気ちがい達のお茶会-10-
貴族と帽子屋の間に利害関係が成立したのであれば、自由の翼と貴族の間でも利害関係が成立するのではないか?
奴隷にしたプレイヤーの居場所を話さないように口止めされているとしても、話を聞く限り当の貴族はそれなりの俗物だ。
『接触する場』と『相応の条件』さえ用意できれば居場所を吐かせられる可能性は十分にある。
この内、『相応の条件』については自由の翼が持て余している金貨で十分に通用するだろう。
怪我の功名とでも言うべきか。
早期からリュミエールに施行された金貨の使用制限のおかげで、まだ現品が百枚以上も残っていた。
それに加えて、ケインのインベントリには金貨100枚分に相当する銀貨までもが収まっている。
事件の直前にセシリアから渡したいものがあると言われ託された個人資産だ。
「まさかとは思うけど、こういう事態を想定していたって事なのかな……」
だとしたらそれはもう予知能力だ。
ともかく、取引材料が多いに越した事はない。セシリアの采配に今は深く感謝する。
問題があるとすれば、寧ろ『接触する場』の方だ。
この作戦は帽子屋に気付かれた時点で失敗する。そうなればもう二度と同じ手は通用しないだろう。
怪しまれないよう話を持ち込むには、普段から出入りしている人物を使うしかない。
護衛を付けて屋敷に引き籠もっているという話だが、日々の仕事がなくなったわけではあるまい。
奴隷商のパトロンとして毎日のように商談や相談事が持ち込まれる筈だ。
取り扱っている商品が商品なだけあって、時には他人の耳に入れたくない話もあるだろう。
そもそも商人にとって取引履歴は非常に価値のある情報だ。
ライバル商会が『誰』に『何』を『幾ら』で『どのくらい』売り買いしたかが分かれば、より良い条件の商談を持ちかけて取引相手を掻っ攫う事もできてしまう。
例の貴族がパトロンとして重宝がられているのも、多数の奴隷商会を抱える事でこれらの情報を一手に握っているからだ。
どの貴族が、どんな値段で、どのくらいの奴隷を欲しがっているか分かれば、直接商談に赴くより圧倒的に効率的良く商品を手配できる。
簡単な相談や面談ならともかく、自分の生命線にも繋がっている情報が飛び交う商談の場に護衛を同席させるとは思えない。
古くから付き合いのある大商会から「折り入って話したい事がある」と言われれば尚更だろう。
自由の翼が理想としている『接触の場』を整えるには、例の貴族と頻繁に取引している大商会の協力が必要不可欠だった。
勿論、自由の翼に大商会への伝手なんてない。市場で食料を売っている個人商会の組合が精々だ。
けれど、経済都市とも呼ばれているリュミエールを束ねる領主様になら飛び切りの伝手がある。
半分の人間を不幸にすれば半分の人間はより幸せになれる。
この世界にとって奴隷はなくてはならない安価な労働力だ。
海なら船の動力源と荷運び、街なら貴族の家政婦や玩具、農園や鉱山なら過酷な労働者として。
常に需要が尽きず、仕入も難しくない奴隷を取り扱う商会は数多い。
そして大きな商会ほど幅を利かせ、国内外での勢力範囲を広げている。
リュミエールの領主であるグレゴリーと、奴隷商のパトロンをしている貴族。双方に深い関係を持つ大商会が必ずある。
ケインがグレゴリーの元を訪れたのは、その伝手を紹介して貰うのみならず、口添えを貰う為だ。
儲け話とあれば飛びつくのが商人だ。
形ある物だけが商材として使える訳ではない。
仮に『捕まった人達の居場所を聞き出してほしい』と馬鹿正直に頼んだとする。
何も重大な機密情報を掴めと言っている訳ではないのだから、相応の金貨を積むだけで喜んで引き受けるだろう。
だが、彼らは決して無能ではない。儲け話には飛びつくが、同時に保身を考えられるだけの頭があるのだ。
自由の翼からの取引に感じたきな臭さを自前の情報網で洗えば、奴隷の仕入れ関係に当たる貴族と帽子屋の関係も浮かび上がる。
歴戦の商人ならば、『自由の翼が奴隷の居場所を探している』という情報を手に帽子屋へ取引を持ちかけるに違いない。
不測の事態が起きた時、とばっちりを受けないようにするには、予め情報を渡した『協力者』になるのが一番手っ取り早いからだ。
大商会の裏切りを防ぐには『こいつを裏切っても自分達が損をするだけだ』と思わせるしかないが、今の自由の翼にそれだけの権力や地位はない。
方法があるとすれば、リュミエール領主からの口添えだけなのだ。
大都市の領主に不評を買えば領内での商売が絶望的になるだけでなく、領内を通る物流網も全滅する。
場合によっては大商会と繋がりのある商会に手を回し、圧力をかけて孤立させる事さえ不可能ではない。
そうなれば待っている未来は破滅の二文字である。
ただし、これはグレゴリーにとってもリスクのある行為だ。
前述の通り、この世界は奴隷なしでは成立し得ない。
限りなく低い可能性とはいえ、もし仮に大商会が手を組んで取引を打ち切られれば顔を青くするのはグレゴリーの方になる。
現在、友好的な取引が続いているのであれば、自由の翼の計画はデメリットしか生まないのだ。
それでもなお、グレゴリーが頷くようなメリットを無理のない範囲で提示するのがケインの役割だった。
あまり下手に出過ぎると過剰な要求を呑まされ、その負担は少なくなったメンバーに降りかかる。
かといって、あまり厳しく制限しすぎると話自体がふいになるかもしれない。
交渉は1度きり。もし2度目の交渉に挑めば自由の翼の不利を悟ったグレゴリーは要求を突き上げる。
互いに妥協できるギリギリのラインを、たった一度の交渉で見つけ出さなければならない責任はケインの肩に重くのしかかった。
善は急げと言うし、今は一秒たりとも無駄にできない。
太陽はとっくに山の向こうへ沈み、月が真上から見下ろすような遅い時間にも拘らず、領主邸へ面会を申し出たケインは意外なほどすんなりと応接間へ通してもらえた。
以前に一度、顔を合わせていたのが効いているのかもしれない。
しかし侍女の案内を受けて廊下を歩く最中、今度は胸を締め付けられるような不安に駆られた。
思い余って飛び出したは良い物の、どうやって交渉すべきか考えたとはいえ不安も残る。
ここで失敗してグレゴリーからの協力を取り付けられなければ作戦そのものが成り立たなくなるのだ。
現代で数え切れない程の会社に商談を持ちかけた経験があっても、今この瞬間に感じているほどの緊張は味わったことがない。
それも当然だろう。現実ではもし万が一失敗したとしても、『今回はご縁がありませんでした』で済むのだ。
この商談が決まらなければ会社の存続が危ういなんてドラマチックな展開はそうそう転がっている筈もないのだが、今こそまさにその時なのだろう。
(彼女はずっと一人でこれを続けていたのか……)
凄いとは思っていたが、所詮は思っていただけで、実際に体験してみなければその苦労も重みも理解できない。
自由の翼がここまでやってこれたのは間違いなく彼女のおかげだ。
だからこそ、この会談だけは絶対に失敗できないと決意を新たにする。
「こちらです」
侍女が深く一礼してから扉を開けた。奥のソファーにはグレゴリーが腰掛けて、湯気の立つ紅茶を楽しんでいる。
セシリアが何も分からない手探りの状態から交渉しなければならなかったのに対し、今は友好な関係を築けているのだ。
ケインは大きく深呼吸してから大丈夫だと自分に言い聞かせ、覚悟を決めて足を踏み出した。
「こんばんは。領内に出現した魔物の討伐が無事終わったと先程連絡を受けたよ。領主として君達に感謝する」
「いえ。当然の事をしたまでです」
頭を下げたグレゴリーの顔は穏やかで、こうしてみると好意的な青年にしか見えない。
「それで、今日はその報告かな? それとも、何かトラブルでも?」
けれど、ケインを見つめる瞳は穏やかな表情に似つかわしくない鋭さを持ち、まるで一挙一動を監視されているかのように思えた。
……いや、実際にグレゴリーはケインを注意深く観察している。
例えば、先の質問に関する反応。
前者の質問には無反応だったのに対し、後者の質問には少しだけ前のめりになったのを、グレゴリーは見逃していない。
「領主様のお力添えを頂きたいのです」
予想通りの返答だったが、グレゴリーは素知らぬ顔で「ふむ」と思案顔になる。
こんな夜更けに何の連絡もなく突然会いたいと押しかけてきた時点で、火急の用件があるのは目に見えている。
グレゴリーはそんなケインをほんの少し試したくなって、内容を話すより先に尋ねてみる事にした。
「それはあの少女に関係する事かな」
たったそれだけで、ケインの表情が分かり易すぎるくらい変化する。
グレゴリーが以前会った時、ケインは会談へ殆ど参加せず、ソファーに腰掛けているだけだった。
それ以降も、グレゴリーとの交渉に参加したのは全てセシリアでケインは同席すらしていない。
普通に考えれば、交渉の領分はセシリアが担当しているのだと分かる。
にも拘らず、今日はどう見ても慣れていないケインがやってきた。
セシリアに来れない理由が出来たのだと考えるのが妥当な線だろう
もし不在なのだとしたら、有利な交渉を進める絶好のチャンスかもしれない。
しかしそんな思惑は、予想だにしなかったケインの一言で見事に打ち砕かれた。
「多数の仲間が拉致されました。その中にセシリアも含まれています」
ケインとて、何も考えなしにこのような発言をしたわけではない。
精一杯考えた上で、ありのままを話す方が良いと判断したのだ。
グレゴリーが自分に向けている、猛禽類を思わせる視線には見覚えがあった。
思い起こせば、セシリアと最初に出会った時に向けられた視線と大して変わらない。
ケインから見て、セシリアの交渉術は魔法と言っても過言ではなかった。
そんな彼女と同じ眼つきをしているグレゴリーも、セシリアと同じくらい交渉に長けているのだろう。
吹けば飛ぶような弱小企業の自分と、国にも匹敵する地方都市を運営する彼では場数からして違うのだ。
自分の言葉が相手にどう影響するかを知り尽くした上で、言葉以外の部分から情報を集められるような化け物相手に、不慣れな自分が対抗しようと思うこと事態、既に間違っている。
何か嘘を混ぜてもすぐに露見して、悪い結果にしかならないのは目に見えていた。
ならば出来るだけ正直に、その上で協力してもらえるような条件を整えるしかない。
ケインの言葉はグレゴリーにとっても衝撃的だった。
少なくとも、人の良さそうな笑みが崩れ、交渉中にも係わらず一瞬とはいえ人前で呆然と口を開けてしまった程度には。
そしてその豹変は人の表情を読むのがあまり得意ではないケインにも余すことなく伝わっていた。
「詳しく話を聞こう。犯人は分かっているのか?」
平静を装って尋ねるが、その視線に先程のような鋭さはなくなっている。
グレゴリーにとってもセシリアは重要な存在だ。
自由の翼との交渉窓口と言う側面以外にも、彼女はグレゴリーとリュミエールについて知り過ぎている。
「犯人に目処は立っていますが、監禁場所を掴めていません。そこで領主様のお力添えをお願い致したく思います」
「兵を出して欲しいという事かな?」
「いえ。我々の戦力は領主様も御存じでしょう。居場所さえ掴めればすぐにでも助け出す準備があります。ただ、少しばかり事情がありまして……」
セシリアの重要性が確認できた事で、ケインはその後の話に小さなブラフを織り交ぜる。
連れ去られた自由の翼のメンバーとセシリアが同じ場所に監禁されているとは思っていない。
しかし、ありのままを伝えればグレゴリーに助力を乞う材料が失われてしまう。
グレゴリーにとって重要なのはあくまでセシリアただ一人だ。
彼女はリュミエールの機密事項に関する情報を熟知しすぎている。
当のグレゴリーも、セシリアがリュミエールの機密や情報をどこまで掴んでいるのか把握しきれていないのだろう。
知っている風を装ってブラフに掛けた事もあると以前本人が話していたのを何となく覚えていただけだったが、この様子では相当買い被られているらしい。
『自分にとって都合の良い情報を相手に刷り込む』技術はネカマに必要不可欠な能力だと熱く語られたのが、まさかこんな形で役に立つとは。
内容があまりにも『アレ』だったので半分以上聞き流してしまったのをほんの少しだけ、爪の間くらい後悔する。
「……なるほど。確かにその貴族と仲のいい大商会を知っている。というより、アセリア本部の商会長とは個人的な顔見知りだ。有能な人材と関係を築くのも領主の責務だからね」
事情を話し終えた後、グレゴリーは唸り声を上げてからそう告げた。
「しかし、私が特定の奴隷を探していると知られるのは困る」
グレゴリーの口は重かった。大都市の領主という立場は軽くない。弱みを握ろうとする人間が常に徘徊しているのだ。
権力者が特定の奴隷に強い興味を示せば、理由を知りたくなるのが人の性。
とりあえず確保して交渉材料に使ってみようと思われても不思議ではない。
厄介なことに、当の大商会はその情報を集められるだけの力を持っている。
真実に辿りつくかは別として、あちこち探りまわられるのは面倒だ。
「いや……。幸いセシリア嬢の外見は飛びぬけてる。そっちの目的で探していると言えば説明は付く、か……?」
独り言のように呟かれた内容に、今度はケインが目を剥いた。
帽子屋の言い分からして、セシリアは個別に監禁されている。名指しで個人を探されても見つかる筈がない。
「お言葉ですが、セシリアの外見は目立ち過ぎます。場合によっては領主様の屋敷へ何度も足を運んでいたと探り当てられるかもしれません。そう言った目的で欲しているだけなら、領主様はいつだって手に入れられた筈です。何か裏があるのではないかと、領主様に関する情報を喋らせようとするのではないでしょうか。……いえ、領主様に気に入られていた人物だと言うだけで、そうしない理由がありません」
咄嗟に思い付いた言い訳を、緊張から早口でまくしたてる。しまったと思った時にはもう遅かった。
意図を掴まれたのではないか、怪しまれたのではないか。
心臓が早鐘のように脈打つのを必死に宥めながらグレゴリーの表情を伺うが、彼は小さく「ふむ」と頷くに留まる。
「確かに、その可能性は高い。君達は無害そうな顔の裏に何を隠し持っているかさっぱり分からんな。やはり侮るわけにはいかなそうだ」
できればそのまま侮っていてくださいと心の中で強く思ったが言えるはずもなく、曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
「仕方ない、危険性については飴で賄う他ないか。アセリア付近へのポータルゲートもあるんだろう? 報告で聞いたよ。使えるのは彼女だけじゃないらしいとね。首都の貴族が耳にしたら盛大に腰を抜かすだろうな」
狩組をすぐに街へ戻す為、プリーストのクロは大々的にポータルゲートを使った。
多聞に漏れず、グレゴリーはこの情報も手に入れていたらしい。
「ええ、あります」
「それなら私が直接赴こう。今夜中には準備を進めるから、明日陽が登りきる前にはここを発てる。ただし、あくまで私は同席して口添えするだけだ。交渉自体は君達で進めるように」
想像以上の結果にケインは大仰な感謝を述べると、グレゴリーは満足げにそう言った。
口添えをして貰うだけに留まらず、同席までしてくれると言うのは大きなアドバンテージだ。
交渉は自分達でしろと言っているが、隣にグレゴリーが居てくれるのであれば相手も無下にはできないだろう。
とにもかくに、第一関門を無事突破できた事にケインがほっと胸を撫で下ろした、瞬間。
「それから、私が使う飴の対価も後で回収させて貰うよ」
続くグレゴリーの温かい言葉に、胃がズキリと痛んだ。
今夜は寝る前に回復を頼んだ方が良いかもしれない。
ギルドに戻ったケインは経過を報告すると共に、明日の交渉に参加するメンバーを選考する。
顔が知れているケインとカイトは勿論の事、ゲーム内で有名だった親方、ユウト、リディアの3人も参加できない。
高レベルの狩組も顔が割れている可能性を考え除外する。
残ったメンバーの中から最低限の礼節を弁えた上で交渉にも長けている人物を選ぶとするなら、食材の購入を担当していた元横領組以外にありえない。
彼らは過去の遺恨を清算する機会に色めき立った。
その晩は一睡もせずに意見を出し合い、最終的に選抜された3人がグレゴリーと共にアセリアへ向かう事になる。
ギルドが用意できた資金は金貨に換算すると218枚にも及ぶ。
大商会の総資金からすれば微々たる金額かも知れないが、たった一つの取引で動く金額としては明らかに異質だった。
「出し惜しみはしなくていいよ。交渉が纏まるなら使い切っても惜しくない」
ケインの言葉に3人は大きく頷く。稼ぐ為の交渉ではないのだ。最初から安く済ませるつもりはない。
「ご安心を。昨日は一晩中金貨なしで取引を纏める算段をしてたんですから。その上でこれだけの手札があるなら失敗はありえません」
「必ず取り纏めて帰ってきます」
屋敷にやってきたグレゴリーを部屋に案内し、クロがアセリア行のポータルゲートを展開する。
出現地点が監視されている可能性を考慮して昨日の内に位置を変えておいた。
出来上がったゲートをまず始めに3人が進み、グレゴリーと補佐の執事が緊張した面持ちで続く。
「……頼んだよ」
薄れていく扉に向けて、ケインは小さくそう漏らした。
城壁に程近い草原に転送された一行は城門の検問をグレゴリーの権限で平伏させてからタクシー代わりの馬車を拾う。
窓から見える牧羊的な田園風景がゆっくりと穏やかに流れているのに比べ、馬車の中ではグレゴリーを交えながらの最終調整が進められており、チリチリとした緊張感に包まれていた。
3人は昨晩から一睡もしていないというのに疲れた様子一つさえ見せずにいる。
濃密な調整が終わり、馬車が商会本部へ辿り着く頃には陽がほぼ真上へと昇っていた。
グレゴリーの威光と権力は領内ではないアセリアにおいても大きな意味を持つらしい。
商館の受付嬢に名前を告げると顔色を変えて別室へ通された。
床には踏むのを躊躇うくらい見事な刺繍を施された絨毯が敷き詰められ、勧められたソファーも身体が沈み込みそうな程柔らかい。
頭上に吊るされた豪奢なシャンデリアには数十もの蝋燭が立てられ、それを包み込むように作られた細やかな硝子細工には淡いオレンジ色の光が地面へ向けて反射するよう調整までされている。
大きなテーブルも無垢の樹を削りだして作られた一点物だろう。
この部屋に置かれた調度品はどれも製作者の意気込みが籠められた"本物"ばかりだった。
現代でもそうはお目に掛かれない品々に、こうした商材を取り扱う職業についていた一人が感嘆の溜息を漏らした。
どう考えても特別なお客様だけが通されるVIPルームである。
「気に入って貰えたようで何よりですとも」
不意に背後の扉が開き、4~50代と思しき初老の男性が朗らかな笑顔を浮かべて言った。
「相変わらず素晴らしい趣味ですね。これ程の品々はリヒター会長でなければ揃わなかったでしょう。こちらの硝子細工など、一体どこから仕入れたのですか?」
「おぉ、流石はグレゴリー伯ですな。こちらはつい先日、遠い島国から買い付けた物でしてね」
呆気にとられた3人を差し置いて、グレゴリーは笑顔でコレクションの感想を述べる。
「形も素晴らしいが、なにより素晴らしいのはこの透明感の際立つ赤色ですな。一体どのようにしてこの色を生み出したのか……」
花を模した硝子細工には花弁の中心部から外側に向け、透き通るような赤色のグラデーションが施されており、息を呑むほど美しかったが、いつまでも蚊帳の外で見惚れている訳にはいかない。
自分達はグレゴリーの付属物ではないのだ。少しでも会話に混じり顔を売らなければ。
「金を使って色を付けたのだと思いますよ」
硝子細工に詳しい一人が美術談義に花を咲かせている2人に割り込む。
背後から突然かけられた声に驚きつつも振り返ったリヒターは、全身を舐めるように眺めまわした後、訝しげに眼を細める。
「金、ですとな。しかし、あれを溶かすには高い温度が必要で硝子の着色には向かないと聞いておりますが……」
「ええ。ですから既存の製法とは材料からして異なるのです。ガラスの製造に特殊な砂と植物の灰か……もしくは灰を加工して作った白い粉を使っていませんか?」
「お詳しいですな。確かに仰る通りの材料を使っておりますとも」
一口にガラスと言っても、材料となるケイ素に混ぜた物質によって幾つかの種類に分けられる。
有名なのはケイ素を含んだ砂と灰を混ぜ合わせて作られるソーダガラスだ。
ケイ素は灰の中に含まれている炭酸カルシウムや炭酸ナトリウムと混ぜ合わせる事で融点が下がり、加工しやすくなる性質を持つ。
最も原始的かつ初歩的な製法であり、メソポタミア文明の頃から使われている。
現代でも製造コストの低さからこの製法が爆発的に普及しており、日常生活で触れる硝子はほぼ全てソーダ硝子と言っても過言ではない。
ただ、ソーダ硝子は他の製法と比べ、透明度に劣ると言う欠点もある。
別に濁って見える訳ではないが、赤い花を模した硝子細工のような透明で煌めくような光沢を持たないのだ。
「こちらの花の硝子細工は他の硝子細工に比べて透明度が段違いですよね。これはクリスタルガラスを使っているのですよ」
クリスタルガラスは酸化鉛と炭酸カリウムを混ぜて作られる為、鉛ガラスとも呼ばれる。
屈折率が高く、透き通るような透明感と美しい光沢を持ち、適切にカットすればイミテーションジュエリーとしても通用する。
そして何より、金を使って赤色を表現できるのはこの鉛ガラスだけなのだ。
「それから、金の融解には熱ではなく特殊な溶媒で溶かした水溶液を使います。金を使った赤色の発色には温度管理も必要で、具体的には特定の温度まで加熱した後、冷却してからまた再加熱する必要があるんです」
すらすらと飛び出す専門的な解説に、リヒターはただ目を丸くして聞き入っている。
「ふむむ……。失礼ですが、お名前を拝借して宜しいですかな。出来ればその話、もう少し詳しくお聞きしたい」
いつの間にか彼の瞳は『コレクター』から『商売人』へと色を変えていた。
ぶらさげた餌に食いついたのを確信する。
交渉材料に使えるのがお金だけとは限らない。特に大商会ともなれば扱っている商品の幅も広い筈。
そう考えた元横領組は、現実世界で職人だったプレイヤーからこの世界でもウケがよさそうなジャンルの職人を選抜したのだ。
プレイヤーにとっては何の変哲もないただの硝子でも、この世界では貴族がこぞって買い集める高級品である。
原材料となるケイ素を含んだ砂はともかくとして、炭酸ナトリウムやカルシウムを生成するのに膨大な手間が掛かるからだ。
現代でも硝子が一般に普及するには、ソルベー法の確立によって大量の炭酸ナトリウムが安価に製造できるようになるのを待たねばならなかった。
中でも透明度の高いクリスタルガラスは未だ製法が発見されておらず、手に入れるには遠い異国の地で探し回る他ない。
貴族が集うオークションでは小さな硝子細工一つに城が建つような金額が付けられたこともある程だ。
もしもクリスタルガラスの製法を確立できれば途方もない利益が生まれる。
たとえ嘘だとしても聞いてみる価値があるというのに、彼は職人の間で秘匿されている筈の材料や製法を知っていた。
リヒターが大商会の会長に就いたのは随分と前の事になるが、未だ一人の商人としての感覚を失ったわけではない。
目の前に転がり込んできた儲け話を黙って聞き流すなどできるはずもなかった。
「歓談中のところ失礼。今日ここに来たのは他でもない、リヒター会長に相談したい事があるんですよ」
興奮気味に迫って来たリヒターをグレゴリーが横からやんわりと抑え込む。
「おお、そうでしたな。これは失礼致しました。皆様こちらへお座りください。ですがこの話が終わった後、彼から色々と聞かせて頂きますぞ?」
リヒターが悪戯っぽく笑ってから席を勧めると、丁度良い所に給仕がやってきて人数分のお茶を並べる。
話の雰囲気が整った所で、グレゴリーは念の為に懐から一枚の紙を取り出し魔力を込めた。
薄い魔力が膜状に部屋へ展開されると同時にリヒターの顔付きが険しく変わる。
「勿論、こちらの商会に内通者が居るとは思っていませんが、少々重大な案件でしてね」
「いえ、耳が何処にあるか分かりませんからな。対策を講じるのは当然です。私が気になったのは、グレゴリー伯がここまでなさる話の中身の方です」
「正確には僕から何かをお願いしたい訳ではないんです。今日はあくまでこちらの方々の口添えという立場ですからね」
貴族や大商会が集まる社交場で意気投合した……と言うより互いの利害関係が一致したグレゴリーとリヒターの間には個人的な親交がある。
グレゴリーがアセリアに訪れた際にはよくリヒターの元を尋ねたし、リヒターも商談や買い付けでリュミエールに寄った時はグレゴリーの元を訪れる。
リヒターはてっきり、今日もそうした友人としての来訪だと思っていたのだ。
なにせリヒターとグレゴリーが直接、何らかの取引を行った実績はない。
仲の良さを演出し、何か問題が起こっても解決に協力してくれそうな雰囲気を醸し出せば、リヒター傘下の商人はリュミエールとの取引を活発化させる。
逆に2人が何らかの取引をしてしまうと、どちらの条件がより有利だったか議論を始め、以後の取引に影響を及ぼす可能性があった。
だから暗黙的に2人は今まで取引らしい取引を行っていない。
グレゴリーもそのスタンスを崩せなかったからこそ、同席するだけで自由の翼に交渉を任せたのだ。
「ふむ……。君達がグレゴリー伯をここまで動かしたのか……。分かった、要件を聞こう」
リヒターの目線が鋭さを増し、腰かけている3人の顔をそれぞれ真正面から射抜く。
勿論、それを恐れるような3人ではない。寧ろ望むところだとばかりに考え抜いた口上を話し始めた。
事情の説明に30分。こちらからの要求に30分。計1時間にも及ぶ提案を、リヒターは眉一つ動かさずに最後まで聞き届けた。
「ふむ……。確かにバロン卿とは密に連絡を取り合う商売仲間ですな。我が商会でも奴隷を専門に取り扱う部署がありますので、バロン卿の持つコミュニティやコネクションなしでは立ちいかない。そしてあなた方はそれを裏切れと言っているに等しい」
当然、リヒターが良い顔をする筈もない。
ここら一帯の奴隷商を纏め上げるバロンは商会にとって頭の上がらない相手だ。
万が一、これまでの相談内容や取引履歴を公開されれば奴隷を扱う部署がまるまる潰れかねない。
「では、我々の被るデメリットに見合うだけの対価をお聞き致しましょうか」
けれどやはり、彼は根っからの商人だった。
条件次第では世話になっている相手に足を向ける事さえも厭わない強かさを兼ね備えている。
「もし情報を聞き出して頂ければ金貨で200枚分。例の貴族への袖の下が必要な場合はこの中から捻出して頂く形になります」
わざとらしい駆け引きをするつもりにはなれず、3人は最初から全力を提示した。
仮にも大商会の頭だ。金貨一枚二枚程度の安い交渉をすれば商会の名に傷がつく。
「ふむ……。確かに情報一つ分の対価としては余りにも過ぎますな。何か裏があるとしても、話せる内容ではなさそうだ」
何も不正の証拠を掴んで来いと言われたわけではない。
過去に取引した奴隷の居場所が明るみになってもバロンに不利益はない筈だ。
口を軽くする為に報酬の半分を渡したとしても金貨100枚分のボロ儲け。こんな美味い話はそうそう転がっていないだろう。
けれどリヒターは気難しそうな顔で腕を組み、唸り声を上げる。
3人の素性とバックに付いたグレゴリーの思惑がどうしても気になるのだ
交渉には参加しないというスタンスを取っているが、口添えだけなら手紙一枚持たせるだけで十分だったはず。
わざわざ本人が出張ってきた挙句、同席してプレッシャーをかけている時点で口添えよりも脅迫の方が近い。
もし断ってリュミエールとの関係が悪化すればバロンからの不興なんぞとは比べ物にならない被害を被る。
こうして会議に同席された時点で、最初から断る選択肢は奪われたも同然だ。
今回は恩を売っておいて、今後の取引に何らかの便宜を図って貰うつもりではいるものの、グレゴリーがここまで必死になる理由を探っておいて損はない。
転んでもタダでは起きないのが商魂なのだ。
バロンが関係している確証がなければここまで強気の金額を提示できまい。
犯人の目処が立っているのに公的機関へ直訴しないのは表沙汰にできない理由があるからだろう。
少なくとも、彼らが探しているのはただの奴隷ではない筈だ。
そこまで思い至ったところで、リヒターは最近よく耳にする噂話を思い出した。
奴隷にできるのは犯罪者、借金を返せなくなった破産者、戦争で捕虜になった者、奴隷から生まれた子のみと定められており、野盗を雇って僻地の集落を襲い、拘束した住民を奴隷として売りさばくといった行為は発覚次第極刑に処される。
ところがバロンはこの取り決めを犯し、組織的に誘拐した人間を奴隷として売り払っているらしいのだ。
勿論、根も葉もない噂話である。
組織を結成する費用、誘拐した人間を売り払う相手。
関わる人数が多くなればなるほど露見する確率は高まるし、万一誰かに情報を掴まれれば弱みになる。
こんなハイリスクを犯して人一人を誘拐したところで、売れる値段など高が知れているのだ。
少しでも商売を齧った事があるならば利益にならないとすぐに分かる。
例外があるとすれば、相手にそうまでする価値がある時だけだ。
そしてリヒターはその片鱗をつい先程見せつけられた。
商業都市でもあるリュミエールには国外からの来訪者も多い。その中には異国独自の技術を習得した職人もいる。
バロンはリュミエールにやってくる異国の職人を誘拐したのだろうか。
だとすれば、異様なほど硝子細工に詳しい目の前の男にも説明がつく。
どちらにせよ退路はないのだ。ならここは、彼らに一枚噛んでおくべきだろう。
「分かりました。この話、謹んでお受けいたしましょう。丁度明日、バロン卿に会う約束を取り付けています。……ただ、私からも一つお願いが。彼の持つ知識をお借りできませんか?」
彼らはそれを二つ返事で引き受ける。
「工房と材料はありますか? もし宜しければ職人の方々に助言できることが2つ、3つくらいならあるやもしれません」
現代世界の技術は時に金貨よりも大きな価値を持つのだ。
発達しきっていた現代と違って、この世界にはまだまだ改善の余地がある。
名のある大商人にとって、目の前の有限の金貨よりも無限の利益に繋がる情報の方が嬉しいに違いない。
「それから、もし情報を手に入れた暁には我々の所有する様々な知識や技術を余す事なく提供する準備があります」
その一言でリヒターの顔色が変わった。
「なるほど、分かりました。此度の成功を『お約束いたします』」
信用が全ての商人は決して出来ない約束をしない。
がっしりと握手を交わした後、それぞれの思惑を胸に笑い合った。
翌日の会談に3人は同席しない。
見慣れぬ連れが居れば余計な詮索をされる上に口が堅くなるかもしれないからだ。
案内された工房で本来なら数十年分は試行錯誤が必要な技術を実践しながら待ち続ける事1日。
リヒターは約束通り、バロンからプレイヤーと思しき奴隷の居場所を聞き出した。