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World's End Online  作者: yuki
第四章 それぞれの想い
60/83

気ちがい達のお茶会-2-

 隷属の首輪を装着している時点で厄介事を抱え込んでいるのは目に見えていた。

 同じプレイヤーだとしても、地盤の固まっていないこの街で巻き込まれるのは危険が伴う。

 どうしたものかと悩んでいるセシリアの姿は、男の目にもはっきりと分かったのだろう。

 ダメ押しとばかりに彼はもう一言付け加える。

「助けてくれ! 俺達は皆、帽子屋にハメられたんだ!」

 途端にセシリアの目の色が変わった。

 帽子屋の情報が手に入るなら多少危険があるとしても話を聞いてみるべきだ。


「乗って。御者さん、急いでこの場を離れてください」

 扉を開けて男を呼び寄せると、インベントリから銀貨を数枚取り出して御者にそっと握らせる。

 御者はどうみても訳ありの青年と手のひらの銀貨を交互に見比べた後、満面の笑みを浮かべてから銀貨を懐へと仕舞い込んだ。

 どうやら天秤は銀貨の方に傾いたらしい。言われた通りやや急ぎ足で騒動から遠ざかるべく馬車を駆る。

 振動の増した車内で、青年は安堵からか涙さえ滲ませていた。

「助けてくれてありがとう。何とお礼を言ったらいいか……」

 何度も繰り返された謝礼の言葉には苦難を超えた実感と言うべきものが籠っていて、嘘偽りがあるとは思えない。

「帽子屋にハメられたって言ってましたよね。どういうことか教えてください」

 インベントリから取り出した飲み物を勧めつつ、落ち着きを取り戻した彼に事情を尋ねると神妙な面持ちで頷いた。

「何日前かは覚えてない。あれは突然ゲームからこの世界に飛ばされた直後の出来事だった」

 時間は今から1カ月半ほど前、転移直後に起こった城塞都市アセリアまで遡る。






 あの日、セシリアがネカマである事を暴露した瞬間、城塞都市アセリアでのどかな昼下がりを満喫していた青年もまた、この世界に転移させられた。

 唐突に変わった風景や、どこからか湧き出してきた無数の通行人に面食らったのは言うまでもない。

 辺りを見渡せば自分と同じギルドの仲間が変わり果てた風景に唖然と立ち尽くし、壮大な景色を見つめていた。

「なんだこれ。なんかのイベントか?」

 誰もがおかしいと感じながらも、まだここがゲームの中だと疑わずにイベント情報が記載されているメニュー画面を開こうとする。

 しかし手は空を切るばかりで、誰一人としてメニュー画面を表示させられなかった。

「バグか? リログすりゃ治るかなぁ」

「コマンド、ログアウト!」

 ゲーム中に手で画面操作を行うのが面倒だと言うユーザーの為に思念や音声によるコマンドの発行もできるようになっている。

 よく使われるログアウトコマンドが数人の口から漏れるものの、いつまで待っても反応はない。


「おい、どういうことだよ!」

 短気なプレイヤーが不安から怒鳴りつける。

 荒い口調に自然と肩を寄せ合っていた女性プレイヤー達がびくりと震えた。

「落ち着けって、なんかのバグだろ? すぐにアナウンスがあるさ」

 場の空気が悪くなっていくのを感じて、気の利く男性が柔和な笑顔でそれとなく宥める。

 怒鳴ったプレイヤーも、自らの短気を悟ったのだろう。

 照れくさそうに鼻を掻いた後、わざとらしい明るい声で「そうだよな、こんなこともあるよな」と何度も頷いて見せた。

 固くなっていた空気が柔らかく変わり、緊張で張りつめていたメンバーの顔にも笑顔が戻る。

 と、不意に空を見上げていた誰かが不思議そうな声を上げた。

 つられるように揃って空を見上げると、数えきれない程の紙がはらはらと、まるで雪のように舞い降りてくる。


 内容は帽子屋がセシリアに見せたものと変わらない。

 World's End Onlineの成り立ち、プレイヤーの状況、現実に帰れるアイテムと、その設置場所の箇条書き。

 あまりに現実離れした内容に誰もが息を呑み静まり返る。

 食い入るように紙面を見つめ、書かれた文章の意味をどうにか飲み込もうと必死だった。

「なんだよ、これ……」

 ありえないと、馬鹿馬鹿しいと、茶化す事ができればどんなに幸せだったか。

 不意に、ギルドメンバーの一人が腰に付けていた短剣を引き抜いた。

 自然と注目を集める中、恐る恐るではあるが刃を自身の腕に突き立てて引く。

 幾人かがまじまじと見つめ、幾人かが咄嗟に目を閉じた瞬間、ぷつりと皮膚を裂く音が聞こえたような気がした。

 カラン、と硬質な音を立てて石畳の上に短剣が転がる。そのすぐ傍に、彼の腕から垂れた血の滴が真っ赤な花を一つ、また一つと咲かせていた。

 ゲームではPvフィールドを除いた全域でプレイヤー同士の攻撃が禁止されており、剣を刺そうとしても弾力性のある見えない壁によって弾かれる。

 まして、残虐な表現とみなされる流血は実装すらされていなかった。


「は、はは……。嘘だろ。痛ぇよ、これ……」

 自らの腕を傷つけた男性が笑っているとも泣いているとも取れる表情で傷口を抑えながら震える声で自嘲気味に呟いた。

 ある筈のない痛覚が確かに男性を襲っていたのだ。

 思いのほか深く傷つけていたのか、指の隙間から漏れた血は腕を伝い地面に滴っている。

 ざ、と彼の周囲に居たギルドメンバーが丁度1歩分、身を引いた。その瞳は例外なく恐怖で彩られている。

 目の前の光景が信じられなくて。手にした文面を信じたくなくて。

 けれどそれは無駄な行動だった。

「探さなきゃ……。ねぇ、ここに元の世界に帰れるアイテムがあるんでしょ!? 早く探して帰ろうよ!」

 誰かの言葉に誰もが手にしていた紙面を見た。そこには確かに、現実へ帰還する為の方法とアイテムの場所が明記されている。

「ここから近い、行くだけ行ってみよう」

 真っ先に冷静さを取り戻したのは、先程短気なプレイヤーを諌めた男性だ。

 ギルドの溜まり場として使っていたこの場所から地図に書かれた場所まで、ほんの数十メートルくらいで辿り着く。

 真っ先に駆け出した彼を追いかける形で他のギルドメンバーが列をなして後に続いた。




 結論から言って、彼らは間に合わなかった。

 或いは、混乱せずに駆け出せていればアイテムを手にすることもできたかもしれない。

 仮定の話とはいえ、もたついてしまった数分間は重い代償として圧し掛かることになった。




「いやぁ、まさか偶々立ち寄った場所でこんな一大イベントが起こるなんて、拙者ついてるでござるよ」

 城塞都市アセリアの内部城壁に隣接した、今はもう誰も使っていない教会前に設置されている水も出ない寂れた噴水の上。

 枯草で編まれた帽子を被り、目だけを覆う白い仮面をつけた男がさも愉快そうに笑っていた。

 手には眩い銀色の光が漏れだす宝珠をしっかりと握っている。

 そこへ遅れながら先のギルドメンバー達が、続いて同じ目的の見知らぬプレイヤー達が続々と転がり込んできた。

 噴水の上に佇んでいる男へ訝しげな視線を投げかけつつも、見慣れぬ宝珠と降ってきた紙が握られている手に気付いて声を上げる。

「おいそこのあんた、それが帰還用のアイテムなのか?」

 必死の叫び声に仮面の男がぐるりと向き直る。

 集まりつつあるプレイヤーを胡乱げな視線で見下ろすと、肌にまとわりつくようなどろりとした粘り気のある声色で言った。

「あんたとは失礼でござるな。拙者には三日月ウサギと言う素晴らしい名前があるでござるよ。女の子は親しみを込めてうさぎたんと呼んで欲しいでござる」

 ふざけているとしか思えない物言いだったが、言葉の節々から滲み出る不快感は男にもはっきり感じ取れるほど刺々しい。

 一瞬怯んだものの、彼にだって重要な目的がある。全身を巡る緊張を喉を鳴らして飲み込んだ。

「そ、そうか。じゃあ三日月ウサギさんよ。その手に持っているのが帰還用のアイテムなのか?」

 それが三日月ウサギの持つ【威圧】というスキルの効果だったことにすら気づかず、男が再び問いかける。

 すると唐突に滲ませていた不快感を薄れさせ、びっくりするくらい快活に笑って見せた。

「そうでござろう。手にしているだけでも未知の力がびんびん感じ取れるでござる。おかげで先程から身体の一部がビンビンしっぱなしでござるよ」

 足場の悪い筈の噴水の上で言葉に合わせるように腰をぐいぐいと突き立てる下ネタに周囲から失笑が漏れた。


「なら早く使ってくれ! さっさと本物の世界に戻りたいんだ!」

 悪ふざけに軽い眩暈を覚えつつ、男は早く使うよう促す。

 しかし三日月ウサギは意味が分からないとばかりに首を傾げた。

「何を言っているでござるか。ここが本物の世界でござろう」

「は……? お前、何言って」

 咄嗟に聞き返した男にびしりと手のひらを突き出して制止を求めると、三日月ウサギは先を続ける。

「ゲームの時からずっと思っていたでござるよ。拙者の居るべき世界はここではなく、こちらなのだと。きっと生まれた場所を間違えたのでござる。いやいや、もしかしたら魔王によって封印されたのかもしれないでござるな。拙者がゲームであれほどまでに強かったのも、きっとこの世界と密接な関係があったからでござるよ。魔王の策略によって隔離されていた拙者がゲームを通じて元の実力を取り戻し、封印を破るに至ったので……」

「馬鹿げたことをぬかすな!」

 延々と垂れ流される妄言に男の我慢が限界に達し、これ以上付き合っている暇はないとばかりに声を荒げた。

 だが、三日月ウサギは薄ら笑いを浮かべるばかりで応じようとしない。

「なら聞くでござるが、本当に帰りたいのでござるか? この世界の拙者はゲームと同じ最強のアサシンでござる。変わり映えしない毎日をただ過ごすよりよほど面白おかしく暮らせるでござるよ。拙者はいろいろ試したでござるが、外見も、ステータスも、スキルも、ゲームの時とまるで変わってござらん。1日2日なら楽しんでみたいプレイヤーも居るのではござらんか? どうせ帰るなら殺そうが犯ろうが好き放題できるでござるよ」


 まるで悪魔の囁きだ。粘り気のある三日月ウサギの言葉は集まったプレイヤーの心の奥底にどろりと纏わりつく。

 数人が小さな声で1日くらいならと口にしたのを、彼ははっきりと聞き届け、その唇をにんまりと釣り上げた。

「ふざけるなッ!」

 けれど依然として多くのプレイヤーは帰還を望んでおり、誰かの怒声に多くのプレイヤーが声を合わさる。

「良いからさっさと使えよ! ダンジョン潜ってるやつがいるかもしれないだろ!」

「お願いします、早くそれを使ってください!」

「悪ふざけもいい加減にしろや!」


 先程までの静謐さは一転。

 罵詈雑言の入り混じった騒がしいばかりの野次には、この世界に残りたいと願う少数派を包み隠そうとする意図が見え隠れしており、仮面で隠された三日月ウサギの目が不快感に染まった。

 やがて4人のプレイヤーが我慢の限界を迎え、力ずくで奪おうと手を伸ばした、瞬間。

「さっきからうるさいでござる。拙者に話しかけて良いのは可愛い女の子だけでござるよ。BBAと男は死ぬでござる」

 伸ばされた手が、近付きつつあった身体が、それらを支えていた足が纏めて4人分、何の前触れもなく細切れに寸断された。

 まるで風船が破裂したかのような勢いで四散した液体が、壊れて水の出なくなった噴水と最前線に立っていた一部のプレイヤーを色鮮やかに彩る。

 やけに血なまぐさい飛沫の正体を誰もがすぐには理解できず、しかし数瞬後、絹を裂いたような叫び声となって広場を満たした。

「これは拙者が手に入れた物。奪おうとするなら容赦なく殺すまででござる。さぁさぁ次は誰でござるか? 誰も来ないなら、拙者から行くでござるよ!」


 言い終えるや否や、恐怖と混乱で右往左往している一角に飛び込むなり、背に装着した1対のカタールを豪快に振り抜く。

 血に塗れた禍々しい真紅の刃は獣の牙のようにところどころが波打ち歪んでいる。

 最上位のダンジョンに出現するレアボスが握っていた物と同じ、アサシン系列が装備できる中でも特に威力の高いカタールだ。

 高いStrから放たれた一撃は鎧も、肉も、骨もまるで抵抗を感じさせずに素通りし、ぐちゃぐちゃになった臓腑を撒き散らす。

 1秒にも満たない僅かな時間で、間合いに入っていた4人のプレイヤーは胴を腹から2つに分断され、珍妙なオブジェクトと大きな血溜まりへ姿を変えた。

 視界の端に表示された緑色のバーは既に黒く染まり、ぴくりとも動かない。

 転がった肉塊はまるで凶暴な獣に食い散らかされたかのように凄惨で無残な有様だった。

「4名様元の世界にご案内でござる。魂くらいは辿りつけてると良いでござるなぁ」

 仮面の奥の瞳は愉悦に染まり、げひゃげひゃと耳障りな笑い声を立てながら、なおも肉塊を弄ぶ。

 常軌を逸した姿に集まっていたプレイヤーが脱兎のごとく駆けだした。


 だが、全員が一斉に逃げようとしたせいで密集していたプレイヤーは互いにもつれ合い肉団子のように転がる。

 すぐ傍に迫る脅威に腰を抜かす者も多く、立ち上がろうとしても容易ではなかった。

 そこへ三日月ウサギは楽しげに一つの提案を持ちかけた。

「拙者とこの世界に残りたい者は名乗り上げるでござる! 楽しい異世界ライフを保証するでござるよ!」

 誰かが引き攣った声でついて行くと叫ぶ。それが死にたくない一心だったのか、本気だったのかは分からない。

 一人が頷いた事で、瞬く間に賛同の流れができた。死ななければどうにかなる。中には三日月ウサギへ近付いた隙に奪おうと考えた者も居るかもしれない。

 一方で三日月ウサギはカタールをしまい、名乗り上げたものの立てずにいるプレイヤーへ手を貸すと、転がった肉塊の前に連れて来て上機嫌に言った。

「輝かしい未来の為にぐさっと行くでござるよ」

 人を、正確には人だった物を突き刺せと言われて躊躇なく実行できる人がどれだけ居るだろうか。

 まさかそんな事を言われると思わなかった騎士風の青年は大いに戸惑い、顔を青く染め上げる。

「どうしたでござるか? 景気付けだと思えばいいでござる。派手にぶち壊すでござるよ」

 三日月ウサギはどこまでも陽気で、どこまでも本気だった。

「出来るわけないだろ……!」

「そうでござるか。ならば仕方ないでござる」

 気が狂っているとしか思えない提案に青年が頭を抱えて後ずさるのを、三日月ウサギはさもつまらなさそうに眺めてから、いつの間にか引き抜いていたカタールを無造作に振るう。

 声を出す暇すらなく、逃げ出す隙すら与えられず、床にはまたひとつ血溜まりと肉塊が追加される。

 ただ同調するだけでは意味がない。彼の甘言に乗るのであれば、その魂を同じ狂気へと落とさねばならなかった。


 広場は混沌を極め、感情が爆発した喚き声と、襲い来る恐怖に泣き叫ぶ声と、助けを乞う震え声で支配される。

 一方で、三日月ウサギの条件に同調し、薄ら笑いを浮かべながら死体を傷つけるプレイヤーも出始めた。

 まるで三日月ウサギの狂気が伝播するかのように、新しく名乗り上げた大男は死体ではなく、逃げ惑うプレイヤー目掛けて剣を振るう。

 腕を切り飛ばされ、焼けた鉄板を押し付けられたかのような猛烈な痛みに喘ぐ男へ、三日月ウサギはインベントリから取り出した薬品を垂らした。

「スキルの効果を調べるのに丁度いいでござるな。これは猛毒薬といって、飲むと即死するらしいでござるが、どうでござろうか」

 恐らく、致死量は小指ほどのサイズの瓶を丸々飲んだ場合なのだろう。

 ただの一滴では即死するに至らず、死んだほうがマシとも思える苦しみが身体中を這い回った。

 息もできず、赤く腫れ上がった顔には毒々しい内出血の跡が次々に浮かび上がる。

 喉を掻き毟りながら助けてくれと懇願する様子を三日月ウサギは満足そうに絶命するまで眺めた後、次なる獲物を求めて立ち上がった。

 彼の持ち得る毒薬は他にもさまざまな種類がある。それを知る者は折り重なるプレイヤーの骨が砕けるのも厭わず、強引に押し退けて我先にと逃げ出す。

 たった数分しか経っていないというのに、広間は醜悪な地獄絵図と成り果てていた。


「人体実験も楽しいでござるな!」

 三日月ウサギは嬉々とした表情で這い出たプレイヤーに向けて凶刃を振るう。

 片足に向けて正確に吸い込まれた刃は、しかし次の瞬間、硬質な音を立てて弾かれた。

「皆様、敵はたかだか数人ですよ。剣を持って立ち向かう勇気がある者はこの帽子屋の後に続いてください」

 演劇に出てくる台詞のような大仰な言い回しに全プレイヤーの視線が集中する。

 彼はその場でシルクハットを胸に優雅な一礼をしてみせると、握った剣を三日月ウサギへと向けた。

「ウサギさん、何故こんな馬鹿げた真似をしでかしたのかは知りませんが、まずはそのアイテムを渡して貰いましょう」

 想定外の横やりに三日月ウサギは不快な顔をしたが、相手が帽子屋だと分かるや否や、底意地の悪いにやついた笑顔を浮かべる。

「これはこれは、臆病者の我らが主君、帽子屋殿ではござらんか。ゲームでは拙者達に何も言えず隅で震えていた癖に勇ましいでござるな。ここでも震えているだけならギルドのよしみで命までは取らないでござるよ」

 侮蔑の入り混じった挑発に、帽子屋はやれやれと呆れた仕草をしてみせる。

「勘違いして貰っては困りますね。何も言えなかったのではなく、何も言わなかったのです。ウサギさんが跳ね回る度に中々面白い舞台の見物ができましたからね。この帽子屋、気ちがいの奏でる戯曲に目がないのですよ」

 刹那、三日月ウサギの顔が憤怒に染まった。


 帽子屋までの一歩を踏み込み、手にしたカタールを大きく振るう。

 瞬きの暇もない俊足の一撃は防ぐことも避けることもできず、帽子屋の身体をこれまでと同じように分断する、はずだった。

 振り抜いた姿勢のまま、三日月ウサギの顔が歪む。あるべき手応えが少しもなかったからだ。

「まさか当たるとお思いでしたか? 踏み込みむ瞬間が丸わかりですよ。流石はアサシンなどと言う弱職で天狗になっているだけありますね」

「スニーク風情が調子に乗るなでござるッ!」

 上空に数メートルも跳んだ帽子屋に三日月ウサギが吠える。

 アサシンとスニークは同一職から派生した最上位職でコンセプトやパーティーでの役割も似ており、しばしばどちらがより優れているかで口論が絶えない間柄だった。

 いつの間にか取り出した1対の短剣を逆手に構え、迎撃せんと腰を落とす三日月ウサギに向かって帽子屋が斬りかかる。

 アサシンもスニークも分類的にはアタッカー。それも、耐久を落としてでも攻撃速度に特化する手数タイプだ。

 1発でもまともに当たれば勝負が決まりかねない。

 互いの獲物は対となる短剣とカタールの2刀。

 挙句にどちらもレベルカンスト達成者であり、瞬く間に交わされた斬撃は2桁に及んだ。

 視認するのが困難なほどの応酬を、帽子屋と三日月ウサギの2人はまるで示し合わせたかのように防ぎきる。

 カタールの一撃は短剣に比べると遥かに重い。

 体重を乗せた一閃を受けるのではなく、短剣の腹に乗せ持ち上げるようにして軌道を逸らし持前の小回りを活かして肉薄せんと踏み込んだ。

 短剣による連撃はカタールに比べると遥かに取り回しやすく早い。

 しかし、カタールの重い斬撃は踏み込もうとする帽子屋の足を的確に鈍らせ、間合いに近寄らせなかった。

 互いの武器の特性を最大限に生かした攻防は完全に互角で終わりが見えない。

 そんな勝負の行方を動かしたのは当事者の2人ではなく、三日月ウサギの呼びかけに応えた大男だった。


「一人で何ができるってんだ!」

 持前の戦斧を振りかぶり、帽子屋の無防備に思えた背中へと振りかぶる。

 だが凶刃が食い込むよりも早く、華麗な足捌きで大男の背後へと回った帽子屋は最低限の動作で大男の首筋に短剣を走らせた。

「水を注すとは、いささか思慮に欠けますね」

 両方の頸動脈を同時に断ち切られた大男は何が起こったかも分からずに血潮を噴き上げて絶命する。

 彼と帽子屋ではレベルが違い過ぎたのだ。

 背後に立ってからの大振りな攻撃など、目を閉じていても対処できてしまうほどに。

 けれど三日月ウサギにとって、このコンマ数秒程度の僅かな時間が勝機に変わる。

 大男の身体によって、今や帽子屋の視界は大きく遮られていた。その正面、すなわち大男の腹に向けて右手のカタールを勢い良く突き込む。

 背中から生え出た真紅の刀身に、帽子屋の反応がほんの数瞬だけ遅れた。

 互いに熟練のプレイヤーである三日月ウサギと帽子屋だけがその意味を正確に推し量る。

 "この攻撃は避けきれない"

 回避せんと身を引く帽子屋の腕が突き出た刀身に僅かばかり触れる。たったそれだけで帽子屋の腕は使い物にならなくなった。

 カランと短剣が1本、床に零れ落ちる。

 ぶらりと垂れ下がる腕は灼熱の炎に包まれたかのような痛みと熱を発し、指一本動かせなかった。

 両手が万全の状態でなければ三日月ウサギの応酬を防ぎきることなどできない。

 今踏み込まれれば2撃目で銅を裂かれるだろう。

「口ほどにもないでござるな! 拙者の勝ちでござるぅぅぅっ!」

 高らかに勝利宣言する三日月ウサギに対し帽子屋は悲壮な表情を……浮かべていない。

「残念ながらカーテンコールの時間ですよ、ウサギさん」

 阿鼻叫喚の叫び声に塗れていた広場が、今や粛然として武器を構えている。狙いは例外なく三日月ウサギへと向いていた。

 帽子屋が時間を稼いでいる間に、多くのプレイヤーが落ち着きを取り戻したのだ。


「なるほど、確かにこれは拙者が不利でござるな。致し方ない、ここらで失礼するでござるよ」

 負けを悟った三日月ウサギの動作は機敏だった。攻撃が殺到するほんの一呼吸分早く、自らの姿を消し去る。

「……っ! アサシンのスニーキングスキルです! 魔術師の皆様方、探査魔法の発動を!」

 幾人かの魔術師が慌てて探査魔法を展開する頃にはもう遅い。

 集まっていたプレイヤーの中へ紛れ込んだ三日月ウサギは人混みをかき分け路地の奥へ消える寸前だった。

 アサシンの移動速度は速く、探査魔法の範囲外に逃れられればスニーキングで位置の特定もできなくなる。

 このまま取り逃がしてしまうのかと息を呑んだ瞬間、或いは逃げ切れると確信した刹那、曲がり角から重装備の鎧を着こんだ騎士が続々と雪崩れ込み、三日月ウサギの退路を断った。


「貴様ら神聖なる王城の目前で何をしているっ! 今すぐ武装を解除して投降せよ、これはアセリア騎士団の命である!」

 彼らの言っている意味は分からなかったが、三日月ウサギを妨害できるなら何でも良い。

 しかし、三日月ウサギは狂気を迸らせながらカタールを抜き放つと、何の躊躇いもなく騎士達へと斬りかかった。

 一人で数十の、それも完全武装した騎士を相手取るなど笑止千万とばかりに、騎士達も応戦すべく剣を抜き放ち斬りかかる。

 だがそれは大きな間違いだ。

 三日月ウサギの攻撃は騎士達の剣を、盾を、鎧を薄紙のように易々と切り裂き絶命させる。

「この程度の雑兵で拙者を止めようなど、千年早いでござるぅぅぅぅっ!」

 くるくると回転しながら前後左右から襲い来る騎士をいとも簡単に、それもただの一撃で仕留める様は小さな嵐といっていい。

 このままでは逃げられると思ったプレイヤーが武器を手に三日月ウサギへ追い縋るが、その行く手を騎士達は平等に遮った。

「どいてくれ! あいつを捕まえないとまずいことになるんだ!」

「ならん! 何人たりともそこを動くな! 繰り返す、武装を解除して投降しろっ!」

 プレイヤーは怒鳴りこそすれ、無関係の人間を殺せない。

 騎士達もまた、不審者をのさばらせるわけにはいかない。

 互いの目的は同じだというのに、立場の違いから対立せざるを得ないのは悲劇としか言いようがなかった。

 三日月ウサギと彼に組する幾人かのプレイヤーがその隙を逃す筈もなく、見る見るうちに遠ざかり路地へと逃げ込まれる。

 追跡の望みはほぼ断たれたと言って良かった。


「あいつを取り逃がした! どうしてくれるっ!」

「黙れっ! 貴様らは何者だ!」

 唯一の帰還手段を取り逃したプレイヤーと、数多くの仲間を突然殺された騎士団は互いに怒鳴り合い、一触即発といっていい。

 それを治めたのは肩に負った傷を庇いながら近づいた帽子屋だった。

「皆様落ち着かれますようお願い申し上げます。この中に支援様は居りませんか。もし居りましたら我々と彼らの治療をお願い致します」

 先の功労者とだけあってプレイヤーは素直に帽子屋の申し入れを受け入れた。

 ぽつりぽつりと手を挙げた支援が、致命傷を受けつつもまだ息のあった騎士を治療したことで、騎士達もまた敵意がないと悟ったのか構えていた剣を納刀する。

 そうして事情を説明せよという騎士団に対し、帽子屋はこう告げた。

 遠い国から逃げ出した犯罪者を追い詰めたが、あと一歩の所で取り逃がしてしまったのだと。


 その場に居合わせたプレイヤーは否応なく騎士団に拘束されたものの、帽子屋は権力者に巧みな話術で取り入り、膨大な保釈金を支払って捕まっていたプレイヤーを解放させたばかりか、逃げ出した犯罪者を捕えるには自分達の力が必要だと売り込み、王都の貴族街にある屋敷を丸々一つ借り受けてしまった。

 ただ、詳しい経緯は帽子屋のみが知るところであり明らかにされていない。

 その後、三日月ウサギに対抗する為の戦力を集めるべく、どうやってか手に入れたこの世界での地位を使って城塞都市アセリア中のプレイヤーを纏め上げたのだ。






 想像していたより悲惨な顛末にセシリアもケインも何も言えず、ただただ耳を傾けるしかなかった。

 ずっと話し続けて語り疲れたのか、青年は渡された飲み物を一気に煽る。

「でもそれだけ聞くと、帽子屋が良い人のようにしか聞こえませんが……」

 セシリアの言う通り、今の話のどこにも帽子屋に嵌められたなんて要素は窺い知れない。

「問題はここからだ。あいつは自分の地位を使ってとんでもない計画を始めたんだよ」


 事が動いたのは、釈放されてから1週間ほどの時間が経った頃だった。

 プレイヤーの大部分はお金を持っておらず、廃人かつギルドマスターで攻城戦に使う資産を管理していた帽子屋の潤沢な資金源に頼らざるを得なかった。

 彼は溜めこんでいるお金がギルドの物であることを理由に、形式上と前置きして借用書の記入を求めた。

 帽子屋はプレイヤーの為に戦った英雄とさえ言われていた為、誰もが怪しむことなくお金を借り受け生活することになる。

 ふかふかのベッドがある宿屋、貴族が使う公衆浴場。暖かで栄養満点の食事が3食。

 元の世界と同じ水準の暮らしをするには莫大な費用が必要だったが、ただ借りて浪費するだけのプレイヤーにはその価値がいまいち推し量れない。

 そして借金がある程度溜まった瞬間、帽子屋は手に入れた立場を使って大部分のプレイヤーを奴隷の身分へと貶めた。


 帽子屋の言い分はこうだ。

「組織の維持にはどうしたってお金が必要になるのです。かといって、手持ちの資金を食い潰すだけでは先行きが不安でしょう? この世界のお金を定期的に安定して生み出せるシステムを早急に作る必要があるのはご理解頂けていると思いますが、同時に、三日月ウサギからアイテムを取り返す方法も模索しなくてはなりません。今のお茶会には余裕がないのはお分かり頂けましたかな? 結構結構。さて、ここで何が足手纏いか考えてみましょうか。言うまでもなく、碌な戦力にならない低レベルの皆様方です。敵はレベル100を超える猛者揃い、残念ながらこのゲームは大きすぎるレベルの差を数で覆せません。10や20ならともかく、100相手に70、80ではお話にならないのです。ですから、お話にならない方々には私共が生活するのに必要なお金を稼いで欲しいのですよ。ただ、この世界にあまり慣れられるのも良くありませんよねぇ。敵に寝返られるのは痛手ですから。そこで便利なのが奴隷です。皆様を確実に管理しつつ、お金を得る方法としてはこれ以上ない手段でしょう? ご安心ください、皆様のレベルと体力なら劣悪な坑道でも数十年は耐えられますから。それに、万が一の時は支援魔法もありますからね。さぁさぁ、こちらが私からのお祝いの品です。隷属の首輪と言いましてね、スキルの使用に反応して苦痛を生み出すよう調整してあります。いえ、勿論皆さんを信じておりますよ? ですからこれは万が一の措置でございます。私共の為に、ひいては元の世界に帰る為に、力を合わせて頑張ろうではありませんか! それから、奴隷となる皆様には如何なるアイテムも装備も必要ありませんね? 失礼ながら全て回収させて頂き、目的の為の資金とさせて頂きましょう」

 

 反論は許されなかった。

 低レベルのプレイヤーが搾取される反面、高レベルの戦力足りうると認められたプレイヤーにはあらん限りの贅沢が与えられる。

 帽子屋は彼らにこう説明した。

「元の世界に帰る為に命を賭けて戦う必要があるのですから、死ぬ危険性のない低レベルの方々より優遇されるのは当たり前なのです。皆さんは何も心配しなくて構いません。彼らを奴隷に貶めたのは全て私の責任なのですから」

 奴隷は死ぬほど辛くとも、プレイヤーとして得られた能力のおかげで本当に死ぬ可能性はまずない。

 もし元の世界に帰れなければいずれ借金を返済し解放されるのだから、デメリットなどないのだと説いた。

 帽子屋の巧みな誘導によって、奴隷化したプレイヤーは元の世界へ帰る為に働いてくれているだけなのだという認識にすり替えられたのだ。

 一度覚えた贅沢は中々辞められる物ではない。

 初めは違和感を覚えいていたプレイヤーも、いつしか帽子屋の主張を何の疑いもなく受け入れていた。

 いや、受け入れられなプレイヤーは帽子屋の策略で総じて奴隷に落とされたと言った方が正しいか。

 今ではもし問題が起こったとしても自分は悪くない、プレイヤーを奴隷に貶めたのは帽子屋の責任で関係ないのだと本気で信じている。



「搾取される者からひたすらに絞り上げ、搾取する者に甘い蜜として提供する社会構造を短期間で作り上げたわけですね……」

 倫理性にさえ目を瞑れば合理的かつ効率的な采配にセシリアは思わず呻き声を漏らした。

 どうやらお茶会のマスターは想像以上に狡猾で性質が悪いらしい。

 リュミエールと違って討伐の依頼がなく、外貨を生み出す手段が乏しかったお茶会にとって、低レベルのプレイヤーは丁度いい人的資源だったわけだ。

 ゲームで1M以上持っていなかったプレイヤーは金貨を得られない。

 低レベル層がそんな大金を持っていたとは思えず、帽子屋に頼らなければならない状況を上手く利用し、安定して外貨を稼ぐ手段に漕ぎ着けた。

 奴隷にされ強制労働を押し付けられた青年には申し訳ないが、その手腕は見事と言わざるを得ない。


 自由の翼でも中レベル層の横領や大人数を養う為の無理な討伐依頼など、数々の問題を乗り越えてきた。

 500を超えるプレイヤーを一人一人管理するのは難しい。平等を謳う自由の翼の方針では尚のことだ。

 しかし、お茶会の方法なら管理すべき対象を大幅に減らした上で外貨の補填にも当てられる。

 まさに合理的、効率的の極みと言えよう。ただしそこに人の感情は一切無い。

 気ちがいと呼ばれた帽子屋にしか思い浮かばず、まして実行しようなどとは思わない方策だった。


「丁度派遣先が変わる関係でこの街に護送される途中に、リュミエールと繋がって何も知らないプレイヤーが来るって話しているのを聞いたんだ。それで俺は警備が薄くなった瞬間にどうにか逃げ出して、リュミエールから来たって言うプレイヤーを探してたんだ」

 偶然とはいえ、狡猾な帽子屋の手管を知れたのは大きかった。

 やはりもう少し帽子屋の思惑を伺い、対策を固めてから動いた方が良いと口には出さずとも心に決める。

「それから幾つか聞きたいことがあるのですが……」

 さらに深く切り込もうとした瞬間、御者と乗員を隔てるカーテンが勢い良く開かれ、血相を変えた御者が騒ぐ。

「前方に検問がありやす。恐らく、そこの若いのを探しているのかと……悪いですが、しょっぴかれるのは御免ですぜ」

 彼の存在はお茶会にとって大きな痛手になり得る。恐らく全ての出入口に検問を惹かれたのだろう。

 城塞都市アセリアの中からではポータルゲートを開けない。かといって彼をこのまま連れて行くのは無理がある。

 理由がどうであれ、借用書がある以上もう正規の奴隷なのだ。彼もそれを察したのだろう。

「元より簡単に逃がしてくれないだろうなと思っていなかったよ。頼む、俺達を助けてくれ」

 それだけ言い残すと、検問の衛兵が見ていない瞬間を見計らって馬車から飛び降り、路地裏へと姿を消した。

 ここでセシリア達を巻き込んで希望を失うわけには行かなかったのだろう。

 別れ際の悲しみと期待が入り混じった複雑な表情に思わず胸の奥が痛む。


「これでよく分かりました。お茶会は間違いなく"敵"です。元の世界に帰るつもりなんてありません。ウサギさんの反乱を盾に自分にとって居心地の良い場所を作ろうとしているだけです」

 はっきりと言い切ったセシリアに、ケインは不思議そうな顔をする。

「すまない、彼らがレベルの低いプレイヤーを犠牲にしているのは分かるけど、それがどう元の世界に帰るつもりが無いことに繋がるのかな」

「ケインさんは働きもせずに潤沢な資金を得られる生活を続けてなお、目的意識を持ち続けられますか?」

「それは……難しいかもしれないね」

「お茶会も同じです。贅沢な暮らしに慣れ、何不自由なく暮らしているプレイヤーが命を懸けてまで元の世界に帰りたいと思いますか?」

 何もしなくとも有り余るくらいお金が湧き出てくる生活で、お金を稼ごうと思える人がどれだけいるだろうか。

 お茶会は多数の奴隷を使役することで莫大な利益を生み出しながら、準備という建前を利用し、安寧とした日々を1ヶ月以上も過ごしている。

 どんなに鋭い刃だって水に漬けたままでは曇りも錆びもするのだ。

「……なるほど」

 自由の翼が今なお元の世界に帰ろうと思えているのは、危険な魔物との戦闘を日々潜り抜けているからだ。

 死にたくない、安全な世界に帰りたい。その一心で毎日を生きている。

 逆に戦いに参加していないプレイヤーの空気が緩んでいるのは生活に慣れ、命の危険を感じないから。

 セシリアが最初に全員参加の訓練を進言したのは、戦う必要のある世界に居るのだと認識してもらう為でもあった。

 もし万が一自由の翼が気に食わず、内部から崩壊させた後も個人で生きていけるように。

「とにかく、急いでリュミエールへ戻りましょう」

 セシリアの言葉に、ケインは深く頷いた。







「脱走させたプレイヤーが予定通りセシリアと接触しました」

 陽の当たる屋敷の一室で窓から見える色とりどりの花を楽しんでいた帽子屋に向かって、燕尾服に身を包んだ男性が一礼と共に告げる。

「そうですか。外に逃がしてはいないでしょうね?」

「はい。検問から逃れたところを捕獲してあります。いかがなさいますか?」

「外部のプレイヤーが来ることをそれとなく教えたのも、脱出できる隙をわざと作ったのも、すぐに探さなかったのも計画通りですが、脱出したのは彼の意思ですからねぇ。死なない程度に見せしめとして処罰しましょうか」

 帽子屋は暫し考えた後、実に楽しそうな笑みを浮かべて命じた。

「分かりました。……しかし、ここまでする必要があったのですか?」

 男性は心得たとばかりに頷くものの、やや間を空けてから計画の必然性を尋ねる。

 しかしそれは帽子屋の気に触れたようだった。

「さてはて、一体どう頭を働かせれば"ない"と言い切れるのですか?」

「いえ、その、申し訳ありませんっ」


 慌てて頭を下げる男性に初めて視線を移し、仕方なしとばかりに必要性を談じる。

「彼女だけはどうしても潰しておかねば計画が狂いそうですからね。あれだけの直結を嘲った直後という絶妙なタイミングにも関わらず、同じ街で、同じプレイヤーの集まるギルドの頂点に登りつめていのですよ? この帽子屋をしても、一体どんな魔法を使えばそうなるのか計り知れません。マスターの男なんてただの飾りでしょうね」

 帽子屋にとって、リュミエールにある大規模な勢力は厄介だった。

 城塞都市アセリアよりは幾分小さい規模だが、大部分を奴隷化して管理しているアセリアに比べ、彼らは奇跡的とも言えるバランスで相互理解の下、組織を運営している。

 その政治力が帽子屋には何より恐ろしい。


「計画の準備は出来ていますね?」

「はい。リュミエール周辺にサモナーを配置、工作員の教育と準備も万端です」

 男性の答えに帽子屋は満足げに何度も頷く。

「さてはて、セシリア嬢はどうにも臆病なようですからね、不安が解消されない限り大きな手は打たない傾向にある。それが厄介でもありますが、そう考えると次の手も見えてくるのです。恐らく彼女は帰還方法が見つかったとだけ説明し、"全プレイヤーが強制的に帰還する"部分は伏せます。さぁ、この帽子屋を思う存分に怪しんでください。何か裏があると思えば思うだけ、貴女は停滞し、こちらの手の内を窺おうとするのですから。それが貴女の弱点です。この帽子屋の一世一代のショウタイムを、どうぞお楽しみあれ」

 まるで気が触れたかのように突然くつくつと笑い出す帽子屋に、男性の頬は引き攣るばかりだった。

既にお察しの方もいらっしゃるかと思いますが、第四章の元ネタは不思議の国のアリスです。

その中の一節、「A Mad Tea-Party」に登場するキャラ名から引用しています。

やっぱり有名文学だけあってか、結構あるんです。アリス関係のギルド名って。


「A Mad Tea-Party」を正確に翻訳すると、「気ちがい(の)お茶会」になります。

ただ、近年の翻訳や児童書では「狂ったお茶会」と訳されている事もあるようです。

Madの意味は「(人の)気が狂う」であり、対象が明確に指定されていますので、「狂う」だけの曖昧な表現は誤訳というか飛躍です。

にも拘らず「狂ったお茶会」と訳したのは翻訳者が色々な方面に『配慮』した結果でしょうか。


不思議の国のアリスでも、「A Mad Tea-Party」に登場するキャラは気が狂っています。いえ、気が狂っていないといけないのです。

なにせ、原作の三月兎は『3月のうさぎ』であり、野うさぎが発情期になった時の落ち着きのなさを元にした気ちがいを意味する慣用句ですし、

帽子屋も、当時シルクハットを作る際に水銀を使っていた為、中毒症状になった職人を比喩した「帽子屋のように気が狂っている」というこれまた気ちがいを示す慣用句から成り立っているのですから。

出てくるキャラは総じて気ちがいであると、文字で書かれていなくとも明確に意図されているわけです。

ブラックジョークではありますが、だからこそ作中のお茶会に意味が出てくるわけでして。


不思議の国のアリスの魅力は作中にこれでもかと盛られた言葉遊び、いわゆるナンセンス文学にあります。

英語でしか理解できない言葉遊びが数多く存在するので翻訳はとても難しく、

現存する日本語訳の「不思議の国のアリス」の内、言葉遊びを日本語で表現できている翻訳者さんは数名しか居ません。

「A Mad Tea-Party」に関しては「狂ったお茶会」ではなく、「気ちがいのお茶会」が適切です。

翻訳者は本来意図されている内容を忠実に、正確に、中立的に伝えるべきだと言われています。

にも拘らず勝手に『配慮』して「狂ったお茶会」と訳すのは原作者の意向を無視しているのと変わりありません。


実在する個人や団体にこのような言葉を投げかけるのは論外ですが、

架空のキャラクターに対してまで忌避するのはまさしくナンセンスと言えるでしょう。

そこまで考えて書いたかは別として、この物語では原作者の意向を重視した「気ちがいのお茶会」を意図的に利用しています。

差別的な意味合いを含むものではありませんと明言しつつ、ご理解頂ければと思います。

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