散する。
守護者の特性は強固な防御力と近接攻撃への圧倒的な耐性にある。
とはいえ、遠距離からの魔法攻撃に有効な防御手段は少なく、防具や属性耐性などの対策を打たねばならない。
カイトの持つ薄青の刀はその極地とも言われており、攻撃力を捨て去る代わりに寸断した魔法を無効化する能力を持っていた。
自由の翼の利点は人数の多さだ。圧倒的な魔法の弾幕は敵の前衛が斬り込んでくる隙を与えない。
だがそれは、もし後衛の守りを疎かにして敵の前衛に踏み込まれてしまうと一瞬で戦線が瓦解してしまう弱点にもなり得る。
「第一目標に集中しろ! 敵を分断する形で弾幕を広げるんだっ」
戦力差を覆す方法は用意してある。
クロが一度リュミエールへ戻り、二面作戦で説得している筈のプレイヤー達を引き込めば形勢は即座に逆転するだろう。
けれど、増援を呼ぶ前にセシリアを奪還する必要があった。
数百人規模の増援を前にすれば帽子屋でなくとも迷わず即時撤退を選ぶだろう。その時にセシリアを一緒に連れていかれるわけにはいかない。
人質にされた時点で自由の翼は一切の手出しが出来なくなる。
今はまだ帽子屋が有利を確信しているから取引材料でもあるセシリアに手を出していないだけだ。
だが、圧倒的不利に追い込まれればそんな考えは吹き飛ぶ。
どさくさに紛れて三日月ウサギからアイテムを奪い、安全を確保した上でセシリアを人質に使う可能性は否定しきれない。
事態が硬直すればそう遠くない未来に自由の翼の後衛陣はMPを使い切り、戦線を離脱せざるを得なくなる。
まだMPが潤沢にある今しかチャンスはなかった。何か突破口を作らなくては。
「行ってください!」
不意にカイトの背中、守っていた後衛陣から声が掛かる。
「早くセシリアさんを助けてあげてくださいっ」
一人や二人ではない。多くの後衛達が詠唱の合間に次から次へと声を荒げる。
「任せとけ、こっちは俺達だけで何とかしてみせるからよ。クロっち、少し辛いかもしれないが行けるよな?」
もしもの時には増援を引き連れてくる役を担っている為、万が一にも敵の攻撃に晒せないクロに向けて一人の魔術師が笑いかける。
「僕は大丈夫です。だから彼女を頼みます!」
クロはそう叫ぶと、カイトに向けてありったけの支援魔法を展開して背を押す。
カイトは少し迷う素振りを見せたが、ここまで言われて黙っているわけには行かない。
「……ありがとう」
小さく呟くと飛来してきた魔法弾を斬り捨てるのと同時に展開していた防御スキルを解除、身軽になったのを確認してから雄叫びと共に敵陣へ突っ込んだ。
「お前ら敵の魔法が来るぞ。いいか、被弾しても詠唱を止めるな。痛みなんざ今だけ忘れろっ!」
無茶な要求に、しかし誰もが喜々として『応』と叫ぶ。
「クソったれ! さっきからチマチマチマチマうざってぇんだよっ!」
前衛陣の中で一際大暴れしている親方は良くも悪くも目立ちまくっており、敵陣の火力を一手に引き受けていた。
自慢の鎧でも防ぎきれずに突き抜けてきたダメージをものともせず、インベントリに蓄えたポーションで耐え続ける姿はまさに不沈の戦艦だ。
おかげで他の前衛へのタゲが薄くなっているのだが、地面に設置された魔法のせいで進軍は未だままならない。
そこへ盾を構えたカイトが雄叫びを上げながら突っ込んだ。
「ダメージは全部肩代わりしてやるっ! 全員敵陣へ突っ込め!」
展開されたカイトのスキルが範囲内に居た他の前衛を包み込む。
直後、全身を貫かれるような痛みが断続的に響いたが、カイトは歯を食いしばって耐え忍んだ。
何事かと驚いていた前衛達だが、すぐにカイトの意図を悟る。
設置魔法への恐怖が緩和された瞬間、遅れていた前衛が元の足取りを取り戻した。
「親方も行ってくれ!」
カイトの突進は幾人ものダメージに揺さぶられても止まらず、自身のスキル範囲に猛攻撃を受けていた親方すら取り込む。
これまでとは比べ物にならない激痛に顔を顰める中、インベントリから取り出したポーションを片っ端から一気に仰いで回復を優先した。
親方は無茶なダメージコントロールを続けるカイトを諌めようと振り向きざまに口を開く。
「そりゃ無茶しす……」
だが、彼の浮かべていた壮絶な表情を見てはせりあがる言葉を飲み込みこむしかない。小さな舌打ちと共に敵陣へと飛び込んだ。
「やれやれ。やはり取引はお掃除が終わらないとできそうもありませんね」
帽子屋は勢い付いた自由の翼の前衛陣を一瞥すると、セシリアの腕を引いて三日月ウサギから距離を取る。
最初から取引を完遂させるつもりなどない。
取引を行うポーズを取ったのは、敵を焦らせ無謀な突撃に走らせる為である。目論見は成功したと言っていいだろう。
「仕方ない、あの守護者には個人的な恨みもあるでござる。面倒でござるが付き合うでござるよ。それにまぁ、姫に恩義を感じていない訳ではござらん」
三日月ウサギは残念そうに帰還用のアイテムを懐へしまうと、背にかけたカタールを引き抜く。
帽子屋と三日月ウサギは数少ないレベル上限達成者だ。その戦闘力は、レベルが1低いプレイヤーと比べても頭一つ分飛び抜けている。
特に彼らが得意とする近距離での1対1は悪夢としか表現できなかった。
「邪魔でござるぅぅぅぅぅ!」
魔導師が配置した設置形魔法地帯を抜けた前衛に向かって三日月ウサギは奇声を発しながら駆ける。
彼にとって十数メートルの距離など無いに等しい。
ほんの一呼吸分で肉薄された前衛は何が起こったのか理解するより先に腹を割かれその場に崩れ落ちる。
「数が多いですね。まずは行動不能を優先して、殺すのは後回しにしますか」
隣を走る帽子屋も一対の短剣を握り、必要最小限の動きで武器を持つ両手だけを斬り飛ばしていた。
これは不味いと思った前衛が陣形を整えて迎え討とうとするものの、全く意味を成していない。
圧倒的な個人技を前になすすべもなく、あっという間に地面へ転がった。
「セシリア、こっちに来いっ!」
カイトが痛みに膝をつきながら叫ぶと、先程まで帽子屋が居た位置で立ち止まっているセシリアが僅かに顔を上げる。
「下がっていなさい。指示に従わなかったらどうなるか分かっていますね?」
しかしそれも束の間。続く帽子屋の脅しによって敵の後衛陣近くまで後ずさってしまった。
助けに行くにはあまりにも遠い。
「セシリアっ!」
カイトは必死になって遠すぎるのだと伝えようとするが、セシリアは怯えた様子でその場に蹲ってしまう。
その様子をちらりと仰ぎ見た帽子屋は愉快痛快とばかりに耳障りな笑い声を上げた。
「無駄なことを。彼女があなたの言葉に耳を貸す事などありませんよ!」
「黙れ!」
怒りに震えたカイトがメインウェポンを攻撃力に特化した長剣へ切り替える。
10人以上居た前衛はたった十数秒の間に一人残らず赤い染みの広がる地面へ転がされていた。残っているのは親方とカイトの2人だけだ。
「どきやがれっ!」
やや離れた場所で三日月ウサギと親方が互いの武器を振るい始めた。
だが、パワーファイター型の親方では回避力と攻撃速度に特化した暗殺者の動きについていけない。
「この野郎ッ! ゴキブリみたいにちょこまかしやがってッ!」
「スミス風情が粋がるなでござるっ! 括目せよ、拙者こそはKingu Of Parfekutoなり!」
三日月ウサギの攻撃速度は防御力を捨てた結果だ。親方のフルスイングが1発でも命中すればそれだけで致命傷となるだろう。
だが、この1発を的確に当てるのは想像を絶するほど難しかった。
三日月ウサギの言動はふざけたものだったが、対人戦の経験は豊富にあるだけあって回避に集中した攻撃を心がけている。
おかげで攻撃その物が軽くなり、防御にもある程度割いている親方へのダメージも抑えられていたが、ほぼ一方的な展開である事に変わりはない。
体勢を落として足を狙ったかと思いきや、次の瞬間には1歩離れた場所から強力な突きを繰り出す。
親方がそれに気付いて避けようとした瞬間にはもう片腕が避けられないタイミングで振るわれており、仕方なく頑強な籠手を纏った腕を盾にする。
しかし、三日月ウサギの装備は親方の持つ防具以上に鋭利だった。殺しきれなかったダメージが腕に赤い線として浮かび上がる。
その間、親方は一度も攻撃に移れていない。いや、今なお続いている攻撃を捌くのが精一杯で、それも完全に防ぎきれているとは言い難かった。
このまま時間を掛けられると一方的に親方が討ち取られかねない展開だ。
一方、帽子屋を相手取るカイトの戦況も芳しくなかった。
帽子屋も三日月ウサギと同じ回避力と攻撃速度特化型で、単純な攻撃は全て受け流されるか避けられてしまう。
守護者が他の前衛に有利を取れる一番の理由はダメージの反射に他ならない。
固い装甲を貫いてダメージを与えても、その一部が返ってきてしまうのでは勝ち目があろう筈もない。
しかし、ダメージの反射は文字通り、受けたダメージを相手に返すものだ。
妨害に徹して強力な攻撃をしてこない相手には有効打になりえない。
帽子屋はカイトにまとわりつき、スニークが得意とするダメージ目的ではないデバフ攻撃を繰り返すのみで、火力は背後の後衛に頼っていた。
「ご自慢の装甲でどれだけ防げるか見物といきましょうか」
反射を封じられ、ダメージを目的としない状態異常攻撃には防御スキルも効果が薄く、カイト自身の火力は低いと言わざるを得ない。
そこへ反射不能な距離からの単体攻撃魔法を浴びせかけられ、守護者としての利点を何一つ発揮できずに封じ込められている。
単独でパーティを相手に戦うのは限界があった。
「そこをどけぇぇぇっ!」
カイトは帽子屋を無視してでも魔法を飛ばしてくる後衛に向かおうとするが、そう簡単に突破できる隙を与えてくれない。
帽子屋はあらん限りの足止めスキルを連発して行く手を遮りにかかる。
「ぐぉっ」
三日月ウサギと交戦していた親方が苦しげな吐息を漏らす。貰った一発が少し深い場所を抉っていた。
片手で傷口を押さえるが、溢れる血が隙間から流れ落ちる。
もはや大勢は決したと言ってよかった。ダメージの残る身体で三日月ウサギの攻撃を受けきるのは不可能だ。
親方が最後の抵抗とばかりにあらん限りの力を乗せて斧を振るう。
しかし、それは三日月ウサギが何度も目にした手負いの獲物が最後に取る行動そのもので、完全に見透かされていた。
「追い詰められた獲物が最後の抵抗をするなんてお見通しでござるよぉぉぉっ!」
力の籠めた攻撃はそれだけ隙を生みやすい。
斧を振り切った後の胴体は無防備で、三日月ウサギは獰猛な笑みを浮かべながら今まで付かず離れずだった1歩を踏み出し、カタールを振るった。
切っ先が親方の腹部の際どい位置までを抉り取って両断する。
そのまま地面へ倒れこみ、ぴくりとも動かなくなった。
「右翼の後衛は火力を敵陣からこの守護者に向けなさい!」
帽子屋の指示によって、カイトを狙う魔法の数が跳ね上がる。もはや防ぐのが手一杯でその場から動く事などできなかった。
セシリアへはまだまだ遠い。ちらりと見えた視界の端には倒れる親方の姿が見て取れた。
このまま三日月ウサギまで合流されたら防ぐ手立てがない。
しかし既に敵陣へ切り込んだ前衛の中で満足に動けているのはカイトだけだった。
「ここまでなのかよ……っ!」
もはや減り続ける体力を維持するのも難しい。遂には盾の前で炸裂した魔法を押さえ込む事ができず地面に転がった。
「もういいでしょう。火力を敵後衛に戻しなさい」
カイトは必死に立ち上がろうと試みるが、足に力が入らずその場に崩れ落ちる。
自由になるのは腕だけで、剣を支えに上半身を起こすのがやっとだった。
それでも何とかしたくて、カイトは苦し紛れに持っていた剣を投げつける。
けれど攻撃とも呼べない動作が帽子屋に当たるはずもなく、後衛陣の近くに突き立っただけに終わった。
「寧ろよくここまでやったと褒めるべきでしょうね」
帽子屋は既に抵抗の手立てを失ったカイトの首に短剣を突きつけながらくつくつと笑う。
「一体お前達は何が目的なんだ」
「先ほど申し上げたではありませんか。運営の用意した帰還アイテムの破壊ですよ」
突きつけられた短剣を歯牙にもかけず睨んでくるカイトに、帽子屋は楽しそうに答えた。
「ならどうしてセシリアを狙った」
「物覚えの悪い方ですね。三日月ウサギの提案した交換条件だと申し上げた筈ですが」
事もなげに答えて見せた帽子屋だが、カイトはそれをありえないと断じる。
時系列が合わないのだ。
運営からの手紙には転移前に命を落とした多数のプレイヤーがいたと書かれていた。
ゲームに接続していたからと言ってこの世界に転移できたとは限らない。
帽子屋がセシリアの存在を知ったのはこの世界に転移した後、リュミエールへ調査の手を伸ばした時だろう。
だが、帽子屋はこの世界に転移した直後に帰還用アイテムを奪った三日月ウサギと邂逅している。
「お前も三日月ウサギも元の世界に帰りたいなんて思っていない。本来なら帰還用アイテムを奪い去ろうとした三日月ウサギと敵対する理由なんてなかった筈だ。にも拘らず三日月ウサギを攻撃したのは、同席していた他のプレイヤーから信頼を得る為の演技に過ぎない」
「ふむ、なかなか面白い考察ですね」
興が乗ったのか、帽子屋はいつでもカイトを殺せる状況にも関わらず続きを待った。
「演技が終わったお前はすぐに三日月ウサギと繋がりを持ったはずだ。帰還用アイテムの取引がその時に行われたんだとしたら、お前はまだセシリアがこの世界にいる事を知らない。三日月ウサギからセシリアの身柄を交換条件に出されたとしても、居るかも分からないプレイヤーを探すなんて非効率な真似をお前がするとは思えない」
「これはこれは。セシリア程ではないにせよ、中々見所のある方も居るではないですか」
カイトの証明に帽子屋がおかしそうに笑った。
「ええ、その通りです。セシリアと宝珠の交換を思いついたのは彼女の存在が知れた後ですよ。ですが私とウサギさんはそれ以前から手を組んでいる。では一つ問題です。私の本当の目的は何だと思いますか?」
分かるはずがないとでも言いたげに帽子屋が尋ねる。そしてカイトもその答えには辿りつけていなかった。
「ではこれでゲームオーバーです。さようなら、中々楽しませて頂けましたよ」
それきり話す気がなくなった帽子屋が今生の別れを告げると共に手にした短剣へ力を籠めた。
瞬間。
「貴方の本当の目的は『帰還方法を知った全てのプレイヤーを葬り去る事』です」
騒々しい戦場にも拘らず、凛とした声がハッキリと辺り一帯に響き渡った。
帽子屋がカイトの首を掻き切るのも忘れて振り返り、唖然としながらその場に固まる。
「馬鹿な……」
信じられないと言った表情で口から否定の言葉が漏れた。
夜闇に浮かぶ明かりに照らされた長い銀の髪が魔法によって生まれた風に踊る。
いつの間にか拾い上げていたカイトの長剣は小さな身体には重すぎて、本来は片手で扱うものなのに両手で持ち上げるのが精一杯。
その切っ先は確かに帽子屋へと向けられており、瞳にも明確な反抗の意志が宿っていた。
「絶対に元の世界へ帰りたくない貴方にとって、帰還用アイテムを手に入れただけでは不十分でした。『元の世界に帰る手段があった』という事実はそれだけで『希望』になりかねない。その希望がいつか第二、第三の帰還方法を見つけてしまう可能性を恐れた。だから貴方はその『希望』さえ消し去ろうとしたんです。運営からのメッセージはアセリアにしか撒かれませんでした。だから貴方はアセリアに居る全てのプレイヤーを殺せば、元の世界に帰る手段があったと言う事実そのものを闇に葬れると考えた。でも、単純に殺して回るには人数が多すぎる。そこで手始めに大した反抗も出来ない低レベルプレイヤーを騙して商品化し、外貨を稼いで居住環境を整えました。計画は順調に進みましたが、問題はレベルの高いプレイヤーです。彼らを葬り去るのは一筋縄ではいきません。そこで三日月ウサギからアイテムを取り返すと言う名目で森の中に誘い込み、味方と思い込んで油断している所をまとめて始末する計画を立てたんです。私をさらったのは、単純に私が怖かったから。違いますか」
先程までの怯えきった姿がまるで幻か何かのように思えるくらい毅然とした態度で、最初から計画を知っていたかのように淀みなく答える。
帽子屋はそれをただ呆然と聞き流す事しかできない。
「貴女は私に屈し、あらゆる意志を失ったはず……」
セシリアが本当に自分の支配下にあるかどうかあらゆる手段を用いて検分した。
ほんの数日前の彼女は確かに感情や自我を失っており、自信を持って問題ないと断言できる仕上がりだった筈だ。
にも拘らず、目の前の少女は自我どころか主人に対しての反抗心さえ取り戻している。
それはかつての、帽子屋が最も恐れたセシリアと何一つ変わっていない。
「失いましたよ。私がそうなる事で誰も苦しまずに済むのならそれで良いと思ったから。私は自分に価値があると思えない。でも、そんな私に価値を与えてくれた人が居る。フィアとリリーもそうです。貴方が2人に手を出すなら、私は他の何を犠牲にしても助け出します。それが何よりも優先すべき私の価値だからっ」
何を犠牲にしてでも優先されるべき存在。セシリアにとっての家族。その中に、フィアとリリーの二人が含まれていた。
逆らえば同じ目に合わせる。再び悪趣味な舞台装置の上で踊らされる恐怖はある。
けれど、そんな恐怖はフィアとリリーが居なくなってしまう事に比べればはるかに小さい。否、比べる事さえおこがましい。
「なるほど、泥臭いネズミ共から例の計画を聞かされたと言うところですか。いつまでも眠っていれば良いものを。……まぁいいでしょう、そちらの粛清は後で行います」
動揺していた帽子屋も時間が経つにつれて徐々に落ち着きを取り戻す。
「ですが、首輪でスキルの一つも使えない支援職が片手剣1本を手にしたところで何をしようと言うのですか?」
想定外の事態に驚きはしたが、スキルの封じられた支援職など非力な一般市民と変わらない。
今更セシリア一人が復活したところで何ができるとも思えなかった。
このまま主従の指輪で黙らせれば何の問題もない。そう思って右手を上げかけた瞬間、再び帽子屋の瞳が驚愕に見開かれる。
いや、帽子屋だけではない。
地面に転がるカイトや、どうにか顔を上げた親方に留まらず、魔法を放とうとしていた敵味方の後衛陣に至るまで、誰一人の例外もなくセシリアの行為に目を丸くしていた。
非力な支援職が不釣り合いな剣を片手に本職とやりあえるかなんて聞かれるまでもなく否だ。
セシリアだってそのくらい弁えている。
だから決して敵へ向ける為に剣を拾い上げたわけではない。
「まさか……ッ!」
何をするつもりか察した帽子屋が思わず息を呑む。
「誰でも良い、今すぐにそいつを止めろっ!」
作り物の仮面を投げ捨て、あらん限りの声で叫ぶが、突然の事態に固まってしまった味方は咄嗟に動けない。
隷属の首輪を着けている限りセシリアは人質のままだ。
外すには帽子屋の持つ主従の指輪を奪う必要がある。
だが、レベル上限達成者でもあり、Agi特化型のスニークでもある帽子屋を相手取るのは難しい。
後方からの支援火力まで揃えられてはカイト一人で相手取れる限界を超えている。
けれど、たった一つだけ指輪を奪わずとも首輪を外す方法があった。
セシリアは持ち上げた長剣の刃を自分の首に押し当てる。
カイトが攻撃に転じる時にだけ使う名剣だけあって、鋭利な刃は触れただけで首の薄皮を切り裂いた。
「……っ! セシリア、待てっ!」
何をしようとしているのかを遅ればせながら悟ったカイトが制止を呼びかけるも、素直に聞き入れるはずがない。
まるで剣を枕にするかのような形で首の後ろに添えると、そのまま身体を仰向けに倒した。
首輪を外せないのは頭が邪魔をするからだ。
なら、首その物を斬り離してしまえばいい。
圧倒的な攻撃力を持つ片手剣は、重力に従って倒れこんできたセシリアの首を寸分の狂いなく刎ねる。
途端に小さな身体の中に詰まっていたとは思えないほどの勢いで真っ赤な噴水が吹き上がった。
「セシリアッ!」
身体中に走る痛みを無視して立ち上がったカイトが駆け寄る。止めに入る者はいなかった。
敵も味方もただ呆然とその景色を眺めるだけで、いつの間にかうるさいくらい飛び交っていた魔法の応酬さえピタリと止んでいる。
「ありえない……」
帽子屋もその内の一人だった。
手に持っていた短剣を取り落としている事にも気付かず、赤く染まった地面を愕然とした面持ちで眺めながら呟く。
こんな世界だ。誰だって自分が死ぬ可能性を考えずにはいられない。
ここに訪れた時点で多かれ少なかれ覚悟はしているはずだ。
でもそれは戦いの末に殺される覚悟であって、間違っても自らの命を絶つ覚悟ではない。
そんな常識から考えれば、セシリアの行動はあまりにも異質で理解しがたかった。
誰だって死ぬのは怖いし、自分の命は惜しい。
なのにセシリアは人が持つべき生存本能を真っ向から否定した。
自分の存在が仲間の足枷になっているというだけで、いとも簡単に命すら投げだそうとする。
帽子屋は無意識に1歩分、セシリアから遠のいた。
その時彼の中の生まれた感情を一言で表現するとしたら、理解できないモノに対する純然たる恐怖だろう。
人は希望がなければ生きられず、生とは希望その物だ。
それすら簡単に投げ出すような『何か』が果たして自分の手に負えるのか。
「せ、セシリアたん! お前らさっさとヒールするでござるよぉぉぉぉぉっ!」
数瞬遅れて何が起こったのかを悟った三日月ウサギが半狂乱の叫び声を上げた。
直後、呆然としていたプレイヤー達は敵味方関係なく、言われるがままに最大限の回復魔法を発動する。
かくして、切り離されたはずの首は跡形もなく繋がった。
唯一つ変わった点があるとすれば、その首にはもう銀色の首輪が嵌められていない事だけだろう。
閉じられていた目がぱちりと開き、小さな身体が跳ね起きる。
セシリアは自らの首に触れ、冷たい金属の感触がない事を悟ると、壮絶な笑みを浮かべて持てる全支援魔法を展開した。
既に戦場の状況は把握している。親方の傷が瞬く間に癒え、倒れていた前衛達が意識を取り戻し、薄青い防御幕に包まれた。
「後衛を潰します! 私ごとで構わないから魔法急いでっ! この機を逃したら『許さない』から!」
セシリアの脅し文句によって自由の翼の後衛陣が真っ先に立ち直った。
自らの首まで断ち切って見せた彼女に『許さない』と言われて慄かないプレイヤーが居るなら見てみたい。
彼女を襲ったプレイヤーが特殊な男娼で働かされているという前例があるのだ。
何より、劣悪な形成を巻き返すには敵陣に動揺が走っている今この瞬間に賭けるしかない。
「攻撃再開しろ! 手を止めるな、急げ!」
詠唱を始めた敵陣を目の当たりにした帽子屋の後衛陣も追従する形で行動を再開する。
しかし、混乱の局地にある彼らが出来たのは今までの踏襲だけだった。
既に状況は変わり、すぐ近くに首輪を廃したセシリアが居ることを微塵も想定していない。
支援職一人くらい誰かがすぐに排除してくれると舐めてかかったツケはすぐに支払われる羽目になった。
「邪魔しないで」
後衛陣を守る守護者が聞いたのは、氷のように冷たいセシリアの言葉だった。
何のつもりだと怪訝に思った瞬間、セシリアは盾を構える守護者の身体に触れて『アルス・マグナ』を発動させる。
能力の共有によって飛躍的に能力値が上昇するのを、守護者はわけがわからないといった視線で眺めている事しかできなかった。
「これは一体なんのつもりだ!?」
セシリアは人質になっていただけで本質的には敵である。首輪と言う枷から解き放たれた今、名実共に敵へ変わったと言って良い。
にも拘らず、敵である守護者へ支援魔法を、それも最上位職である最大主教のみが許された高位支援魔法を使う意味はなんなのか。
守護者が戸惑うのは当然だろう。なにせ『アルス・マグナ』はゲーム中でも宴会芸とされていたスキルだ。
取得者が絶対的に少なく、そのスキルの仕様は十分に理解されていると言い難い。
発動中は術者が他のスキルを使えなくなるのと、ステータスが加算されるのは有名な話だが、単純な加算で終わらないことはあまり知られていないのだ。
セシリアはインベントリの中から小振りの短剣を取り出し、何の躊躇いもなく自分の腹に突き刺す。
途端に触れられている守護者の口から聞くのも耐えがたい絶叫が迸った。
『アルス・マグナ』の効果はステータスの加算ではなく、共有である。
術者と対象者は互いの能力を足しあった一つの存在になるとでも言うべきか。
そして共有しているステータスにはHPも含まれる。
つまり、セシリアが受けたダメージは守護者にも突き抜けるのだ。それも、守護者の持つ数々の防御スキルを完全に無視した上で。
「がぁぁッ! やめろ、やめてくれっ!」
のた打ち回る守護者の懇願を聞きながらも、セシリアは手を緩めない。
自分の腕を、胸を、足を、腹を。時には一度傷つけた傷口を抉るようにして何度も何度も執拗に刺し貫く。
その度に守護者の口からは絶叫が漏れた。
『アルス・マグナ』の共有は当然ながら術者にも及ぶ。
際限なく行われている自傷行為はセシリア自身にも並々ならぬ苦痛を与えている筈なのだが、それらしい様子は見受けられない……どころか、笑ってさえいた。
「こんなの、全然ですよ」
くすりと妖艶な笑みを漏らしながら自傷作業を続ける姿に形容しがたい恐怖が溢れ出す。
こんな状況で守護者が自分の仕事を完遂できるはずがない。
後衛陣を守っていたスキルが霧散し、自由の翼の攻撃を受けて目に見える形で崩壊を始める。
かといって守護者からセシリアを引き剥がそうと攻撃すればダメージが共有されてしまい迂闊に手を出せない。
有効な対策が思い浮かばず、時間だけが徒に流れていく。
次々に飛来する魔法攻撃に晒された後衛は元から低い体力をガリガリと削られ、一人、また一人と後方の森へ撤退し、片翼の陣形があっという間に崩壊する。
それを見て、セシリアはやっと『アルス・マグナ』を解除した。
身体中を苛む痛みから解放された守護者は怯えた様子でセシリアから距離を取る。
「何をしているのです! 一旦引いて体制を整えなさい!」
完全回復した多数の前衛達を抑えながら帽子屋が叫ぶものの、彼の耳には聞こえていないようだ。
「やってられるかよ……! 俺は抜ける! こんなのまともじゃねぇっ!」
壮絶な痛みの応酬は彼の心を砕くに十分過ぎたらしい。
幾らレベルが高くても、強力な肉体を持っていたとしても、中身はただの平和ボケした人間でそう簡単について来られない。
彼は手にしていた盾と武器を放り投げて身軽になると、戦火の広がっていない夜の森に消える。
大規模対人戦において必要不可欠な守護者を一人とはいえ排除したのは大きい。
これで後方に逃げた後衛陣を守る手立てがなくなり、再編成するのは難しくなったはずだ。
「馬鹿な……こんな事が起こりえるはずがないっ!」
帽子屋はセシリアに回復された前衛達を相手に剣を振りながら吐き捨てる。
その動きは今までと比べて明らかに鈍っていた。背後にいるセシリアが気になって仕方がないのだ。
想像を絶する方法で首輪を外してみせた挙句、後衛陣を一つ潰された。たった一人の支援が打ち立てた功績とは思えない。
もし一瞬でも意識を逸らせば何をされるか分からないと言う恐怖が帽子屋の中に根付いていた。
そのせいで平時なら目を瞑っていてもあしらえたであろう低レベルの前衛達をいまひとつ崩しきれないでいる。
「有象無象がこの私の邪魔をするなッ!」
苛立ちに塗れながらダガーを振るうものの、帽子屋を取り囲んだ5人の前衛達はこの期に及んで彼の攻撃速度に慣れつつあった。
今までなら胸を深く抉り取っていたであろう一撃を寸でのところで避けられる。
無理な姿勢制御のせいでバランスを崩し尻餅をつくが、背後へと回りこんでいた他の前衛の対処に駆られ追撃を加えている余裕もない。
その隙に転倒していた前衛が勢い良く立ち上がり戦線へ復帰した。
「他の前衛は何をしている! さっさとセシリアを確保しろ!」
自分が本気を出せないのは背後から睨みを利かせているセシリアの存在感ゆえだ。
それさえ払拭できれば目の前の5人に遅れを取る謂れはない。十数秒もあれば揃って無力化できるだろう。
だが、お茶会は後衛に偏ったパーティー編成を取っていた。100人近い自由の翼を残らず蹂躙するなら範囲火力が欠かせない。
互いの戦力差は十分考慮していた。当初は十二分に効果を発揮し、倍近い敵の後衛陣を完全に抑えるどころか押していた。
今でも自分の見積もりが間違っていたとは思えない。
それがたった一人の存在によって覆されつつある。
「敵の魔法で前衛陣が分断されています! こちらに近づけません!」
帽子屋の後衛陣の片翼が失われたことによって、元から多かった自由の翼の後衛が攻めに転じていた。
一発一発は大したことのない威力だったとしても、数十枚の魔法を重ねられれば高位の大魔法とかわらない。
厚い弾幕で敵の前衛の行動範囲を狭めるのは広い平地空間で行われる対人戦にとって重要な戦略の一つだ。
ならばと、帽子屋は最後の手札を切るべく伝令兵に指示を送る。
「森の中に配置した挟撃部隊を帰還させろ!」
帽子屋は自由の翼が敗走した時の為に挟撃できるよう、森の随所に伏兵を配置していた。
自由の翼が目の前の敵に集中しているところを背後から強襲すれば戦線は大きく崩れるに違いない。
自由の翼の人数は確かに脅威だ。しかし、平均レベルはお茶会と比べるまでもない。
セシリアを人質に取り、下がった後衛陣を再び纏めれば十分に押し返せる。
その時が自由の翼の最期だと心の奥で獰猛に笑った。
ややの間を置いて森の奥から人影が現れる。思ったよりも早い増援の到着に帽子屋の口角がつりあがる。
その数が10から30に増えても彼の余裕は崩れなかった。
しかし、30から50に増えるに従って表情が曇り始める。
(挟撃の為に配置していた兵は30人程度のはず。他の箇所から進入したメンバーが想定より早く事を終えて合流したのか?)
疑問に思ったものの、人数が多いに越した事はない。
だが人影が100を超えるに至って流石におかしいと5人の前衛をいなし、距離をとって様子を窺う。
そこへ血相を変えた伝令兵が駆け寄って信じられない報告を口にした。
「て、敵陣に増援あり! 規模400以上です! 抑え切れませんっ!」
その間にも自由の翼の背後には続々とプレイヤーが集結しつつあった。10が200に。200が400に。
森を埋め尽くす人の姿にさしもの帽子屋も顔を青く変える。
「なっ……。まさかこの増援は……ッ!」
「君が強引に拉致したプレイヤー達だよ」
帽子屋の疑問に、前線へ出ていたケインが手にした片手直剣の切っ先を向けながら答えた。
「大人しく投降しろ。そうすれば命までは奪わない」
幾ら高レベルプレイヤーが集まっているといえど、この人数差は覆らない。
けれど帽子屋は鋭い視線を向けた後、すぐにくつくつと笑い出した。
「まさかこの程度で勝ったつもりですか?」
「これ以上の抵抗は無意味だ。場合によっては手を下す事も厭わない」
詰んでいる現状を前にしても、帽子屋は余裕を崩さずにおどけてみせる。
「おお怖い怖い。……流石に今回は想定外の事態が多すぎました。致し方ありません、今回は譲りましょう」
しかし、ちらりと向けたその瞳には明らかな怒りと悔しさが滲んでいた。
「僕らが君を逃がすとでも?」
「個々の力で劣るあなた方は集団で動かざるを得ない。しかし我々は個でも十分に通用するのですよ。……全軍撤退! 合流ポイントへ集合せよ!」
指示と共に帽子屋はケインに向かって踏み込んだ。
攻撃を迎え撃つべく腰を落として構えるケインだったが、短剣が振るわれる刹那、見事な身体捌きで身体を反転、そのまま背後の森へと一直線に駆ける。
迎撃の体勢をとったケインは思いがけない帽子屋の動きについていけず、攻撃のテンポが二呼吸分遅れた。
「っ! インペリアル・ストライクッ!」
騙された事に気付いた瞬間、足を一歩踏み出して最大級の剣撃を森に向かって放つ。
破壊の本流が生えている木を根こそぎ砕き、膨大な土砂を巻き上げる。
土気色の粉塵が視界を塞ぐが、状況を察した一人の魔術師がに生み出された烈風によって瞬く間にかき消された。
前方十数メールは何か巨大な生物が地面から這い出し、暴れ狂ったかのような傷跡が残されている。
しかし、プレイヤーらしき人影は一つも残っていなかった。
帽子屋の言っていた通り、自由の翼が追撃をかけるならレベル差を考えある程度のパーティーを組み纏まって行動せざるを得ない。
分散して別方向に逃げていったお茶会のメンバーを探し出すのは至難の業だろう。
道中で待ち伏せされている可能性も考慮しなければならないとなれば尚更、逃げに徹する彼らに追い縋るのは難しい。
それでもこのまま見逃すわけにはいかなかった。
「全員5人以上のパーティーを組んで追撃に……」
ケインは矢継ぎ早に指示を飛ばそうとしたが、突如として声自体が掻き消える。
陸に上げられた魚のように口だけをぱくぱくと開閉しながら混乱していると、いつの間にか背後に忍び寄っていたセシリアが耳元で囁いた。
「この場では諦めてください。それより、優先すべき事柄があります」
一定時間スキルを使用できなくさせるデバフ魔法、サイレンスによって一時的に声を奪われたケインが驚きとも戸惑いとも取れる表情を向ける。
「お茶会は私達だけでなく、同時展開されていた他のプレイヤーも襲っています。眠りネズミのメンバーが中心となって対抗していると思いますが、彼らだけで押し返すのは難しいはず。ここから半数を割いて彼らの援護に向かいます。残りの半数は私とアセリアに向かってください」
「どうしてアセリアに……?」
突然のセシリアの主張にいまいち事情を飲み込めていない狩組が訝しげに首を傾げた。
「帽子屋が狙っているのは帰還方法を知ったプレイヤー全員です。高レベルプレイヤーの大部分をここへ引っ張り出してきた今、アセリアに残っているプレイヤーは中堅層で守りが薄い。私達と同じように纏めて潰すつもりでいるんです」
「なっ……」
セシリアが若干の機嫌の悪さを滲ませながら説明すると明らかな動揺に包まれる。
「今は詳しく説明している暇はないの。いいから、急げ」
しかしそれも束の間のこと。痺れを切らしたセシリアが怒気を滲ませながらポータルゲートを開くと近場にいたプレイヤーを問答無用で押し込み始めた。