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World's End Online  作者: yuki
第四章 それぞれの想い
63/83

気ちがい達のお茶会-5-

 カイトに言伝を頼んだセシリアはその足で領主邸に駆け込む。

 魔物を召喚できる魔法があると信じて貰えるか不安だったが、グレゴリーはすんなりと受け入れた。

 どうやらこの世界にも召喚術は存在するらしい。

 ただし、害を成す魔物を従えると言う性質上忌み嫌われており、弾圧や差別が絶えず、自暴自棄になったり、行く当てがなくなった術者が犯罪へ走ってしまうケースも多い。

 そのせいでさらに世間の目が冷たくなっているのだが、どうしようもない問題だろう。


 セシリアの提言は全面的に受け入れられ、すぐに早馬が用意された。

 一緒に向うべきか迷ったが、銀狼(シルバーウルフ)は狩組が連れて出ている。

 馬に乗り慣れていない方が付いて来ても足手纏いにしかならないと言われては見送るしかなかった。

 狩組がここを発ったのは朝日が昇り始めた頃。既に5時間近くも前になるが、全速力で向かえば3~4時間で十分追いつけるだろう。

 今はただ、連絡を受けたケインが戻ってくるのを待つほかなかった。


「さて、火急の件は済んだわけだが、君には2、3聞きたい事ができた」

 途中で襲われる可能性を考慮して5人の早馬を別ルートで送り出した後、グレゴリーは当然のように説明を要求する。

「どうしてケルベロスが召喚術によるものだと思ったのかな」

「あー、えーと、それはですね、何と申しますか……」

 協力し合える間柄になったとはいえ、プレイヤーの事まで教えるつもりはない。

 グレゴリーとは利害関係の一致に基づく同盟でしかないのだ。

 けれど、ここまで話しておいて何も説明しないのは難しい。


「そう、(攻略)本で見たことがあるんです。召喚術について纏められていて、呼び出せる魔物の種類とかも詳しく書かれていました」

「なるほど、魔術書か。相当大金を積まないと手に入らないと聞くが、君なら或いは……」

 咄嗟に飛び出た嘘とは言い切れない言い訳だったが、思い至る節があるようであっさり納得する。

 一族の秘伝でもある魔法を研究の為に解析し、書籍として公表する酔狂な魔術師も居るのだ。

 それらは一般的に魔術書と呼ばれ、著名な研究者の原本なら都市に豪華な屋敷が建てられるくらいの値段になる。

「でもそれでは不十分だ。自然発生した可能性を考えなかったのは何故だい?」

 しかし、それだけでは説明できない部分が残っている。グレゴリーの詮索には余念がなかった。

 こうなっては仕方がない。真実を織り交ぜつつ、肝心な部分は嘘で塗り隠すしかないだろう。

 作り話をすれば必ずどこかで矛盾が生じてボロが出るものだ。


「……魔物の生態系を調査している学者さんと繋がりがあるんです。本来の生息地はここよりずっと大陸側で、湿った洞窟を住処にします。温暖で乾燥しているリュミエールに遠出したとは思えません。何よりケルベロスは群れで行動しますから、単体で出現する例は殆どないんです」

 高度な知識は全て架空の存在Xからもたらされたことにすればいい。

「それは、凄いな。もし良ければ、いや、是非とも引き合わせて欲しい! リュミエールの生態系も把握しているのかい? まさか森の中の生態系も? そういえば個人で研究を続ける凄腕の学者も居ると風の噂に聞いた事があったな。法螺話だろうと思っていたが真実だったのか……」

 そんな酔狂な人間が居たら見てみたい。

 文明が発達して組織的に調査できるならともかく、個人の力で調べられる範囲なんて限られている。

 怪しまれるかと身構えていたのに、グレゴリーの食いつきっぷりは半端なかった。


 魔物の生態系を調べるのは、他人の領土を調べるのと変わらない。

 本来なら王家が率先して取り組むべきなのだろうが、領土を勝手に調べられるのは面白くないと多くの貴族が反対した。

 痛くない腹なら勝手に探らせれば良いのにと思うなかれ。

 潰したい貴族の領地へ魔物の生態調査を理由に入りこみ、不正を捏造される可能性だってあるのだ。危険な芽は予め潰しておくに限る。

 領地を自由に調べられるのはその土地を治める領主だけ。

 ならば彼らに調査して貰うしかないと、王家は領主に領内の魔物の生態系を報告する義務を課し……見事に形骸化した。

 適当な報告書を提出されても王家は正しいかどうか検証する術がないからだ。


 とはいえ、王家だって馬鹿ではないのだから報告書が適当だって事くらい理解している。

 にも拘らず取り締まらないのには理由があった。

 魔物の生態を調査するには当然、彼らの住処へと足を踏み入れる必要がある。

 ちょっと調べたいから襲わないでね、なんて話が通じる筈もなく、縄張りを侵された魔物は問答無用で襲い掛かってくる。

 激しい戦闘が繰り広げられ、死傷者が相次ぐのも当然の流れ。

 触らぬ魔物に敵意なし。住処に足を踏み入れさえしなければ魔物だって襲ってこないのに、わざわざ自分から踏み込んで犠牲を積むなんて馬鹿馬鹿しいにも程がある。

 その他にも調査に必要な兵力やら、兵糧やら、給料やら、治療費やら、挙句に死んだ者への弔慰金も必要になるのだ。

 一銭の価値にもならないどころか丸々大損するだけの調査を一体誰がやりたがると言うのか。

 自費で賄うには多過ぎる金額だし、かといって王家が費用を負担してくれる筈もない。

 もしそんな事をすれば1年と持たず国庫は空っぽを通り過ぎ、借用書の山がうず高く積まれる事になるだろう。


 王家も制度が抱える根本的な問題に気付いたのだが、既に義務化を告知した後。

 今さら「よくよく調べたら採算が合わないので止めます」なんて言い出せば面子に関わる。

 結果、領主からの適当な報告書を王家が分かっていながら受領する杜撰なお役所仕事へと成り下がった。

 世の中に無駄は存外多いのである。

 

 しかし、だからこそ正確な生態調査の資料には価値があった。

 旅人や冒険者と呼ばれる人々を使った生態系の調査に特化したギルドもあるくらいに。

 ただし適当な情報を並べただけの偽情報も数多く出回っている。

 グレゴリーも幾度か偽物を掴まされた経験があった。元より、本物かどうかは現地に赴かねば分からないのだ。

 有事の際に使って間違っていましたでは洒落にならない。

 グレゴリーは以前からずっと、信頼できる情報筋を探し続けている。


 そんな事とは露知らず、セシリアは地雷原へ盛大に足を踏み込んでしまっていた。

 詳しい話が聞きたいと迫るグレゴリーに押され、ゲーム時代の知識を伝聞形式で2言3言話す。

 それが直接調べた情報と合致したようで、信用に足ると判断されたようだ。

 時に情報は貴金属よりも価値がある。面会を望むグレゴリーの声はますます強まった。

 今さらXが架空の存在だなんて言い出せず、セシリアは話題を変えての逃げの体勢に入る。

「一つお願いがあります。今回は偶々領主様がお屋敷に居られましたから伝達が間に合いましたが、常にそうであるとは限りません。不躾ではありますが、早馬を走らせる程度の権限を持つ証書を私に託して欲しいのです」

 要求は傲岸で最初から頷いてくれるとは思っていない。

 熱した頭を少しは冷ませるだろうし、この話を断れば架空の存在Xとの面会を頼みにくくなると期待してだ。

 ところがグレゴリーはそんな事かとばかりに頷くと、机の中から1枚の紙を取り出し、セシリアに渡す。

 領主権限代行証明書。続く注意書きには条件付きとはいえほぼ全権限が行使できる旨が書かれている。

 簡潔に纏めると、使えばずグレゴリーに連絡が届き、権限の行使を申し立て時点で取り消す事ができる。ただし、申し立て以前に受理された範囲に関してはその限りではない。

 極端な話、セシリアが銀行に金庫の中身を全て渡せと命令すれば、グレゴリーが取消措置を講ずるまで取り立てられる上、渡された分に関しては返済義務も負わないということだ。


「これは一体どういうおつもりでしょうか……」

 想像と違う展開に流石のセシリアも戸惑いを隠せない。

「言ったはずだ、君との婚姻も辞さないと。こちらの覚悟の現れだと思ってくれればいい。勿論、"君を信用した上で"これを託すんだ。そこは間違えないで欲しい」

 受け取った紙の重さに、セシリアは思わずへたりこみそうになる。

 特に最後の一言が重い。あれは「私の意に沿わぬタイミングで使うなよ?」と言う脅し文句だ。

 その上、願いを叶えたんだから代わりに架空の存在Xと引き合わせてくれるよねという無言のオプションまで付いている。

「……善処したいと思います」

 自分から始めた駆け引きを今さら覆すなんて出来る訳もなく、セシリアは渋々と証書を胸に抱くしかなかった。



 1時間ほどの会談を終えて屋敷から出ると、既に太陽は真上に昇りつつあった。

 お昼前のリュミエールは外食が普及しているのもあって人の往来が一番多くなる。

 メインストリートは数えきれない程の人混みで溢れかえり、書き入れ時の飲食店が休むことなく通りを歩くお客に向かい声をかけていた。

 時には腕を掴んで強引に勧める迷惑な客引きもいて、今日も多分に漏れず脇から腕を掴まれてしまい、セシリアはまたかと溜息を吐く。

 突発的な会談と言えど形式は守らねばならない。

 今のセシリアは見るからに豪奢なドレスで身を飾っていながら、護衛の一人も連れていなかった。

 周りからすれば襲われる心配もない低級貴族の娘が一人でで街を散策しているとしか思えず、客引きからすれば良いカモなのだ。

 おまけに低い身長と柔和な表情から押しに弱そうに見える為、ちょっと強引に誘えば断れないだろうと考える客引きが後を絶たない。

 いつもはこの時間帯を避けていたのだけれど、領主との会談が思ったより長引いて重なってしまった。


「離してください。人を呼びますよ」

 できるだけきつい口調で先制攻撃を仕掛ければ、大体の客引きが厄介事はごめんだと逃げていく。

 しかし、今日の客引きは睨むセシリアの顔を見ても動じない……というより、客引きではなかった。

「僕も人を呼ぼうと思っていたところなんです。セシリアさんに会えてよかった。自由の翼のメンバーがそこの路地裏で喧嘩しちゃって、結構酷い怪我までしてるらしいんです。お願いします、すぐ来てくださいっ」

 彼が自由の翼の一員だったこともそうだが、喧嘩をした挙句怪我までしていると聞かされ目を丸くする。

「元の世界に帰るのが勿体ないって呟いたんですよ。そしたら何考えてるんだって口論になって……。とにかく、手が付けられないんです」

 恐れていた事態にセシリアの顔が不安に揺れる。

 元の世界に帰れる目処がついたおかげで、今みたいな口論は増える筈だ。何か対策を考えなくてはならない。

「こちらです、急いでください」


 彼はセシリアの手を引くと結構なペースで路地裏を駆ける。

 白い大理石で作られた家々が並ぶ富裕層向けの区画を抜けると、赤煉瓦で作られた窓のない建物が続く。

 商会が荷物の保管する倉庫街に移ったのだ。

 丁度お昼を食べに出ているのか、辺りには人影一つ見当たらない。

「あのっ! どこまで行くんですか!」

 ほぼ全力で走り続けているせいで、先程から息苦しさが増していた。そろそろ限界に近い。

「もう少し。見えました、あの倉庫の中です! 血塗れの姿を他人に見られるのはまずいかと思って、運び込んだんです!」


 肺が酸素を求めて荒い呼吸を繰り返す。5分は走り続けただろうか。引き篭もっていた元の身体とは比べ物にならないほどの持久力だ。

「こちらからどうぞ。おーいみんな、連れてきたぞ!」

 男性はホテルのボーイのように扉を開け、セシリアを促す。

 商品の保存中に日光を当てないようにする為、窓を設けておらず、中は真っ暗で入口の小さな扉から射し込む光だけが微かな光源の役目を果たしている。

 言われるがままに扉を潜り、その暗さに思わず眉をしかめた瞬間。

 ばちり、と視界に白いスパークが迸る。


 足腰から力が抜けて、ぐらりと身体が揺らいだ。

 反射的に踏ん張ろうとしているのに、手足はぴくりとも動いてくれない。

 どさり、と固い床に肩から崩れ落ちる。何故か痛みは少しも感じなかった。

「……っ。……!?」

 喋ろうとしても舌さえ回らない。

 いや、何も手足やしただけではなく、まるで身体のあらゆる神経が麻痺したかのように、指一本に至るまで微動だにしないのだ。

 唯一まともに動いているのは、身体が動かないと認識出ている思考くらいなものだろう。

 何が起こったのか理解できず、パニックに陥りそうになる心を必死に落ち着かせる。

 そこへ見知らぬ誰かの声が聞こえた。


「うわ、マジで麻痺るんだな」

「汎用支援だし低Vitなんだろ。それより早く縛れよ、麻痺はすぐに回復するんだから」

 麻痺。汎用支援。低Vit。それらが全て自分自身を示していることに気付いて戦慄した。

 ちらりと視界に映った男は細めの荒縄を握っていて、「縛る」という言葉の意味を遅れて理解する。

「……ぁ……っ!」

 なんで、と言おうとしたのに痺れた舌では声にならない。

 男の言うように長くはもたないのか、手足を締め付ける微かな、それでいておぞましい感触が伝わってきた。

 一人が後ろ手に手首を、もう一人が足首を縛りあげるとぞんざいに持ち運ばれ、倉庫の中央に投げ捨るように放られる。

 床には厚手のマットが置かれており、軽い身体が僅かに跳ねた。

 カチリとランプがつけられ、真っ暗だった室内が橙色に浮かび上がる。

 視界に入るだけでも10人の男達がセシリアを囲んでいた。

 その内の一人がインベントリから小瓶を取り出し、嫌がるセシリアの口に無理やり押し込んだ。

 途端に猛烈な苦味が舌を尽きぬけ、思わず吐き出して咳き込む。


「安心しろ、ただの回復薬だよ」

 呼吸を落ちつける頃には彼の言うとおり、全身の感覚が戻ってきていた。

 同時に打ちつけた肩の痛みがじんわりと広がって思わず顔をしかめる。

「これは一体何のつもりですか。冗談にしても度が過ぎてます」

 単純な怨恨や誘拐なら、わざわざ回復薬を与えたりしないだろう。男達には何らかの目的があるのだ。

 セシリアが喋れるのを確認すると、男達は互いに頷き合い、その内の一人がしゃがみこんで視線を合わせる。

「聞きたいことがあるだけだ、正直に答えろ」

 押し殺された静かな声は憎悪と怒りで分かりやすいくらい震えていた。

 きっと、今にも怒鳴り付けそうな心をどうにか理性で抑え込んでいるのだろう。

 動かせるようになった首でぐるりと辺りを見渡す。男は全部で14人。

 その誰もが転がっているセシリアを敵意に満ちた目で睨みつけていた。


 大人数から寄せられる怒りや恨みや憎しみといった感情はそれだけで暴力になる。

 強気だったセシリアの表情は一瞬にして怯えた小動物のような不安げな物に変わった。

 本能的に逃げようと強張った手足をぎこちなく動かすが、ぎっちりと撒かれた荒縄はセシリア程度の力で解けてくれない。

 必死に身体を動かしても逃れられたのは僅か1歩分にも満たない距離だった。

 対する男はあっという間に2歩を詰め、セシリアに顔を近づけると有無を言わせぬ口調で聞く。

「帰還方法について、何か隠している事はないか?」

 男を見上げるセシリアの瞳が微かに揺れた。

「それ、は……」

 思わず言い淀むと、男は今にも泣き出しそうな弱々しい声色で再び尋ねる。

「頼むから、正直に答えてくれっ。本当に何も隠していないのか!?」


 彼らが何を怒っているのかセシリアはようやく理解した。隠していた嘘がばれたのだと。

 城塞都市アセリアとの接触があったか、それとも聡い誰かが矛盾に気付いたか。

 どちらにせよ、これ以上隠し続けるのは彼らを徒に不安がらせるだけで何の意味もない。

「……あり、ます。隠している事が」

 だからセシリアは「ある」と答えてしまった。いや、答えさせられてしまった。

 まるで決められたレールの上を歩かされるように。役者が舞台で決められた台詞を述べるように。

 本当はもっとよく考えるべきだったのだ。どうして彼らがこんな早く嘘に気付いたのかを。

 けれど、大勢に囲まれ糾弾される恐怖と、嘘を吐いた負い目を感じているセシリアにそこまでの余裕はなかった。

「何だよそれ……。じゃあ、あいつの言ってたことが真実だったのかよ!」

「……あいつ?」

 がっくりと項垂れる男に恐る恐る尋ねる。

 答えはなく、代わりに憤怒に歪んだ顔でセシリアの襟首を掴みあげた。

「今さらとぼけても無駄だ。全部聞いたんだよ。元の世界に帰れる人数には"制限がある"ってな!」

 その質問の意味が、セシリアには理解できない。

「なに、言って……」

 訳が分からず聞き返そうとした瞬間、掴まれていた襟首が床へ叩き付けられた。

 背中を襲う衝撃に喉から出かかっていた言葉が咳に変わって霧散してしまう。

「俺達を置いて自分達だけ帰ろうとしたんだろ!? いい加減認めろ!」

「違います! 人数に制限なんてありません! ただ、発動すると全員が強制的に帰還させられるから、それを教えることで自由の翼が分裂するのを避けたかったんです!」

 怒鳴り散らす彼に向って、セシリアは真実を告げて懸命に弁明した。

「はは……。全部あいつの言った通りだ。お前はずっと俺達を騙してたんだな」

 それが、破滅のトリガーになっているとも知らずに。






 今から凡そ1時間ほど前。セシリアが敵の企みを看破し、領主へ伝えに出掛けた直後。

 元の世界に帰れると聞かされた自由の翼の面々は少々……いや、多分に浮かれていた。

 食堂では装備を売り払って作ったお金で酒を買い込み、祝杯を上げている姿も見受けられる。

 今日ばかりは誰もが浮き足立っていて、それを咎めるような雰囲気でもなかった。

 本当に帰れるのか不安に咽び泣いた夜もある。故郷を思い出して切なさにほろりと涙した夜もある。

 例え帰るのが惜しいと思っていても、こんな空気の中ではとても言い出せない。

 セシリアからもたらされた情報は好意的に捉えられ、自由の翼の屋敷は溢れんばかりの笑顔で満たされていた。

 "彼"が来るまでは。


「これはこれは、皆様実に楽しそうで何よりです」

 頭に乗せた愛用のシルクハットを胸に抱き、人の好さそうな笑顔を浮かべながら、自然と全員が注目できる位置に陣取る。

「初めまして、私の名は帽子屋。僭越ながら城塞都市アセリアを取り纏めさせて頂いております。本日は皆様に大切なお話を致したく、こうして参上した次第であります」

 突然の登場に、誰もがぴたりと会話を止めて視線を向けたタイミングを見計い挨拶を告げると、優雅に一礼した。

 時が止まったかのような静寂に包まれる中、一人のプレイヤーの脳裏にセシリアの警告が蘇る。


―城塞都市アセリアはA-Mad-Tea-Party、お茶会と呼ばれていたギルドが取り纏めています。彼らは抵抗できない低レベルのプレイヤーを集め、奴隷として働かせているそうです。絶対に口車に乗らないでください―


 お茶会のマスターの名前も、特徴も、セシリアがしつこいくらい繰り返し話していた。

 小さな体躯からは想像もつかない老熟した声色。トレードマークのシルクハット。

 そして何より、帽子屋というおかしな名前。

 自由の翼の中にもお茶会に参加経験があり、姿を知っている者も少なくない。


「な、何しにきやがった!」

 誰かが椅子を鳴らして立ち上がると警戒を露わに詰問する。

 食堂の和やかだった空気が、今や一触即発の緊張感に包まれており、武器を抜く者まで出始めた。

 100人を超える視線を一身に集めても帽子屋は動じるどころか楽しげに笑っている。

 そして敵意がないと言わんばかりに、帽子を被ってから両手をゆっくりと上げてみせた。

「皆様、どうか落ち着かれますようお願い申し上げます。私共は同じプレイヤーではありませんか。一体私が何をしたと言うのです?」

 何故責められているのか理解できないといった様子で、芝居がかった戸惑いの声を上げ、恐怖に体を震わせる。

 何を今さら、と誰かが小さな声で言った。

 お前が何をしてきたか全部セシリアから聞いているのだ、と他の誰かも続ける。


 独り言のような小さな声は繰り返される度に大きく変わり、堪えきれなくなった一人が遂に帽子屋を正面から糾弾した。

「あんたは俺らみたいな低レベルのプレイヤーを集めて奴隷にしたんだろ!? 誰が信用できるってんだ!」

「さっさと帰れ! ここはお前みたいのが来るところじゃねぇんだよ!」

 それが合図となって、数人のプレイヤーが口々に罵倒の言葉を投げかける。

「お待ちください! この帽子屋、断じて誰かを奴隷にした事などございません! 一体誰がそのようなことを!?」

 しかし帽子屋はますますわけが分からないと戸惑いを露わにし、素っ頓狂な声で尋ねた。

「お前に会ったセシリアとケインさんだよ! 俺達を騙そうったってそうはいくか。それとも、この人数を相手にやる気か?」

「セシリア嬢と、ケイン殿が……? お待ちください! 私が会ったのはセシリア嬢とだけ、ケイン殿とはお会いしておりません!」


 予想外の言い分に息巻いていたプレイヤーも言葉を詰まらせた。

 なんだ? どういうことだ? と言う疑問の声がちらほらと上がり始め、話を聞いて貰える好機と捉えた帽子屋は、騒ぎが再発するよりも早く声を張り上げ。

「もし私が話にあるようなか弱きプレイヤーを奴隷に貶める下卑た男だとすれば、たった一人でこんな場所に来るのでしょうか! どうも皆様と私の間に何やら誤解があるようです。誤解を解くためにも今しばらくの間、武器を突きつけあうのではなく、心穏やかな会話に興じては頂けませんか? それでもなお帰れと言うなら喜んで帰りましょう。もう二度と来るなと言われれば従いましょう」

 セシリアもかつて、横領したメンバーを男娼にしようと提案したことがある。

 もしかしたら帽子屋も何か理由があってプレイヤーを奴隷にしたのではないか?

 少しくらいなら話を聞いても良いのではないかと言う空気が急速に広がっていく。

 それが帽子屋の、そして彼らの中に紛れ込んでいる工作員の思惑通りとも知らないで。

「ではまずお聞きしたい事がございます。皆様はセシリア嬢から元の世界に帰る方法が見つかったという話を聞かれましたかな?」

 彼は当然だとばかりに揃って頷くプレイヤー達の姿を確認した後、この後の馬鹿(プレイヤー)どもの慌てっぷりを想像し、こみ上げる笑いを押し殺しながらもう一つ質問を重ねた。

「では、"元の世界に帰れる人数が決まっている"という話も当然ながら聞いておりますよね?」

 帽子屋の寸劇が否応なしに幕を開けた瞬間である。



 先程までのざわめきとは比べ物にならない、文字通りの大混乱が食堂を包み込んだ。

 帽子屋の問いかけはセシリアの警告を頭から完全に吹き飛ばしてもなお余りある。

 元の世界に帰れる人数があるなど、セシリアは話していなかった。

 当然だ。これは帽子屋が仕込んだ"嘘"なのだから。

 誰だって自分の身は特別で可愛い。帰れる人数に限りがあると言われれば必ず食いついてくる。

 もはや帽子屋への敵対心や警戒心は完全に薄れ、なくなっていた。

 彼にとってはスタンディングオベーションにも等しい、説明を求めるプレイヤー達の声に、高ぶる昂揚感をポーカーフェイスで隠しつつ続ける。

「元の世界へはとある遺跡の奥に設置された扉から戻れます。大変残念ですが、使える人数が決まっているようでして……。一つの街につき100人、それが限界です。今朝方この街を発った方が居ませんでしたか? それがこの街から選ばれた100人です。選出方法はセシリア嬢に一任しておりました。私がここに来た時、"皆様実に楽しそうで何より"と申し上げたのは、もう帰れないのに笑顔で過ごしていらっしゃる、その心意気に感服したからなのですよ」


 実際にあった出来事に嘘を絡め、あたかも辻褄が合っているかのように見せかけた話術は、集まったプレイヤーに疑う機会を与えない。

「嘘よ……。そんなの嘘よ! 帰れないなんて冗談じゃないわ!」

「セシリアが俺達を騙したっていうのか!?」

「デタラメこいてんじゃねぇよ!!」

 言葉では否定していても、彼らはみな帽子屋の言葉を心のどこかで信じていた。

 心の底から嘘だと思っているのなら、感情を高ぶらせる必要なんてない。

 呆然と立ち尽くしたり、憤慨し八つ当たりしたり、感情のまま泣き叫ぶのはどうしようもない気持ちの表れで、否定しきれていない証拠だ。

 だが、取り乱す者達の中にも理性的に振る舞える者は残っている。


「ちょっと待ってください! 確かに狩組の皆さんは今朝方ここを発ちましたが、セシリアさんはリュミエールに残りました! 彼女が元の世界に帰る為、どんなに苦労してきたか知ってるでしょう!? 帽子屋の話が真実なら、どうして彼女が残っているんですか! 思い出してください、帽子屋を信じるなとあれ程警告されていた筈です!」

 矛盾のない嘘などありえない。セシリアがこの街に居るのもその一つだ。

 嘘はその場凌ぎにしかならなかったが、帽子屋にとってそんなものは些細な問題だった。

 例えその場凌ぎでも構わない。それならあらん限りの嘘を並べ立て、その場を繋ぎ続ければいい。ばれても問題なくなる瞬間まで。

「今朝方ここを出た人の中にポータルゲートを使える方も居るでしょう。彼女はここで皆様に気付かれていないか監視する役目だったのでは? 街に残ったからと言って帰れないとは限りません」

 使えるものは何でも使う。可能性の話で言えば際限などない。

 セシリアを擁護したプレイヤーも、反論の糸口が見つからず悔しそうに唇を噛んでいた。

「普通帰れる人を決めるとなれば揉めるでしょう? しかしセシリア嬢は二つ返事で問題ないと引き受けました。これは何か裏があるのではと疑い、ここに参上したのですよ」


 おぉ、と彼を持ち上げる歓声が上がる。

「皆様ご安心ください! この帽子屋、不当な選出を認めるつもりはありません! 今から3時間後、街外れの幻想桜前でその遺跡に繋がるポータルゲートを開きます! 今朝方出て行った方々を交えて、誰が帰還するのかを今一度話し合う席をこの帽子屋が責任を持って作りましょう!」

 もはや民衆は完全に扇動され、セシリアを擁護する一派は異端とさえ思われつつあった。

「どうか皆様、この話を多くの仲間に聞かせてあげてください。人数は問いません。誰しもが元の世界へ戻る権利を持っているのです。それを不当に制限する彼女のやり方は間違っています!」

 数人だった拍手の輪は瞬く間に広がり、気付けば感化されたプレイヤーは全体の8割に上っていた。

 しかし次の瞬間、机の砕かれる音で帽子屋を称えるカーテンコールが中断される。


「……待てよ。そりゃちょっと虫が良すぎんだろ」

 親方ほどではないにしても大きな鎚を持ち出した男が忌々しそうに帽子屋を睨みつけた。

「誰しもが元の世界へ戻る権利がある? 笑わせんな。街から出もせずにただのうのうと暮らしてた奴らが、命がけで生活を支えてくれた奴と同じ権利を持ってる訳ねぇだろ。セシリアが嘘を吐いていたかなんて関係ねぇ。狩組が優先される事のどこに問題がある」

 何人かが声を上げたが、どれも意味を成した反論ではなく、因縁を付けるチンピラが使うような単音だ。

 は? あ? 何言ってんのお前。

 認めたくないのに、認められない理由が見つからない。だから吠えるしかない。

「なるほど、そういう考えもあるかもしれません。ですが! それを他の誰かに強要するのは感心しませんね」

 先程までの柔和な口調ではなく、不快さの滲み出た刺々しい物言いに、男が鼻で笑う。

「そうかい。なら言うが、テメェのお茶会とやら、初心者の盾に無理難題押し付けて甘い汁吸ってたそうじゃねぇか。今さら善人面しようがどうにも信用なんねぇんだよ。こいつらそそのかして何するつもりだ? あ?」

 お茶会の話題が出るとは思わず、帽子屋は眉をしかめた。

 こういう輩は何を言っても自分の意見を変えたりしない。それに、甘い汁を吸っていたというのも事実だ。


 これ以上会話を長引かせるのは危険と判断して、来た時と同じく優雅に一礼する。

「判断は皆様ご自身に委ねます。ですが、遺跡へのポータルゲートを出すのは3時間後に1度だけです。元の世界に帰りたい方はお忘れなきよう。それから、真実を確かめるにはセシリア嬢に話を伺うのが一番です。もし見つけましたらこうお尋ねください。"帰還方法について、何か隠している事はないか?"と」

 帽子屋は言った。

 普通に尋ねたのではまず間違いなく"ない"と答えるだろうと。

 もしできるなら彼女を拘束した上、集団で脅しながら尋ねてみればいいと。

 本当に何も隠していないなら、それでも"ない"と答えるだろうと。

 それなら嘘を吐いていたのはこの帽子屋であり、彼女を解放してやればいいと。

 けれど、もし本当に何かを隠していたなら……。

 嘘に気付かれた動揺を隠し切れず、"ある"という真実を答えざるを得なくなる。


「彼女は絶対に"人数に制限がある"という条件を明かしません。もし明かせば元の世界に帰れなくなると分かりきっていますからね。頭の良い彼女のことです、きっと実に巧妙な言い訳をするでしょう。そうですね、私ならこう言います。"全員が強制的に帰還させられる"と。明かさなかった理由はこうです。帰りたくない派と帰りたい派で分裂が起きるのを避けたかった。どうです? 全員が帰れるなら誰も損はしない訳で、話さなかった理由にもなります。中々理に適った言い訳だと思いませんか?」

 嘘を信じ込ませる秘訣は、真実の中に嘘を織り交ぜる事。

 思い込みに気付くのは難しい。思い込むとは他の選択肢を排除することだから。

 先入観を覆すのは難しい。自分の培ってきた諸々を否定する行為だから。

 セシリア自身に弱点はない。だが、彼女を取り巻く有象無象は違う。

 この通り、ありもしない法螺話で躍らされている事に、少しも気付いてすらいないだから。

「もしセシリア嬢を見つけたら幻想桜の下に連れて来てください。私も彼女と沢山お話をしたいので」

 最後に帽子屋はこう言い残し、また会いましょうと一礼してからリュミエールの街を去った。






「これでもまだ言い訳するのかよ」

 はめられた。これ以上ないくらい完璧に。

 帽子屋は始めから"全員が強制的に帰還させられる"件を話さないと踏んでこの作戦を考えたのだろう。

 情報戦で先手を打たれ、先入観を植え付けられたのは大きな痛手だ。

 切り崩すには帽子屋が悪であると言う確固たる証拠を突きつける必要がある。

 当てがあったとしても、3時間という短いタイムリミットで集められるとは思えない。

 おまけに倉庫で拘束オプション付き。ポータルゲートの詠唱なんてすれば袋叩きに合うだろう。詰んでいるにも程がある。

 けれど、諦める訳にはいかなかった。


 ここまで派手に動いたのだ。帽子屋の思惑は十分予想できる。

 元の世界に帰る扉がある遺跡なんて存在しない。

 転送先では間違いなくお茶会の高レベル集団が武器を手に手ぐすね引いて待っている筈だ。

 隷属の首輪は相手の同意がなければ装着できないように作られている。

 痛めつけるか、見せしめに何人か殺すかして、同意を強要するつもりなのだろう。

 ポータルゲートを潜ってしまえば、レベルの低い彼らに抗う術はない。

 セシリアは必死になって危険を伝えるけれど、男達の反応は揃って冷めた物だ。

「よくそんなにすらすらと嘘が出てくるな」

 この期に及んでまだ嘘を続ける呆れと、懲りずに助かろうとする態度への怒りが入り混じった声で、彼らは吐き捨てた。


 帽子屋は、セシリアが弁明代わりに真実と明かすと予想して先手を打っている。

 彼らにとって帽子屋は出し抜こうとしていたセシリアの計画を教えてくれた善人なのだ。

 完全に敵の術中に入り込んでしまった今、何を言っても聞く耳など持ってくれない。

 何より……。

「ネカマで騙してた貴女と違って、帽子屋さんは初心者の為にお茶会を開催していましたからね。そもそも貴女を信用したのが間違いでした」

 セシリアの経歴は信用を勝ち取る為の大きな枷になっている。

 自分をここまで引っ張ってきた青年の言葉に、セシリアはやはり何も言い返せない。


「結局、お前は俺達を1度だって信じてなかったんだろ。そんな相手を信じられるかよっ!」

 怒りに怒鳴り付けた男の言う通りだ。

 "全員が強制的に帰還させられる"条件を話さなかったのはセシリアが彼らを信じられなかったから。

 それを帽子屋に予見され、あろうことか"人数に制限がある"という条件にすり替えられ、追い詰められている。

 目の前を歩いている人を指さして、あれは殺人犯ですと説明したら一体どのくらいの人が信じるだろうか。

 自由の翼の面々にとって、セシリアの警告はそれと似たようなものだ。

 具体例の提示もなく、ただ低レベルのプレイヤーを奴隷にしていると言われても実感が伴わない。

 初めから何もかも明かしていれば、もう少し詳しい話ができて、彼らも帽子屋の芝居に騙されなかったかもしれないのに。

 今さら後悔しても過去には戻れない。それなら、今からでもできる精一杯の事をするしかなかった。


「どうして帽子屋はもっと早く真実を伝えなかったのですか。リュミエールに来たのは彼の方からです。私が怪しいなら、待つ必要なんてない。なのに帽子屋は、リュミエールから強力なプレイヤーの集まりである狩組が居なくなる瞬間を選びました。いえ、選んだのではなく、そうさせたのです。ケルベロスはサモナーの召還獣ですから、計画の為に邪魔な狩組を外へ追いやりたかった。私がこの街に残ったのが監視の為? 万一露呈した時に捕まるリスクを冒す意味がどこにあるのですか。それなら一緒に遺跡へ行きます。計画がばれたとしても、遺跡に行けるポータルゲートがないのですから、追いつかれる心配はないでしょうに。第一、ここに居る人たちが全員、私のネカマの被害者なのも腑に落ちません。以前から繋がりがあったのですか? 恥ずかしい過去を知る間柄で親交が深まったとは思えません。もしかして誰かが声をかけて集めたんじゃないですか。だとしたらその人は帽子屋の工作員です。確かに私は嘘を吐きました。でも、このままポータルゲートに乗ればもう二度と帰れなくなるんです」

 少しでも帽子屋を疑って欲しくて、ざっと聞いた話の中に出てきた矛盾を努めて冷静に羅列する。

「酷い陰謀論ですね。後出しなら何とでも言えるでしょう。偶然を結びつけてそれっぽくしただけじゃないですか」

 でも、セシリアが嘘を吐いていると思い込まされた彼らには一言も届かない。

 それが辛くて悲しくてもどかしくて、抑えていた感情が爆発した。

「そこまで分かっているなら、どうして帽子屋がそうじゃないと言い切れるんですかっ!」


 感傷的に叫んだセシリアを見る男達の視線が急激に冷え込んだ。

 きっと彼らには、図星を突かれてもなお必死に逃れようとする諦めの悪い卑怯者としか見えていない。

 既に彼らの中には答えが出来上がっているのだ。

 幾ら矛盾を突きつけた所で、証拠がなければ何の意味もなかった。

「もういいでしょう。聞くだけ無駄ですって」

「ならこいつどうするよ。2度も俺達を騙しやがって、責任取って貰わないと気が済まねぇ」

 なおも喚き続けるセシリアの口を煩わしそうに手で塞ぎ、これからの事を話し合い始める。

 今まで騙してくれたおとしまえを付けさせたいが、時間的な猶予はそんなにない。

「責任っても、殺す訳にはいかないだろ。どうすんだよ」


 指の1本でも詰めるか。いや、回復魔法があるのだから意味なんてない。

 聞くに堪えない相談が始まり、身の危険を感じたセシリアが暴れると、男達はにやけながら抑え込み、より残虐な内容をこれ見よがしに話して聞かせる。

 恐怖に怯えるセシリアの姿は彼らの嗜虐心をこれ以上ないくらいくすぐった。

「はいはーい、俺に良いも案がありまーす」

 場違いなほど明るい声で、何個目ともしれない提案がなされる。

「前に横領してた奴らを男娼にしようとしてたじゃないですか。自分で言い出したんだから、責任取るのに丁度いいでしょ」

 今度の内容は今までの残虐な方向性とは異なるものだった。

「っても、そいつネカマだろ?」

 何を言ってるんだとばかりに難色を示した男へ、言い出した彼はまぁまぁと宥めながら続ける。

「別に中身なんてどうでも良いじゃないですか。身体は女で見た目も良いんですから。ここに来てもう2ヵ月近いんですよ? 皆さんもそろそろ右手にも飽きた頃でしょ?」


 食欲、睡眠欲に続いて、性欲はいかんともしがたい問題である。

 セシリアの尻ばかり追い回していた彼らが相手を見つけられる筈もなく、かといって娼館で女を買う度胸もなかった。

 なによりお金がない。

 万が一を考えると、装備を売り払って豪遊する気にもなれなかったのである。

「ケインさんにもその辺りを含めて奴隷制度を活用したらどうか進言したんですけど、結局受け入れて貰えませんでしたし。買うのが駄目なら丁度いいじゃないですか。最初はともかく、すぐ慣れますって。最悪どこかで稼いで貰って、僕らはそのお金で遊べば良くないですか?」

 彼のヒモ宣言に男達がなるほどと頷き合うと一斉にセシリアを見た。


 口を塞いでいた手が退けられる。

 新鮮な空気を思い切り吸い込んだ後、馬鹿げた提案を繰り広げる男達を気丈にも睨みつけた。

「ふざけたことをっ! まだ私の話が嘘だと決まったわけではありませんっ」

「んじゃお前の言ってることが正しいって証明してみろよ」

「……っ」

 ここで証明できるならとっくにしている。最低でもケインが戻ってこなければ証明はできない。

 だが帽子屋は明らかにリュミエールを飛び出た早馬が本隊へ辿りつく前の時間を制限に設定していた。

 どう足掻いた所で絶対に間に合わないよう計算し尽くされている。

「そもそも自分で嘘を吐いたと認めたじゃないですか。"全員が強制的に帰還させられる"んでしたっけ。そんな都合の良いことがあると思えませんけど、嘘を吐いた事に変わりありませんよね」

 そうだそうだと野次が続いた。

 彼らの興味はとっくに、目の前のセシリアをどう辱めるかに移り変わっている。


「暴れるなよ? 服以外が切れても責任持てないからな」

 インベントリから取り出した鈍色の短剣を硬直しているセシリアの襟元に宛がう。

「いや、やだっ! やめてっ」

 今この場でことに及ぼうとしているのだと気付き、死に物狂いで暴れた。

 抑え込んでいた男の顎に頭突きを食らわせ、身体を捻って抜け出すと短剣を握る男を思い切り蹴り飛ばす。

 くぐもった悲鳴が2つ聞こえて一瞬だけ身体が自由になったと思いきや、様子を見ていた12人の男が取り押さえるべく我先に迫った。

 縛られて満足に動けない身体では逃げられる筈もない。

 残された手は魔法くらいなものだ。だがポータルゲートを使う時間的猶予はない。

 瞬きにも満たない逡巡を経て、短い詠唱の末に輝く5本の槍を虚空へと作り出す。

 たったそれだけで男達の動きがぴたりと止まった。


「離れてください。それ以上近付いたら、撃ちます」

 恐怖で声が震えているせいで迫力には今一つ欠けるが、下手に手を出せば本当に貫かれかねない逼迫感はある。

 事態は硬直したかのように見えたが、出来たのはそこまでだ。

「やればいいじゃないですか」

 あろうことか、蹴り飛ばされた男は鈍色の短剣を拾って悠々と近づく。

 槍の1本が素早く反応し、穂先を向けたのに動じる様子は微塵もない。

「来ないでっ! 本当に……」

「ですから撃てばいいじゃないですか。いやぁ、聖属性耐性っていいですよね。ただのロザリーに10%が付いてるんですから。頑張って持っている人を探して10個かき集めたんですよ」

 着ていた厚手のシャツの胸元に手を入れ、内側に入れていたアクセサリの束を引き出す。

 10個のロザリーが一つのネックレスに通されており、じゃらりと音を奏でた。


「っ! そういう事ですか。貴方が扇動したんですね」

「どうしてそう思うんですか?」

 話が上手過ぎると思っていた。思い返せば、ここでの会話の流れを作っていたのは常に彼だ。

 あの場所でセシリアの腕を掴んだのだって偶然なんかじゃない。

 何より決定的な証拠が一つ。

「この中で見覚えがないのは貴方だけです」

 先程までは薄いランプの明かりで顔の輪郭がはっきり見通せなかったが、ホーリーランスの発する強い燐光のおかげで今はハッキリと顔を見通せる。

 あの時、屋敷の一室で謝罪をしたときに見た顔ぶればかりが揃っている中で、彼だけは全く見覚えのない新顔だった。

「彼は帽子屋の手先です!」

 だがしかし、セシリアの告発は男達に毛ほどの動揺も生みださない。


「突然何を言い出すかと思えば、この期に及んでまだ言い逃れですか。僕は真実が知りたかっただけです。その為には帽子屋の言っていた方法が合理的だと判断しました。ただ、一人で貴女を捕えるは難しい。手伝ってくれそうな人を探していた僕は、かつて貴女に騙された経験のある彼らに頼んだのです」

「そう言うこった。何が帽子屋の手先だ、こんな見苦しい言い逃れをする奴だとは思わなかったよ」

 帽子屋の立てた計画だけあって、見破られることも想定の範囲内。隠れ蓑はしっかりと用意されていた。

 ネカマ被害者なら騙された経験があり、容易に流されたりしないだろうという目論見も透けて見える。

 憎たらしいくらい効果的な配役だ。最初から信じて貰える可能性を徹底的に排除してきている。

 今ではセシリアを拉致した目的も『嘘を言っているのは誰か』から『セシリアの身体』に変えられていた。

 例え今ここで帽子屋が嘘を吐いている証拠を見せ付けたとしても、彼らは意に介さないかもしれない。


「大人しくしてくれれば痛くはしませんよ」

 いつの間にかセシリアのすぐ傍まで近づいていた。

 最大主教(アークビショップ)の使える魔法は全て聖属性で統一されている。

 完全耐性を揃えらてしまえば打つ手なんてない。

 悠々と身体の上に跨ると、今度は暴れられないよう、腹の上へ馬乗りになってからナイフの刃先を再び襟へとかける。

 セシリアの肌に冷たい金属の感触が広がった瞬間、展開していた光の槍を開放した。

「無駄ですよ。ここには14人いるんですよ? 仮に5人倒せたとしても、ホーリーランス程度で即死はしません。回復アイテムでなんとでもなります」

 彼の言う通り、セシリアのホーリーランスが一撃で殺せるのはオークが精々。

 でも、人ではない、建物なら少しだけ話が変わる。

 放たれた5本の槍は倉庫の壁と天井に突き刺さり爆縮。大穴を穿った。

「建物でも壊すつもりでしたか? 残念ですが威力が足りなかったようですね」

 震度2程度の衝撃に襲われたものの、赤煉瓦作りの建物は想像以上に頑強で簡単には崩れない。


 でもそれでいい。手と足を縛られ、動けないように体重をかけられている今、自由にできるのは口だけだ。

「助けてっ!」

 せめてこの声が誰かに聞こえる事を祈って。或いは、突然崩壊した倉庫に人が来る事を信じて。精一杯の声を張り上げる。

「無駄ですよ。この辺りの倉庫は使われていません。それに、助けてくれる善人なんて早々いませんからね」

 日本と違ってこの世界は法整備が進んでいない。助けを求めても厄介ごとはごめんだと見て見ぬ振りをするのが一般的だ。

 もし誰かが声を聞いたとしても、倉庫を崩れるのを見たとしても、助けようとしてくれるとは限らない。

 それでもセシリアは賭けるしかなかった。心優しい誰かが偶然にも通りかかって、何事かと中を見て、襲われているセシリアを見つけて、手を貸してくれる奇跡を。

 その間も彼はナイフを少しずつ、嬲るように下へ下へと滑らせる。

 白い鎖骨が顔を出し、続いて胸の膨らみとそれを包み込む飾り気のない下着が露になった。

 情欲に塗れた粘つく不躾な視線が遠慮なく注がれる中、セシリアの顔が怒りと羞恥で赤く染まる。

「さて、このまま下へ切り裂かれるのと窮屈そうな布を切り裂かれるのとどちらが好みですか?」

 下卑た質問にギャラリーが沸いた。答えの変わりにもう一度大声で助けを求める。

「貴女も諦めが悪い。こんなところに来る物好きなんて……」

 居ませんと嘲笑うより早く、

「セシリアに、触れるなぁぁぁッ!」

 少年の怒号が倉庫一杯に響き渡り、同時に彼の身体が冗談のような勢いで吹き飛んだ。


 壁に叩き付けられる鈍い音が響くと、衝撃で脆くなっていた煉瓦が連鎖的に男の頭上へ崩れ落ち、粉塵を巻き上げながら埋もれる。

 透き通った水色の刀身の剣を油断なく構えた少年の烈火の如き怒りに、鼻の下を伸ばしていた男達は気圧され反応が遅れた。

 その隙にもう一度、青い煌きを宿した刀身を振るう。

 虚空に描かれた軌跡が実体を伴い、衝撃波となって迫ってくるのを、男達は情けなくも腰を抜かしてどうにかやり過ごす。

「アクアスラスト!? てめ、プレイヤーか!」

 少年の握る剣がオーシャンズブレードであることに気付いた男が悲鳴を上げて後ずさった。

「フィア……。なんで、ここに」

 オーク相手に油断して殺されかけていた所を助けてくれた時の事を思い出す。

 これではまるであの時の焼き直しだ。

「なんか大変な事になってるってカイトに言われて領主様の所までセシリアを探しに行ってたんだ。途中で見かけたから追いかけたんだけど、入り組んでて見失っちまった。……ごめん」

 これまでの経緯をかいつまんで説明しながら、セシリアの手足を拘束する荒縄を慎重に断ち切った。

 手を貸しながら、無残に切り裂かれた胸元を見て辛そうな顔をした後、もう一度頭を下げる。

「ほんとに、ごめん」

 きっと、見失ってなければこんな事にならなかったのにと、自分を責めているのだろう。

 あの混雑の中、小さな自分の姿を見つけて追いかけてくれただけでも十分にお釣がくると言うのに。

「ありがとう」

 例えようのない嬉しさが胸に広がって、本当はもっとたくさんの感謝を伝えようとしていたのに言葉が出てこない。

 だからせめてその想いが一部でも伝わるようにと、フィアに身を寄せた。

 恐る恐る伸ばされた左腕が肩に回され、ぐいっと引き寄せられた途端、胸の鼓動が早まって息が苦しくなる。

 急に視線を合わせるのが恥ずかしなって、そのまま胸に顔を埋めた。


「感動の再開とやらは終わりましたかねぇ」

 フィアの一閃で吹き飛ばされた男が瓦礫の中から立ち上がる。

 どうやら身に着けていたシャツはこの世界の物ではなく、ゲーム時代の装備品だったようだ。

 多少擦り切れているものの、直撃を受けてなお、身体に傷ついた様子はない。

「貴方達も呆けていないでください! 取り逃がしますよ!」

 フィアの乱入で取り乱していた男達が彼の指示でようやく我を取り戻し武器を構えた。

 2対14。支援のセシリアと、この世界の住民でレベルが未知数なフィアの2人が真正面からやりあって勝てる数ではない。

 逃げる方法があるとすればポータルゲートだけだが、せめてもう少しお互いの距離が開いていないと展開が間に合わない。


「フィア、壁に寄って剣を振り上げてください」

 全方位から襲われる事態を避けるべく、こっそりと耳打ちして壁まで後退する。

 敵はその分だけ着実に包囲を狭め、セシリアがポータルゲートを使う瞬間を待っていた。

 ホーリーランスで貫かれれば即死はせずとも、一時的な行動不能に陥る可能性はある。

 聖属性の完全耐性を確保しているのは一人だけ。

 フィアのレベルが分からない彼らにとって、一瞬で5人を無力化させられるセシリアの魔法は怖いのだ。

 適当に追い込んでポータルゲートを使わせれば、逃げるより早くクールタイム中に片を付けられる。

 ……と考えている事くらい、セシリアにもお見通しだ。

 裏を返せば、何か魔法を使うまで迂闊に攻撃してこない。

 我武者羅に突っ込んでくるならともかく、セシリアに喋る時間と余裕を与えた時点で彼らの勝ち目は砂粒一つ分も残されていなかった。


「フィアのレベルは98のロイヤルナイトです」

 セシリアの言葉に動揺が走った。

 ロイヤルナイトは騎士から転職できる最上位職の名前だ。

 このゲームの最上位職はサービス開始から2年経った今でも廃人でないと到達できない、いわば廃人の証明でもある。

 勿論ただのブラフだが、自由の翼内では差別をなくす為、職とレベルを訪ねるのは禁忌とされていた。

 彼らがセシリアの嘘に気付ける筈もない。

「幾らレベルが高くても、14人を相手に貴女を守りつつ戦えるとは思えませんね。逃げた方が得策ではないですか?」


 一方、彼の見通しも正しかった。

 ゲームならともかく、この世界で多数のプレイヤーを相手に誰かを守りながら戦うのは難しい。

「第一、その申告が正しいとも限らないでしょう。こちらの気勢を削ぐブラフじゃないんですか」

 彼の目は、知り合いとはいえ都合よく高レベルの助っ人が現れてたまるか、と語っている。

 ブラフを見破ったのは流石だが、惜しい事に自分の想像を信じ切れていない。

 手の内を読んだとしても、行動に移せなければ意味なんてないのだ

 だからセシリアが予想だにしない魔法を使った瞬間、動揺して対処が遅れる。


「【アルス・マグナ】」

 フィアの指に自分の指をしっかりと絡めて握りしめる。

 この魔法に詠唱はない。溢れ出る純白の光が2人を包み込み、膨大な力の奔流がフィアへと流れ込んだ。

「騎士には発動時に最大MPの30%を消費し、その量に応じて倍率が変動するインペリアルストライクというスキルがあります」

 有名な高火力スキルだけあって、誰もが仕様を熟知している。今さら何を考えているのかと首を捻った。

「そして今使った【アルス・マグナ】は両者のステータスを合算する魔法です。私のレベルは117。汎用支援型最大主教で、最大MPは約4400。そこにフィアの700が加わればどうなると思いますか?」


 かつてゲームで悲しい事件(かほうしゅうせい)が起こった。

 インペリアル・ストライクは元々、最大MPの低い騎士を前提に設計されている。

 消費量による威力増加は極端な二次関数を描いており、運営が到達不可能と考えていた2000を超えると、倍率が異常に跳ね上がるのだ。

 有志の検証結果によれば、MP4000の時点で億に達する。

 高Int、Midの支援キャラが攻撃力特化のロイヤルナイトに【アルス・マグナ】を発動し、インペリアル・ストライクを放つだけであらゆるボスが瞬殺できてしまうバランスを、運営が放置する筈もない。

 インペリアル・ストライクには限界消費量と言う、システム的な制限が課せられる事となった。

「果たして、この世界にそのシステム制限は生きているんでしょうかね」

 言い終えるや否や、フィアにこっそりとアクアスラストをチャージさせる。

 セシリアと繋がった影響で普段の何倍増しもの力が流れ込み、刀身は太陽にも似た眩い煌めきを灯す。


「10秒後に放ちます。死にたくないなら逃げなてください」

 交渉の基本は猶予を与えない事。9、8と遠慮なくカウントが進みだした瞬間、蜂のを散らす様に大声を上げて逃げ出した。

「逃げるな! これは彼女のブラフです!」

 一人だけ声を張り上げるが、直結達はセシリアの遠慮のなさを知っているだけあって聞く耳を持たない。

 0のカウントが終わった時、倉庫に残っていたのは帽子屋と繋がっている彼一人きりだった。

「か、仮に本当だとして、貴女はプレイヤーを殺せるのですかっ!?」

 もはや形成は完全に逆転している。

 逃げ遅れたことを悟って、じりじりと後退しながら命の尊さを説く彼の姿は滑稽を通り越して哀れでさえあった。

「セシリアに手を出しておきながら何言ってやがるッ!」

 フィアの答えは振り抜かれた斬撃。

 セシリアが止める間もなく剣を振り抜き、軌跡に沿って生まれた衝撃波が先程より強く男を吹き飛ばす。

 アルス・マグナで威力が上がったからか、先の攻撃で耐久値が下がっていたかは分からないが、今度の一撃は防具でも防ぎきれず、赤い飛沫を床に残した。

 呻き声が聞こえる事から、死んではいないのだろう。

「カイトに合流します、乗ってください!」

 ヒールする気にはとてもなれず、誰か戻ってくる前にポータルゲートを発動し、カイトと合流すべく屋敷へと急ぐ。



「カイトはセシリアが帰ってくるかもしれないから、リリーと部屋に居るってさ」

 おかげでわざわさ探す手間が省けた。

 いつになく人の気配が薄くなった廊下を、フィアに誰も居ないか確認して貰ってから進む。

「FPSの登場人物にでもなった気分です……」

 これで段ボールでもあれば完璧だ。隠匿(ハイド)ボーナスは-1000くらいになりそうだが。

 帽子屋の扇動で幻想桜に移動したプレイヤーが多いのか、1度も誰ともすれ違うことなく部屋へ到着する。

 何となく互いに視線を交わしてから、剣を構えたフィアが扉を蹴り開けた。


「なに、これ……」

 部屋に入るなり呆然と立ち尽くす。生臭い鉄の匂いが部屋中に満ちていた。

 木製のベッドはどれも激しく損壊し、床板の一部は抜け落ち、天井と壁には大穴まで開いている。

 床には真新しい血液がべったりとこびり付いており、被害者の軽くない怪我を思わせた。

 カイトの姿もリリーの姿もない代わりに、壁には"始まりの場所で待つ"と書かれた一文とカイトの名前が刻まれている。

 どうもメモ帳代わりに使ったらしい。

 惨状を目の当たりにしたフィアが不意にリリーの名前を呼んだ。心配するのも当然だろう。

「大丈夫、場所の心当たりはあります。まずはここを出ないと。こそこそしている暇はなさそうです、邪魔する人が居たら排除してでも急ぎますよ」

 セシリアとカイトの両方が知っていて、最初に行ったと話したことのある安全を確保できそうな施設は一つしかない。

 安心させるように言うとフィアが一度だけ頷き、自然と手を繋いだまま部屋を飛び出した。






 1時間ほど前。帽子屋が食堂に登場する直前。

 カイトはセシリアから話を聞いた後、ポータルゲートの転移に使われる一室で、食堂から持ち出した朝食の残りと飲み物を味わいながら、最近屋敷内で流行りだした現地の小説を片手に籠城の構えを取っていた。

 リュミエールの移動には必ずここを使う取り決めになっている。

 こうしていればケインが戻った瞬間に話を伝えられるし、行き違いになる心配もない。

 良くできた小説にのめり込んでいたせいでどのくらいの時間が経ったかは分からないが、物語も佳境に踏み込んだ頃、一人のプレイヤーが焦燥も露わに転がり込んできた。

「やっと見つけた! なんでこんなところに居るんだよ!」

 もし彼が全身汗だくで必死な形相をしていなかったら、随分な言いぐさに文句の一つも飛び出ただろう。

 「何かあったのか?」と聞くより先に彼は凄まじい勢いでまくしたてる。

「帽子屋が来て、"元の世界に帰れる人数に制限がある"とか言い出して、セシリアさんが嘘を吐いて狩組だけ帰るんだとか何とか、これって一体どういう事だよ!? 狩組のあんたなら何か知ってるだろ?」

 不穏なキーワードの数々にカイトが眉をしかめた。

 おまけに男の中でも何が起きたか理解しきれておらず、内容は支離滅裂でいまいち要領を得ない。


「落ち着け、何を言ってるのかさっぱりわからん。順を追って説明しろ。帽子屋が来たのは分かった。一体何しに来たんだ?」

「帽子屋はセシリアが元の世界に帰れる人数に制限があるのを俺達に隠しているんじゃないかって疑ってて、それを確かめにここまで来たって。狩組だけで元の世界に帰るつもりで、文句を言いたい奴は引き合わせてやるから3時間後に幻想桜に来いって。なぁ、本当のことなのか?」

 カイトの誘導によって、ようやく何があったのかを曖昧ながら理解する。

 武力制圧が使えない帽子屋は単機で情報戦を仕掛けてきた。

 狙いは自由の翼の分離。それから多分、セシリアの孤立。


「あの野郎、まだセシリアを根に持ってんのか?」

 セシリアがお茶会を掌握しかけたという伝説は、某巨大掲示板のスレでも話題になった。

 帽子屋が三日月ウサギを連れて来たのは追い払う為だという陰謀説はそれなりに有名である。

 真否はともかく、度が過ぎたハラスメントを繰り返す三日月ウサギをああも無視するのは、いかに放任主義と言えど不自然極まりないというのが掲示板での共通見解だ。

「それから、セシリアを捕まえて聞いてみればいいってなんか自信ありげに言ってたな」

 どうした物かと考え込んでいた矢先に、男がそういえばと前置いてから思い出した内容を告げる。

「馬鹿野郎! それを先に言えっ!」

 帽子屋の狙いは依然として掴めないが、セシリアに危険が迫っているのだけは確かだ。

 カイトは入口に立つ男を跳ね飛ばし自室へと走る。何が起こるか分からない以上、部屋に居る2人の安全も確保せねばならない。


 自室に戻った後、カイトはこれからどうすべきか困り果てていた。

 当面の目的は大きく分けて2つ。

 まだ帰ってきていないセシリアを探し出して合流する。

 フィアとリリーの2人を馬鹿どもから守る。

 狩組は出払っていて頼れる相手が居ないのに、1つの身体で両立するのはどう考えても無理だ。

 そんなカイトを見かねて、フィアは自分がセシリアを探すと提案した。

 まだ戻ってきていないのなら、領主邸まで行けば会える可能性が高い。

 道中は人通りも多く、簡単に手は出せない上、フィアの容姿なら風景に溶け込める。

 万一すれ違った時のことを考えれば、この部屋にも留守番役は必要だろう。

 となれば、部屋に留まってもリリーを守れる強さを持つカイトが残るべきだ。

 悩んでいる時間も勿体ない。結局カイトはフィアの提案に乗ることにした。


 馬鹿正直に部屋で待てばプレイヤーが雪崩れ込んでくるのは目に見えている。

 カイトはさっさと隣の部屋へ移動し、聞き耳を立てて様子を伺う事にした。

 セシリアなら急ぎつつも軽い足音が聞こえる筈だ。

 逆に多数のばたばたとした足音はセシリアを探しているプレイヤー集団だろう。

 何組かの集団が訪れてからは部屋に居ないのが広まったようで、客足がぱったり途絶えた。

 そうして暫く待ち続けていると微かな足音に加え、ベッドが軋む音が届く。

 もしや帰って来たのではとリリーを連れて部屋に入ると、何とも珍妙な光景が広がっていた。


「あぁ、これがセシリアたんのベッドでござるか! くんかくんかするでござる! 拙者もうエクスタスィーの波を堪えきれないでござるぅぅぅぅぅぅ!」

 肩口まで伸びた艶のある漆黒の髪を紐で一つに纏めたピッグテールと言い、枕に顔を埋めてふごふごと鼻を鳴らす姿と良い、豚と言う名刺が良く似合う。

 頭には枯草で編まれた傘を被り、目元を覆う仮面のせいで表情は窺い知れない。

 薄手の肌着が両腕と首以外をぴっちり覆い、その上から黒尽くめの鎖帷子、マント、マフラーを着用している。

 これでもし腹が出ていたら完全な「豚」なのだが、理想を体現したアバターだけあって、スタイルだけは悪くない。

 最も、この姿を1度でも見れば百年の恋だって氷河期に様変わりするだろうが。


「おい、そこのウサギ」

 カイト引き気味な呼びかけに腰をカクつかせていた不審者が振り向く。

「誰でござるか。拙者のエクスタスィータイムを邪魔するなでござる」

 仮面の奥で濁った光を灯している瞳には男に話しかけられた不快感がありありと浮かんでいた。

 巻き舌の英単語にカイトのこめかみがピクリと引き攣る。

「それは、俺のベッドだ」

 飛び出た言葉に三日月ウサギの動きが止まる。カイトと手にした枕を交互に見詰めてから信じられないといった口調で呻く。

「だってこれ、石鹸の良い香りがするでござるよ……」

「そりゃ毎日風呂は欠かさないからな」

 元が女性だけあって、カイトは身だしなみに一般的な男性よりも気を使っている。

 夜は涼しい気候のおかげで寝汗をかいたりもしない。

「悪いが俺はもっと純粋で可愛い男の子限定なんだ、他を当たってくれ」


「ふ、ふ、ふざけるなでござる! 拙者ホモォには興味ないでござる! うごごご、全身から蕁麻疹が吹き出そうでござるぅぅぅっ!」

 手に持っていた枕をかなぐり捨て、巻き付けていた毛布を脱ぎ去り、床の上でごろごろ転がる。

「かはっ……。流石はセシリアたんでござる。こんなトラップを仕掛けるとはなかなかやるでござるな。あぁ、セシリアたんからの愛が辛いでござるよ! でも障害を乗り越えた暁にはセシリアたんと結ばれるのでござるっ! 待っているでござるよ、ゴールはもうすぐそこでござるっ!」

 ひとしきり悶えた後、ありもしない妄言を叫びながら歪みきっただらしない顔のままげひゃげひゃと笑う。

 そしてカイトの陰に隠れている小さな人影を見つけると、さらに口角を吊り上げた。

「リリーたん見つけたでござるよぉ。ずっとずぅっっと探してたでござるよぉ。セシリアたん程ではないにしても、小さくて可愛いでござるなぁ。特にその怯えた表情。でゅふふ、拙者には見えてるでござるよぉ。ゆっくりねっとりじっくりと弄られ焦らされて涙と恐怖と絶望と羞恥に染まった赤い顔が拙者を迎え入れた瞬間に爆発し、絹のような悲鳴を上げる声も、疲れ果て声も力も出せずに無力さを痛感し何もかもを諦め瞳を濁らせる姿も! セシリアたんが手に入った暁には毎日朝から晩まで一緒に可愛がってあげるでござる。楽しそうでござるなぁ。この世界に来て本当に良かったでござるよ。さぁ拙者と来るでござる」

 粘ついた声色で淀みなく妄想を垂れ流す三日月ウサギに、リリーが怯えた様子でカイトへしがみつく。

「大丈夫だ。少し離れてな、すぐに終わらせる」

 カイトがインベントリから剣を取り出し、素早く臨戦態勢を取った。

 この狭い室内では下手に大型の盾を使えない。不利は承知だがやるしかなかった。

「邪魔くさいでござるな。愛しのリリーたん、今すぐそっちに行くでござるよ。ちょっと待ってて欲しいでござる」

 三日月ウサギもまた背中に装備したカタールを抜き放つ。合図はない。短く息を吸った瞬間、刃と刃が激突して火花を散らした。


「遅い遅い遅いでござるよ! ドン亀如きが拙者に追いつけるとでも思ってるでござるか!」

 タンクのカイトがAgi重視のアサシンに攻撃速度で勝てる筈もない。

 どうにか致命傷を避けはしているが、身体中の至る所に傷が増えていく。

「これで終わりでござるぅぅぅぅっ!」

 左からの袈裟切りを防いだ瞬間の隙を狙って、三日月ウサギのカタールがカイトの腹に迫る。

 避けられるタイミングではないし、弾く為の武器もない。

 だがカイトは三日月ウサギが勝利を確信し、カタールを突き入れてくるこの瞬間をずっと待っていた。

「リフレクトダメージ!」

 三日月ウサギの瞳が驚愕に見開かれる。しかし、体重をかけて踏み込んだ攻撃は既に引き戻せない。

 剣を持っていない左腕が迫りくる刃を強引に掴み、肉が削がれるのも構わず押しやる。

 致命傷だった一撃は軌道が逸れ、脇腹を深々と貫くに留まった。

「ぐぁっ……」

 引き抜かれたカタールがぶちりと音を立てて肉を切り裂く。

 焼ける様な激痛にカイトが呻き声をあげ、とめどなく溢れる血溜まりの中へどしゃりと崩れ落ちた。

 攻撃を受けていない筈の、三日月ウサギの身体と一緒に。

「痛いでござるぅぅぅぅぅっ! 貴様、守護者でござるかっ! くそ忌々しいっ……!」


 職業間には相性がある。

 中でもとりわけ、近接アタッカーと守護者の相性は最悪と言っていい。

 高い防御力に加えて多彩な自己防御スキルを持つ為、攻撃が通りにくく、あまつさえダメージを与えてもリフレクトダメージによって跳ね反されるのだ。

 カタールの突き刺さった脇腹と同じ場所を苦しげに押さえた三日月ウサギは隙だらけのカイトに追撃を見舞うことなく後ずさる。

 このまま戦っても良くて相打ち、騒動を聞きつけたプレイヤーに囲まれれば一方的に討ち取られかねない。

「仕方ない、セシリアたんを手に入れる為でござる。りりーたんは諦める覚悟でござるよっ!」

 取り出したポーションを一気に仰いで傷の痛みを和らげた三日月ウサギは次いで、小さな短刀を取り出すとリリーに向かって投げつける。


「っ! させるかっ」

 脇腹に負った傷のせいで攻撃その物を防ぐことはできない。

 カイトが使ったのはプロヴィデンスと呼ばれる、ダメージを肩代わりするスキルだ。

 リリーの肩に短刀が刺さると同時に、カイトの肩から血が吹き出る。

 しかしこれで、リリーへのダメージはない筈……だったのに、背後から何か重い物が落ちたような衝撃が床を伝った。

「リリー!?」

 振り向き叫んでみても返事はない。とても驚いて倒れたようには見えなかった。

 傷の痛みも忘れて駆け寄ると身体を抱き起す。息はしているが荒く、呼びかけても目は閉じたままだ。

「何をしたっ!」

「毒でござるよ。ただし普通の毒ではないでござる。拙者達、選ばれた暗殺者(アサシン)だけが使える上位の衰弱毒で、あと2、3時間もすれば死に至るでござろう。色々な人間で試したでござるから、間違いないでござるよ。セシリアたんに伝えるでござる。リリーたんを助けたければ一人で今から言う場所に来るでござると!」

 プロヴィデンスで肩代わりできるのは対象へのダメージだけで、状態異常は含まれない。敵もまた対人戦の経験があるのだ。

 最後に場所を告げると、軽業師のように窓から飛び降りる。追いかけっこでは三日月ウサギの方に分があった。


 上位アサシンの毒は特殊な解毒剤を触媒にした解毒スキルでしか治せない。

 その解毒スキルを使用できるのもまた、上位アサシンだけだ。つまり、上位アサシンでしか治せない。

 システム的な制限がないこの世界なら解毒剤だけでも解毒できるかもしれないが、用途が特殊過ぎるせいで一般プレイヤーが持っている筈がなかった。

 勿論カイトのインベントリにも解毒剤はないし、セシリアのインベントリにもないだろう。

 敵の狙いはリリーを囮にセシリアをおびき寄せる事だ。

 この場所もいつ再び襲撃されるか分からない。別の、どこか安全な隠れ家を探さなければ。

 リリーを安静に寝かせられる場所で、かつセシリアもすぐに気付いてくれる場所。

 一番最初にセシリアが逃げ込んだ宿の話が脳裏を掠めた。これならきっと気付いてくれる。

 戦闘で飛び散った家具の中からメモ帳を探すのも煩わしく、剣で壁にメッセージを刻んだ。

 取り出した回復ポーションを一息に仰いだ後、リリーの身体を身長に抱き上げて部屋を飛び出した。






 予想通り、セシリアが最初に利用した宿屋に居たカイトと合流するものの、リリーの容態はますます悪くなっている。

 セシリアが使える最高位の回復魔法なら一時的には楽になるようだが、またすぐに戻ってしまう。

 しかも戻る感覚がどんどん短くなっており、いつまでも通用するとは思えなかった。

 既に襲撃から数十分も経っている。タイムリミットは早くて1時間と少しだ。

 いや、まだ幼いリリーの体力ではもっと短いかもしれない。

「頼むよ、目を開けてくれ……」

 フィアはここに来てからずっと、目を開けてくれない妹の手を握って声をかけているが反応はない。

 彼はカイトを一度も責めなかった。多分それは、カイトを信じているからだろう。

 その姿が痛々し過ぎてセシリアは見ていられなかった。


「リリーさんを助けましょう」

 悩んでいる時間なんてない。死んだらそれで終わりなのだ。最悪の瞬間が訪れる前に手を打たなくては。

 彼女を助けるには解毒剤を手に入れるしかない。方法は選べなかった。

「ウサギの所に、行くのか……」

 助けられなかった負い目があるカイトは行くなと言えない。

「ダメだ……。リリーをこんな風にしたのはそいつなんだろ? そんな危険な奴の所になんか行かせられるか」

 止めたのはフィアだった。リリーの手を掴んだまま、震えた声ではっきりと口にする。

「自分を犠牲にしないって約束したの、もう忘れたのかよ」

 勿論セシリアだって忘れた訳ではない。でも今は、そんな事を言っている場合ではなかった。

「リリーさんが死んでもいいんですかっ!? 私はそんなの嫌です!」

「俺だって嫌に決まってるだろッ! だけどセシリアが犠牲になったんじゃ何の意味もないんだよ! それくらい分かれよ! 分かってくれよ……ッ」

 涙で滲んだ声にセシリアもそれ以上何も言えなくなる。

 フィアが肉親であるリリーと同じくらい自分のことを大切に思ってくれているのは嬉しい。

 でも、手をこまねいて良い理由にはならない。

 解決の糸口は何処にも見えなくて、ただ時間だけが刻々と過ぎて行った。


「なら、私があいつの所に行かないで、リリーさんを治せればいいんですね」

 不意にセシリアが俯いたまま尋ねる。

「何かあるのか……?」

 ほんの少しの期待を滲ませて、フィアとカイトが視線を上げた。

「私の質問に答えてください」

「……そんな方法があるならいいな」

 答えたのはフィアだけだ。

 長年の付き合いのあるカイトは、セシリアがまたよからぬことを考えていると思っているのだろう。

 そしてそれは概ね間違っていなかった。

「リリーさんを連れて城塞都市アセリアへ行きます。帽子屋なら……いえ、お茶会なら上位アサシンも揃えている筈です」

 三日月ウサギに頼らずに解毒剤を手に入れる方法はもう一つだけ残っているのだ。


「ダメに決まってるだろ! 帽子屋ってのはお前を襲うよう唆した奴なんだろ? そんな奴の所に……」

「フィアはさっき良いと言いました。その約束を破るなら、私もフィアとの約束を破ります」

 フィアの台詞を遮ってセシリアは言い切る。とんだ暴論にフィアは目を丸くしていた。

「選んで下さい。フィアが約束を破って私があいつの所に行くか、フィアが約束を守って私が帽子屋の所に行くか。選べないんだったら私が勝手に決めます」

 セシリアに譲る気はない。もうこれ以外に方法はないのだ。

 誰が何と言おうと、強引に、力尽くでも押し通すつもりでいる。

 本気具合が伝わったのだろう。ならば、とフィアはもう一つ条件を付ける。

「……俺も連れていけ」

 本当は連れてなんて行きたくない。でもこれ以上口論を続けている余裕もない。

 男2人が手を組んでセシリアを物理的に止めれば、きっと次に目覚めた時、リリーの身体は冷たくなっているから。

「分かりました。リリーさんを抱き上げてください。ポータルゲートの展開をします」


「待てよ。帽子屋の所に行く意味を分かってるのか!?」

 慌てたのはカイトだ。血相を変えてセシリアを遮る。

「もうこれしかないんです」

 セシリアの目はどこまでも本気だった。邪魔をすれば魔法の1発や2発くらい撃ちかねない。

「なら俺も行く。またお前だけ行かせられるか!」

 ならばせめて一緒に行きたい。けれどセシリアはそれも優しく拒絶した。

「カイトはダメ。何があったのかケインさんに伝える必要がある。だから残って」

 ただの連絡係とは言えど、重要で絶対に必要な役目だ。全てを知るのがここに居る3人だけなら、誰か一人は残らなければならない。

 カイトも、その役に自分が一番ふさわしいことを理解していた。

 理解していたからこそ、受け入れられない。

「……っけないでよ。なんでいつもいつもそうなのよ!」

 カイトの口調を忘れて素のままヒステリックに叫ぶ。

 セシリアはそんなカイトに今にも泣き出しそうな危うい笑顔で笑いかけ、

「ごめん。……でも信じてるから。私を助けに来てくれるって。だからお願い、分かって」

 絶対に拒絶できない卑怯な言葉を押し付けた後、背後に展開したポータルゲートに乗って目の前から姿を消した。






 城塞都市アセリアに転移したセシリアは外からくるお客様用に都市内部まで案内する馬車を捕まえると、10枚の金貨を投げつけるように渡し、急病人が居るから急げと脅しつけた。

 全力の支援を馬にかけ、息切れするより早くヒールで回復し、休む暇を全く与えずに爆速で駆け抜けると騎士団に立ち寄る。

「これを、この騎士団で一番偉い人に見せてください」

 宿を出る前に書いた手紙を叩きつけるようにして受付の女性へ渡した後、呼び止める声を無視して再び馬車に飛び乗り、お茶会の屋敷に転がり込んだ。

 そして今、帽子屋に解毒剤を渡して貰えるよう交渉している。


「……話は分かりました。上位アサシンの毒は怖いですからね、私も解毒剤を常備しています。これがそうですよ」

 言いたい事は沢山あった。自由の翼に来てありもしない情報を流して混乱させたのは紛れもない敵対行為だ。

 丁度良く解毒剤を持っているのだって、三日月ウサギと何らかのつながりがあるに違いない。

 だが、今はその全てを呑み下し、ひたすら平身低頭を貫きお願いする。

「渡すのは構いません。ですが、これはこれで貴重な物でしてね。代わりに我がお茶会へ参入して頂きたいのです」

 何らかの条件を課されるであろうことは分かっていた。何を出されても受け入れると、最初から決めている。

「構いません」

 帽子屋は即答したセシリアを見て満足げに頷くと、すぐ傍に近づき、ポケットから銀の輪を取り出した。

 隷属の首輪。それを着けられたら多分、自力で逃げるのは絶望的だろう。

「では、こちらを着けて頂けますね? この輪は魔力で構成された、そこにあってそこにないものです。貴女に受け入れるつもりがあるなら輪は首を抜けますから」

 それを受け取り首に近づける。

「……その前に、リリーさんの治療を。それが偽物だとも限りません」

 帽子屋はくすくすと笑った後、フィアに向かって瓶を投げた。

「どうぞ。この帽子屋、嘘は付きません。ですがセシリア嬢、もし治ったのにその輪を拒んだなら……」

「分かってます。貴方が約束を守るなら、私も守ります」

 拒絶すれば後ろの2人を殺すつもりなのだろう。


 薄い桃色の液体はリリーの状態を劇的に改善した。

 飲ませてから10分もしないで熱が下がり、荒かった呼吸が安定する。

「セシリア嬢ならレメディウムを覚えておられるでしょう。彼女に使ってあげなさい」

 予想外の申し出にこれ幸いと、言われるがままにレメディウムを発動した。

 暖かい光が身体を包み込み、次の瞬間、閉じられていた瞳がぱちりと開く。

「リリー!」

「兄様……? 私、どうして……」

 自力で起き上がった妹に、フィアは涙しながら抱き締めた。もうどこにも異常は見られない。

 そんな感動的な場面を帽子屋の拍手が水を注す。……分かっている。今度はこちらの番だ。

「お姉様……?」

 村生まれとはいえ、幾度か耳にした事も、話に聞いた事もあるだろう。

 銀の首輪はこの世界共通の忌み嫌われる装飾具だ。

 セシリアはその輪を自らの意志で首に押し当てる。

「なにを、していらっしゃのですか……」

 寝ぼけていた目を見開いて、リリーが声を上げた瞬間、輪は何の抵抗もなくするりとセシリアの首に収まった。


「くはははは……! ようやく手に入れた! これで私は貴女を超えた!」

 芝居がかったトレードマークの敬語もかなぐり捨てて、帽子屋は気ちがいじみた笑い声を上げ続ける。

「苦労しましたよ。結局貴女は私が仕掛けた3つの罠の内、2つを見事に掻い潜って見せたんですから」

 1つ目のケルベロスはただの目くらましだった。

 分隊に分かれた所を襲っても、親方やユウトといった高レベルプレイヤーに当たれば負ける。

 サモナーの3人はただの捨石。邪魔な狩組を1人でも減らせれば儲け物程度にしか考えていない。

 本当の目的はセシリアの前に分かりやすい餌をぶら下げて集中させる事。

 かつてセシリアが言っていたように、答えを求めている人の前に分かりやすい餌をぶら下げると、それが答えだと思い込んで他の可能性を考慮しなくなるのだ。


 2つ目の自由の翼へ堂々と姿を見せ、扇動するのは多少なりとも成功の見込みがあった。

 期待が大きければ大きいほど、裏切られた時の絶望もまた大きい。

 帰れると浮かれていた観客を煽り、絶望の淵に叩き込み、混乱させた上で操るのは実に簡単だった。

 これだから働く無能共は早くに間引くべきなのだ。

 工作員を紛れ込ませ、役者に台本を喋らせるだけで場の雰囲気に踊らされる馬鹿しか居ない。

 まぁ確かに、中には空気に流されることなく異を唱える多少骨のある者も居た。

 理解できない理論を振りかざす大馬鹿者も居た。

 だがそんな物、大多数の意見の前には塵にも等しい。

 この世界で優先されるのは1の天才ではなく、9の無能なのだから。

 あとはセシリアに少なからぬ怨恨を持つ無能共を唆して襲えばいい。

 ゲーム時代に直結だっただけあって、セシリアの身体をチラつかせるだけで食いついてきた。

 自分の欲望を制御できない人間ほど滑稽なものはない。

 しかし、これは所詮自分以外の誰かを利用する方法に過ぎない。


 3つ目の三日月ウサギを使う方法こそが、最初からただ一つの本命だった。

 セシリアがこの2人を大切にしている事はすぐに調べがつく。

 本人に弱点がなければ周りを狙えばいいだけなのだ。

「自分一人なら弱点などないと言うのに、わざわざ自分以外の場所で、それも致命的な弱点を作るなど、結局は貴女も愚か者なのですよ! 私が貴女に負ける理由などない! 何故なら私こそが王の器を持つのですからッ!」

 奇声染みた嘲笑を響かせて帽子屋は笑う。


「二つ、お願いがあります」

 帽子屋の声が鎮まるタイミングを見計らってセシリアが頭を下げる。

「分を弁えない提案ですが、今は気分がいいですから。話すだけならご自由にどうぞ」

「2人はもう必要ないはずです。このまま逃がしてください」

「ええ、構いませんよ。どこへなりとも勝手に行けばいい。ただし最近は物騒ですからね。襲われる可能性があるかもしれませんが、私のせいではありませんしね」

 2人がセシリアの弱点だと言うことは、既に周知の事実。

 万が一の可能性を考慮して確保して置こうと考えるのは当然だ。人を人とも思わない帽子屋が情けをかけるはずがない。

 これ見よがしに襲うと告げて反応を楽しんでいるのだろう。

 湧き上がる怒りを押し殺して、セシリアはもう一つのお願いを口にする。

「もう一つは、2人と話す時間をください」

「最後のお別れですか。良いでしょう、ただしここで済ませて頂きますよ」

 帽子屋の性格から考えて、この手の話を嫌うとは思えず、予想通り楽しそうに許可を出す。

 セシリアはその場でくるりと回ると、寄り添いあう2人に向かい合った。




「2人とも、今から大切なこと言いますから、ちゃんと聞いてください」


 もしかしたらこれが最後の言葉になるのかと思うと酷く感慨深い。


「これはが隷の証だって事、知ってますよね。私はもう人じゃなくて、彼の所有物になりました」


 何を言うべきかは、もうとっくに決まっていた。


「自慢になりますけど、自分の見てくれが良いことは分かってます。これからきっと、口にするのも躊躇われるような酷いことを沢山されるんでしょう」


 多分それはとてもひどいことなのだと思う。


「それもこれも、全部2人のせいです」


 だってしょうがないじゃないと自分に言い訳した。

 ……二人はとても優しいから。


「森の中の村でついて来たいと言われた時、私は外の世界には危険が沢山あるって言いましたよね。なのに無理やりついて来て、正直良い迷惑でした」

 こうでも言わないと諦めてくれそうにないから。


「2人とも大嫌いです。もう二度と、私の前に顔を見せないでください」


 涙なんて少しも見せずに、これ以上ないくらいの笑顔で言い切る。

 2人はずっと無言で、唖然と、呆然と、何を言われたのか全然分からないと言う顔でセシリアを見つめていた。




「これはこれは、惨い事を言うではないですか!」

 帽子屋はセシリアの真意に気付いている。

 わざと突き放して、自分の事を忘れて幸せに暮らせとでも言うつもりなのだろうか。

 残念ながら、そんな未来は絶対に訪れない。何故なら2人もまた、ここで奴隷になる運命だからだ。

 おかしくておかしくて仕方がないといった調子で、帽子屋は尚も笑い続ける。

 そこへ突然、メンバーらしき一人が飛び込んできた。

「マスター! 騎士団が突然来て、フィアと言う少年と、リリーと言う少女を引き渡せとのことです!」

 彼の声に、帽子屋の笑い声がぴたりと止まり、信じられないといった表情でセシリアを見る。

「試合には負けましたけど、勝負は私の勝ちです」

 セシリアの勝利宣言と同時に、完全武装した騎士団が雪崩込んでくる。


「命令だ。ここに居る2人を速やかに引き渡してもらう」

 隊長らしき男の命令で数人の騎士が近づき、フィアとリリーを立ち上がらせると入り口へ促す。

「……どういうことでしょうか。我々はバロン様の許可を得て極めて健全な商売を営んでおります。事前連絡もなしにずかずかと上がり込むのは不躾ではありませんか? 彼らとは大事な話の最中です。2人を置いてお引き取りくださいますよう、お願い申し上げます」

 騎士団と協力関係にある帽子屋は強引な手を使えない。

 権力者の名前を絡めて要求するが、騎士団は一歩も引かなかった。

「最重要保護命令が出た。以後、2人の身柄はリュミエール領主グレゴリー伯の預かりになる。異議申し立ては王立裁判所を通し、両者の話し合いで解決せよ。以上だ」

 隊長は命令書を帽子屋に手渡すと、撤収の一声で部屋を後にしようとする。

 だがその直前でフィアが暴れた。

「待てよ、一体どういうことなんだよ!」

「グレゴリー伯の領主代行権限の元、フィア、リリーの2名を保護下に置き、それぞれ騎士学校と魔術師学園に入学させよとの命令が今しがた届いたのです」

 セシリアだって、帽子屋が2人を逃がしてくれるとは思えない。

 対策を施すのは当然で、手元にあった役立ちそうな物を使わせてもらったのだ。

 帽子屋の背後に居る貴族の権力にグレゴリーの権力が勝てるかは賭けだったが、この調子だと勝負にならないくらいの圧倒的な差があるらしい。


「セシリア……。最初からこうするつもりだったのか!? なんでだよ! なんでこんな方法があるなら、お前の名前がないんだよ!」

 決まっている。フィアとリリーの2人だから帽子屋は踏み止まっているのだ。

 もしそこにセシリアの名前があれば、きっとここに来た騎士団員を皆殺しにしていた。

 そしてギルド内の誰かをスケープゴートにして、自分だけはまたしても生き残る。

「ふざけんなっ! こんなの……こんなの認められるかよ。離せっ。そいつが原因だっていうなら俺が斬る!」

 尚も暴れるフィアに隊長がずかずかと近づき、頬を殴りつけ、襟首を掴みあげると耳元で囁いた。

「少年、今は抑えろ。幾らグレゴリー伯の保護命令でも目の前で人を斬れば守りきれん。訳有りなのは見て分かるが、この命令を届けたのはあの少女だ。今はその気持ちを少しは汲んでやれ。奴等がキナ臭いのは周知の事実だが、あれでも上級貴族の支援を受けている。もはや手は出せぬ」

 賽は投げられた後で、フィアはその賽に気付けなかった。

 このまま斬りかかったとしても勝てる相手でないのは分かっている。セシリアがどんな思いで助けようとしてくれたのかも。

 フィアは大人しく項垂れ、騎士に促されるまま入り口を潜り、姿を消した。


 いつからか他人を信じられなくなったせいで、もうずっと忘れていた。

 信じた相手を裏切るのはこんなにも辛くて痛いことだったのか。

 フィアがいつまでも抵抗するから抑えるのが大変だったけど、もう行ってしまったのだから我慢しなくても良い筈だ。

 抑えていた涙が頬を伝い、絨毯にぽたぽたと染みを作った瞬間。

 床を踏みつける大きな音がすぐ傍から聞こえた。

 驚いて見上げると、行ってしまった筈のフィアが荒い息を繰り返している。

 服が盛大に着崩れているのは無理やり抜け出してきたからだろう。

「嫌われても良い。必ず助けに来るから、だから待っててくれ」

「……本当は大好きに決まってるじゃないですか。少しは、どうしてあんなこと言ったのか考えてください」

 帽子屋は本当に危険なのだ。騎士学校も魔術師学園も王立機関だからおいそれと手を出せるようなものじゃない。

 リュミエールの中が安全だったように、篭っていれば危険はないのだ。

 でもフィアはそれを嫌だという。理由なんて簡単だ。

「俺もセシリアが大好きだから、絶対に諦めたりしない」

 戻ってきた騎士がフィアの両腕に手を伸ばした瞬間、フィアはセシリアの両肩を抱いて、そっと唇を合わせた。

 あまりの衝撃に流れていた涙が嘘のように引っ込む。

 触れ合ったのはほんの一瞬だったはずなのに、まるで今も続いているかのような感触が残り続けている。


「※$&%Иっ!?」

 声にならない悲鳴が上がる。感傷的な気分も何もあったものではない。

 頭の中がぐらぐらと煮えくり返り、目の前の景色が現実なのか幻なのかすら判断できなくなる。

 キスされた。フィアに。もとい男に。なのにそんなに嫌じゃなくて。寧ろ鼓動が早くなって顔が熱くなって。

 あらゆることがどうでもよくなった気がした。

 そうだ、諦めるにはまだ早い。生きている限りは何にだって抗え続ける。

 今度こそ連行されていくフィアを、帽子屋は忌々しそうな視線で追うが、すぐに気持ちを切り替えた。

「まぁいいでしょう。どの道あの2人は然程重要ではありませんから。お茶の席を用意しましょうか。貴女とは話したいことがたくさんあるのですよ」

 当初の目的であるセシリアはすぐそこに居るのだから。

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