リュミエール-リザレクション-
オークの拠点についたのは翌日の早朝だった。
彼女らには知る由もないが、丁度ケインが出陣直前の最終調整を行っていた頃合である。
小高い山は岩ばかりで、木は一本も生えていない。申し訳程度に草や花が局地的に群生しているだけだ。
入り口らしき場所には数匹のオークが詰めており、やってきた牛車に気付くと武器を構えて停止させる。
それが仲間だと分かると牛車を集めた駐車場らしきスペースへ誘導を始めた。
二言三言言葉を交わし、積まれている荷物を外へ運び出す。そこからセシリアとリディアが姿を見せたことで小さなどよめきが生まれた。
「良い? 私が合図したら位置情報を記録するんだよ」
小さな声でリディアが囁く。いよいよ本番だ。
リディアを巻き込んだ以上失敗は許されない。緊張を隠せない様子でセシリアが頷き返す。
前後左右を計8匹のオークが取り囲み、ぽっかりと開いた入口を潜る。
岩を刳り貫かれて作られた通路は思いの他広い。
壁には一定の間隔で明かりが灯されており、立ち込める暗闇を払っていた。
傾斜のある地面は螺旋状に上へ上へと伸びている。歩いても歩いても景色が変わらないせいで、ずっと同じところを周っているような気がして仕方ない。
一体どこまで続くのかとうんざりする頃になって、遠くから何かざわめきのような物音と切り抜かれた四角い光が見えてくる。
長かった坑道の出口だ。
こんな状況でなければ思わず感嘆の溜息を漏らしたかもしれない。
見渡す限りの青い空と、眼下に広がる広大な草原と森林。
遥か彼方には海らしき水面が陽光を受けて煌びやかに輝いている。
止む事のない強い風がドレスや髪をなびかせるのも気にならなかった。
立ち止まったセシリアを後ろに控えていたオークが早く進めとばかりに押し出す。
促されるままに歩みを進めると、オークの拠点、その本陣が目の前に広がっていた。
山に含まれる有用な金属類を掘削したのだろう。山頂部分はすり鉢上に削り取られ、大きな窪みを作っている。
そこには幾つものテントが設営されていて、数えるのが面倒なくらい沢山のオークが行きかっていた。
その中の一角、木材で組まれた檻の中にひしめく肌色を見つける。
幸い、分割して管理されているわけではなさそうだ。纏まっていてくれる分には救出もしやすい。
斜面を降りながら、セシリアは真っ先にあの檻の中へ入れてくれればいいのにと思う。
結構な人数が押し込められているのだ。中で魔法を使えば気付くまい。
しかし斜面を降りた一向は檻とは別の場所に向かって歩き始める。
近くに居たオークがセシリア達に気付いたのか、物珍しそうに集まり始めていた。
これ以上奥に進めば捕まった人達との距離は開くばかりでなく、2人を取り囲むオークの数も増えるだろう。
ちらりとリディアに目配せをすると、珍しく真面目な顔で頷き返した。
「位置記録を!」
リディアの発した突然の叫び声にオークが煩わしそうな声を上げる。
その瞬間を見計らってセシリアは位置記録の魔法を発動した。記録開始。終了まで、あと数秒。
どうか気付きませんように。目を瞑りながらただそれだけを強く願う。けれど、祈りは天に届かない。
大人しくしていた捕虜が突然魔法を使い、慌てたオークがけたたましい鳴き声と共にセシリアへ飛び掛る。
華奢な身体で2メートルを越すオークの体重を支えられるはずもなく、くぐもった悲鳴と共に地面へ押し潰された。
残りのオークは武器を手に周囲を見渡す。魔法の発動を警戒しているのだろう。だが、予想に反して変化らしき物は何も起こらなかった。
押し潰されているセシリアは巨体からくる想像以上の重量に呼吸さえままならない。それでも敢えて抵抗せずにいる。
後はここで、リディアがもう一度気を引いてくれれば……。そう思った瞬間、一匹のオークが爆ぜた。
「か弱い女の子を押し倒していいのは、全世界であたしだけだぁっ!」
セシリアが押し倒される光景を目にした瞬間に、彼女は素早くインベントリへアクセス、取り出したナイフで拘束を断ち切る。
オークの視線が集まるよりも早く更にもう一度インベントリを漁り、愛用しているツーハンドアックスを構え、一気に振り抜いたのだ。
製造である彼女は不足しがちなステータスを少しでも補おうと装備に気を使っている。
龍の骨で作られたボスレアの巨大な両刃斧は、その圧倒的な重量と破壊力で近くにいたオークの身体をさしたる抵抗もなく分断せしめた。
飛び散る血液に顔を歪めつつも、手の届く範囲に居た別のオークに再び凶刃を振るう。
戦士としての勘か、手にしていた武器を咄嗟に咬ませる反射神経は褒められた物だが、リディアにとっては何の障害にもならない。
粗雑な鉄の剣もろとも、真っ二つに叩き斬られたからだ。
ほんの一呼吸に満たない僅かな時間で仲間を二匹も殺されたオークは湧き上がる怒りに身を任せ、狂ったような喚き声を上げる。
しかし先の一撃を警戒しているのか、すぐに飛び掛かるような真似はせず、周囲をぐるりと囲い込むに留めた。
不意にセシリアの拘束が緩む。肺が酸素を求めて思わず咳き込んだ。
圧し掛かっていたオークはリディアを睨みつけ、隙あらば飛び掛からんと身構えており、セシリアには気を払っていない。
魔法を使ったのに何も起こせなかったセシリアより、虚空から武器を取り出し、瞬く間に2匹を葬ったリディアの方が遥かに危険だと判断したのだろう。
それこそがリディアの狙いでもある。
だが、セシリアにとっては完全に想定外の出来事だった。
「な、何考えてるの!? 気を引くだけって言ったじゃない!」
気を引いて欲しいとは言ったが、攻撃しろなんて言った覚えはないし、こんな大胆な事をしでかすなんて微塵も思っていなかった。
敵地のど真ん中で表だって敵対すればあっという間に取り囲まれる。
幾らプレイヤーと言えど、多方向から攻撃されてはなす術がない。自殺行為に等しい暴挙だ。
現に近場に居たオークは異常事態に気付き、武器を片手に駆けつけていた。
敵の数は現時点で十数体。既にセシリアとリディアだけでどうにかできる限界を超えている。
リディアが完全に包囲されるのは時間の問題で、とても合流してポータルゲートに乗る余裕があるとは思えなかった。
セシリアが期待していたのは身を危険に晒さない範囲での陽動だ。事前の打ち合わせでもそう念を押している。
叫んだり、多少暴れたりするくらいならオークだってここまで派手な敵対行動を取ったりしない。
犠牲が伴えば敵だって必死になる。タゲ集めには効果的だったとしても、逃げられなければ意味はない。
そこまで考えが至った時、セシリアはようやくリディアの考えている事を理解する。
「まさか……最初からこうするつもりだったの!?」
セシリアが位置記録を取って帰れさえすれば作戦は成功なのだ。
リディアがポータルゲートに乗る必要なんてない。もっと言えば、生死さえ重要ではない。
問題視されていたのはセシリアが逃げるまでの時間をどう稼ぐかだ。
叫び声や、拘束を断ち切ってただ逃げる程度の騒動では効果が薄い事くらいリディアも分かっている。
もっと直接的に、効率的に、セシリアと言う存在を忘れさせるにはどうすればいいか。
簡単な話だ。セシリアの魔法より、自分の方が危険であると分かりやすい形で示してやればいい。
最初から、リディアには一緒に帰るつもりなんてなかった。
セシリアからすれば冗談ではない。包囲された彼女がどうなるかなんて考えるまでもなかった。
製造スキルばかりで攻撃用スキルをまともにとっていない彼女がこれだけの数に大立ち回りなんてできるわけがない。
囲まれて、斬りつけられて。最悪の可能性が頭を過ぎった瞬間、位置記録が完了した。
「ゲートを出すから乗ってっ!」
オークが慎重になっている今しか、リディアを逃がせるタイミングはない。
間に作られてしまったオークの壁をセシリア一人の力で超えるのは不可能だ。包囲されているリディアの傍に出せばセシリアがポータルゲートに乗るのは不可能に近い。
それでも、巻き込んでしまった彼女だけは逃がさなければ。
そんな思いからポータルゲートの準備に入った途端、鋭い叱責が飛んだ。
「馬鹿言わないで! 君は何しにここに来た訳!? 目的を忘れないで!」
セシリアの身体がビクリと強張る。
「ここであたしに使ったら、一生君を許せない」
この作戦の目的は"英雄"を作り出す事。
領主の権力が及ばない身分を手に入れることで、セシリアの、自由の翼の安全を確保する事。
セシリアだけの為にしているわけではない。自由の翼に所属する何百というプレイヤーを護る為でもあるのだ。
リディアだってそれを理由に同行を求めてきたし、だからこそセシリアも折れざるを得なかった。
ここでリディアを逃がすのは彼女の覚悟や思いを否定する行為だ。
数多くのプレイヤーを見殺しにするのと同義だ。
でもだからといって、見捨てろと言うのか。
今なら逃げられる。彼女を置いてでも一度戻り、仲間を連れてくるべきだ。
逃げ出す機会はいずれ見つかる。まずは犠牲を出さない事を考えるべきだ。
理性と感情が正反対の意見を述べる。
混乱する頭では何も決断できず、ただ時間のみが過ぎ去っていく。
「信じてるから」
一体何を、と聞くまでもなく、痺れを切らしついに躍りかかってきたオークを切り払いながらリディアが続けた。
「君ならちゃんと、あたしを助けに来てくれるって!」
それが、セシリアのきっかけになった。
根拠も保証もないのによくもまぁ信じるなんて言えたものだ。
押し付けられた全幅の信頼は途方もなく重いけれど、応えなければと強く思う。
【スターライト】によってセシリアの上に圧し掛かっていたオークが吹き飛んだ。
間髪入れずにポータルゲートを詠唱、展開。セシリアのすぐ傍に光り輝く扉が出現する。
もたもたしていた自分を殴りつけたかった。1匹が仕掛けた事で、他のオークも後に続いている。
縛られた手足を解く暇すら惜しい。そのままの格好で転がるようにして扉へと飛び込んだ。
リディアが支えられる時間は決して長くない筈だ。
景色が切り替わるのさえもどかしかった。薄暗い部屋の床で起き上がろうと身体をくねらせるが上手くいかない。
高速を解く為にインベントリから小さなナイフを取り出そうとした瞬間、聞きなれた声が頭上から降ってきた。
「動くな」
握られたナイフが壁に取り付けられた蝋燭の炎を鈍く受け止めている。
間の抜けた表情で唖然としているとナイフが2、3度瞬いた。
絡まっていた蔓がはらりと床に落ちる。自由の身になったというのに、セシリアはその場から少しも動けなかった。
「どうして……」
見渡せばカイトや親方、ユウトと言った高レベルプレイヤーが狭苦しい部屋に集合していた。
「リディアはやっぱり一緒じゃないんだな」
倒れているセシリアには俯いたカイトの何かを堪える様な苦々しい表情が良く見えた。
停滞していた思考が取り残されたプレイヤーの名前を聞いて再び動き始める。
「リディアが!」
「分かってる! 最初から囮になるつもりだったんだろうさ。お前を確実に帰す為に。ゲートを開いてくれ、もう準備は出来てる」
あらかじめ全ての準備が整っていたおかげで、拠点に戻ってくるまで20秒もかからなかった。
二言三言言葉を交わし、ポータルゲートを開いて飛び込んだだけ。
そんな些細な行動であっても、セシリアにとってはあまりにも長くどかしい時間だった。
狭苦しい室内から開放的な屋外へ景色が様変わりする。
一番最後に転移してきたセシリアはひしめくオークの中からリディアの姿を探すべく周囲を伺うも、先に転移したプレイヤーが目の前に列をなしており、背の低いセシリアにとっては視界を遮る障害物になっている。
仕方なく身体を逸らし、リディアが最後に居た場所へと視線を移した瞬間、握っていた杖を取り落としそうになった。
誰かが息を呑む音がはっきりと聞こえてくる。
突然転移してきたプレイヤーにオークは驚き嘶くも、誰も聞いてはいなかった。
「リディア……?」
掠れた声がセシリアの口から漏れる。
視界の先では数体のオークが何かに向けて斧を振り下ろしていた。
その度に付着した赤黒い液体が撒き散らされ、地面を、周りに居たオークを、鮮やかな赤に彩っていく。
珍しい緑の髪も、その上で忙しなく動いていた猫耳も、広がった同色の池に浸され、今ではもう見る影もない。
途端に絹を裂いたような悲鳴が辺りを包んだ。
斧を振り上げていたオークに向かって生成された5本の槍が恐ろしいまでの速度で突き立てられ、十数メートルも吹き飛ばす。
セシリアは自分が悲鳴を上げていたことすら気付かずに駆け出していた。
向かってくるオークに向けて手にしていた杖を振るう。
たとえ怯ませるのが精々だとしても、そうやって無理やり作り上げたスペースへ小柄な体躯を強引に押し込み前へと突き進む。
敵陣の只中に単騎で飛び込むのが自殺行為だろうと、今のセシリアにはどうでもよかった。
一刻も早くリディアを回復しなくては。ただそれだけが思考を染め上げる。
だが、敵もリディアの手痛い反撃に警戒を強めているのだ。
強引にかわす事ができたのは始めの数体だけ、距離にして数メートルといったところか。倒れているリディアは届かない。
群れているオークの只中に飛び込めば当然のように囲まれる。
3匹からの同時攻撃に対し、1匹目は杖で怯ませ、2匹目をスターライトによって吹き飛ばしたまではいいものの、背後から忍び寄る3匹目を防ぐ手立ては残されていなかった。
目の前の凄惨な光景に凍り付いていたカイトはオークの群れに向かって駆け出した姿を見てようやく我を取り戻した。
「あの馬鹿っ!」
浮かんだ必死の形相をちらりと見た限り、まともな判断ができているとは思えない。
カイトにしても目の前の光景に思わず固まってしまうほどの衝撃を受けたのだ。
きっと大丈夫、何とかなる、そんな楽観的な思いがなかったといえば嘘になる。
リディアを止めはしなかった。心の中では行ってくれればとさえ思っていた。
まして、セシリアはどちらを逃がすのかという選択を迫られたのだ。その結果がこれで、冷静でいろという方が難しい。
しかしだからこそ、これ以上の犠牲は許容できなかった。
「分断急げ! 親方は俺とセシリアを! 目の前のオークには絶対に範囲攻撃を使うな!」
大声で出された指示に他のプレイヤーもようやく動き出す。
カイトは敢えて盾を使わず、片手剣を両手で握ったまま駆け出した。
振り下ろされる斬撃をすり抜け、足や手のみを斬り飛ばして無力化、最小限の動きでセシリアへと駆け寄る。
強引な突撃の末に3方を囲まれ、2体分の攻撃を捌いて見せたものの、背後からの一撃には気付いていない。
「セシリア、伏せろっ」
反射的に小さな身体が縮む。その瞬間を見計らってカイトの剣がオークの胴を薙いだ。
危険が過ぎ去った事を理解したセシリアが再び強引に進もうとするのを、寸での所で引き留める。
「離してっ!」
暴れ狂うセシリアの顔色は青を通り越して白い。突き立てられた爪が皮膚を裂き血を滲ませた。
刺すような痛みにカイトは顔をしかめたが離しはしない。
強引に引き寄せると襟首を掴み上げ、悲愴な表情で迫る。
「いい加減にしろ、お前に何かあったら誰がリディアを回復するんだ」
押し殺された怒声にセシリアの肩が大きく震え、その場にへたり込んだ。
リディアにはポーションが使えるか分からないし、セシリアの回復魔法に比べれば効力は著しく低い。
「でも!」
「分かってる。大丈夫だ、すぐ片付ける」
これだけ騒いでいると言うのに、倒れているリディアは微動だにしなかった。
一刻も早く回復しなければ間に合わない。流れ出ている血の量からすれば、既に間に合わない可能性さえあった。
無理をしてでも駆けつけたいセシリアの気持ちは痛いほど分かる。この場の誰もが同じ気持ちだった。
すぐに片付けると豪語したものの、カイトは元々壁向けのステータスで、広範囲殲滅は得意ではない。
「親方、できるか?」
背後を振り返る事すらせず、並み居る敵を易々と吹き飛ばしながら合流した親方に尋ねる。
「いけなくはねぇが、倒れてる嬢ちゃんを巻き込んじまう」
厄介な事に、倒れているリディアの周囲には多数のオークが残っていた。
一刻を争う状態で個別に殲滅するのは時間を浪費するだけだ。かといって範囲スキルを使えば彼女も巻き込んでしまう。
「構わない。やってくれ」
だというのに、カイトは迷う事もなく親方への範囲殲滅を頼んだ。無論、リディアの事を諦めた訳ではない。
「【プロヴィデンス】」
純白の光がリディアを優しく包み込んだ。
これでリディアに発生したダメージは全てカイトが肩代わりできる。
Pvに精通している親方にとっては何度も見た光景なのだろう。その意図を察して小さく頷く。
「っしゃあ、一気に片付けてやんよ!」
気合の篭った言葉と共に握っていた武器へ力を篭めつつ敵陣の只中へ突っ込んだ。
余波を警戒し、カイトは盾を構えてセシリアを抱き寄せる。
視界の端に武器を振り上げる親方の姿が映った次の瞬間。凄まじい爆音と衝撃が大地を揺らした。
威力を抑えたとしても、レベル上限に達している親方の攻撃力は異常なほど高い。
カイト自身が盾の上から耐えるのならばともかく、肩代わりするのは製造ステータスのリディアが受けるダメージだ。
プロヴィデンスの効果によって流されたダメージは膨大なHPを2割近くも削りとる。
全身に焼けつくような痛みが駆け巡り、苦痛に顔を歪め呻き声を漏らした。
「カイト!」
「俺は後で良い。それよりリディアだ」
今にも泣き出しそうな顔で回復魔法を発動しようとしていたセシリアの手を握り、痛む身体を庇いながらリディアへと駆け出す。
血溜まりの中に倒れるリディアは異様の一言に尽きた。
倒れた後も全身を斬り付けられたのだろう。大きな裂傷が数え切れないほど走り回り、これだけ血を流してもなお止まっていない。
何より、その身体には右腕がなかった。
「なに、これ……」
目の前の景色が信じられず、呆然と呟く。すぐ近くには両刃斧を握ったままの腕が転がっていた。
足腰から力が抜け、その場にぺたりと座り込む。
息をしていない。脈があるはずもない。誰がどう見ても、リディアはとっくに死んでいた。
「嫌……違う、こんなはずじゃ……なんで……」
息が上手く吸えず身体が小刻みに震える。視界はぐるぐると渦巻き、気持ち悪さに頭を抱え込んだ。
絶望的な現実に、しかしカイトだけは抗う。
たかがオーク程度に製造とはいえ中レベルのプレイヤーが数十秒で殺されるなんてあってたまるものか。
見るに耐えないリディアの骸を凝視し、違和感に気付く。
「セシリア回復急げ! リディアのHPはまだ全損してない!」
こうしている間にもHPは減り続けていたが、まだ0ではなかった。凡そ2割、1割9分、8分。恐ろしい勢いで減り続けているが、今ならまだ間に合う筈だ。
転がっていた腕を迷う事無く拾い上げ、切断された肩へと押し付けた瞬間、セシリアが叫んだ。
「【レメディウム】」
最大主教専用の完全回復魔法を発動させながらただひたすらに祈る。
眩いばかりの極光が血塗れたリディアの身体を包む。数秒後、光が薄れた先にあったのは傷一つないリディアの身体だった。恐ろしいこと、千切れた筈の腕さえ何事もなかったかのように完璧に繋がっている。
カイトの腕の中で止まっていたはずの心臓が再び鼓動を始める。数度咳き込んだ後、大きく息を吸い始めた。
「リディア!」
「大丈夫、恐らく気を失ってるだけだ。顔色も戻ってる。この分なら心配ないさ」
心の底から安堵した様子でカイトが微笑む。土気色だった顔にはきちんと生気が宿っていた。
最悪の事態を免れたことにセシリアも心から安堵し、涙を零しながら幾度となく「良かった」と呟く。
だが、当初の目的はまだ何も終わっていない。カイトの表情が引き締められ、リディアを抱き上げる。
「先にリディアを返そう。部屋には救護班を待機させてある」
意識のない人間を運び、護りながら戦うのは至難の業だ。リディアはもう役目を果たしている。これ以上危険な目に合わす必要はない。
無言のまま頷いたセシリアがゲートを開き、リディアの身体を潜らせた。
既にオーク達は新たな侵入者に気付き、手を進めていた。敵襲を告げる銅鑼を打ち鳴らし、戦力を集めている。
とはいえ、突然拠点内部に転移してくるのは想定外だったのだろう。
砦とは外敵から身を護る為にあるものなのだ。兵は必然的に外周へと配備される。
外からよじ登ってくる人間相手になら幾らでも岩を転がし、油を撒き、火矢を射掛けることはできるだろう。
だが、味方の多い内部に向けて無差別に攻撃することなどできなかった。
外周から内部までの距離は然程離れていないが、緊急事態となれば話は別。侵入された敵を阻むには距離がありすぎる。
内部に残る少数の兵ではプレイヤーの移動を留める事など出来る筈もなかった。
「親方は檻の破壊を急いでくれ! 壊すのは1箇所だけでいい、下手に動かれると厄介だ! ユウト達は氷壁の展開急げ!」
散発的に襲い掛かるオークを蹴散らすのは難しくない。無事捕まった人達が詰め込まれた檻へ辿り着くとカイトは早口で指示を飛ばす。
同伴した魔術師は4人。内2人は珍しく水系統をメインにしているプレイヤーだ。
魔法の属性にはそれぞれ特色が備わっている。
一般的なところで言えば、火は威力が高く、風は詠唱速度に優れ、地は範囲が広く、水は補助的な魔法が多い。
魔法職が求められる役割はアタッカーだ。高威力の魔法で敵の殲滅を行うにはどうしても火属性が必要になる。
序盤の敵が軒並み火属性に弱い動物モンスターだということもあって、かつてのゲームでは火を中心にスキルを組み立てるプレイヤーが圧倒的に多かった。
スキルポイントは有限だ。全属性の魔法を網羅したくとも、システムがそれを許さない。
勿論、あらゆる属性を平均的に上げるという育て方ができないわけではないが、どの属性も中級魔法辺りでポイントが足りなくなり見事な産廃が出来上がってしまう。
メインにする魔法の属性は2つまでが限界なのだ。
アタッカーを目指し火属性を選ぶのであれば、必然的に相性の悪い水属性は選ばれない。
水を主軸に育てていた魔術師が自由の翼にいたのは僥倖といって良かった。
水属性魔法のスキルツリーには氷の壁を作り出し、モンスターの移動を妨げる魔法が用意されているからだ。
少人数であらゆる方角から押し寄せるオークを防ぎきるのは不可能に近い。
だからこそ当初の計画では背後を壁とし、攻められる方向を限定するという案が浮上した。
しかしながら、この計画には幾つもの問題がある。
浚われた人達の居る場所が壁に面していて守りやすい構造でなければ成立しないのだ。
多数の人質を連れて地理的有利な場所へ誘導するのはプレイヤーでも難しい。
オークを見て足が竦む人だって出てくるだろう。全員のフォローなんて出来るはずもない。
幸運を前提にした計画など机上の空論に等しかった。
ならば他に何か方法がないだろうかと頭を悩ませる中、誰かがぽつりと呟いたのだ。「なら、壁を作っちまえばいいんじぇねぇの?」と。
甲高い硬質な音が響き渡り、瞬く間に分厚い氷壁を2枚作り上げる。これなら矢どころか斧さえも弾き返すだろう。
全方位に展開したいところではあるが、同時に展開できるのは1枚までだ。作り上げた氷壁に魔力を供給し続けなければたちまち崩れ落ちてしまう。
宴会芸。ネタスキル。そもそも水特化にする意味がない。ゲームでも散々な言われ様だったが、概ね間違っていないのが憎たらしい。
唯一使い道があるとすれば、前衛が大量にトレインしてきたMobを細い小道で分断し、安全地帯から一方的に攻撃する【崖撃ち】と呼ばれる攻撃手段に使えることくらいか。
ただし、ダンジョンの道を勝手な都合で封鎖することになるので、通れなくなった一般プレイヤーから大量のヒンシュクを買う事になる。よって、お勧めはできない。
人の居ない時間帯ならまだしも、他人の迷惑など顧みないという輩も居て、反対方向からMobを釣って押し付けたり、氷壁を物理的に破壊して隔離していたMobをぶつけるといったMPK合戦がよく勃発していた。
だが、今となっては過去の出来事である。使えるものなら使うに限る。
カイトはリュミエールに居るプレイヤーから見覚えのある【岸撃ち】パーティーの顔ぶれを探し出し、気乗りしない彼らを半ば脅す形で強引に引っ張ってきていた。
これまでの迷惑行為を清算する機会があるんだが、当然参加するよな。まさか参加しない訳ないよな。参加しなかったどうなるか分かってるよな。
全く以って見事な三段活用を笑顔で突きつけたのである。
高レベルのカイトに凄まれて拒否する程の度胸を彼らは持ち合わせていなかった。
最も、もし拒否しようものなら簀巻きにされて連れ込まれていたのだが。
なにはともあれ、これで2方向からの攻撃は警戒しなくて良い。
ようやくプレイヤーに追いついたオークが手にした斧で氷壁を殴りつけるが、傷一つつける事すら叶わない。
その間に親方は檻の一部を破壊、セシリアがポータルゲートを開く。
「こちらから安全な場所に移動できます! 最後の一人まで絶対に守りきりますから、慌てずに乗ってください!」
光の扉に戸惑いながらも指示通り飛び込んでいく。思ったより混乱は少なく、中には一緒に戦うと申し出てくれる者さえいた。
彼らにとって、魔物との戦闘は稀であっても日常にありふれた出来事なのだ。
流石に直接的な戦闘を頼む事はできないが、避難誘導を手伝ってくれるだけでも随分と楽になる。
騒ぐ者を落ち着かせ、戦えない子供と女性から先にポータルゲートを潜るよう指示を飛ばす様を見て、ここは任せても大丈夫だろうとセシリアもオークの方へ振り返った。
ユウトが【イラプション】を設置し、それとは別方向に向けて、大型の火炎弾を次々に解き放つ。
それを避けようと別ルートをとったオークは【イラプション】の地域へ足を踏み入れ、瞬時に炭へと変わった。
目の前に吹き上がった炎で仲間を焼かれたオークは踏み出そうとしていた足を押し留める。
この道を進むべきか、或いは別の道に変えるべきか。後続のオークも次々に足を止め、致命的な隙が生まれた。
「【キャストリダクション】」
セシリアもユウトも、足を止めたオークの一団をしっかりと捉えている。
僅か一呼吸分の詠唱の遅れはセシリアの支援魔法を待っての事だろう。何も言わなくとも、範囲殲滅の前に一瞬だけ間を作るのは良くある話だ。
セシリアの詠唱時間を軽減する支援魔法が寸分違わず、ユウトの作り出した間に刺さる。間髪居れずに詠唱が始まり、数秒後には巨大な爆発、【エクスプロージョン】となって解き放たれた。
範囲内に居たオークが残らず吹き飛ばされ、血肉を降らす。
圧倒的な破壊力を前に、オーク達の足がさらに鈍った。
セシリアとリディアを捕まえたオークからも分かるように、後方支援拠点に集められたオークは戦闘に慣れていない。
ただ一つ問題があるとすれば。
セシリアがそう考えた瞬間、件の【問題】が雄雄叫びを上げ、武器を構える様が見て取れた。
1拠点に1体居ると報告されたジェネラルオーク。後方支援拠点といえど、指令役は必要だ。
周りの有象無象はどうにでもなるが、護るべき者を抱えた状態であれの相手をするのは非常に面倒である。
「詠唱モーション確認、妨害を!」
特に厄介なのが広範囲魔法である。設定上オークが魔法を使えないなら、上位固体もまた魔法を使えなくしてくれれば良かったのにと場違いな考えが頭を過ぎる。
魔法を使えないオークが人と交配し、魔法を使えるようになったからこそ上位固体成りえたとしてもだ。
「【フレアレジスト】」
万が一のことを考え、火属性耐性を向上させる支援魔法を周辺一帯に展開する。
本来、支援魔法は単体にしか効果を及ぼさない。
セシリアの支援魔法が範囲に対して効果を持つのは最大主教のスキル効果があってこそだ。
範囲化できる魔法は最大主教の下位職で覚えた物だけという制約があるものの非常に便利だといえる。
反面、範囲内と対象になった人数によって消費MPが増加してしまう。
軽い眩暈は、かつてどの程度MPを使うと支障が出るか試した時にも感じた物だ。凡そ2、3割といったところか。
5割を切ると精神的な疲弊が顕著に現れ、7、8割では意識を保てるかどうか分からない。使える魔力は既に半分を切っていると考えていいだろう。
檻の中にはまだ半分くらいの人影が残っている。ポータルゲートが一度に複数置ければと思わずにはいられない。
ユウトの長距離魔法によって、ジェネラルオークの詠唱はすぐに止められた。
しかし、敵とて馬鹿ではない。すぐに建物の影へと逃げ込み、再び詠唱を始めたのだ。
セシリア達がその場から動けない事に、ジェネラルオークは気付いていた。大体の場所さえ分かれば対象の姿が見えなくとも魔法を使う事はできる。
「っ! 敵に隠れられました! 多分再詠唱してます!」
ここら一帯は居住区らしく、雑多なテントが所狭しと並んでいる。隠れられた敵を探すのは至難の業だ。
詠唱が終わるまでに避難が完了するとは思えない。カイトがダメージを肩代わりするのだって限度があった。
一刻も早く敵を探し出し、倒さなくてはならない。しかし一帯どうやって?
「カイト。ここはおめぇだけで十分だろ?」
いっその事危険を承知で安全地帯まで移動するかと考え始めた時、親方は実に良い笑顔でそう言った。
「任せろって。こんな奴ら相手に遅れなんて取るかってんだ。いっちょ行ってきてぶっ叩いてくらぁ」
ちょっとそこのコンビニで飲み物でも買ってくるとでも言いたげな様子で、親方は一人敵陣へと駆け出した。
「な、何考えてるの!?」
素っ頓狂な声を上げたセシリアの隣ではユウトが思わず頭を抱えている。
「多分、何も考えてないです……」
息子の言葉と裏腹に、親方にも考えの一つくらいはあった。
仲間が危機に瀕しているのだ。一肌脱がなければ漢が廃る。それに、狭苦しい場所に閉じ篭って敵を倒すのは肌に合わない。
四方八方にテントが並んでいる居住区なら囲まれる事はないという打算もある。
反面、不意打ちできる障害物には事欠かない。
実際に数体はテントの中に潜み、突き進んでくる親方が通り抜ける瞬間に攻撃すべく武器を構えながら凶悪な笑みを浮かべてすらいた。
セオリー通りの戦略ではあるものの、今回ばかりは相手が悪かったとしか言いようがない。
親方にとってテントはジェネラルオークを隠す障害物でしかない。
FPSゲームよろしく、陰に隠れて1体ずつ殲滅するつもりはなかった。
スキルの射程距離圏内まで近づくと持っていた大型の斧を水平に構え、大きく息を吸い、
「【トォォォルッ・ハンマァァァッ】」
裂帛の気合と共に思い切りぶん投げる。
回転しながら高速で飛来する大斧はあらゆる障害物を潜んでいたオーク諸共、問答無用で切り伏せる。
隠れていたジェネラルオークは直撃こそしなかったものの、すぐ傍を通り抜けた斧に思わず声をあげ集中力を四散させてしまう。
準備していた魔法の詠唱もまた、当然のように掻き消えた。
「そこかぁぁぁぁッ!」
崩れたテントから覗くジェネラルオークの身体に親方もまた気付いていた。
鬼のような形相で走りつつ、戻ってきた斧を重量を感じさせない挙動でしっかりと受け止め、ジェネラルオークへ迫る。
振り下ろされた親方の一撃に持っていた剣で迎え撃ったのは流石と言ったところか。
それなりの業物なのだろう。親方の武器を以ってしても壊れることはなく、鍔迫り合いが始まる。
力ならオークの専売特許だ。人間相手に負けてたまるかと渾身の力で以って斬り返そうとするのに、剣は少しも持ち上がらない。
「なんだ、こんなもんか」
ジェネラルオークの視線の先では親方が獰猛に笑っていた。
障害物を纏めて吹き飛ばしてくれたおかげで、セシリア達からも親方の様子が良く見える。
単身で突っ込んだかと思えば好き勝手に暴れ周り、被害は甚大を通り越して壊滅的だ。これは酷いとしか言い様がない。
もはや近づくのさえ恐ろしいのか、遠巻きに眺めているオークさえ居るときた。
「脳筋ここに極めり……」
ぽつりと漏れたカイトの言葉にセシリアが苦笑いを浮かべ、ユウトは伏している。
サシで戦えるならジェネラルオーク程度、親方の敵ではない。
一瞬拮抗したかのように見えた攻防は、しかし強引な親方の攻めによってあっけなく終わりを告げた。
大将が倒され、オークに動揺が走っている間に一般人の避難も無事完了する。
「どうしよう。出来る限り殲滅していく?」
時間はかかるが、混乱しているオーク達を個別に殲滅するのは難しくないと判断したセシリアが尋ねる。
カイトは逡巡した後、ゆっくりと首を横に振った。
「いや。役目は十分果たしたんだ、逃がしておけばいいさ。また来るようなら自由の翼の利益にも繋がるしな。それよりセシリア、言う暇がなかったんだが、もう一つ仕事が残ってるんだよ」
「仕事……?」
はて、他に何かやるべき事があっただろうかと首を傾げるセシリアに、カイトは事情をさらりと話す。
「オークの本隊なんだけど、奇襲は止めにしたんだ。お前にばかり良い所持っていかれてたまるかってな。今頃リュミエールの防衛ラインで暴れてるんじゃないか? もう終わったかもしれないけど、念の為様子を見に行きたい」
「は?」
一瞬、何を言われたのか最初理解できなかった。いや、理解するのを拒否したかったという方が正しいだろう。
オークとプレイヤーの人数差はかなりの物だったはずだ。だからこそ真正面からの衝突を避け、一撃離脱作戦という被害の出にくい奇襲を提唱した。
にも拘らず、防衛ラインまで接近を許すのは愚作としか言い様がない。
どうしてもそんな真似をしたのか。考えるまでもなかった。彼もまた、英雄になる道を選んだのだろう。
あるいは、ゲームにちなんで勇者様御一行と評するべきかもしれない。
「ば、馬鹿じゃないの!? 親方、早く戻って! リュミエールの防衛ラインに転移します!」
崩壊しつつある左翼に向けて、ケインは全力で戦場を駆ける。
広範囲の防衛が数少ないプレイヤーにとって不利に働くのは当初から言われていた事だ。
地雷原の構築によって限定的な封鎖を行ったのも、根底から問題を解決しうる手段が見つからなかった故の苦肉の策でしかない。
既にケインの計画は破綻しつつある。
やはり地雷原がコケオドシだと判明した時点で引き返すべきだったのだと思い直しても後の祭りだ。
とにかく、今は一人でも犠牲者を減らさなければという思いが過ぎった瞬間、犠牲者が生まれるであろう事を何ら疑っていない自分に吐き気すら覚える。
自軍への巻き添えを恐れたジェネラルオークが左翼の奥に魔法を発動したおかげで、最前線に居た一部のリュミエール軍はダメージを受けていない。
しかし、彼らはオークの進軍を阻むのが目的であり、盾の他には貧弱な武装しか装備していなかった。
後方からの火力が途切れた今、オークの突撃を防ぐ手段はなく、破綻するのは時間の問題といえる。
彼らが崩れれば背後で魔法を受けて動けなくなっている人々は易々と殺されるだろう。
そうなる前にケインが駆けつけられる可能性は皆無といって良い。両者の距離は絶望的なまでに開きすぎている。
せめて左翼付近に繋がるポータルゲートがあればと考えるが、それを使えるプリーストは貴重な回復役でもあるのだ。
比較的安全な後方で司令塔をしているケインの傍ではなく、より危険な前線に配置したのは当然の采配だろう。
そもそも魔法を通されること自体、本来は想定されていなかった事態なのだ。対応策が練られている筈もない。
だが、だからといって簡単に諦められる問題でもなかった。
もはやケインに残されているのは祈る事だけだ。どうか奇跡が起こって、駆けつけるまでオークの進行が止まりますように。
その瞬間、左翼の中心で柔らかな光の花が咲いた。
駆けつけたセシリアが戦場で最初に見た物はあちこちに転がる人の身体だった。
あらぬ方向に腕が曲がっている者、重度の火傷で皮膚が爛れている者、着ている服は無残にも焼け焦げ、金属製の鎧は歪に歪んでいる。
ざっと辺りを見渡しても敵影は遥か遠く、傍まで進軍されたとは考え難かった。
となれば、この現象は魔法で引き起こされた事になる。
ある一点から草や土が放射線状に掘り起こされている事を鑑みれば属性は火。衝撃を伴う爆破系の魔法だろう。こんな事ができるのはプレイヤー以外にジェネラルオークしか居ない。
そこかしこから絶え間なく聞こえる苦痛に満ちた呻き声が、今のセシリアにとっては救いにすら思える。
声を上げられるという事は、死んでいないのと同義だ。
中心部に近いこの場所でこれだけ生存者が居るのなら、より遠くに倒れている人達も無事である可能性が高い。
「みんなは前方のオークをお願い、私はこっちをどうにかするからっ」
小さく息を吸い込んでから目を閉じ、集中する。体内を巡る力が抜け落ち、雫となって地面に広がっていく。
それがある程度の大きさになった瞬間、セシリアは閉じていた目をゆっくりと開き【聖域】を発動させた。
暖かな緑の粒子がひとりでに空に舞ったかと思えば、範囲内に横たわっていた数人の兵士の傷が瞬く間に完治する。
上半身を起こした彼らは身体中を苛んでいた痛みが突然消えたことに驚きを隠せない様子で、どこか呆然としながら身体を検めていた。
セシリアはその内の一人に近づいて手を取ると、周りの兵士にも聞こえる声で言う。
「人手が足りないんです、手伝ってください!」
【聖域】で兵士の傷を癒すのは造作もないが、効果範囲は広くない。
大事なのは回転率だ。いかに迅速に兵士を【聖域】へ放り込み、回復した兵士を扱き使えるか。
セシリアからも迫り来るオークの群れがしっかりと見えている。
肝心の火力部隊がこの有様だ。最前線で盾を構える壁部隊だけであの数を抑えるのは無理だろう。
カイト達が援護したとしてもたった数人では火力不足は賄えない。
時間を稼いで貰っている間に倒れているリュミエール軍を回復し、体勢を立て直さなければ。
幸い、彼らの士気や錬度は安穏とした日々に浸っていたプレイヤーよりも遥かに高い。
倒れている仲間を救わなくてはという義務感もあるのだろう。瀕死の重傷を負わされたと言うのに、怖気づく者は誰一人としていなかった。
傷を癒した者は何も言われずとも倒れている仲間の元へ駆けつけ【聖域】へと運ぶ。
だが、オークの第一陣はもうすぐそこに迫っている。このままでは体勢を立て直す前に前線が崩壊しかねない。
「氷壁を展開しろ。可能な限り最大の規模でだ」
有無を言わせず連れてこられた2人の魔術師はカイトの言葉に顔を青く染める。
【アイスウォール】は少なくないMPを断続的に消費する魔法だ。先の拠点攻略で最大MPの半分近くを消費した彼らはすでに疲労困憊の極みと言って良い。
「もう無理だって! これ以上使ったら倒れちまう!」
魔法を使いすぎると意識を失うのは周知の事実だ。戦場で意識を失えばどうなるか。
泣き言のひとつくらい漏らすのは当然なのだが、彼らの事情など今は些事に過ぎない。
後方に展開されていた火力部隊は致命的な痛手を負って活動不能できないのだ。
セシリアが治療に当たっているが、部隊としての機能が回復するまで今しばらく時間が必要だろう。
氷壁はその為の時間を稼ぐのに最も都合が良い。
「安心しろ、ちゃんと守ってやるよ。それともなんだ、あの大群に突っ込んで殲滅して来てくれるのか?」
カイトの浮かべた場違いな笑顔に、2人は青ざめた顔で戦慄き、項垂れながら了承の意を伝えるしかなかった。
数秒後、巨大な氷壁が2枚、接近するオークを阻む形で距離を置き展開される。
さながら、濁流の様に押し寄せるオーク用の堤防とでも言うべきか。
彼らの多くは愚直に氷壁へと突き進み、武器を振るって破壊を試みるも、相手は魔力でできた氷だ。傷ひとつ付けられない。
迂回するか、2枚の氷壁の隙間を通るかを選ばされたオークはより近い隙間の方に殺到する。
幅はおそよ2、3メートル程度。オーク1匹が通るのは簡単だが、2匹、3匹が押し合えば簡単に詰まってしまう。
前線で指示を飛ばすジェネラルオークが早くも倒されてしまったせいで指揮系統は大いに混乱していた。
譲渡という概念を持たない彼らは、本能の赴くままに我先にと群がり壮絶なおしくらまんじゅうを始めている。
「まだお前をイかせる訳にはいかねぇな!」
「ま、待つんだ、そんなとこ押されたらやばいって!」
「おい何してやがんだ、さっさとイかせてやれよ。こんな風にな!」
「2人がかりは卑怯だぞ! うあ、やばい、出る!」
無理やり通ろうとしていた3匹のオークの内1匹がどうにか隙間から這い出した瞬間、ユウトの魔法が突き刺さる。転がった死体はそのまま、後続を阻む障害物に変わった。
隙間を通り抜けてくるオークはまばらで、ユウトの魔法があれば十分に対処できる。時折流れがスムーズになっても、親方とカイトが中距離スキルで巻き込めばいいだけの話だ。
セシリアが後方の火力部隊を立て直す時間は今のところ問題なく稼げている。だからか、カイトの表情はずっと緩みっぱなしだった。
いや、緩んでいるというよりにやけているという方が正しいかもしれない。先程からずっと唇が小さく動き続けている。
「なぁ、さっきから何ぶつぶつ言ってんだ?」
魔法に集中しているユウトには聞こえていなかったが、親方にはカイトの呟きが微かに聞こえたようだ。
流石に内容までは分からなかったらしく、不思議そうな面持ちで尋ねる。
「いや、なんでもない。やっぱオークじゃ物足りないと思っただけだ。全く燃えない」
「そりゃまぁ序盤の雑魚Mobだから仕方ねぇんじゃねぇか?」
2人のやりとりは絶望的なまでに噛み合っていなかったが、それに気付かないのは幸せな事だろう。
目の前の光景にケインは言葉を失いしばし立ち尽くす。
展開された2つの巨大な氷壁はオークの侵攻を見事に堰き止めていた。
倒れていた数多くの兵達はたった一人の少女によって癒され、再び立ち上がっている。
「どうやら美味しい所を全部持っていかれたみたいだ」
心の声とは裏腹に、ケインは思わず笑い出したい衝動に駆られた。
うかうかしていられないと、残り短い距離を一息に駆け抜ける。先程までの悲壮な表情は心の底から沸き立つ感情にすっかり払拭されていた。
息を切らして駆け込んできたケインを見て、セシリアは目を丸くしている。
こういう時に何と言うべきか暫し悩んだ後、敢えて日常的な挨拶を交わす事にした。
「おかえり」
非日常の極みと言っていい戦場でよもやそんな事を言われるとは思ってもみなかったのだろう。くすりと笑みを漏らす。
「ただいま戻りました。ご心配お掛けしたようで。まさかこんな大胆なことをするなんて思いませんでした」
セシリアは脱力したように溜息をついた後、どこか嬉しそうに微笑む。
「とはいえ、無駄話は全部終わった後にしましょうか」
しかしそれも一瞬の事。すぐ真面目な表情に戻ると、現状を再確認する。
前方から接近しているオークの大部分は氷壁とカイト達でどうにか押し留める事に成功していた。
近いというだけで狭い隙間の方に殺到する脳筋ぶりには感謝するしかない。
とはいえ、後続のオークは流石に迂回路を取るだろう。氷壁を回り込まれれば側面から手痛い打撃を被る事になる。
そうなる前に後衛陣を立て直す事が出来るかどうかが鍵だ。
「セシリア様。半数程度ですが、部隊の再編成が完了しました。いつでも攻勢に出れます」
恭しく頭を下げる男性の背後には地面に再び魔法陣を描く魔術師の姿が並んでいる。
セシリアはどうにか間に合った事に胸を撫で下ろしたが、問題はまだ残っていた。
展開されている氷壁は傍目から見ても限界が近い。
術者のMPがどの程度残っているのか正確なところは分からないが、精神的な疲弊は顔を見るだけではっきりと見て取れた。
ゲームの時みたく、MPが0になるまで魔法を使い続けられるわけではないという制約が面倒極まりない。
どこかに潜んでいるジェネラルオークに範囲魔法を再使用される危険も残っている。
現状、それを止める術がセシリア達にないのも事実。
【フレアレジスト】によって耐性を上げても魔法を受ければ怪我もする。
【聖域】による範囲回復だって無限に使えるわけではない。
この人数に支援魔法を掛け続けるのは高レベルのセシリアであっても負担が大きかった。
引くべきか、押し上げるべきか。どちらを選んでもデメリットが大きい。
「ジェネラルオークの魔法は今までどうやって防いでいたんですか?」
「遠距離からレンジャーに狙撃を頼んでいたんだ。でも、前線で指揮をするジェネラルオークを倒した辺りから攻撃を当てても詠唱が止まらなかったらしい」
それを聞いたセシリアはなるほど、と小さく頷いた。
オークは同属間の仲間意識が強いように思える。
目の前で旧知の仲間を殺され、怒りに我を失ったのだろう。痛みなど気にもならないほどに。
「攻めましょう」
詠唱を止めらない相手になおも攻勢をかけるのは危険だというのに、セシリアは少しも迷わなかった。
もうジェネラルオークに痛みを上回る程の意志力が残っていないと確信していたからだ。
怒りや恨みはとても強い感情であると共に、発散しやすい物でもある。
ジェネラルオークは溜め込んだ強い感情を魔法に乗せて吐き出した。全力を尽くして敵を殺そうとした筈だ。
にも拘らず、目の前で立ち上がる敵が無傷だと知って、少しも怯む事無く立ち向かえるだろうか。
もしそんな事が出来るくらい強靭な精神力を持ちえていたのならば、最初から詠唱を止められていない。
大地を揺るがす轟音と振動は離れた物見櫓で蹲る少年にも伝わってきた。
耳を塞いだくらいで聞こえなくなるわけもなく、目を閉じたことで余計に想像力が掻き立てられ、絶望的な情景を描き出す。
やがて蹲っている事に耐えられず、ゆるゆると身を起こし、祈るような気持ちで辺りを見渡した。
高所からは戦場が一望できる。プレイヤーの集中していた中心と右翼は無事だが、左翼に広がっていた草原は爆発によって掘り起こされ、黒ずんだ円が作られていた。
【遠見】によって倒れている兵の姿がくっきりと映し出される。凄惨な姿に彼は思わず目を背けた。
「これが全部、俺のせいだっていうのかよ……」
自分の口から思わず漏れた言葉が重くのしかかる。まだ間に合ったかもしれないのに射る事を止めてしまったのは事実は変わらない。
後悔や罪悪感は勿論あったが、何より怖かった。
もしこの事が自由の翼に知られたらどうなるだろうか。
いざという時に何もせず、沢山の人を見殺しにした自分を受け入れてくれるだろうか。
楽観的な未来が想像できるはずもない。
たかがネカマプレイに勤しんでいただけのプレイヤーに向けられた憎悪や軽蔑を、彼は良く知っているのだ。
もたらした被害の大きさで言えばネカマよりも彼の方が遥かに大きい。
押し寄せる絶望感に再び蹲りそうになった瞬間。目の前に柔らかな光の花が咲いた。
無意識の内に光の中心へ視線が向く。そこでは件のネカマプレイヤーが必死に怪我人を直してまわっていた。
ギルド内での彼女の立ち居地は微妙といわざるを得ない。
ネカマとして沢山のプレイヤーを欺き、恨まれているのだ。よどほの変人を除けば好き好んで関わろうとはしない。
だというのに、彼女は見返りを求めることもなく、誰よりも奮闘してくれている。
いつの間にか身体の震えは収まっていた。彼女から目を逸らし、遥か遠くに立つジェネラルオークを探し出す。
たった一人でオークの拠点に向かうなんて、少なくとも彼には怖くて出来ない。
こんな安全な場所から一方的に攻撃するだけなのに、今まで何をしていたのか。取り落とした弓を力強く構え直す。
かつての世界では何の変哲もないただの一般人だったとしても、この世界では比類なき腕を持つ弓使いなのだと自分に言い聞かせる。
幻影が駄目なら実弾を使うまでだ。インベントリから掴み取った矢を番える。
限界まで引き絞った弓は然程離れていないオークの額を貫く。これだけ満遍なく的が蠢いているのだ。彼は手前から徐々に距離を置き、オークの狙撃を試みた。
ゲームにはなかった煩雑な自然環境に左右されながらも命中率は高い。
ジェネラルオークが長いクールタイムを終える時間を使って実射の感覚に慣れる。
的は有効射程距離の限界近く。普通の弓手では半分に縮めてもまともに当てられない距離だというのに、彼には矢の軌道が見えた気がした。
息を小さく吸い込んでから、戦場に吹く風の流れを全神経で受け止める。
既に慣らしを始めてから短くない時間が過ぎていた。
膝をつき、肩を揺らしていたジェネラルオークが再び立ち上がる。クールタイムが終わったのだ。
再び詠唱を始める姿を捉えつつ、1発目を打ち込む。矢は僅かに逸れ、ジェネラルオークの傍に突き立つ。
外した。けれど今度は怯まない。結果を材料に軌道を微修正する。
「2度も使わせてたまるかよッ!」
叫び声と共に放たれた矢はジェネラルオークめがけて寸分違わず突き進んだ。
「敵の要はジェネラルオークです。倒せればすぐにカタがつくはずです」
一番怖いのはもう一度範囲魔法を通される事だ。その心配さえなくなれば勝利は揺るがない。
今すぐにでも叩きに行きたいところだが、肝心のジェネラルオークの居場所がセシリアやケインには掴めていなかった。
詠唱妨害を担当しているレンジャーの所へ戻って聞けば判明するかもしれないが、時間のロスは大きい。
「役割を分担しましょう。ケインさんはレンジャーの所へ行って場所を聞いた後、ここに戻ってきてください。私は1箇所だけ、ジェネラルオークの居そうな場所に心当たりがあります」
「心当たり?」
「はい。ジェネラルオークが使う魔法の射程は確かに広いですけど、敵陣の何処からでも届くとは思えません。必ず魔法の届く場所まで移動しています。途中で幾度か詠唱妨害を受けたなら、きっと私達から一番離れた場所に陣取っているはずです」
魔法の範囲は最大射程を半径とした円形だ。この条件でプレイヤーから一番距離を取れる場所は一つしかない。
「左翼の直線状の何処か、という訳だね」
「はい。山の中を進めば道中のオークはやり過ごせます。私と親方とカイトとユウトなら倒せるかもしれません」
もし予想が外れたときはポータルゲートで戻ってくれば良い。その頃には正確な位置を把握したケインが待っているはずだ。
ケインは大きく頷くと元来た道を駆け出す。
セシリアは最後にもう一度【聖域】を展開してからカイト達の元へ向かった。
「気合入れろ、お前の底力はこんなもんじゃないだろ!?」
カイトは足元も覚束ず、虚ろな目をした魔術師を支えながら檄を飛ばしている。既に残存MPは2割どころか1割を切っているのかもしれない。
氷壁は所々がひび割れ、砕け、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
「カイト……。前に狩の邪魔されたこと根に持ってない……?」
「まさか。氷壁が他人の為に活かせるんだ、これ程光栄な事はないだろ?」
駆け寄ったセシリアは老衰した老人の様に震える年若い魔術師へ憐憫のまなざしを送ったあと、優しい声色で耳打ちする。
「お疲れ様でした。もう大丈夫ですから、後はゆっくり休んでください」
途端に2人は目を閉じ、規則正しい寝息を奏でた。氷壁が崩れ、地面に落ちるよりも早く無に還る。
道を塞ぐ障害物がなくなった事で勢いを取り戻しつつあるオークへ後方の魔術師が次から次へと魔法を浴びせかけ始めた。
停滞していた戦場が再び過熱する。その熱を肌で感じつつ、セシリア達は山に踏み込む形で敵陣へ向かっていた。
麓を通るオークに気付かれ難いとはいえ、足場は悪いし火を放たれるリスクもある。ポータルゲートで退路が確保されていなければ取り得ない選択肢だ。
覆い茂る草木は先頭を走る親方がばっさばっさと刈り取ってくれるおかげでペースも申し分ない。
時々木の倒れる音でオークに気付かれ戦闘に突入したが、数匹程度では障害物にもならなかった。
その辺に自生している巨木の方がよほど倒し難いというのは親方の弁である。
ある程度距離を進んだ後、セシリアは祈るような気持ちで麓へと降りた。既に左翼からかなりの距離を移動している。
もしジェネラルオークが本当に左翼に寄っているすれば、十分に視認できる距離の筈だ。
果たして、セシリアの予想は当たっていた。まだ遠いが、十数匹のオークが弓を手に密集している。
「それじゃ作戦通りに。カイトはプロヴィをお願い。ユウトは私から絶対に離れないで。親方は単騎で飛び出してタゲを集めてください。準備はいいですか?」
それぞれが静かに頷き、親方はやや離れた場所から大声を上げてジェネラルオークにむかって飛び出す。
山を使った攻勢くらい想像の範疇だったのだろう。ジェネラルオークを護るように展開されていたオークが迅速に弓を構えた。
両者の距離は未だ遠い。親方は前衛で、近中距離のスキルしか持っておらず、遮蔽物が何もない空間で弓手を相手にするのは分が悪い。
一斉に放たれた矢は回避行動を取っても避けきれず、【リメス】の壁を叩いた。
あれだけの矢を放ったにも拘らず無傷な親方を見てオーク達は目を剥き、警戒レベルを引き上げる。
常識的に考えればこれだけの人数差を前に単騎で襲い掛かるとは思えず、囮の可能性を考慮して周囲を警戒すべきだ。
現に数匹のオークは親方への攻撃に加わらず、周囲の警戒に努めていた。
ところが標的はあれだけの攻勢を難なく耐えて見せた。
たった一人の人間が同胞を数多く消し飛ばした光景は未だ目に焼きついて離れない。
こいつはやばいと判断したオークは周囲の警戒も忘れ、親方の一挙一動に全神経を集中する。
その場の注目が親方に集まったのを察してから、セシリアはユウトの小さな手を握った。
「【アルス・マグナ】」
大いなる秘法。人を超越し、神にも等しい力を持つ事が出来るとされている、最大主教専用の最高位支援魔法だ。
対象に自分のステータスをそっくりそのまま加算するという単純な効果だが、レベル1の新兵でもセシリアを越えるステータスになれるとなれば、いかに強力な支援魔法か分かるだろう。
まして、今度の対象はセシリア以上のレベルを持つユウトである。同じ魔法職である2人は魔法攻撃力に直結するIntが高く、相性が良い。
掛け合わされたステータスをレベルに換算するならば200といったところか。120の上限など稚気にも等しい値だ。
反面、強力無比な魔法だけあって数多くの制限が課されている。
術者と対象が繋がっている事。触れていなければ発動できず、発動後でも一瞬離れただけですぐに解除されてしまう。
対象は常に一人だけで、術者は他の魔法を使う事もできず、断続的に少なくないMPを消費する上に、効果中に対象が受けたダメージを術者も一緒に受けることになる。
感覚の共有とでも言うべきか。ユウトがダメージを受ければセシリアも同じダメージを受けるし、その逆も然り。被ダメージが2倍になるのと大差ない。
いや、当たり判定も2倍になっている事を考えればそれ以上か。
戦場で動き回る前衛には全く向いていないが、こうして隠れて魔法を使ったり、固定砲台をする分には非常に使い勝手が良い。
繋いだ手から流れてきた膨大な力の奔流がユウトの身体を覆う。
スキルツリーの最奥にあるせいで取得している最大主教は多くない。ユウトも実際に使われたのは初めてだった。
支援が一人何も出来なくなるというペナルティはかなり大きい。
この魔法を使って火力を底上げする必要があるなら、素直にもう一人火力を追加した方が安定するのだ。
いかに強力な効果だとしても、実用できる場面が極限られているのでは意味がない。
他に汎用性の高いスキルを取った方が活用できる場面は多く、もっぱら趣味スキル、或いはネタスキルとして扱われていた。
にも拘らずセシリアは迷う事無くこのスキルを取得している。プロネカマの布教にこれほど便利なスキルはない、という理由で。
セシリアにとって大切だったのはスキルの効果ではなく、"相手の身体に触れる必要がある"というこの一点だけだった。
べ、別に触れたくて触れてるわけじゃないんだからね! 支援に必要なんだからね!
片腕にセシリア。眼前にはモンスター。まさに騎士にふさわしい燃えるシチュエーションをスキルに必要だからという正当な理由で、あざとさを感じさせずに再現できるのだ。
時に怯えて見せたり、ちょっと抱きついてみたり、柔らかい物を押し付けてみたり。これで堕ちなかったプレイヤーは居ない。
スキルを考案した運営も、まさかこんな事に使われるとは思いもしなかっただろう。
そんなネタスキルが、初めて本当の意味で活用される場面がやってきた。
いつもより短い詠唱時間で完成した【エクスプロージョン】を敵陣のど真ん中、幾本かの矢が突き刺さっているジェネラルオークに向けて放つ。
体内を駆け巡る膨大な魔力がセシリアから流れる力と混ざり合い虚空へと凝縮する。
刹那、臨界点を迎えた塊が轟音と共に爆散した。
発生した爆風が森を揺らし、近場に生えていた巨木が軋んだ悲鳴をあげて倒れ、巻き上げられた土煙が辺り一帯を包み込み、夜のような暗闇が訪れる。
使い慣れた【エクスプロージョン】はその範囲も威力も桁が違っていた。
「親方!」/「お父さん!」
親方よりずっと離れた木の蔭に隠れていた3人ですら爆風で尻餅をついたのだ。
少しずつ薄れる土煙の向こうには転がった身体を起こす親方の姿があった。目立った外傷がない事に3人は揃って安堵の息を漏らす。
しかし土煙が完全に晴れると、今度は4人揃って言葉を失った。
掘り返された土で黒く染まった草原には隕石でも落ちたかのような大穴が開いている。
先程まで群れていたオークはまるで穴が全てを飲みこんだかのように、1匹たりとも残っていなかった。
「逃げたとか、ないよね」
思わず辺りを見回すが、応援に駆けつけようとしていたオークが泡を吹いて逃げ出す後ろ姿が見えるばかりで、それらしき姿は何処にも見当たらない。
あっけない程の襲撃に、4人は狐に包まれたような感覚が拭えなかった。
ネームドモンスターすら1撃で葬り去る威力を未だに信じられないでいる。
「とりあえず、戻るついでに挟撃するか?」
カイトの声でユウトとセシリアは現実へ引き戻された。戦闘はまだ完全に終わったわけではない。
「そうしようか。危なくなったらポータルゲートで戻ればいいし。もうちょっと"コレ"の威力も検証してみたいかな」
セシリアは繋いだ手を持ち上げて悪戯っぽく笑った。