ラボラトリー-1-
研究職が潰しの利かない職種である事は始めから分かっていた。
特定分野の専門知識を必要とする性質上、後から別の分野に乗り換えるのは努力しても難しい。
20代ならまだしも、30代、それも後半に差し掛かるとなれば尚更だ。
ある程度の覚悟もしていたが、実際にリストラの憂き目にあってみるとやるせない溜息しか出てこなかった。
俺達のチームは少人数で、とある稀有な病気の新薬開発に携わっていた。
長い年月をかけて少しずつ研究を進め、ようやく完成の目処が立ったと思いきや、ライバル会社に先を越されてしまったのが半年ほど前の事。
世間の目はそちらばかりに向き、協力的だったスポンサーにもそっぽを向かれ、採算性のないプロジェクトは解散。
大幅な赤字を抱えたけ俺達のチームは解散が決まり、事業の縮小に伴って解雇通知が届いてきたという訳だ。
血眼になってコネや経歴を使って次の職場を探し始めたところで世は不況の真っ盛り。
オマケに同じ分野の研究員が同時に就職活動を始めると、どう足掻いても職にありつけない奴が一人二人は出てきてしまう。
何を隠そう、それが俺だった。
新堂徹35歳、無職。
この歳で無職の肩書は想像以上に辛い。
つい最近まで三十路にもなって無職とかないわーと言っていた自分が遠かった。
幸いなのは、専門知識を必要とするだけあって月々の給料は悪くなく、当面の生活費の心配はしなくていい事くらいか。
考えてみればここ数年は働き詰めで休みを取れた事もない。
少しくらい羽を伸ばしてもバチは当たらないだろうと、実家で1ヵ月ほどのんびりと過ごしていたのだが、母からニートにだけはなってくれるなと懇願され、就職活動に明け暮れる事になった。
当初は探せば一つくらいあるだろうと楽観的に考えていたのだが、年齢を告げただけで断られる事も多い。
研究職は諦めて、別の資格を狙うべきか真剣に考え始めたところに、懐かしい名前から手紙が届いたのがつい先日の出来事だった。
差出人は霧島裕也。
小さな時からよくつるんでいた親友といえる間柄だ。
大学を卒業してからは互いに忙しくなり、ここ数年は会う機会もなかったが、顔だけは殆ど毎日のように薄いガラス板を隔てた向こう側で見かけている。
曰く、天才脳科学博士。今世紀最大の偉人。神の頭脳を持つ男。
数えるのも億劫な程の肩書を方々から付けられている稀代の天才だ。
初めて親友の顔をテレビで見た時は思わず口にしていた味噌汁を噴出してしまった。
昔から優秀な奴だったとはいえ、まさか世界中のテレビや新聞で毎日名前が出るような大物研究者になるとは思ってもいなかったからだ。
昔はちょくちょくメールでやり取りもしていたが、想像以上に多忙な日々を送っているようで、いつしか連絡は途切れがちになっていた。
珍しい事もある物だと学生時代に思いを馳せながら手紙を開き中身を読み進めるにつれ、予想だにしなかった内容に己が目を疑う。
そこには簡潔な挨拶と、長い間連絡できなかった非礼をわびる言葉と、最後に手伝ってほしい研究があると書かれていたからだ。
俺とあいつの専攻は似ても似つかない。
一体どういう事かと疑問には思ったが、まだ就職先が見つかっていないのも事実。
顔を見るついでに話だけでも聞いてみるかと、彼の指定した場所まで出かけたのが昨日の事。
一通りの回想を終えた俺はもう一度地図を周囲を見比べてから、誰もいないのを良い事に腹の底から叫んだ。
「OK、ころっと騙されちまった! あの野郎、次合ったらぶん殴る!」
もう一度携帯端末の位置情報を確認する。指定された場所は確かにここで間違いない。
だというのに、辺りには見渡す限りの木々ばかりで、まだ初夏だというのに来ていたシャツは汗と砂にまみれている。
それもそのはず、なにせここはド田舎の小高い山の中腹だ。
建物はおろか、文明の利器の欠片すら感じられない場所である。
途中から「あれぇ? っかしいなぁ」とは思っていたが、情報の漏えいを恐れて利便性の悪い所に研究所を作る例もあると無理にでも納得して来てみたのに、何もないにも程がある。
見渡す限りの空は快晴で、降り注ぐ陽射しがじりじりと肌を焼くのが今はただ恨めしかった。
「いっそこのまま近くの崖から飛び降りて、犯人はあいつだと書き殴ってやるか……」
新聞に踊る、天才博士の計画殺人が露見か!? の見出しを妄想しつつ憎々しげに呟いた瞬間、がさりと茂った葉を踏みしめる音が耳に届く。
「流石にそれは止めてほしいな。第一、誰にも見つからない可能性もあるぞ?」
背後から楽しげな笑い声がして、俺は驚きながら振り返った。
「久しぶりだね。よく来てくれた、歓迎するよ」
あまり手入れのされていない伸びっぱなしの髪、古めかしい眼鏡、普段から陽の光に当たっていない不健康そうな白い肌、さほど高くない背は痩せ気味で、頭上から降り注ぐ太陽の光を眩しそうに手で防いでいる。
最後に見た時とそう変わらない友人の姿に、思わず口元が綻んだ。
「よし、話は聞いていたな? まずは殴らせろ、話はそれからだ」
「鳩が豆鉄砲を食らったような良い表情だったよ。絵に残せないのが残念だ」
腕をまくって近づいた俺に向けて、霧島は快活に笑う。
「久しぶりだな。どこから這い出て来たんだ? まさか俺を驚かす為にこんなところまで呼んだって訳じゃないだろ?」
「流石にそこまで暇じゃないよ。色々と機密を取り扱ってる関係でね、建物はここの地下にあるんだ。ここじゃ話もできないし、長時間居るのもまずい。まずは移動しようか」
昔話や軽口を織り交ぜながら、俺達は山を下り、広がっていた森の中へ入っていく。
来た道とは逆方向で、進路上には山が連なるばかりだ。
本当にこっちでいいのか何度も尋ねるが、霧島は問題ないと繰り返す。
獣道ですらない、未開と思しきルートには焦りを感じたが、前を歩く霧島の足取りは実に軽快で、迷う素振りは少しも見せない。
やがて大きな崖に辿りつくと、そこにぽっかりと口を開ける洞窟のような場所に入っていった。
数メートルも歩くと、入り口からの光だけでは何も見えない暗闇に包まれる。
俺が訝しんでいると、霧島は首にかけていた筒の一つを俺に渡しながら言った。
「暗いし入り組んでる。はぐれてくれるなよ?」
渡された筒の先端を捻ると一条の光が暗闇に浮かび上がる。どうやら強力な懐中電灯のようだ。
日光が当たらなくなっただけだというのに、洞窟の中はやけに涼しく、どこからか水の滴る音が聞こえてきていた。
「おい、どこに行くんだ? 崩れ落ちたりしないよな……」
天然の洞窟だろうか。天井も横幅も、丁度大人が立って歩けるくらいの広さで安定している。
既に何メートル歩いたかもわからないが、幾度となく曲がったせいでとっくに入口の光は見えない。
もし崩れたりすれば助かるとは思えなかった。
「大丈夫だよ。壁を良く見てみろ、何か気づかないか?」
一体何の事かとその場で立ち止まって、言われたとおりに壁の一部分を照らし出す。
じぃっと眺めてみるが、どうみてもただの岩肌にしか見えない。別の場所を照らしても、平らな岩壁がずっと続くだけ。
一体何に気付くというのか、まじまじと見つめて考え込んだ瞬間、言いようのない違和感に襲われる。
「なんだこれ……。全部平らなのか?」
自然界は大凡全ての物が曲線で構成されている。
花も、木も、石も、人の手が加わらない限り、どうしても微妙な凹凸や丸みが付くものだ。
だというのに、この洞窟の壁と天井はまるで凹凸のない平坦な作りになっていたのだ。
それが突然湧き出した違和感の正体である。
「人工物、なのか? てことは、洞窟じゃなくて通路?」
呆然としている俺に向かって、霧島はようやく気づいたかとばかりに悪戯っぽく告げる。
「そうとも。ようこそ、我がラボへ。君をこれから"最果ての世界"に案内しよう」
あいつのいうラボとは、それはもう凄まじい代物だった。
目の前に映画の中でしか拝めないような、一般人とは到底無縁の荒唐無稽な空間が広がっていれば誰だって驚く。
正直、俺は目の前の光景に圧倒され、今や完全に腰が引けていた。平たく言えばビビっている。
考えてみればあいつはもう世界的な脳科学の権威で、世界中のあらゆる組織が迎え入れたがる至上の"天才"なのだ。
既に世界を変えてしまうような研究成果を今までに幾つも残している。
新しい研究を始めたとなれば、その成果を横から奪おうとする輩が星の数ほど湧き出してきてもおかしくない。
だからこそ、こんな辺鄙な場所に隠されているラボに籠っているのだ。
一体何をしているのか。凡人たる俺には到底理解できそうにないが、狭い研究室で新薬の開発に携わっていた自分とは桁が違う事くらい容易に想像できたはずなのに、親友だったという理由だけで身近に感じたせいか、今の今までまるで実感を伴わなかった。
地下25階からなる研究所には数百名のスタッフが文字通り暮らしている。
内部には映画館や図書館を始めとした娯楽施設の他、浄水施設、発電施設といったインフラ設備まで内蔵していた。
核シェルターでもここまで充実しているかどうか。これはもう小さな国と言っても過言ではない。
スタッフは莫大な報酬を約束されているものの、研究が完成するまでの間、外に出る事はおろか、外部とのあらゆる連絡を禁止されている。
外部との接触を完全に遮断しなければならない程の機密性を要する研究が行われているのだ。
「さて、ここに来てしまった時点で君に拒否権はない。研究が終わるまで独房でじっとしているより、承諾して報酬をもらった方が利口だとは思わないか? 既に研究は佳境だから1年もすれば情報規制も解除される。それまでここで暮らすだけで老後まで困らなくなるくらいの報酬は出るんだ」
既に話のスケールが大きすぎて、もはや「先に言えよ!」とか、「騙された!」とか叫ぶ事すら忘れていた。
もし鏡があったのなら、口を開けて呆けている間抜けな顔が存分に映し出されていたことだろう。
元々一人暮らしをしていた身だ。
数年間隔絶された環境で過ごすくらい何てことはないし、口頭で説明された報酬を考えれば悪くないどころか願ってもない条件といえるのだが、どうしても気になる事があった。
自分で言うのも難だが、就職戦争で生き残れなかった事から分かるように、俺は企業から引き抜かれるほど飛びぬけて有能な才能はない。
どう見繕っても、こんな大それた研究に参加できる資格があるとは思えなかった。
提示された金額を加味すれば、俺の10人分の働きをする人材が10人は雇えるだろう。
お情けで雇ってくれたのだとすれば嬉しいが、研究の邪魔にしかならないのではないか。
しかし、それを面と向かって聞くにはプライドが邪魔をする。
「ところで、こんな施設をどうやって山の中に作ったんだ?」
結局絞り出せたのは当たり障りのない質問だけだ。
苦し紛れの質問とはいえ、気になっていたのも事実だ。
機密性保持の為に作るとしても、肝心の工事が目立ったのでは機密性も何もあったものではない。
木を隠すなら森の中。こんな"それっぽい"場所より、都会の一角にビルを建てた方が怪しまれずに済む。
そもそも、山を掘って巨大な地下施設を作るなんて馬鹿げた工事をどう隠蔽するというのか。
しかし霧島はけろりとした顔で、何だそんな事かとばかりにさらりと告げる。
「ここかい? ダム計画で偽装して作ったんだよ」
「……は?」
今、こいつは何と言ったか。ダム計画で偽装したと、確かにそういった。
開いた口が塞がらないとはこの事かと強く実感すると共に、あらためて眩暈を感じ頭を抱え込んだまま伏せたくなった。
ダムの建設が好き勝手にできる筈がない。工事を進めるにあたって許可を取る必要が出てくる。
では、いったい誰が許可を与えるというのか。
「おま、まさかこの研究のクライアントって……」
「国だよ。日本政府と言った方が正しいかな。確かに街中に作る方が隠蔽は楽だったんだけどね。攻撃される可能性を考えると、人気のない山か海の上しか選択肢はないんだ」
冗談だろと笑い飛ばしたかったのに、喉から言葉が出てこない。
辺鄙な山奥に巨大な地下施設を作ろうとすれば、膨大な金額が必要になる。
こんな荒唐無稽な計画を推し進められるクライアントなんてそうそう居るものではない。
挙句に"攻撃"される可能性と来た。
「一体何を研究してるんだ……?」
国が関与し、世間から隔離する必要がある程の機密性を持ち、場合によっては攻撃される可能性まである研究内容。
一研究者として興味がないと言えば嘘になる。
恐る恐る尋ねた俺に、霧島はどこか得意げな様子で楽しそうに教えてくれた。
「魔法を研究しているのさ」
最初はそれが何かの聞き間違えかと思った。
次に何かの比喩表現かと思った。
けれど、数日後、俺は知る事になる。あいつの告げた一言が紛れもない真実であった、と。