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World's End Online  作者: yuki
第二章 異世界
53/83

リュミエール-19-

 何かを考えることすら億劫でただ気の向くままに彷徨っていたセシリアだったが、気付けば自室の前に立っていた。

 前後の記憶が霞んだようにぼやけていて、どこをどう歩いたかも覚えていない。

 中からはフィアとリリーの楽しそうな声が漏れ聞こえてきて、せめて2人は迷惑をかけまいと気持ちを切り替えてからドアを開く。

「ただいま。留守の間に何もありませんでしたか? そうだリリーさん、ユウトに聞きましたよ。ずっと魔法を教えて貰って大分上達したって。今度見せてくださいね。フィアも、3日後にはカイトが戻ってきますから剣の修練を再開できると思います。そろそろ安全な場所なら参加しても大丈夫だと思いますし」

 何か話していなければすぐにボロが出てしまいそうで、いつもより饒舌になっていた。

 細心の注意を払って明るく振る舞いながら、鍛え上げた笑顔を浮かべたはずなのに、2人は揃って心配そうにセシリアを見上げている。

「なにがあったんだ」

 フィアの問いかけにセシリアはいっそ清々しいくらい分かりやすく反応を示した。

 垂れ流していた取り留めもない話がぷつりと途切れて沈黙に包まれる。

「なにも、ないですよ」

「そんな訳ないだろ? だったらなんでそんなに泣いてるんだよ」


 何かを演じるのに必要なのは心の余裕で、今のセシリアにそんなものがある筈もない。

 病室で流した涙の痕はまだはっきりと残っているうえ、痛々しいくらい歪んだ笑顔を浮かべていたのでは何もないと思う方が難しかった。

「違います、本当に何も……」

「いい加減にしないと怒るぞ」

 にも拘らず頑なに否定するセシリアに、フィアは少しだけ語尾を強める。

 それがリディアの言葉と被って、ただでさえ限界だったセシリアの顔がくしゃりと歪み、その場に崩れ落ちた。

「あ、いや、別に本当に怒ったわけじゃなくてだな」

 まさか泣き出すとは思わなかったフィアが狼狽しながら宥めるが、一度でも堰を切ってしまった涙は止められないようだった。

「兄様」

 妹からの寄せられる非難の視線と口調にフィアがたじろぐ。

「……分かってる」

 短く返すと、声を押し殺したセシリアのすぐ傍に座り直し、両肩に触れる。

「話せないなら無理に話さなくていい。でも話して楽になるならいつでも聞くからさ」

 

 本当なら頼るべきではないと分かっているのに、優しい言葉に抗うのは難しかった。

 顔を見られたくなくてフィアの胸へしがみつく。

「私のせいで、リディアが怪我したんです……。治せなくちゃいけないのに、なのに、私は何もできないっ」

 一人で抱えきるには重すぎて、抑えようのない感情が後悔や懺悔となって次から次へと溢れ出す。

 止める術なんてなかった。

 まるで小さな子供の様に泣きじゃくりながらのぐちゃぐちゃな説明。

 酷く聞き取り辛い上に、意味も滅茶苦茶で支離滅裂なのに、2人は何も言わず耳を傾けてくれる。


 どのくらいそうしていたのか、いつの間にか話すこともなくなってすすり泣く声だけが残った。

 フィアはそんなセシリアの背に腕を回し、優しく撫で続ける。

「兄様」

 突然、リリーが兄を呼んだ。

「お姉様をちゃんと慰めてあげてください」

 それだけ言うとリリーはそそくさと立ち上がり、戸惑っている兄を残して部屋を出ていく。

 妹の扱いには慣れているものの、同年代の少女の慰め方なんて知る由もない。

 暫く「あー」だの、「うー」だのと考え込んでいたが、フィアには治療魔法の知識はなく、リディアの腕の怪我に関して役に立てるとは思えなかった。

「何か、俺にして欲しいことはあるか?」

 ならばせめて、自分にできることをするしかない。


 すぐに返事は来なかったが、たっぷり深呼吸できるだけの時間が経ってからセシリアの腕がフィアの背に回される。

「……ベッドに運んでください」

 あれだけ盛大に騒げば疲れもするかと納得して、ふにゃりと力なく押し付けられた身体の一部を努めて意識の外に壊れ物を扱うように持ち上げるとそのまま移動する。

 そうしてベッドの上に寝かせようとした瞬間、セシリアが一際大きく暴れた。

 いや、暴れたと言うより、フィアを巻き込んだというべきか。

 取り落としそうになったセシリアを庇おうとして、2人ともベッドの上へ盛大に転がる。

「それから、もう一つ」

 ともすれば消え入りそうな弱々しい声だったが、奇跡的にフィアの耳にも届いたようだ。

「俺にできることなら何でも手伝うよ」

 その台詞が以前盛大な墓穴を掘ったことを、恐らく彼は覚えていまい。


「ぎゅってしてください」

 相変わらず囁くような声だったが、やはり今回も奇跡的にフィアの耳に届いてしまった。

「何を……?」

 しかし、フィアもこのお願いは想定外で反射的に聞き返す。

 すると、ただでさえ密着していた互いの身体が擦り寄ってきたセシリアのせいで余計に近づいた。どうやら言葉ではなく行動で応えたらしい。

 言葉にならない悲鳴を上げてフリーズすれば、早くしろとばかりに足が絡む。もはやどこにも逃げ場はない。

 少し前にも同じ布団で寝させられたことはある。だがあの時は、身を寄せ合いながらも線引きがされていた。

 精神的な防壁とでも言うべきか、下心でセシリアへ触れようとしてもきっと回避されていただろう。

 フィアにもわかるくらいの強い意識がセシリアから感じられたのだ。だからこそ、ある意味では安心して眠ることが出来た。

 けれど、今のセシリアはあらゆる意味で無防備を晒している。例え触れたとしても抵抗しないと確信が持ててしまうほどに。

 セシリアは言葉にするのが難しいくらい可愛いし綺麗だけれど、それは絵画を眺める感覚に近かった。

 絶対に手に入る筈のない、天上の存在。

 そう思い続けてきたのに、今だけはどこにでもいるただの女の子に見えて、もしかしたら手が届くのではないかと思えてしまう。

 いつになく緊張しているのはそのせいだ。


 荒くなりそうな呼吸を必死に抑えて理性を保つ。リリーが部屋を出て行ったのが今はただ恨めしい。

 誰も居ない部屋に2人きりのシチュエーションは非常にまずい。その上、消え入りそうな声でぎゅっとしてときた。

 かといって断るわけにもいかなかった。傍目からも、セシリアが傷ついているのはよくわかる。

 放置して逃げ出すなんて真似は絶対にできない。ここは下心を押し殺して、彼女を慰めるべきなのだ。

 胸に顔を埋めたセシリアがもしフィアを見上げたなら、顔を真っ赤にしながら嬉しさと恥ずかしさと平静をめまぐるしく入れ替えている顔に涙も引っ込んで笑い出したかもしれない。

 それくらい酷い顔をしていた。


 意を決して恐る恐る手を伸ばす。

 セシリアの身体と布団の隙間から手を潜らせる。柔らかい感触に触れた瞬間、セシリアが小さく揺れた。

 たったそれだけでフィアは過剰なくらい取り乱す。

「これで、いいか?」

 必死の思いで回した手で要望通りに優しく包み込む。捻りだした声は抑えなければ震えてしまいそうだった。

 自然とセシリアの頭がすぐ傍にきて心地よい甘い香りがふわりと漂い、フィアの心臓が一際強く脈打つ。

 既に色々と危険な状態だと言うのに、腕の中のセシリアはまだ満足してくれない。

「もっと強くしてください」

 思わず変な声が出そうだった。もしや遊ばれているのかと疑ったが、そんな雰囲気は欠片も感じられない。

 何度も言うがとっくに危険な状態なのだ。今のセシリアを相手にこれ以上は流石に無理と言うしかない。

 今だって俯いているセシリアの顔を持ち上げて、無意識にキスの一つくらいしかねない勢いなのだ。

 誰が何と言おうとこれ以上は無理。そうハッキリ断ろうとして一度深呼吸した、瞬間。

「ダメ、ですか」

 弱々しい声が完膚なきまでに、フィアの次の言葉を打ち砕いた。

 きっとセシリアにも断ろうとするフィアの気配が意図が伝わったのだろう。

 予想もしなかった先制攻撃に吸い込んだ空気が盛大に漏れる。

 ダメだなんて言えるはずもなかった。男としても仲間としても。かといって欲望の呑まれるのはもっとダメだ。

 じゃあどうすればいいと、頭の中で幾人もの自分を集めての会議が始まる。結論はいつまでも引き伸ばしだった。

 拷問にも等しい時間がゆっくりと、砂礫が積もるような速度で過ぎていく。

 せめて何か会話でもして気を紛らわせようと思っても、あんな話の後だ。何を話せばいいのか分からない。

 取り留めもない話を今のセシリアが望んでいるとは思えなかった。


 心臓が過労死で止まるんじゃないかと思えるくらいの長いようでいて短い時間の後、沈黙を破ったのはセシリアの方からだった。

「分からないんです……」

 少しは落ち着いたのか、擦れてはいるものの滲んではいない声でぽつりと漏らす。

 何が分からないのかはフィアにもわからない。もしかしたら色々なことが分からなくなったのかもしれない。

 だからまず、セシリアが一番分かっていなくて、リディアが一番分かって欲しかったことを伝えようと思った。

「俺にはリディアの気持ちも分かるよ。そりゃセシリアが悪い」

 セシリアが嘆いていた内容は一貫してリディアに関するものだ。それだけ彼女のことを大切に思っているのだろう。

 けれど、セシリアの言い分はフィアからすれば大いにズレたものだった。

「分かってます。私があの時無理にでも帰してれば……」

「違う。そうじゃない」

 吐き出された後悔の言葉をフィアはセシリアの頭を押さえて無理やりに遮る。

「腕の怪我なんて、多分リディアにとってはどうでもいいんだ。大事なのはそこじゃない」

 セシリアの実力を知っているのに危なっかしいと思ったのは一度や二度ではなかった。

 自虐的すぎるのだ、セシリアは。


「前に俺達の村を助けてくれただろ? あの時のことを今はみんな後悔してる。どうしてあの時、一人で行かせてしまったのかって。俺達が足手纏いなのはわかってる。でも、だからといってセシリアに全部頼るのはもっと間違ってる」

 頭から手を放してもセシリアは何も言わなかった。先を待っている気がして、上手く纏まっていないながらも続ける。

「リディアだって同じじゃないか? 危ないと知っているのに全部セシリアに頼りきって、もしそれで何かあれば一生自分を許せなくなるって思ったから、無理にでも付いて行ったんだ」

 誰にも頼らず、何でも一人でこなそうとするのが良いことだとはフィアには思えなかった。

 きっとリディアもそうだ。いや、セシリアを大切に思っている人からすれば、満場一致で否の声が上がるだろう。

「前に母さんが言ってた。人を助けるのは凄く難しいんだって。助けるっていうのは全部でなきゃ意味がない。自分を犠牲にして誰かを助けても、助けられた人は犠牲になった人の重さを一生背負わされることになる。それはとても重くて辛くて、助けたことにはならないんだって」

 それを喜べるのは、相手がどうでもいい人だった時だけだ。

 精々おだてて良い結果だけをしゃぶりつくせばいいと思っている人だけだ。

 英雄にして崇める? そんな行為に一体どんな意味があると言うのか。

 死んでしまった人は生き返らない。そんな結末に喜びも誇りもある筈ない。

 そう思えるのは、死んでしまった人間くらいだ。


「今のセシリアがそうだ。リディアの腕を犠牲にした後悔と罪悪感で潰れそうになってる。でももし立場が逆で、犠牲になったのがセシリアだったらどうした? 今度は気にしないでって笑うんだろ? そんなの、勝手すぎる」

 犠牲になる方が楽なのだ。どんな傷を負っても、例え命を落としたとしても、自分の信念を貫いた満足感に溺れられる。

 でも残される人間からしてみれば堪ったものではない。そんなの、呪いと同じだ。

 自分のせいで誰かが傷ついた。自分のせいで誰かを死なせてしまった。

 気にするなと言われようと、大丈夫だと笑いかけられようと、その傷は死ぬまで永遠に心に残り続ける。

 今のセシリアのように。

「リディアも俺も、多分リリーも、それを怒ってる」


「なんで……どうしてっ!」

そんな当たり前のことを伝えたただけなのに、セシリアは過剰な反応を示した。

フィアの言葉を本気で理解できていない。

まるで違う言語を話しているようだった。

「そんなの、みんながセシリアのことを好きだからに決まってるだろ」

どうしてそんな簡単なはずのことをわかってくれないのかと、フィアの語尾がにわかに強まる。

「……うそ。だって今までずっと、そんなことなかった。小さな時から全部私がして、それでみんな喜んでた。そうしないと居ないのと同じで……私の価値なんて、それくらいしかないのっ」

「セシリアの過去に何があったか俺には分からないけど、セシリアを大切に想っていた人が居ないなんて絶対にあるもんか!」



 嫌な思い出は数えきれないほどある。でもその中に、暖かい記憶も埋まっていた。

 殻に閉じこもっても、部屋に閉じこもっても、変わらず価値のない扉を開けてくれた家族との記憶。

 妹の淹れてくれた、削られた豆が大量に浮いているとんでもない珈琲が美味しかったのはどうしてだろうか。

 母親からの、たった一言だけの挨拶が書かれたメールで泣いたのはどうしてだろうか。

 2人が心配してくれたからこそ、こんな自分にも価値があるんだと思えたんだ。

 扉の外に出なくてもいい。でも、消えるのは絶対に駄目だと言われた。

 だから帰りたいんだ。これ以上心配を掛けたくないから。自分の価値がそこにあるから。


 面倒でも苦しくても辛くても恨まれても蔑まされても罵られても良い様に利用されているだけだとしてもオークに穢されても領主の慰み者になろうとも。

 その程度の苦労で帰れるのなら、自分の価値がまた生まれるのなら構わないと思っていた。

 昔から誰かのために何かをするのは好きだった。何をすれば喜ばれるか考えるのも得意だった。役に立つと思われれば一緒に居られるから。

 それが苦痛になったこともある。でも投げ出せばそこから追い出される。誰も一緒にはいてくれなくなる。

 異世界(ここ)でもそれは変わらない。自分がもてはやされるのは高レベルの支援だからに過ぎないのだから。

 それに奢ることなかれ。元の世界に帰るには組織の力が必要不可欠なら、要らない人間だと思われないように貢献するしかない。

 そう思っていたのに。


「少なくとも俺はセシリアのことが好きだ。……いやその、別に変な意味じゃなくてだな。なんていうか、大切な仲間だって思ってる。でもセシリアはそう思ってくれてないのか?」

 言葉にならないのか、セシリアは小さく首を横に振る。

 そんな筈ない。セシリアだってフィアのことを大切に思っている。でも、相手が自分をどう思っているのかを考えるのは怖かった。

 他人なんて裏では何を言ってるか分からないし、一度失敗すれば後は残酷なものだから。

「セシリアは意外と臆病だったんだな。そんじゃ分からせるしかないか。何かあったら真っ先に呼んでくれ。期待に応えられるかは別だけどさ、俺なりに精いっぱい頑張るから。それでもし俺を信じてもいいと思える時が来たら、その時は信じてくれ」

 フィアはそう言ってまた優しく頭を撫でる。

 今までこんな風に言ってくれる相手なんて一人もいなかった。

「……最低ですね。みんなの前では良い顔ばかりして、裏では全部斬り捨てて、勝手に一人で突っ走って……。フィアやリディアが怒るのも当然でした」

 当然だ。何せずっと、穴倉の中に閉じこもっていたのだから。

 穴倉の中の暮らしは心地よかった。外みたいに危険はなくて、自分に優しい人ばかりだから。

 最初から期待なんてしないで、諦めていればいい。でもそれは、ただ逃げていただけで、向き合う覚悟がなかっただけだ。

 だけどもし、外の世界にこんなに暖かい物があるのなら、這い出してみるのもいいかもしれない。

 また傷つくかもしれないけど、それ以上に大切なものを教えてくれたから。


「信じます。フィアのことも、みんなのことも。まだぎこちないかもしれないけど、もうこんな心配はかけないから。だから、許してくれますか?」

「約束な。嘘だったら……そうだな、食堂の新メニューを片っ端から食べてもらうとか」

 小指を絡めながら提案したフィアに、セシリアがくすりと笑う。もう涙は引いていた。

「私、リディアの所に行ってきます。謝ってこないと。やっと分かったんです。狼の背で何が起こっても全部私の責任だってリディアに言い張った時、どうしてあんな寂しそうな声だったか」

 いてもたってもいられず、セシリアはフィアの腕からするりと抜けだす。

「ありがとう、フィア」

 振り返ったセシリアの顔は、今まで見た中で一番自然で太陽のように輝いていた。






「あの、こんばんは。夜遅くにすみません」

 遠慮がちな声がしてから、小さく扉が開く。するりと飛び込んできた人影は小柄で幼いとしか言えなかった。

「リリーちゃん? どうしたの、こんな時間に」

 どちらかといえば内向的な彼女が一人でこんなところにやってくるとは思わず、リディアが驚きの声を上げる。

 しかし、すぐにその理由を察した。

「……もしかしてセシリアのこと、かな」

「はい。どうしても、聞きたいことがあって」

 いつもセシリアに飛びついているのを見られているせいか警戒心が強く、一緒に居る時に少しだけ話すくらいなのに、たった一人でやって来たということは余程大事な用件としか思えない。

 考えられる理由は一つしかなかった。

「良いよ。立ってるのも疲れるでしょ? こっちにおいで」

 上半身を起こしてベッドの縁へ座ってから手招きする。

 しかしリリーは不安そうにリディアを眺めてから、ふるふると小さく首を振って、とんでもないことを口走った。

「いえ……。その、お姉さまからリディアさんに近づくと子どもができるから気をつけなさいって言われてて」

「……」


 リディアが無言になるのも無理はない。

 呆然自失といった表現がぴたりと合うくらい放心しきっており、半開きの口からは魂すら出て行きそうだった。

「だから、ここからでもいいですか……?」

 そこへ情け容赦のない追撃が加わる。

 確かに前々から可愛いなぁ、お喋りしたいなぁ、できればぎゅっとして色々したいなぁと思ったことはある。

 ある、が、それを行動に移したことはおろか、誰かに話したことすらない。つまり内心無罪だ。有罪である証拠は心の中にしかない。

 にも拘らず人を犯罪者扱いして、あまつさえ近づくだけで孕まされるなどと幼女に教え込むとはなんたる外道。非道。鬼だ、悪魔の所業だ。

 普段の素行が悪いだと!? 可愛い女の子を愛でて何が悪い!

 心の中で力の限り自己の正当性を提唱するが、虚しさが広がるばかりだった。だって理解されないんだもの。


「良い"お姉さま"を持ったみたいで……。なんで、どうしてセシリアばっかり女の子に懐かれるの? あたしの何がダメなの?」

 泣き言と一緒にはらりと涙が零れ落ちる。

「ネカマなのに。確かに一番可愛いよ? 一番の嫁候補だよ? でもあたしだって色々相談乗ったり、尽くしてるはずなのに……。浮気じゃないよ! でも少しくらい寄り付いてきてもいいじゃない!」

 音を立てて立ち上がり拳を握る。いつからか不平は声にも出ていたようだ。

 ふと視線を傾ければ、腰を抜かしてへたり込み、怯えた表情を浮かべたリリーと目が合う。完全に蛇と蛙の構図だ。

「えっと、違うの、これはその……うん。それで、どんな用件かな?」

 どうにか上手く言い逃れられないか考えていたが思い浮かばず、結局咳払いを契機に全てを水に流すことにした。

 リリーも戸惑いは隠し切れないが、意図を察して聞かなかったことにする。

 暫しの沈黙の後、意を決した様子でリリーが立ち上がった。


「あの、右腕が動かなくなったって聞きました。お姉様はそれが自分のせいだって言ってて……どういうことか、教えて欲しいんです」

 とてもじゃないが、リリーくらいの子どもに聞かせるような類の話ではない。

 けれど吸い込まれそうなくらい真っ直ぐな瞳は真剣で、セシリアのことを心の底から案じて、何かできることを探しているのは明白だった。

「オークに捕まった人達がいて、セシリアは身を挺してでも助けようとしたの。だけど、一人で行かせるのは危ないと思って勝手についていったんだ。結果はこのざま。足手纏いにしかならなくて、腕を切り落とされて、セシリアの魔法で繋がりはしたんだけど、動かない。セシリアはそれに責任を感じちゃってる」

 そうして、だらんとぶら下がったままの腕を指差す。

 リリーはそれをじっと見つめながら聞いた。

「それは、本当ですか?」

「うん。でもね、悪いのはセシリアじゃなくて……」

「違いますっ!」

 リディアは念を押すようにセシリアのせいではないと説明しようとしたが、リリーは突然叫び声を上げて割り入る。

 ぽかんとしたリディアに詰め寄って、だらりと垂れ下がった腕をそっと触れ、聞いた。

「本当に、治らなかったんですか?」

 リディアの顔色が蝋燭の光でも誤魔化せないくらい変わる。

「どういう、意味かな」

 そんな筈がないと思いながら、震えの滲む声で聞き返した。


「私の兄様は前に、森の中で斬られたことがあります。たくさん血が出て、息もしてなくて、全然動いてくれなくて。……身体が2つに分かれてました。でもお姉様はそんな兄様を治療してくれたんです」

 淡々と告げるリリーに、リディアの顔は青くなるばかりだった。

「目を覚ました兄様は身体が動かないなんてことありませんでした。私はお姉様を信じてます。綺麗で、優しくて、強くて。お姉様に治せない傷なんてないって」

 まさか切断された身体を治癒された経験者が居るなんて思わなかった。身体が2つに切り裂かれても元通りに繋がった? いっそ笑えるくらいのファンタジー具合だ。

 なるほど、この世界の住民であるリリーにはセシリアやリディアの常識が通用しない。

 腕の切断による神経の麻痺なんて常識がこの世界にあるはずないのだから、目の前で真っ二つにされた兄を元通りに治して見せたなら、治るものだと思い込んでも不思議はないという訳か。

 いや、そんなことよりもっと直接的に、"お姉様"なら絶対にどうにかするという絶対的な信頼があるのだろう。

「……敵わないなぁ」

 同時に酷く物悲しい。彼女はこんなにも周りから信頼されているのに、彼女は信頼してくれないことが。

「その通りだよ。あたしの腕はちゃんと動く。だってあのセシリアが必死に治してくれたんだもん。治らないはずないよね」

 認めるしかなかった。セシリアへの向う見ずな信頼には危険も感じたが、嘘なんてつけない。

「お姉様は凄く辛そうに泣いてました。どうして、そんな嘘を吐いたんですか」

 おまけに、リディアがただセシリアを悲しまそうとして嘘を付いたのではないと信じている。

 それは他でもない、リディアへの信頼の証だ。数えられるくらいしか話したことがないのに、リリーはリディアを信じきっている。

 降参とばかりに両手を挙げてから、動かないはずの右腕でリリーの頭を優しく撫でた。

「話すよ、全部。だけどその前に、一つだけお願いがあるの。もしも話を聞いて賛同してくれるなら、あたしに協力してくれないかな」






 再び訪れた病室の扉は以前にもまして開けにくかった。

 覚悟を決めたはずなのにいざとなると中々手が動かなくて、扉の前で行ったり来たりを繰り返す。

 頭の中で催されたシュミレーションは2桁の大台に乗り、予行練習は万全なのにどうにもタイミングが見つからない。

 だから突然扉が開いた時には飛び上るほど驚いた。

「お姉様! えっと、いつからそちらに?」

 それが見知ったリリーの姿で、彼女も目を丸くして、どこかばつが悪そうにもじもじとしている。

「つ、ついさっきです!」

「……会話、聞こえてました?」

「ううん。それどころじゃなかったから」

 本当は随分と前に居たが、自分のことで一杯一杯になっていたセシリアに会話を盗み聞く余裕なんてある筈もなく、そもそも気付いてすらいない。

 中で何を話していたのかは気になったが、問い質すつもりにはなれなかった。

 以前の自分ならそれとなく探りを入れていたかもしれないが、信じると決めたのだ。必要があればきっと自分から話してくれる。

 そうでないなら、今はその時ではないのだろう。

 挨拶もそこそこに駆け去っていくリリーの背を見送りつつ向き直ると、開いたままのドアの向こう側には同じようにリディアが目を丸くしていた。

 タイミングがあるとすれば今しかない。


「入っても、いいですか?」

 緊張のせいで極端に大きかった声を慌てて尻すぼみに絞る。

 最後は消え入りそうな程小さくなってしまったが、もう一度繰り返す気にはなれなくて、その場でドアの向こう側に佇むリディアの返事をじっと待った。

「う、うん。大丈夫」

 一呼吸分の間を開けて、戸惑いつつも頷き返される。

 どんな顔をすればいいのか分からなくて、顔を見られないようリディアへと抱きつく。

「ふぁっ!? だから今日のお姉さんは篭絡されたりなんか……」

「人間は損得勘定で動く生き物です。表面上は笑顔で会話してても、裏では相手を嘲笑って欠点を探しあってる。ずっとそんな風に思っていました。……いいえ、そういう生き物なんだって思っていたかった。そうすれば穴倉に籠もる自分を正当化できたから」

 取り乱したリディアを無視して、淡々と語り始める。

 本音も建前も考えなくていい電子上の世界ではなく、まだ本物の人と関わりあっていた、ほんの少しだけ昔の話だ。


「私、小さい頃に虐められてたんです。復讐の為にネカマして笑いものにしようなんて計画する性格ですから、当然ですよね。最初は他愛もない小さな頼みごとでした。ありがとうって言ってもらえるのが嬉しくて、積極的に手伝って。……いつの間にか何かあれば私がするのが当たり前になってました。でもある日、どうしても外せない用事があって断ったんです。そうしたら、次の日から誰も話しかけてくれなくなりました。裏で便利屋扱いされているのも知りました。それから嫌がらせが始まったんです。嫌な毎日でした。でもある日、また頼まれごとをされたんです。私は二つ返事で了承して、そうしたらまた話しかけられるようになりました。……それが碌でもない頼みごとなのは分かってます。でも、またあの嫌な日に戻るのが嫌で、私は受け続けました」


 あの時何を間違ったのか。そもそもいつから間違っていたのか。答えは今でも見つかっていない。

 どうして一人になることがあんなに怖かったのかも。

 どうしてあんな頼みごとを聞き続けてしまったのかも。


「長い間そんな日が続いて、あの日もいつものように頼みごとをされました。でも、その日の頼み事には妹が関わっていたんです。……とても受け入れられるような内容ではありませんでした。どうしてそんな酷い事をしようと思えるのか、私にはわかりませんでした。それで我に返ったんです。私は引きこもりました。私が引き受けなくても彼らが何かするかもしれないと思うと、学校になんて行ってられなかった。幸運だったのは、妹と私が違う学校に通っていた事です。妹の学校は私立の中高一貫性の女子校で男子は入れない。監視がてら、空いた時間でひたすらにプログラムの勉強をしました。妹を助けるには、彼らをこの街から追い出すしかないと思ったから。情けないですよね。本当は私が直接立ち向かうべきだったのに、怖くて出来なかったんです」


 とにかく必死だった。

 難しい単語が並ぶ専門書を一字一句暗記するくらい読み倒して、意味を調べて、ひたすら実績を繰り返した。

 幸い、お金のかかるような物じゃない。安いパソコン一台とネット回線があれば幾らでも学ぶことはできる。

 調べて、知って、試して、覚えて。眠い時は水を被ったり、握っていた鉛筆を刺したりもした。


「1年間、寝る間も惜しんで必死に作り上げた新種のバックドアウィルスを市のパソコンに潜り込ませて、街中の警備カメラを遠隔操作できるようにしました。放課後を中心に彼らを監視し続けて、恐喝、器物破損、窃盗の証拠画像を纏めて、学校や彼らの住所、勤め先の会社にばら撒いたんです。彼らはみんないなくなりました。でも詰めが甘くて証拠を残してしまったんです。未成年でしたからニュースにはなりませんでしたが、妹は学校を転校させられました。馬鹿ですよね。助けるつもりが逆に苦しめてました」


 捕まったことに後悔はない。

 けれど、その責任を妹が被らされたことだけはどうしても納得できなかった。

 悪いのは私だけなのに、当の本人は利用目的からして悪用したとは言い難く、原因も監視ソフトの脆弱性にあるとされて何の罪にも問われさえしない。

 情けさと申し訳なさでいっそ死んだ方がマシだとさえ思えた。

 自分には一片の価値なんてない。


「だけど、私さえいなければ最初からこんなことにはなっていなかったのに、あの子はありがとうって言ったんです。何があったか知らない筈なのに、私がここまでしたのはそうしなければならない理由があった筈だからって。……事件が終わって暫くしてから私は復学しようと思いました。でもできなかったんです。目の前の誰かが何を考えているんだろうって、話しかけられただけで何を探ろうとしているんだろうって、そればっかり考えてしまうんです。いつの間にか、私は他人が一切信用できなくなってました。きっとそれが彼らを追い出した代償なんだと思います。だから穴倉に引きこもりました。時折外出はしましたが、外の世界は今でも怖いのです。おしまい」


 電子上の世界は居心地が良かった。

 行き摩りの関係とでも言おうか。画面という絶対の防御壁があるおかげで相手を意識せずに済む。

 本音も建前も関係ないし、何かあれば電源を落とせば綺麗さっぱりリセットできる。

 それでも現実の自分が紛れ込まないよう、ゲームのアカウントには必ず女キャラを登録して敬語を使って話していた。


「……あたし、もしかして迷惑だったかな」

「突然抱きついてセクハラしてくる人が迷惑じゃないとでもお思いですか?」

 リディアを落ち込ませるつもりはなくて、けれど素直になるのも難しい。

「いっそ罵ってくれれば楽だったんです」

 そうしてくれていれば、今頃割り切ることもできていた筈だ。

「それだけは絶対嫌。もし君を責めれば、今まで以上に孤独になりそうだから。今度こそ誰にも頼らず、何もかもを抱え込んで、いつか自滅しそうだから。それなら嫌われてもいいから迷惑がられる方を選ぶ」

 誰かが傷つくのが嫌なら他人を挟む余地なんて作らなければいい。これから先は全部一人ですればいい。

 そんな浅はかな考えはとっくに見通されていた。


「ありがとうございます。私を助けてくれて。……信じてくれて。酷い話ですよね。リディアは私をずっと信じてくれてたのに」

 オークに襲われたとき、リディアは真っ先にセシリアに逃げろと言った。

 あれは単にセシリアを逃がそうとしただけではない。絶対に戻って助けてくれると信じてくれたのだ。

 そんな全幅の信頼を受けてなお、セシリアはリディアを信じられなかった。

「さっき、領主様から縁談を申し込まれました。変わりに何を要求されるか分かりませんけど、頷けば今までとは比べ物にならない権限が得られる筈です」

 リディアは驚いていたが、同時にセシリアの言葉を待ってもいる。

 本当にセシリアが理解してくれたのかどうかを見極めようとしているのだろう。


「本当は受けようと思ってたんです。でも辞めることにします。結婚なんてしたくないですから。その結果、自由の翼に不利益があったとして、リディアは許してくれますか?」

 完全にマイナスの悪手で、損しかしない返答だというのに、リディアはこれ以上ないくらい嬉しそうな笑顔を浮かべている。

「許すも何もある訳ない! なにそれ、人は物じゃないんだよ! それにセシリアはあたしのなの! 領主だか何だか知らないけど、渡してたまるものかっ! 安心して。反対する馬鹿な輩が湧いて出たら、そいつの首にこれ付けて売り渡してやる。他人に結婚を強要するんだもの。男色家の貴族の奴隷に成り下がるくらいの覚悟はあるだろうからねっ」

 手に乗っているのはセシリアが差し出した隷属の首輪だ。

 報告は明日にするが、事前に反対した者の末路を公表しておいた方が良いかも知れない。

 今のリディアなら嬉々としてやりかねない雰囲気がある。


 情けない顔でドナドナされていくプレイヤーの姿がありありと浮かんできて、セシリアは思わず笑い声を漏らした。

 リディアはそれをとても優しい顔で眺めながら言う。

「ねぇ、セシリア。別にあたしを信じてくれなくてもいいの。でも自分を犠牲にするようなことはしないで。君が傷ついて悲しむ人は、君が思っている以上にたくさんいるんだから」

「……はい」

「どうしても必要な時はみんなで考えよう? 誰か一人が犠牲になるんじゃなくて、みんなで笑って帰れる、そんな方法を探そうよ」

 その優しさに応えたくて、セシリアは目元を拭ってから顔を上げる。方法はもう思い浮かんでいた。

「今日は一緒に寝てもいいですか」

「襲っちゃうかもしれないよ?」

 リディアの返答は聞かずとも分かっていた。これはあの時のやり取りの焼き直しだから。

 さっきは間違えたてしまったけれど、今度こそ百点満点の正解を告げる。

「リディアさんはそんなことしないって信じてますから」

 後悔も罪悪感も消えた訳じゃない。どう言い繕っても、リディアの腕が動かなくなったのは自分のせいだ。

 でも、そんな私のことを心から心配して笑いかけてくれる人にすべきなのは、泣いて謝ることじゃない。

 まして、自分の身を犠牲にすることでもない。

「でも、私はやっぱり元の世界を諦めきれません。だからこれからもできる限り頑張りたいです。……手伝ってくれますか?」

「もっちろん。でも君だけが頑張るんじゃないよ。それはみんなの夢だから」

 小さく頷いてから目を閉じる。最後にありがとうと呟いてから、セシリアの意識は穏やかに遠のいた。






 鳥のさえずりと誰かの動く気配に、リディアのつけ耳がぴくりと反応する。

 朝の気配に薄目を開けると、それに気付いた人影が近寄ってきた。

「おはよう、リディア」

 窓の外で顔を出しているお日様に負けないくらいの眩しい笑顔を浮かべてセシリアが呼びかける。

「おっ、おっ、おほーっ!」

 直後、リディアの奇声が屋敷全体を揺らし、屋根の上で優雅に語り合っていた鳥達が何事かと空へ羽ばたいていく。

 かと思えば地中に住むモグラが太陽を見た時のように、布団をかぶって丸くなった。

「朝ごはん取ってきますから、着替えておいてください」

 リディアの奇行に慣らされているセシリアは、それが自分のせいで引き起こされたなどと微塵も考えずに食堂へ向かう。

 今の自分にできることがあるとすれば、動かなくなったリディアの腕の変わりをする事くらいだと考えて。


 一方、リディアは布団の中で丸くなりながら胸の鼓動を必死に抑えていた。

 僅かに残っている自分のとは違う香りはセシリアの物だろう。

 起きた後も触れ合っていた感触は生々しいまでに残っており、心なしか熱さえ感じる。

「落ち着け……クールになるんだあたしっ! こんなチャンスを逃していいの!? 良くない、絶対に良くない! そう、今は……攻めるべき時っ!」

 セシリアが何を考えているのかはなんとなく分かる。

 問題は口実だ。多少苦しくてもいい。上手い言い訳さえ考えられれば事は上手くいく。

「考えろ、考えるんだ……! どうすれば、セシリアに納得させられるかをっ」


 セシリアが戻ってくるとリディアは言われたとおり着替えており、何故かベッドの上で綺麗に背筋を伸ばした正座をしていた。

 それを微塵も疑問に思わないのはひとえに、普段のリディアの素行のおかげだろう。

 持ち運びできる机をベッドの脇に運ぶと、食堂から運んできた朝食のトレーを置く。

 そのままリディアの隣に座ると、スプーンを握って程よい暖かさのスープを一口分掬って口元に運ぶ。

「片手じゃ食べにくいでしょうから。はい、口を開けてください」

 赤子ではないのだから、食べようと思えば片手でも何の問題もない。

 とはいえ、リディアがそれを拒否するはずもなかった。

 傍から見れば気味悪いくらい崩れた笑顔を浮かべて、甲斐甲斐しく世話を焼くセシリアから食べさせてもらう。

 一生分の幸せを凝縮したような時間は勿体ないくらい一瞬だった。

 が、これはリディアにとって想定外の幸運。これから先は自分の手で幸せを作り上げるのだ。


 食事がひと段落してから、リディアは誰がどう見ても怪しげな落ち着かない様子を醸し出す。

「どうかしましたか?」

 勿論それはセシリアの気を引くための演技である。

 自分から話題を切り出すとわざとらしく聞こえるかもしれないと思い、尋ねられるのを待つという完璧な作戦のつもりだったが、わざとらしすぎて逆にあざとい。

 けれど、それを指摘する不届きな輩はどこにもいなかった。

 リディアを信じると決めたセシリアは無垢な子供のように純粋で、その意図を探ろうともしない。

 後で純粋すぎるのも危険だと説教しなければなるまいが、今は計画の遂行を優先すべきだ。

 罪悪感がごぽごぽと音を立てながら沸き立つのが苦しいが、これも。

 


「あのね、実は頼まれてた服があるんだ。少し手直しするだけで完成なんだけど、一人じゃできそうになくて。手伝ってもらってもいいかな?」

 無論嘘である。

 ゲーム時代の素材は全部倉庫の中で取り出せないし、この街で手に入る素材では満足できるものが作れない。

「それくらいなら幾らでも。何をすればいいですか?」

 そんなこととは露知らず、セシリアは二つ返事で申し入れを受け入れた。

「着るだけで良いよ。後はバランスを見て丈を調整したりするだけだから」

 リディアの行動論理は実に単純で明確である。

 一。可愛い女の子を愛でること。

 二。可愛い女の子を着飾ること。

 後付けの理由を付けているが、その目的はセシリアにインベントリの中へ納まっている数々の服を着せることである。

 それがまさか、こんな簡単に実現できるなんて。

 幸せの絶頂を感じつつ、候補があり過ぎて選べないでいると、ドアの軋む音がする。


「おはようございます。随分と楽しそうですね」

「うん、楽し……」

 リディアは満面の笑みで来訪者に頷こうとして、笑顔のまま固まった。

「リリーさん、おはようございます」

 止まっているリディアを脇に、セシリアはごく自然にリリーへ挨拶を投げかける。

「お姉様、ケインさんがすぐに応接間へ来て欲しいって、なんだか凄く慌てた様子でした」

 その言葉に、セシリアとリディアの表情が険しさを増した。

 誰が転移魔法を使えるのかはリュミエール軍にも知られたくない情報だ。

 今のところ、使えることを明かしているのはセシリアだけで、先の作戦行動も全てセシリアの転移魔法によるものと報告している。

 残ったプレイヤーはリュミエール軍と一緒に帰還途中のはずで、どんなに急いでも到着にはあと2日はかかる筈だ。

 もし危険を承知でポータルゲートを使ったのだとしたら、余程の緊急事態が起きたことを意味する。

「ごめんなさい、後できっと手伝いますから、今は話を聞いてきます」

「ううん、全然良いよ。行ってらっしゃい」

 飛び出したセシリアを見送ったあと、リディアは残念そうに溜息を洩らした。


「兄様に聞きました。お姉様はちゃんと分かってくれたって」

 じぃっと、蔑むような視線を向けてくるリリーに、リディアは思わずたじろぐ。

「リディアさんも言ってました。お姉様がちゃんと分かってくれたら、右腕のことは正直に話すって」

 夜中にやって来たリリーは説明を聞いて、リディアに賛同したのだ。だから何も言わず様子を伺っていた。

 でもそれはセシリアがちゃんと分かってくれるまでの間だけだ。

「も、勿論ちゃんと話すよ! でもほら、良く考えればあたしって凄い活躍したし、少しくらいご褒美があってもいいかなー……なんて……。……、ダメですよね、はい、分かってます、戻ってきたらちゃんと言います。悪いお姉さんでごめんなさい、だからそんな目で見ないで……」

 遂には出来心だったんですと、刑事ドラマの告白の様にさめざめと泣きながら心中を吐露する。

 リリーは最後までそれを聞いた後、少しだけ頬を緩めた。

「今日だけ、見なかったことにします。……でも、お姉様は渡しません。兄様と一緒になって、本当のお姉様になってもらうんですからっ」

 それだけ一方的に突きつけると、とてとてと部屋から駆け出す。

 リディアは一瞬ぽかんとした後、再び屋敷を揺るがした。






「ケインさん、何があったんですかっ」

 転がり込むようにして応接間へ飛び込むと、そこには確かにケインと、それから見知らぬ青年が立っていた。

 装備は上質。付けているアクセサリーはボスレアの高級品。間違いなくプレイヤーだ。

 装備要求値から逆算すればかなり高レベルだと推察できる。

 自由の翼に所属する高レベルプレイヤーは少なく、全員を記憶しているが、彼の姿は覚えがない。

 若干の警戒を抱きつつ、ケインに事情を説明して欲しいと視線を送った。

 けれど、青年はケインが口を開く前に大仰な動作で一礼する。

「今朝方、ここリュミエールから出発したプレイヤーが城塞都市アセリアに到着しました。彼らのおかげでポータルゲートでの相互転移が可能になったんです。この街にはまだ残った集団が居ると聞き、恐らくまだ知らないと思われる情報を届けに来ました」

 ゲームではほんの十数分の距離が一ヶ月以上も掛かっていると聞き、あらためてこの世界の広さに驚愕する。

 しかしそれは、ほんの些細な驚きに過ぎなかった。

 青年はそこで一度言葉を区切り、一枚の紙を懐から取り出した。

「現実世界への帰還方法は既に判明しています。詳細をお話しするのにどうしても実物を見て頂きたく、城塞都市アセリアまでお越しいただけませんか?」

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