ラボラトリー-4-
「さて、それじゃ早速魔法を理解してもらう為に異世界へと足を踏み入れようじゃないか」
霧島曰く、魔法の存在をさっさと受け入れるには体験あるのみ、とのことだ。
俺も異世界とやらには興味がないわけでもない。が、気になることが一つある。
「そこって危険はないのか?」
確か霧島はWorld's End Onlineをベースにした世界だと言っていた。
あまりその手のゲームには詳しくないが、RPGならば当たり前のようにモンスターが闊歩していても不思議はない。
まさかそんな筈がないと思いながらも、一応念の為に聞いておくべきだろう。
「あるよ」
「なんだ、そうか。あるのか。……っておい!」
えらくあっさりとした返答に一瞬意味を取り違う。
俺は確か、「危険はないのか?」と聞いたはずだ。
にも拘らず、朗らかに「ある」と即答する親友は一体何を考えているのか。
「誰が行くか! つーかそんな危ないもんを親友に堂々と薦めんな!」
「安心しろ、ゲームに準拠しているということはだ、アクティブモンスター……見境なしに攻撃してくるモンスターが居ない場所も決まっているんだ。とはいえ、原理も理屈も通らないファンタジー空間だからな、あそこは。何があるかは保証できんと言う意味での"ある"さ。そう気にしなくていい」
「気にしろよっ!」
騒いでみてもなしのつぶて。どうやら俺を異世界とやらに行かせるのは既に決定事項らしい。
思い出した。こいつは昔から能天気でマイペースな気質があったのだ。
そうして連れてこられたのはスチールの机と大型のパソコン、それにフルダイブシステムを搭載したヘッドギアが1つだけ置かれた、狭い上に殺風景この上ない部屋だった。
とても、ここから異世界に行けるような雰囲気は感じ取れない。
「なんだこれ。ゲームの方に接続するのか?」
「いいや。今となっては異世界への転移さえゲーム感覚ってことかな。これも研究の成果だね」
初めて異世界が創造されたと知った時は数千人分の脳の余剰領域を使って異世界へ繋がる小さな扉を作り上げたらしい。
大気中の成分が地球と同じかどうか分からないからわざわざ宇宙服を取り寄せての決死の調査である。
危険な任務にも拘らず志願者が殺到したのは、彼らが本物の探究者だからだろう。
この世界をもっと知りたい。新しい発見をしたい。それが刺激的であればある程、彼らの興味はより一層そそるのだ。
異世界への扉の開き方は意外なくらいあっさりと見つかった。
ただし制御できる限界、数千人分の脳の余剰領域を使っても扉は不安定で絶えず揺らいでおり、数十秒で消えてしまうほど脆弱だった。
これでは足を踏み入れた瞬間に引き返さるを得ず、持ち帰れたのも風景写真1枚と周辺に転がっていた草や石のみ。
これはこれで貴重な研究材料ではあったが、探究者としては不満が積もる。
―もっと自由に、人が創造せしめた世界を探索したい―
扉を安定させるには数万単位の余剰演算領域が必要になると見込まれたが、未だその規模の制御を行う方法は見つかっていない
どうにかして少ない負荷で自由に行動できないものか。
議論に議論を重ねた上で考案されたのが、ゲームであるWorld's End Onlineと創られた異世界の親和性を流用する方法だった。
名付けて、魔法の力で接続先をゲームサーバーから異世界に変更しちゃおう作戦。
誰しもが馬鹿らしいと一蹴しながらも試してみたのは研究者の性としか言いようがない。
とりあえず他に案もないしやってみようかの一言で始まったそれが、まさか馬鹿らしいくらい簡単に成功するとは。
World's End Onlineのユーザーが作っただけあって、双方の親和性は限りなく高かったのである。
使用するユーザーの負荷も約200人分の余剰領域と、扉を作るのに比べて圧倒的に低い。
欠点があるとすれば接続に電子的な通信を介する為、異世界の物質を持ち帰れないこと。勿論こちらの世界から持ち込むこともできない。
持ち込めるのはゲームデータに持たせた、World's End Onlineに実装されているアイテムだけだ。
それから、異世界に行っている間は自分の身体が消滅すること。
消滅と言っても、本当に消えてなくなるというわけではない。
この世界の身体を一時的に分解し、異世界側で再構築しているといえば分かりやすいだろうか。
この辺りの理論は未だ研究中でよくわかっていない。
そんなよくわかっていない物を使おうと言うのだから心配は募るばかりだった。
「で、異世界の感想はどうだった?」
「……もう何でも信じてやんよ……」
結局霧島に無理やり繋がれた俺は異世界とやらの観光をしてくる羽目になった。
まず驚いたのはそのリアル加減だろう。
フルダイブシステムはどうしてもテクスチャに限界がある。所詮は作り物の世界なのだ。判別は難しくない。
しかしこの異世界とやらには作り物と思える要素が何処にもなかった。
土は砂礫の1つまで判別できるし、風は草の一本一本を揺らしながら到来する。
もしこれが仮想空間だとしたら、きっと俺達の住んでいる世界もまた、仮想空間なのだろうと思える程に。
あぁ確かに。魔法があったように、異世界もまた存在するのだと思い知らされた。
「世界なんてあやふやな物さ。僕達が見ている景色だって、本当にそこにあるかはわからない」
もしかしたら人に実体なんてないのかもしれない。
本当の世界は暗闇の中に意識だけが浮遊していて、電気的な信号によって自分達が脳内でこの世界を構築しているだけなのかもしれない。
或いは、この世界が全てデータで形造られているとして、どうすればそれに気付く事ができるのだろうか。
俺達が見ている世界が、どこかの研究者の作った箱庭ではないと否定する方法なんて存在しないのだ。
何もない所から火を生み出すのは、言うなればlinuxのコマンドの様な物だ。
mkdir filename。
そうする事で電子上にフォルダが作られるように、火を生み出せというコマンドを、世界に投げられるようになっただけなのかもしれない。
まったく、空恐ろしい話だ。
今まで生きてきた常識が粉々に砕かれるのは思った以上に精神的ダメージが大きい。
柄にもなく世界に思いを馳せ、デカルトの言っていた"我思う、故に我あり"の意味を真面目に考えていたのだが、霧島は気にしても仕方ないと笑いやがる始末だ。
「たとえこの世界が作り物だったとしても、僕らがするべき事に変わりはないよ。魔法なんて便利な法則が見つかったんだ、解明して生活に役立てるべきだろう?」
細かいことは気にしない。これが凡人と天才の違いなのだろうか。
だが霧島の言うとおり、分からない物は分からないのだ。癪ではあるが気にしても仕方がない。
そう開き直ってからは楽になった。もとい、もうどうでもよくなった。
今の俺なら例え明日に世界が滅びると言われても受け入れられる自信がある。
その上で、魔法を使えば回避できるんじゃないかと真顔で提言するだろう。
意地を張ったところで実際に見てしまえば認めるしかない。
理解はできない力によって世界の法則を捻じ曲げ、現実を改変する方法は確かにあるのだ。
この際魔法でも、超能力でもなんでもいい。名称なんてものは重要ではないのだから。
「それで、どうして俺を呼んだんだ? もう話してもいいだろ」
兎にも角にも、魔法が実在し、霧島がそれを研究していると言うのは十二分に分かった。
まだ分からないのは、どうして自分がここに呼ばれたかだけだ。
俺はさして優秀という訳ではないし、ここでの専門的な研究に加われるとも思えない。
これだけ厳重で大規模な研究なのだ。外との連絡もままならず、俺が会社を退職したから便宜を図ってくれたとも考えにくい。
「……そうだね。もうそろそろ頃合かな。研究者としては二流で、ここ数年は交友関係も薄れている。マークはないだろうと思ったからだよ」
「失礼な奴め。間違ってはいないが、そのマークってのは何なんだ?」
「背後に誰が立ってるのかって事さ。このプロジェクトのスポンサーは政府で、研究員の人選にも関わってる。そのせいで派閥争いが形成されつつあるのさ。付いてきてくれ、会わせたい人がいるんだ」
代わり映えのしない廊下を延々と進み、数えるのも億劫なほどエレベーターを乗り継いで辿りついたのは所長室と書かれた広い、応接間を備えた部屋だった。
誰の部屋なのかは問うまでもないだろう。
都心でこれ程の条件の部屋を借りたならば、月に数百万はくだるまい。
棚には高価な洋酒がずらりと並べられているほか、賞状やトロフィーらしきものも散見できる。
暫くそうして物珍しげに部屋を眺めていると、唐突に勢い良く扉が開かれる。
その向こうから今にも倒れそうなくらい荒い呼吸を続けている男性がふらふらと入ってきた。
年の瀬は40半ばといった所だろうか。肌の色や身体つきからして、根っからのインドア研究者だと推察できる。
「外部の査察って、一体どういう事だ? この設備の情報を今外に漏らすのは内部の派閥争いを激化させるだけでなく、新たな火種を生む事にも……」
堰を切って流れる言葉は息のせいか切れ切れでよく聞き取りにくいが、何かに憤慨している事だけは伝わってくる。
霧島はそれを片手で制し、近くの椅子を勧めた。
「落ち着いてください。紹介しよう。彼はこの研究所の副所長を務めて頂いている福部さんだ。こちらは私の親友の新堂。査察の件はただのブラフです」
査察官? ブラフ? 唐突な単語の羅列に俺は首を傾げる。ふと隣を見れば福部さんとやらもぽかんとしていた。
「新堂にも説明するよ。今この研究所で何が起こっているのかと、どうして新堂を呼び寄せたのかをね」
「約1ヶ月ほど前から情報が漏えいしている形跡が見つかったんだ」
十万のプレイヤーを使った大規模な実験には失敗したとはいえ、無から何かを作り出す実験には成功しているのだ。
既に研究は最終段階と言っても良く、誰もが成功を収めるだろうと確信している。
完成後の利益をいかに自分達へ引き込めるかで外野が睨み合いを始めるのも無理はなかった。
彼らはできるだけ自分の息のかかった研究者をこの研究所に送り込み、内部の覇権を握りたいらしい。
そんな折、情報の漏えいが発覚した。
「電子機器による盗撮や盗聴は設備上不可能だから、何らかの手段で接触している筈だ。犯人は不明。恐らく計画を知りつつも詳細な情報が降りてこない政府関係者の誰かが研究内容の仔細を探ろうとしているんだ。早急に情報の漏洩元を突き止めて対処しなければ。この研究が広まると日本政府は壊滅的な打撃を受けかねない」
研究成果は半年に1度だけごく一部の政府関係者に告知される。
なにせこの研究はこの世界の根底を揺るがしかねないのだ。完成前に諸外国へ知られれば碌なことになるまい。
資源国は全力で潰そうとするだろうし、力づく出奪おうと思う国も出てくる。
政府関係者にしたって、必ずしも味方であるとは言えないのだ。
研究成果の一部は霧島の権限で今に至るまで報告すらしていない。
もしそれらの情報が漏れたのだとすれば、歓迎できない事態になるのが目に見えていた。
「新堂にはそれを探って欲しい」
「は、ちょ、おま!?」
極めて重要な案件に思わず変な声が漏れる。まるで映画の中だ。
情報漏えい、つまりスパイがこの研究所にまぎれていて探し出さなければならないのだろう
だが、それをズブの素人である俺にやらせようというのは一体どういう了見なのか。
「無理無理無理! 不可能だろ! 常識的に考えろよ!」
「ついさっき常識を捨てたんじゃなかったのか?」
当然のように騒ぎ出す俺を、新堂は不敵な笑みで見返す。
「それとこれとは話が別だっての! 第一、どうやってそのスパイを探れって言うんだ!」
「私も反対だね。何も知らない彼に探し出せるとは思えない」
そこへ福部の爺さんからの思わぬ援護射撃が届く。そりゃそうだ。天才の新堂が何を思って計画したのかはわからないが、素人に探偵ごっこができる筈ない。
だというのに、新堂はやけに自信満々で、俺は嫌な予感しか思い浮かばなかった
「僕とて彼が犯人を見つけてくれるとは思っていません。別に本気で調査する必要はないんです。ただ、撒き餌になってくれさえすればね」
新堂の口からまた不安げな単語が漏れる。
福部の爺さんは暫く首を捻っていたが、何か合点が行ったらしい。不敵な笑みを浮かべて何度も頷く。
どうやら何も理解できていないのは俺だけのようだった。
「まず新堂に説明しよう。色々な調整を繰り返して、君は政府が派遣した査察官ということにしておいた。どの派閥にとっても君の存在は完全に寝耳に水だ。最初は警戒されるかもしれないが、敵対する派閥を蹴り落とすには絶好の機会とも言えるんだよ。もしかしたら敵対する派閥同士で不穏な噂話を流してくれるかもしれない。何かを見たり聞いたりしたらそれを教えてくれるだけでいいんだ」
なるほど、それで撒き餌か。
敵の悪評を流せば心証を悪くして、その後の派閥争いで有利になれるかもしれないという心理を突くわけだ。
小学生の告げ口合戦みたいな案だが、何かしらの手掛かりは得られるかもしれない。
「それに、犯人に目星もついている。情報の漏えいが始まったと思われるのは丁度1か月前。その頃この施設に入った人がいるんだ」
漏えいが1か月前からだとすれば確かに時期も合う。
「福部さん。この研究所の中で新堂が偽の査察官だと知っているのは私と貴方だけです。このことはくれぐれも……」
「分かっている。内密に、ということだろう? 私とて、情報漏えいの件は苦慮していたのだ。こういう事情なら喜んで手を貸すとも」
新堂の念押しに福部の爺さんは何度も頷いて見せる。
「新堂も巻き込んでしまってすまないとは思っているんだ。だが、絶対に安全だと言い切れるのはお前しかいなかった。頼む、力を貸してくれ」
「任せろ。昔から人の輪に溶け込むのは得意だったからな。この件は伏せつつ、それとなく情報を引き出してみるよ」
成果の求められていない探偵ごっこで一生遊んで暮らせる給料が手に入るなら安い物だ。
俺達三人はその場で握手を交わし、翌日から政府査察官として全ての研究室を回ることになった。
前言撤回。俺はあくまで、常人の輪に溶け込むのが上手かっただけだ。変態、もとい天才の輪に溶け込むのは無理がある。
このラボにある研究室は全部で53。それぞれ役割分担をしながら魔法に関する研究を続けているらしい。
そのひとつ目で頓挫することになるとは思わなかった。
「っざけんな! 予算失くすぞゴルァ! とっとと離しやがれっ」
「あぁもううるさいのぅ。人が折角いちいち調べまわるのは面倒だと思って力を貸してやっているのに。老い先短い老人の善意くらい気前よく受け取らんかい」
「何が善意だ! 何が他人の心が読めるようになる研究だ! 信用できるかっ!」
一件目の研究室でいち早く溶け込むべく爽やかな笑顔で入室し、困っていた爺さんに手伝いましょうと物申したのが運の尽き。
まさかそのまま拘束され、マッドサイエンティストに変貌するとは思うまい。
「この研究所は被験体が足りんわ。ネットワーク上の脳波を弄繰り回して何が楽しいんだか」
「誰だよこの爺さん人選した奴は!」
あからさまに怪しげな泡をごぽごぽと生み出している液体を飲ませようとしてくるが、齢70を超えていそうな爺さんだ。
両手両足をガムテープでぐるぐる巻きにされようと抵抗はできる。
後はどうにかして出口から這い出し助けを求められれば……。
何度目かも分からない攻防のさなか、遂にそのチャンスはやって来た。
「寝てろマッドサイエンティスト!」
転がりながらのタックルを受けて枯れ木のような身体が吹き飛ぶ。こんな状態でも多少の良心が傷んだ俺を、俺は褒めてやりたい。
腹筋を使って起き上がると、どこぞの梨の妖精よろしく、ダイナミックなジャンプで出口へ向かう。
「ぬお……。貴様ッ、待たんか!」
転がった爺さんは腰でも打ったのか未だ起き上がれないでいる。この距離ならば十分すぎる程に離脱可能だ。
あと3歩、2歩、1歩。目と鼻の先のゴールに沸き立った瞬間、俺が扉を開くより先に音もなく開いた。
「うおっ」
全身を使って飛び跳ねていた俺が止まれる筈もなく、扉の向こう側に立っていた誰かに勢いよくぶつかる。
巻き添えにして倒れ込むと餅のような、それでいてマシュマロのような柔らかな感触が俺の顔全体を包み込んだ。
甘い香りに混じって、ほんのりと汗の匂いも感じる。
一体何だろうと思った瞬間、万力のような力で頭を鷲掴みにされた。
「御爺さん、検体見つけましたよー」
目の前には見るからに怒っていそうな20代半ばの女性の顔があった。
視線をずらせば、先の衝撃で大胆にも露出した、見るからに柔らかそうな2つの双丘が覗いている。
「あ、いや、これはだな……」
「よくぞやってくれた! さぁさぁさぁ、楽しい実験と行こうかの」
釈明するより先に部屋の中へずるずると引きずられる。爺さんは既に復活しており、その手に例の薬品を掲げていた。
詰んだ。そう思った瞬間、女性の口から不服そうな声が漏れる。
「この人、急に連絡のあった査察官じゃないですか。チッ、御爺さん、検体にすると厄介なことになりますから、今回は捨て置きましょう。……ですが、自分のしたことを分かってますよね? もし変な報告を上に上げたら……地の果てまで追いかけますよ?」
その目と雰囲気で彼女もまた、まともな人間じゃないことが痛いほど伝わってくる。
「有望な研究なので予算を増やすよう報告させて頂きますーっ!」
不本意な一言を叫びながら、2人の気が変わらない内に逃げ出すしかなかった。
通りすがりの人にガムテープを解いてもらい、休憩中の研究者が集まるフロアでコーヒーを煽りようやく一息つく。
結局怪しげな情報は何も引き出せなかった。寧ろ奴らの方がよほど危険人物だ。
しかし本当のことを報告すれば報復として何をされるか分かったものではない。
今はただ、貰える給料が適正価格に思えて仕方がなかった。
時間は過ぎるし、仕事はしなければならない。
報酬の対価が労働なのだからと自分に言い聞かせ、今度は万全の構えを取って2件目の研究室へ赴く。
扉をノック。やや距離を離し、誰かが出てくるのを待ってから、研究室には一切入らないで話を聞く。この作戦で行こう。
心の準備をしてから3度扉を叩くと、気だるげな男の返事と共に扉が開く。顔を出したのは20代にしか見えない青年だった。
「もしかして査察官の方ですか? いや、すみません、ちょっとうつらうつらしてまして」
右の頬には腕を枕にしたのか、長袖についているボタンの模様がくっきりと浮かんでいた。眠そうではあるものの声は温厚で、どこにでもいるただの青年にしか見えない。
しかしそれも束の間、彼の瞳が何かを訝しむように、いや、獲物を見定めるような目つきに変わった。
この青年にもきっと何かあるに違いない。先の老人のようなマッドネスな心の闇が。
「あの、なんでそんなに遠いんですか……?」
再び前言を撤回しよう。おかしいのはあの爺さんだけだった。
彼も、いや、この研究施設の殆どの人は彼らの奇行を熟知しており、絶対に近づかないらしい。
事情を話したらひとしきり笑われた後、災難でしたねと同情されてしまった。
おかげでこの青年とは馬が合い、研究以外の雑談にも興じている。偽物の査察官ではあるが、彼の研究は後押ししてやりたくなった。
「何か困ってることはあるか? 通るかはわかんが報告書くらいなら作るぞ」
すると彼はやや間を開けてから、つまらない話なのですがと口を開く。
「最近研究所の空気が険悪なんですよ。バックボーンの関係で派閥が形成されているのはご存知ですよね。お互い研究者ですし、プライドがあるのも分かるんですが、足の引っ張り合いで研究が頓挫しては意味がないと申しますか……すみません、愚痴ですね。忘れてください」
もしかしたら、彼が眠そうにしているのも派閥争いが関わっているのだろうか。
内容からしても、貴重な情報になる可能性もある。先を逃す手はなかった。
「構わないさ。不満を和らげるのも役目だからね。何かあれば教えて欲しい。あぁ、安心して良いよ。ここでの話は誰にも漏らさないから。君と僕の仲じゃないか。少しは誰かに話した方が気も晴れるんじゃないか?」
「……ありがとうございます。そうですね、もやもやしているものがあるって言うか……。もし良ければ調べてみて欲しいことがあるんです。実は一月ほど前にネットワーク管理の責任者が変わりまして。その頃から、とある派閥にばかり有利な調整が続いているんですよ」
人の噂とは案外馬鹿にできない物らしい。
1週間ほどかけて全ての研究室から集めた情報を紙に纏めてみると、よりはっきりその浮かび上がってくる。
古川竜司。新堂の言っていた、新任のネットワークの管理者だ。
今やこの設備の電子的な調整やメンテナンスをたった一人でこなしている。
驚くべきはその履歴だ。過去、様々な政府機関に不正アクセスを行い、内部の機密情報をばら撒いた犯罪者だと書かれていた。
政府はどうしてこんな怪しげな輩を雇ったのか。
技術的には優秀なのかもしれないが、何をしでかすか分からないのでは本末転倒もいいところだ。
とにかく、これだけの経歴を持つ男ならこの設備から外部と通信を行うのも不可能ではない筈。
なるべく主観が入らないようにして作り上げた報告書を館内メールで送信してから電話を繋ぐ。
俺と新堂が繋がっている姿はなるべく見られない方が良いという配慮から、連絡は全て電話で済ますことにしていた。
「霧島、俺だ。新堂だ。例の調査結果をメールで送った。多分、奴が黒だと思うぞ」
電話の先で新堂はすぐに頷き返す。
「あぁ、こっちでも確認が取れたよ。新堂、協力ありがとうな。今から奴と話してみるよ」
どうやら彼も別に調べていたような口ぶりだった。
なんにせよこれで探偵ごっこからも解放されたわけだ。
だとすれば祝杯をあげねばなるまい。犯人を突き止めた今なら新堂に会いに行っても問題ないだろう。
あの部屋にあった洋酒には並々ならぬ興味を抱いていたところだ。
一杯くらいなら構うまいと、購買でツマミを買ってから向かうべく、俺は浮き足立って部屋を後にした。
……もしかしたら俺は心のどこかで気付いていたのかもしれない。
いつもと違う霧島の声色と、ひっそりと顔をのぞかせる一連の違和感に。
だから急にあいつの顔を見たくなったのだ。
次話でラボラトリー編も完結となります。
新堂の抱いた霧島の違和感とは……!(CM風に