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World's End Online  作者: yuki
第二章 異世界
41/83

リュミエール-10-

「良い? あんまり激しい運動はしない事。出来るだけヒールも回復薬も使わない事。君の体調の変化は本来あるべき身体の機能なの。それを無理やり魔法で治しちゃうのはあんまりいい事だと思えない。何か後遺症が出たりしたら大変でしょ? 後は、そうね。この世界の身体は"強い"からリアルと比べてずっと楽だけど、君の場合初めての事だろうし、気分が悪くなったらちゃんと休む事。困った事があったらちゃんと相談する事。いい?」

 もう何度同じ台詞を聞いただろうか。思わず愚痴りたくもなるが、真剣な顔つきで念を押すリディアを見ていると口を挟めなかった。

 繰り返し同じ事を聞かせるのは心から気にかけてくれているからだ。

 それが分かるからこそ、セシリアも邪険にはできない。

「できれば最初から最後までその調子で居て欲しかったです……」

 汚れを拭うのにわざわざお湯を取ってきてくれたり、甲斐甲斐しく対処法を教えてくれた彼女に、セシリアは「何か企みがあるのでは?」と邪推しつつも感謝している。

 だからこそせめてもの抵抗に、小さな声で不満を漏らした。

 終始翻弄されっぱなしだった身からすれば今の真面目なリディアの態度はどこか落ち着かない。


 それが不安そうな姿に見えたのだろうか。

 リディアは今一度朗らかな笑みを浮かべると親指を突きたてながら宣言する。

「安心して。流石のあたしも生理中の女の子に手を出すほど鬼じゃないから! 落ち着いたらもう一度おいで。たっくさん可愛がってあげる!」

「最後まで清々しいくらいブレませんね! どうせそんな事だろうと思ってましたっ」

 思わず盛大に叫んでから、それっぽい態度によってほだされかけていた事に気付き、がっくりと肩を落とす。

 優しい面もあるにはあるのだろうけれど、本質は危険人物のまま何も変わっていない。

 満面の笑みで今なお妄想を垂れ流し続けているリディアへ冷たい視線を投げかけながら、もう二度と近寄るまいと決意を新たにする。

「……。ありがとうございました。色々言いたい事はたくさんありますけど、一応お礼は言っておきます」

 それでも、助けて貰った事には変わりない。内心複雑な思いを抱きながらではあるが素直に頭を下げる。

 感謝から迷惑を差し引いた結果、極短くなった礼を終えて頭を上げると、リディアは時間が停止したみたいに口をあけたまま固まっている。

「おおぅ……」

 と思えば感嘆の吐息を漏らし。

「つ、遂にデレたぁぁぁぁっ!」

 興奮冷めやらぬ様子で飛び上がった。

「なんで1秒にも満たないお礼でデレた事になるんですかっ!」

「そりゃ槍だの鋏だので刺殺されそうになった身からすれば十分なデレだよ!」

「それは最底辺って言うんです! もう少しマシな目標を持ってください!」


 どうして会話しているだけなのにこんなに疲れるのか。ともかく、これでもう用は済んだ。いつ気が変わるとも知れない猛獣からはさっさと逃げた方がいい。

 幸せそうな表情で妄想という戯言を垂れ流している彼女を放置して一人扉へ向かおうとした瞬間、リディアの両腕が背後から音も立てず、蛇のように腰へと巻きついてきた。

 逃がすつもりはないのかセシリアが身を捩っても手は離れない。その割りに締め付けるでもない力加減は熟練の業を感じさせるが、少しも凄いとは思えなかった。

「またですか! 今度はなんですか!? もういい加減にしてください!」

 仏の顔もそろそろ剥がれてもいい頃合だろう。じたばた暴れても腕は振り払えず、苛立ちを含んだ声色でセシリアが叫ぶ。

 だというのに、リディアは少しも悪びれる様子はなく、それどころか気味の悪い含み笑いさえ漏らし始めた。

「んふふ。そのまま帰す訳にはいかないんだよ。まだお代を貰ってないからね」

 お代、といわれてセシリアの動きが固まる。これだけ色々して貰ったのだから対価を払うのもやぶさかではない。

「……幾ら、ですか」

 ただし、それが"お金"ならば。


 リディアの性格は非常にわかりやすい。

 そもそもゲーム時代に高額の依頼を突っぱねた事がある時点で、お金にそう興味があるとは思えない。欲しがるとしたらもっと他の何か。想像するのは難しくないけれど考えたくはない。

 だからこそ敢えて"幾らか"という尋ね方で金銭的な方向に持っていこうとしたのに通じるはずもなかった。

「代金は身体で払って貰う事にしてるからね! お金の心配はしなくていいよ!」

「本当に清々しいくらい最低ですね! 私がしたのはお金の心配じゃなくて身体の心配です! そこはお金で済ませてくださいっ」

 そもそも最初に条件を告げなかった時点でこれは詐欺だ。悪質な押し売りだ。ぼったくりだ。事が終わってから悪質な条件を突きつけるなんて性質が悪すぎる。

「やだなぁもう。身体って言っても肉体労働的な意味だって」

「違いがさっぱり分からないどころか、より生々しく聞こえるんですけど」

「具体的に言うと、あたしの玩具になるのとあたしの玩具にされるのどっちがいい?」

「結局それですか! しかもどっちも変わらないし!」

「全然違うよ!」

 ついつい反射的に突っ込みを入れた瞬間、リディアが今までとは違った感情的な叫び声をあげた。

 咄嗟に身体を硬直させたセシリアが呆気にとられながらリディアを見返すと、どうやら彼女は何かに怒っているようだった。

 一体何に。気付かない内に地雷でも踏んだのだろうか。そんな事を考えているとリディアがセシリアの鼻先に指を突きつける。

「良い!? 前者は君が食べてくださいって身を捧げるイメージで、後者は嫌がる君をあたしが少しずつ慣らしていくイメージなの! 甘い声色であたしに甘えてくるか、否定から入りながらも徐々に甘い声を漏らすか……! これは甲乙つけ難い由々しき問題なんだよ!」

 ほんの一瞬でも真剣に考えた自分が馬鹿だったと、そろそろ限界に達していたセシリアが怒りに肩を震わせた。

 しかしすぐに震えは収まり、その代わり底冷えするような冷たい声と能面のような薄い笑みを貼り付けた顔で告げる。

「どっちにしろ選択の余地はありません。本当に帰らせてください。ついうっかり刺しそうです」

「ヤンデレさんだなぁ。かわいい子ならどんな属性でもオールオッケーなんだけど、とりあえず話を戻すよ。さっき言ったみたいなお代は大歓迎とはいえ、同意はしてくれそうにないし。だから代わりにこれを着てくれないかな」

 ずいと差し出された服らしき物に視線を落としたセシリアが恐る恐る受け取る。

 先の条件に比べて服を着て欲しいというのはなんとも慎ましやかだ。もしや相当奇抜な衣装なのではと受け取ったそれをベッドの上に広げる。


 ノースリーブの上着は白に僅かな青を足した涼しげな色合いで、滑らかな素材を使っているのかとても軽い上に肌触りが良い。

 ケープは海に似た深い紺色で、金糸によって淵に文様が描かれている。それを留める為の小さな青いリボンは陽の光を受けて僅かに煌いていた。

 着脱可能になっている両の袖にはどうやって作ったのか、伸縮する糸で作られたゴムの様な物がドレープ状の部位に仕込まれて好きな場所で留められるようになっている。

 だがしかし、上着に対するスカートらしきものは一式の中に含まれて居なかった。

 その代わり専用の、上着よりも濃い、晴れ渡る日の空の様な青色の外衣が用意されているのだが、どう見積もってもスカートとしての面積が足りていない。

 下方向に足りていないのならミニスカートと表現できるのかもしれないが、足りていないのは丈ではなく布そのもの。

 まるでロングスカートの前部分を大きな台形にカットしたかのような、大胆極まりないスリットと表現するのには無理がある切れ込みが入っている。

 これでは前方向から見られた場合に下着が見えるどころ騒ぎではない。むしろ晒しているといった表現のほうが合いそうだ。

 そうならないよう、専用の上着と同色の前掛けのような物を、外衣や上着と一緒にベルトの代わりにした白いリボンで腰へ結び留める事によって、あたかも両スリットが入っているかのようなデザインに仕上げている。

 ただし、通常のチャイナドレスにあるような両スリットに比べて、切り込みの位置はより際どくなっている上に相当深い。

 歩けば、いや、立っているだけでもかなり危ない位置までふとももが晒されてしまう。


「かわいいでしょ?」

 誇らしげに胸を張るだけあって、セシリアも純粋に凄いと思った。同時にリディアらしいデザインだとも。

「かわいい……とは思いますけど。露出が多すぎませんか? 歩いたら見えますよ、これ」

 青い外衣のスカート部分はふとももの根元くらいしか隠してくれない。その為に用意された薄青の前掛けにしても、横幅は若干、いや、かなり心許ない。

「それは大丈夫。結構激しく動いても見えないように計算されてるから。スカートだとどうしても引っ張られちゃうんだけど、それは引っ張られたりしないし。歩いてる時も風で肌に密着するから見えるのはふとももだけだよ。それが良いんだけどねっ」

 曰く、見せてるのは素人。見えそうで見えないのが玄人。そしてリディアは自分の事を限りなく見えそうなのに見えなくする達人だと胸を張った。

「それの何処に胸を張れる要素があるんですか……」

「分かってないなぁ。女の子がどうしてミニスカートを履くんだと思う? ある程度の露出はファッションなの。でも見えちゃうとNGなわけ。際どいけどセーフな服って意外と多いんだよ?」

 そう言われてセシリアも唸り声を漏らす。思い当たる節がひとつあったからだ。ずっと昔、妹が制服を初めて着た時にスカートをどのくらいあげるべきか鏡の前で長い事悩んでいた。

 短すぎても長すぎても問題があるらしく、微妙な匙加減が必要なのだと酷く真剣だった。

 何がセーフでアウトなのかよく分からないセシリアにはそれ以上何もいえなかった。


「これはお姉さんの自信作なんだ。だから君に着てみて欲しい」

 服の出来はゲーム内で見たリディアシリーズよりもずっと洗礼されているように感じられた。

 リディアの言う事が事実ならば断る女性はきっと少ないのだろう。でもだからこそ、セシリアは複雑な表情を浮かべる。

 今のセシリアが着ているプリンセスドレスも運営が狙って作っただけあって非常に可愛らしい造りになっている。でもそれは必要があるから着ているに過ぎない。

 ギルドの中では未だ何の飾り気もないワンピースで過ごす事も珍しくないのだ。

 それは多分、かわいらしい恰好をするのに心のどこかで抵抗を感じているから。

「やっぱり私は……」

「嫌って言ったら今日の出来事を張り出す!」

 断わるべく口を開きかけたセシリアの微妙な雰囲気をリディアはいち早く察知したようだった。宣言された一言に少し迷いながらも諦めて頷く。


「今回だけですよ。すぐに着替えなおしますから。それから、絶対に変な事はしないでください。終わったらすぐに帰りますから。良いですか、変な事はしないでくださいよっ」

「おぉ、これが大事なことは2回ってやつだね! 分かってる分かってる、安心して!」

「軽すぎます! 全然安心できる口調じゃないですからっ」

 突きつけられた条件にリディアはうれしそうな顔を頷かせるばかりだった。

 他のネカマの話を聞いていなかったら、彼女の苦労を知らなかったら、ここまで親身になってくれなかったら、何より本気で心配してくれていなかったら、きっと断っていただろう。

 本気で嫌がればリディアは強制しない。強引な節は大いに認めるが、報復と言う名目で他人の嫌がる行為をするとは思えなかった。

 だからこれはそれを全部引き合いに出して譲歩した結果だ。貸し借りなし。そう言い訳する。

 リディアは驚くべきことに着替えるセシリアの為を思って何も言わずとも自ら部屋を出て行ってしまった。

 着ていたドレスを手早く脱ぎ去ると複雑な造りのリディアの服へ手を伸ばす。綿や麻とは違う、ひんやりとした、それでいて滑らかな感触に慣れないながらも袖を通した。

 外衣や前掛け、上着を一緒に留めるリボンを結ぶのに四苦八苦していると、リディアの手伝おうかという声が扉の外から聞こえてきたが、当然のごとくお断りする。

 たっぷり十分近い時間をかけてどうにか着終えると部屋の片隅にあった姿見の前に立った。

 思っていた通り前掛けはふとももを完全には覆い隠せず、半分くらいがスリットから覗いている。だというのに、不思議と問題ないように思えてくる。

 リディアの言うとおり、ひとつのファッションとして認められる範囲だからなのかもしれない。


「終わりました。入ってきていいですよ」

 いつでもポータルゲートで逃げ出せるように身構えつつリディアを迎え入れる。勢い良く部屋へ雪崩込んできた彼女は隠し切れて居ないふとももを手で覆おうとしているセシリアを見て幸せそうに笑った。

「うん、良く似合ってるよ」

「それは……どういたしまして?」

 思ったよりも大人しい様子に首を傾げる。とにもかくにも、これで着た姿を見せたことに変わりない。

「それじゃ早速ですけど、また着替えますから」

 約束は果たしたのだからもう一回外で待っていてくださいという暗黙の要求に、リディアは幸せそうに笑ったまま言う。

「それ、脱げないよ?」

「……はい? 脱げないって、何言ってるんですか。そんな訳……」

 ベタなRPGの呪いの服じゃあるまいし、服が脱げないなんてありえない。

 そもそもこのゲームの状態異常「呪い」は全ステータスの大幅低下という、装備とはなんら関係のない代物だ。

 その証拠に脱げる所を見せようと飾り袖のドレープに手を伸ばし掴もうとして、失敗した。

 そんな筈は、と思って隙間に手を入れようとしても、まるで服の上を薄い膜が覆っているかのように差し込むことが出来なかった。


「ちょ、どういう事!? まさか製作者の思念が服に取り憑いて……」

 珍しくも取り乱しているセシリアにリディアはおかしそうにひとしきり笑った後こう付け足した。

「流石のあたしでもそれは無理かなぁ。それは上位付与職(エンチャンター)のスキルがかけてあったの。といってもスキルツリーがとんでもなく深い上に対人でしか使われないから取ってる人はすごく少ないんだけどね」

 対人要素はコンテンツを盛り上げる重要なファクターだと昔から言われていた。

 とはいえ、強制するようなシステムにしてしまうと逆にプレイの敷居を上げてしまう。

 だからWorld's End Onlineでは一般フィールドでのPvはできない。その代わり、遊び要素としてのPvPシステムが組み込まれていた。

 1vs1は勿論の事、ギルド同士で行う大規模な戦争が定期的に開催されていて、勝利すれば高額なアイテムを手に入れることも出来る。

 各職業のスキルにも対人戦向けのスキルが幾つも存在していた。

 その中の一つに"装備破壊"という特殊効果を持つスキル群がある。

 モンスター相手には効果がない上、スキルツリーも深いから一般的な狩りをメインに遊んでいるプレイヤーには縁がない。


 装備破壊といってもアイテムがロストする訳ではなく、スミス系列かNPCに頼む事で修復できる、一時的な破損である。

 しかしそんな限定的な効果であっても、対人戦の最中という状況では致命的だ。特に少人数の場合、盾役へ決められてしまうとそれだけで決着が付きかねない。

 換えの装備を持ち込むことはできるが、高レベルの装備になるほど重くなり、キャラクターの最大積載量が圧迫されると持ち込める回復剤の量が減ってしまうのだ。

 出来る事なら破壊効果その物を防ぎたい。そんなスキルが上位の付与職(エンチャンター)に用意されていた。

 ただし強力な効果であるが故に一つの制約がある。

 スキル効果中はあらゆる破壊効果を受け付けなくなるが、一切の装備変更も出来なくなるのだ。

 系統が違うせいでセシリアのディスペルでもこの効果を打ち消すことは出来ない。

 任意で解除できるのはかけた本人だけで、後は時間経過を待つか、死ぬ事であらゆるバフスキルの効果をリセットするしかない。

 これがゲーム内ならデスペナの発生しないPvPフィールドで殺してもらえば済む話だが、この世界ではそうも行かない。

 解除できるエンチャンターも居ないとなれば、後は時間で効果が消えるのを待つしかなかった。


「ど、どうしてくれるんですかっ! それより解除されるまでの時間は!?」

「うーん、ゲームだと1時間で朝昼晩が切り替わる仕様だったし。スキルの効果が大体3時間くらいだったから、最長でも1日くらいだと思うよ。早ければ3時間じゃないかな」

 最長で1日と聞いたセシリアの顔が青く染まる。この格好で外を歩き回るのは流石に抵抗感があった。かといって、この上から服を重ねるのも難しい、以前におかしい。

「騙しましたね……」

 泣きそうな顔で睨んだ瞬間、近づいてきたリディアがごく自然に腕を背へ回した。

「ちょっと、変な事はしないって……」

「別に何もしないよ。 うん、かわいいかわいい」

 そう言ってとても優しい手つきで頭を撫でるリディアの顔はとても優しい物だった。

 背に回されたてもまるで母親が我が子にそうするような、暖かい物に満ちている。先程までのリディアとは雰囲気からして違っていて、セシリアはただ目をぱちくりさせていた。


「お姉さんはね、心配なんだよ」

 肩に乗せられたリディアの表情は伺えなかったのに、何かを悲しんでいる気がした。腕に篭った力は切実で感情に訴えかけてくる。


「君はきっと、自分の事を思っているほど理解してないから」

 それがどういう意味かさっぱり分からなくて、セシリアがどういうことか尋ねようとした。けれどそれより先にリディアは自分からその先を続けた。


「さっきあたしに自分は誰なのかって聞いたよね。あの時あたしはセシリアだって答えた。そして君は凄く悲しそうな顔をした。それはどうしてかな。君が自分の事を受け入れられてないからなんじゃないかな。男の子だった自分と女の子になった自分に折り合いをつけるのは難しいかもしれない。でも今の君はセシリアなんだよ。それだけは変わらないし、変えられないの」

「そんなの、分かってます」

 身体が変わったこと。性別までもが変わってしまったこと。少なくともこの世界に居る間はどうにもできない。

 受け入れたつもりだった。でも受け入れることでもっと別の、身体とは関係ない心まで変わってしまうなんて思わなかった。

 そしてそれはとても怖い事だった。

 もしかしたら、いつかこの身体に慣れきってしまう事で、今度は現実の自分が受け入れられなくなるかもしれない。

 もしかしたら、元の身体に戻る事が、現実へ帰る事が怖くなってその術を積極的に探さなくなるかもしれない。

 本当の自分が仮初だった筈のセシリアに置き換わって、そこにあった物がなくなってしまうかもしれない。


「自分が女の子に変わり始めてる事が不安なんだよね。これは自分じゃないって、そんな顔してたもん」

 リディアの言う通りだ。誤魔化したつもりだったのに、彼女は何から何までお見通しだったらしい。

 当然か、とも思う。他人へ気配りが出来るということは、それだけ他人のことをちゃんと見ているということでもあるのだから。


「だからお姉さんは心配なんだよ。実はね、君の事はケインから聞いてたんだ。女の子に変わって不安もあるだろうから助けてあげて欲しいって頼まれたの。こうしてみると、ケインはあたしが他のネカマさんの世話をしてたのに気づいてたのかも。けど初めて君を見た時、凄く上手くやってるんだなって思った。だから要らない心配なのかなって。でも、違うんだよね。ケインは他にも、君が凄く現代に帰りたがってて、だからこそちょっと心配だとも言ってたよ。今のあたしもそう思うよ。特にお姉さんは女の子だから余計にね」

 現代に帰りたい。余程楽観的でないプレイヤーなら誰しもが思っている筈だ。

 ゲームみたいに剣と魔法の世界で過ごせたら。それは夢だからこそ楽しいのであって、現実は楽じゃない。楽しい事ばかりがある訳ではない。寧ろ辛い事の方が多いのだ。

 生活水準は低いし、不便だし、娯楽も少ない上に街の外は危険なモンスターで溢れている。

 帰りたいと思うのは当然なのに、一体何がそんなに心配なのか。渦中の筈のセシリアは訳も分からずきょとんとしたままだった。

 もう背に回された手や、すぐ近くで感じるリディアの温もりも気にならなくなっていた。

 ただリディアの言わんとしている事が知りたいと無言のまま静かに耳を傾ける。


「君は自分の心が少しずつ変わっていくのを恐れてる。もしかしたらそう遠くない未来に心がこれ以上変わらないよう、意識的に自分とセシリアを切り離しちゃうんじゃないかって思うの。そうなったら君は今よりもっとセシリアを利用するようになる。君がそんなに焦ってる理由はどうしてかな。今のままじゃ帰り道を見つけるのは難しいとか、もっと広い範囲を探さなきゃいけないとか、その為には今の権力や立場じゃ足りないって事に気付いてるからなんじゃないかな。問題はどうやって知りたい事を知れる権限を手に入れるかだよね。その方法を君だって1度は考えたはずだよ。セシリアの姿があれば、権力者と関係を持つのも不可能じゃないかもしれない。何より君はとても賢いから、それを足がかりにして有利な立場を手に入れることだってきっとできちゃう」

 リディアの腕の中でセシリアの身体が微かに震えていた。

 自分の今の姿も、それを他人がどう感じるかも、セシリアはちゃんと知っている。それを武器に出来ることも当然気付いている。

 けれど、自意識は今でもまだ男のままだ。心理的にそういった行為を忌避するのも当然といえる。

 でもいつか、セシリアを否定するあまり、自分とは違う別の存在だと認識するようになったら?


「それはとても危ない事なんだよ。今の君は女の子なの。この世界はゲームじゃないの。君とセシリアは同じ人物で、切り離したりなんか出来ないの。失敗してもゲームみたいにリセットできないの。今はまだ、そんな事思ってないよね。でもさ、それはまだ君とセシリアが重なってるからなんだよ。今の身体は紛い物で本当の自分じゃない。女の子になっていく自分を否定するあまり、そういう結論に達したら、君はきっと道を踏み外す。ここに居るのは君だけで、セシリアなんていない。どんなに偽ったって、演技したって、自分は自分にしかなれない。変わってる心はセシリアの物じゃなくて、上手く言えないけど、君の物なの。だから今の自分を受け入れてあげて」

 セシリアを積極的に演じていた理由は考えるまでもない。その方が便利だからだ。リディアの言うようにその姿を利用した。

 おかげで油断したグレゴリーと一定の協力関係を結べたし、彼らが見張っているオークの拠点を潰す事で関係を強化する事も不可能じゃない。

 けれど、それですべての問題が解決するわけではなかった。

 オークの数は有限だ。統率する【将軍】にはそれなりに優れた知能らしきものもある。

 今回の討伐が成功すればリスクの高いリュミエール地方を諦める可能性は高かった。

 討伐する敵が居なくなれば領主はどうするだろうか。彼は決して無能ではない。大量のオークと少人数で渡り合える自由の翼は彼にとっても危険な存在だ。そのまま野放しにするとは到底思えなかった。

 そもそも生活基盤をリュミエールに頼っている時点で力関係は決しているのだ。

 今はリュミエールの危機と言う付加価値があるおかげでどうにか均等を保っているけれど、解決してしまえば両者の力関係はグレゴリー側へ大きく傾く事になるだろう。

 セシリアにも金貨を使った取引の証明書と言う武器はある。でもそれを使えばセシリア達だってこの街に居られなくなる。抜くに抜けない伝家の宝刀なのだ。

 グレゴリーを行動させにくくする足枷であって、直接的な攻撃手段にはならない。


 それくらいグレゴリーだって理解しているだろう。だから表立って行動を起こすことはしないだろうし、なにより敵対して得になることなんてない。

 下手に街中で蜂起などされれば自分達で抑えられない事も良く理解している。だから自由の翼という組織に鉄輪を嵌めて制御しようとする筈だ。

 考えられるのは生活を保障する代わりに軍へ引き入れ、様々な活動に協力するという建前で行動を制限する事。規律という言葉によって自由の翼を縛りつけるのだ。

 自由に動けなくなるのはセシリアにとって大きすぎる痛手になる。元の世界に帰る手段を探す為には、今後色々な場所へ赴く必要も出てくるだろう。

 けれど、今の自由の翼が求めているのは生活の安定だ。

 軍への加入で当面の生活が領主に保障されるなら喜ばしい事態と言える。

 ある程度の行動が制限されたとしても、彼らにとってはこの上ないほどの好条件なのだ。そうなってしまえばセシリアの取れる選択肢は多くない。

 唯一の利点は軍に入ればグレゴリーとの距離が縮まる事。情報を集める最良の選択肢は一つしかなかった。

 ネカマであるセシリアが最も得意とする分野は戦闘でも支援でもない。対象の籠絡なのだから。


「私……帰ります」

 巻き付いた腕は少し身を捩るだけで簡単に解かれた。扉に向かって歩き出しても、今度は呼び止められる事もない。実にあっけなく、木製の古びた木戸は軋んだ音を立てて閉じられた。

 馬鹿らしい。その言葉が幾度となく頭の中で繰り返される。

 何より、そんなことを言われて何一つ否定できなかった自分が。





 どうやって部屋に戻ったのかもセシリアは殆ど覚えていなかった。その割にはさっぱり頭も働いていない。

 蝋燭の頼りない光が部屋の中を薄明るく照らし出すと誰かの驚く声が続いて、ようやく意識が戻る。

「寝てたのかと思ったら、明かりもつけないでそんな所に座ってどうしたんだよ。って、服変えたのか? 凄いデザインだなそれ。……セシリア?」

 呼びかけてもまともに反応を示さないセシリアのすぐ傍まで近寄ると、しゃがみこむ様にして顔を覗き込む。

 普段の快活な様子は見る影もない。空ろな瞳は一体何を見ているのか、ただぼぅっと床へ注がれていた。

「辛いなら身体は冷やさない方がいいから、これを羽織って。横になる? 何か暖かい物でも飲む?」

 心配そうなカイトの声を聞いて、セシリアは始め一体何を心配されているのかさえ分からなかった。何度か首を振って沈んでいた意識を引き上げる。


 部屋に入ってきたのはカイトだけだったようだ。周囲を見渡してもフィアとリリーは見当たらない。

 誰かを探すような視線で察したのか、カイトは一足先に食堂へ向かっていると説明する。

 訓練から戻ってきた時間が丁度夕食の時間帯で、カイトはセシリアを呼びに来たのだ。

「ねぇ、カイト」

 剥き出しの足や肩を毛布で包み込んでいくカイトに向かってセシリアは静かに声をかける。

「カイトは時々自分が誰なのか分からなくなったりしない?」

 リディアに言われてからずっと考え続けてきた疑問であり、気付けなかった不安だ。

「なんだそれ」

 しかしカイトにとってその質問は少々突飛な物だったようだ。訳が分からないといった様子で首を捻ると、セシリアは質問の内容を少しだけ具体的なものに直した。


「プレイヤーはこの世界と元の世界で2つの自分を持ってるでしょ。特に私達の場合は性別さえ違ってる。カイトは元の世界の自分が薄れるような感覚、味わった事ない?」

「元の世界が薄れるって言ってもな……。自分の変化って中々気づけないもんだろ? でもまぁ、確かに幾らか変わったなって思う時はあるよ。それがどうかしたのか?」

 カイトだって立場はセシリアと同じだ。女性から男性と言う真逆の条件ではあるけれど、本来の性別と変わった事に変わりない。

 だからもしかしたら彼も違和感や漫然とした不安を抱えているのではないかとセシリアは思っていた。

 変化は感じていると言う答えに僅かな期待を抱いた物の、すぐに小さく萎んでしまう。

「最初はセシリアを演じてた。口調とか性格とか意識しながらだったし。でも最近はそういうの意識しなくても良くなった。ずっとセシリアを演じてるから慣れたのかなって、気にもしなかった。でも、思い返してみると色々おかしいの。始めの頃の私は他人に自分の肌を見せても気にしなかった。村に居た時、それでフィアをからかったりもしたし。でも今は気恥ずかしい。リディアに遊ばれた時は結構本気で悲鳴あげてた。それって演技なの? 素なの? 考えても"分からない"の」

 ゲーム内でセクハラ紛いの行為をされた事は数え切れないほどある。

 その全てを冷静に対処していたし、恥ずかしいとも思わなかった。寧ろネカマ相手とも知らないでと内心では笑みさえ漏らしていた。

 だからその感情は演じた物ではないと言い切れる。

 なら素なのだろうか。いや、それはもっとあり得ない。

 銭湯や温泉にも時々行ったし、夏場の熱い時は下着一枚で過ごす時もある。

 リアルの自分は肌を見られて気恥ずかしがる様な性格をしていない。

 なら、その性格は一体どこから来たのだろう。あの時の感情はどこから湧いてきたのだろう。

 先ほどの"分からない"は嘘だ。本当は気付いている。それが、自分がこの身体に変わった事で生まれた感情なのだと。

 セシリアの感情。ある筈のない人格の、生まれる筈のない自意識。


「怖いの。自分がセシリアである事に殆ど違和感が湧かないのが。ゲーム内のセシリアは演技だった。自分だった。何も変わらなかった! なのにどうしてっ……」

 少女の甲高い感情的な声が響き渡る。けれどすぐに下を向いて、何かを堪えるように呼吸を整える。

「私は少しずつセシリアに書き換わってる、そんな気がするの。元の世界に戻った時、自分の身体に違和感を感じたらとか、いつか今の自分っていう存在が全部なくなって、セシリアで居る事に何の疑問も抱かなくなって、"私"が消えるんじゃないかって。セシリアが本当の自分を演じる事になるんじゃないかとか考え出すと止まらないの。カイトはそう言うの、ないの?」

 自分が自分じゃないような感覚。まるで他人の身体に入っているような違和感。それは一歩間違えば拭い切れない嫌悪感に変わってしまう。

 セシリアの声はそれと分かる程に震えていて、視線は縋りつくようだった。


「悪い。期待には答えられないかもしれない」

 少し迷ったカイトはそう言った。誤魔化すより本心を告げた方が良いと判断したからだ。

「俺の場合は演じてる訳じゃないからな。基本的に言葉遣いを変えているだけなんだよ。セシリアみたいに性格や考え方は変えるのは難しいからな。時々リアルでカイトの口調になりそうになって慌てた事はあるけど、それとは違うみたいだし。でもそうだな、さっき言ったみたいに、気になる事はある」

 あからさまにセシリアの肩が落ちた。

 カイトとセシリアの境遇はよく似ている。性別の違いはあれど、どちらもが同じ性転換を体験している。

 だからこそ、カイトにも似た様な悩みがあるのではないか。セシリアはどこかでそれを期待していた。

「なに?」

 落胆の色が濃い声色で、それでもどうにか聞き返す。どの道今はもう底辺なのだ。何を聞いてもこれ以上落胆する事はない。なら、最後まで聞いてやろうと言う気概で。

「昔は相手が今何を考えてるのか、表情とか雰囲気とかから何となく分かったんだよ。でも最近はそういうのが分からなくなってきた。細かい事に自然と注意が向いてたのが、意図しないと向かなくなった感じかもな」

 本当に些細な変化だ。そもそもこの世界ではプレイヤーはみなアバターで現実世界の、いや、日本人の容姿からかけ離れている。

 見慣れない容姿の表情や雰囲気が読みにくくなったとしても何らおかしくはなかった。


「他にもあるぞ。こんな状況だってのに、俺はあんまり焦ってないんだよ。勿論元の世界に戻りたいとは思ってるし、その為に積極的に行動しようとも考えてる。言うなれば前向きになってるって事なのかな。悲観的な感情が沸いてこないんだ」

「それがどう気になるの?」

 前向きなのは良いことだ。それに、カイトは元からしっかりしている大人びている女性だった。

 そんなセシリアの心の内が伝わったのか、カイトは少し照れくさそうに顔をそらす。

「自分で言うのも難だけどさ、リアルの俺は結構悲観的な性格なんだよ。最初に考えるのが最悪の場合なんてことはしょっちゅうだった。こんな風に思えてる事自体、正直意外に感じてる。特に最近は顕著かもな。実は気になる街の男の子を見つけてさ、前までは見て妄想するだけで満足だったんだけど、最近はもう少し積極的になっても良いんじゃないかって思うようになってだな……」

「照れながら何とんでもない事口走ってるの!? こっちは結構真剣に悩んでるのに!」

 尻すぼみに消えていくカイトの言葉にセシリアがたまらず頬を膨らませた。

 カイトがそういう趣味なのは知っているしどうこう言うつもりはなかったけれど、元の性別を考えると内心複雑になるのも無理はない。

 今みたいにナーバスになっている時ならなおさらだ。

「いや、これも真面目な話なんだって。昔は見てるだけで満足だったのが、今はその先も良いかもって思うようになってきた。どうしてだと思う?」


 慌てて取り繕うように言ったカイトに「知るかっ」と叫びたい衝動に駆られたセシリアがどうにか踏みとどまったのは、カイトの表情が思ったよりずっと真剣だったからだろう。

 少なくともふざけている様には見えない。渋々と考えられる可能性を述べる。

「そんなの、カイトが男になったからでしょ。カイト好みの男の子がいたとしても男同士じゃないと意味を見出せない。だから女性だったカイトには手を出す選択肢がそもそもなかった。でもこの世界のカイトは男だから、選択肢としてありえる」

 その言葉にカイトも大きく頷く。

「まぁそうだな。女のままだったら何かしようとは思わない。でも重要なのはその先なんだ。確かに男の身体になる事で条件を満たしたけどさ、それだけじゃないと俺は思ってる」

 確信に満ちた声。性別が変わっただけではなく、何か大きな感情の変化があったような言い方だった。

「どういう事……?」

「身体が男になっても自意識が変わらなかったのは俺も同じだよ。何十年と女で生きてきたんだ。その感覚がある瞬間を境にで体験した事もない男の物に変わる訳がない。相手が好みの外見でも身体を合わせるのは流石に抵抗感があったんだ。少なくともこの世界に来た時はそんな欲求なんてなかったって断言できる。でも最近はアリかなと思うようになってるんだよ。きっとこれが性欲をもてあます状態だな」

 最後の一言にセシリアがあからさまに身体を引き、冷ややかな瞳でカイトを睨む。

「時間の経過と共に趣味に走るようになったとしか思えないんだけど」


「そこだよ」


 蔑みが多分に含まれた物言いにも拘らず、カイトはまるでそれがとても重要な物であるかのような口ぶりだった。

 一体何がそこなのか、セシリアにはさっぱり分からない。

「なにがそこなの?」

「時間の経過によって俺は前向きになって、些事を気にしなくなって、性欲が増加した。そういう変化が起こったんだ。その原因はなんだ? 可能性があるとしたら一つだけだって俺は思ってる」

 カイトに起こった心境の変化、性格の変化に理由や原因があるとしたなら、それはセシリアにも共通している可能性が高い。

 ここに来てようやくセシリアもカイトの言わんとしている事の重要性を認識したのだろう。

 カイトはセシリアと同じように大きな心境の変化が、或いは考えもしなかった新しい「感情」が生まれた。そしてその理由にも心当りがあるというのだ。

「セシリアは恋愛感情は脳内物質の化学反応に過ぎないって意見を聞いた事はあるか?」

「あるけど、それが一体……」

 カイトの言った内容は時々テレビや本で見かける。どう答えるかによって恋愛至上主義者にされたり、リアリストにされたりと酷いレッテルをぺたぺた貼られるのもお約束だ。

 でも今はそんな事より答えが知りたい。そう迫ったセシリアを、カイトは諭すように押し留める。

「まぁ聞けって。人の感情が脳内物質の影響で生み出されてるのは既に実証されている。けどここで一つ疑問が生まれるんだ。一体いつ、脳内物質は生み出されたんだ? 誰かを好きになったから脳内物質が生み出されたのか、それとも、脳内物質が生み出されたから誰かを好きになったのか」

 卵が先か鶏が先か。その質問に、セシリアは悩むことなく即答した。

「後者だよ。脳内物質が感情を作るなら、先にないと理屈が合わない」

 悩む必要なんてない。セシリアは元からリアリストだ。脳内物質によって得られる人の感情の変化は論文にもなっているし世間的にも認められている。

 であれば、先に生まれるのは脳内物質でないとおかしい。

「脳内物質から感情が作られているとするなら、セシリアの答えは正解だ。それと同じなんだよ、今の俺たちは」

 一瞬、セシリアには何が同じなのか分からなかった。いや、むしろ何を言っているのだろうと思いさえした。

 でも良く考えてみれば、カイトの言っていることはごく自然で、当たり前の事だ。


「この世界は現実で、この身体だって飾りじゃない。男になって変わったのは見た目だけじゃなくて機能そのものだ。俺の場合は男になった事で男性ホルモンの働きが元の世界よりずっと活発化してるんだと思ってる。さっきも言っただろ? 前向きな思考。些事を気にしない性格。性欲の増加。これは典型的な男性ホルモンによる感情の変化なんだよ」

 感情が脳内物質から作られているのであれば、身体の構造が変わったことで精神に変調をきたしてもおかしくない。

 どうしてその可能性に気付かなかったのだろうか。

「セシリアだって生理が来てるだろ。あれは身体のホルモンバランスが大きく関わってるんだ。ストレスや環境の変化で止まったりズレたりする事も珍しくない。セシリアが今の今まで来なかったのだって、こんな世界に放り出された混乱からかもしれない。ギルドに馴染んだ事で抱えていたストレスが軽減されたから今来たのかもしれない。セシリアだって聞いたことくらいあるだろ? 生理中は情緒不安定になることが多いって。あれだって言ってしまえばホルモンバランスの急激な変化による当たり前の化学反応なんだよ。元が男だとしても、今のセシリアは女なんだ。少なくない、いや、もしかしたら元が男で慣れていない分だけより強く影響が出てる可能性もある。その証拠に、いつもなら俺の冗談くらい軽く受け流すだろ。でもあの時のセシリアは受け流すどころか、感情を制御できてなかったように思う。あれはゲーム内で演じてた完璧な"セシリア"じゃない」

「ちょ、ちょっと待って」

 つらつらと流れ出る言葉の全てが、今のセシリアにとっては貴重極まりない情報だ。

 身体の変化によってホルモンバランスが変わり、結果的に精神の変調まで起こった。

 言われてみればそうかもしれないと納得できる理由ではある。でも納得できてしまうからこそ、セシリアの顔はより青く染まった。

「……じゃあなに、身体の内側から、根本的に何もかもが変わってきてるって事……?」

 笑えない情報だった。何の救いにもならないどころか、絶望にしかならない。

 身体の内側をどうにかする術なんてセシリアにも思いつかない。

「それからもう一つ。多分セシリアは今の自分を受け入れられてないんだと思う」

 まだ何かあるのかと呆けた表情で見上げた後、弱弱しい声で呟く。

「それは、そうでしょ。だって、性別も、姿も変わって、おまけに別の世界に居るんだよ? 受け入れろって言われて、簡単に頷けたら苦労しないよ」

「だからだろうな。今の自分に違和感を感じて、無意識の内にストレスを溜めこんだせいで、心は逃げ場を求めたんだよ。そして幸か不幸か、普通じゃありえない絶好の逃げ場があったんだ」

 逃げ場が何を示すのかは想像するまでもない。ゲーム内で演じていたセシリアという人格だ。

「自分をセシリアに"最適化"する事で、性別が変わった事による不安やストレスを抑え込もうとしたんじゃないのか。セシリアがここまで頑張ってる理由は元の世界に帰りたいからだろ。その想いの原動力はなんだ? 家族に会いたいからっていうのも分かるよ、ちょっと引くくらいシスコンだったし。でも一番は今の自分に強い違和感を抱いてるからじゃないのか?」

「それは……」

 領主との交渉だってグレゴリーが物分りのいい領主でなければ協力関係は結べなかっただろう。

 もちろん会話の上で領主の性格を判断して持ち込んだのだろうが、もし相手が自分勝手で傲慢な領主だったならどうなっていたか。

 切り抜ける手段をいくつも用意していたとしても、成功する確率が高かったとしても、絶対ではないのだ。

 自分の身の安全を優先するなら目立たない所で蹲っていた方がいいし、実際そうしているプレイヤーも多い。

 家族に会う前に何かあってしまっては元も子もないのだ。危険な橋を無理にでも渡ろうとするセシリアの姿勢からはもっと別の、切実に帰りたい理由があるようにカイトには思えた。

 例えその自覚がセシリアになくとも。

「人は誰だって嫌な記憶や忘れたい過去を思い出にする力がある。でも性別の変化を思い出にはできないよな。とすれば解決方法は2つしかない。男に戻るか、自意識を女に書き換えるか。人間っていうのは驚くくらい適応力があるものなんだよ」

 どうしてこの身体に変わったのかさえ分かっていないのだから、男に戻るのは難しい。

 それを良く理解しているからこそ、セシリアの本能はもう一つの解決方法を取った。

「じゃあ、私はこれからどうなるの」

「強いストレスや不安を感じれば感じる程、最適化は加速すると思う。でもそれは特別な事じゃない、人が持つ防衛本能なんだよ。さっき言ってた身体を見られる事に気恥ずかしさを感じた理由だってそうだ。この世界に来てセシリアは1度襲われかけてる。その時怖いって思った経験は例え薄れてもセシリアの中に蓄積されてるんだよ。元が男だっただけあってセシリアは無防備すぎる。本能はそれを危険な行為だと認識してるけど突然性格を変えたりはできない。だから少しでも危険を回避しようと、セシリアにそういう感情を生み出したんじゃないのか?」


 本能と理性は必ずしも一致する訳ではないから。

 心を守ることは身体を守ることに繋がる。防衛本能は自分を守る為の感情を作り出した。それが"セシリア"という人格の正体だ。

 でもそれが分かったところで何の解決にもならない。セシリアが欲しいのは理由ではなく、解決方法だ。

 セシリアの精神が変容しつつあることはもはや確定的だし、それを止める手段はないのだ。

 セシリアの理性は変わっていく自分を受け入れられない。だから強い不安を感じる。本能はその不安を解消しようと、より最適化を強める。最悪の悪循環だ。

 溜め込んでいた感情が膨れ上がって、溢れそうになる。

 でもその直前に、力強い手がセシリアの両肩を掴んだ。

 前を向けばカイトが幼子を安心させるような笑顔を浮かべている。

「なぁ、セシリア。セシリアは小さい頃から性格が変わってないのか? そんな事ないだろ。無茶したり馬鹿やったり、何度も失敗を繰り返して危ない事を覚えながら、少しずつ今のセシリアに育ってきたんじゃないのか? それは今だって同じなんだよ」

 誰にだって失敗の経験はある。一歩間違えれば大惨事になりかねなかった経験だって、きっとある。その度にヒヤリとして、次から気をつけようと思い直すのだ。

 人は学ぶ生き物だから、味わったことのない感情に戸惑っても、それはただ成長しただけで何もおかしい事はない。

「俺だってこの身体になって戸惑うことはあったさ。でもこの世界の俺も元の世界の私も同じ自分で何も違わない。セシリアだって本当はそんなに深刻に悩まなくてもいいはずなんだよ。大丈夫、セシリアが本当に変わりたくない物は、失くしたくない物は、絶対に変わったりしない。セシリアにとって大切な物ってこんな事くらいでなくなっちまう物なのか?」

「そんな訳ない! ……けど」

 不安はそう簡単に拭えなかった。今までだってそうだ。何度も何度も繰り返し嫌な想像ばかりが膨れ上がって頭の中を埋め尽くしていく。

 今もセシリアが再び嫌な想像を膨らませ始めた、瞬間。カイトはぎゅっとセシリアを腕に抱きしめた。

 それがとても暖かく感じられたのは微動だにせず座っていたせいで身体が冷えたから、だけではないのだろう。

 ふいに、これと同じ感覚をどこかで感じた気がした。

「そういえば、リディアにも同じ事された。なんでだろう、ちょっと落ち着くの。あのまま部屋に居たら離れられなくなりそうで、逃げてきちゃった」

 終始マイペースで自分の欲望に忠実で隙を見せたら何をされるか分からない人だったけれど、最後だけはとても優しくて暖かかった。

 ずっとそうしていれば不安が溶けて消えていくような気さえした。

「あのロリスミスに相談したのか? んじゃその服も着せられて脱げなくなったとか? 正直頼るには一番不安な気がするけどな……」

 廃人だったカイトは掲示板で彼女の悪行というべきか、所業の数々を知っていた。

 あらかじめエンチャントを施した服を着せて心いくまで愛でるのは彼女の最もポピュラーな手段だと聞いてセシリアは頬を引きつらせる。

 知っていれば絶対に着なかったのにと思っても後の祭りだ。

「あのさ、セシリアの不安の正体、なんとなく分かった気がするんだ。多分、今のセシリアは一度に色々な事があって混乱してるんだよ。ひとまず1週間だけ待ってみないか。それだけあれば少しは落ち着くと思うんだ。それでもまだ不安なら一緒に安心できる方法を考えよう」

 カイトの腕の中でセシリアは戸惑いながらも頷いた。

「ありがと」

 小さなお礼の後、まるで子猫が母猫を頼るように擦り寄る。途端にカイトが表情を変えたのだが、胸の中で安心したように目を瞑るセシリアには見えていなかった。

「さ、とりあえず飯いこうぜ。2人を待たせてるのすっかり忘れてた」

 たっぷり20分は話し込んでいただろうか。フィアとリリーの性格を考えると先に食べるとは思えない。

 お預け状態で、それも混んでいる食堂で何を食べる訳でもなく居座り続けている2人の居心地の悪さを思うと、ただひたすら申し訳なさがこみ上げてくる。

「早く行かないとダメじゃない」

 カイトと話して少しはすっきりしたのか、立ち上がったセシリアは先程よりもずっと明るい表情に戻っていた。

 それをみてカイトは内心ほっと息をつく。

「あぁ悪い、上着着てくから先に行っててくれ。ついでに謝っといてくれ!」

「……絶対後者の比率が9割9分だよね。確かに私のせいだけどさ。まぁいいや、じゃあ先に行ってどうにか誤魔化してみる」

 上着くらい歩きながらでも着れる。顔を合わせ辛いからクッションを置こうという思惑に、セシリアも仕方がないかと頷き小走りで食堂へ向う。

 それを見送った後で、カイトはふと自分の身体を見下ろす。そこにはまだセシリアの感触がしっかりと残っていた。

 安心しきった顔や身体を摺り寄せた記憶がさっと蘇ったかと思えば、何か誤魔化すかのように肺の中の空気を一挙に吐き出す。

「可愛いって思ったのは母性みたいなものから、だよな」

 ぽつりと呟いたカイトの言葉は夜の闇へすぐに溶けて消えた。






「待たせてごめんなさい。ちょっと寝ちゃってて、着替えるのに時間がかかったの」

 甚だ不本意な理由ではあるが、今朝の服装と変わっているおかげでフィアとリリーはこの言い訳をあっさりと信じた。

 視線を落とすセシリアにフィアもリリーも気にしていないというが、まるで借りてきた猫のようにずっと縮こまっている。

 先のカイトとの会話の影響というよりも、視線を一挙に集めているから、だろう。

 ただでさえ目立つセシリアが殊更目立つリディア製の服を着ているせいで四方八方から視線の集中砲火を受けていた。

 恥ずかしさを感じるのがどうしても受け入れられず屈辱的でさえあった。それが尚更最適化を進ませるのだとしたら尚更だ。

 かといってこみ上げてくる感情をなくすこともできない。

 どうにかしてこの感情を克服できない物か。もしそれができるなら、最適化から逃れる手段になるかもしれないのに。

 そう思った瞬間、聞き覚えのある声と共に一番出会いたくない人物がセシリアに飛びついた。

「やっぱかわいい! 流石あたし、天才的だね! ちらりずむ最高! 恥ずかしがってる姿が初々しくてパーフェクトだよ。でもまぁ、着てるうちに慣れるからさ。そしたら今みたいに緊張してない、自然な君も見せてよねっ」

「絶対に嫌です! ていうか変な所触らないでください!」

「変な所って言うとこことか、こことか?」

 食堂に甲高い悲鳴が響くと同時に、何人かの紳士はそっと目を逸らす。

 歓喜に暴れまわる耳と尻尾を付けたリディアはセシリアからの反撃を受けるより早く怪しげな含み笑いを残して足早に奥へと逃げていった。

 残されたセシリアは怒りと羞恥に震えながらその後姿を睨むしかなかった。

「いいよ、そっちがその気ならこっちだって考えるんだから……。まずは情報収集から、その後に計画を立てて……。一生どころか十生分の恥でもかけばいいんだ。爆発しろっ」

 ぶつぶつと小声で危険な台詞を呟くセシリアにフィアとリリーはどう声をかければいいのか分からなかった。

「大体慣れるまで着るなんて冗談じゃない。明日には脱いで……」

 その瞬間、セシリアは何かとても大切なことに気付いた気がした。

 そもそもどうして恥じらいを覚えるようになったのか。カイトは防衛本能からだと言っていた。

 この世界に来た当初に襲われた恐怖がどこかに残って、身を守る術を身に着けようとしている結果だと。

 でも身を守る術はもうある。性格を変えてまで備える必要なんてないと思っているのが理性だ。

「悪い、待たせたな。さ、なくならない内に食べるかっ……て、セシリア、大丈夫か?」

 ようやく食堂へ来たカイトは待たせた2人に頭を下げてからセシリアにも声をかけたのだが、考え事をしているのか上の空で反応がない。

「あるかも、最適化を止める方法」

 突然こぼした一言に3人が唖然とする中。

「ねぇフィア、今日は私と一緒に寝てくれない?」

 真顔でとんでもない一言を言い放った。

 

セシリアの服装の描写に関してはとりまる様から頂いたイラストを参考にしてみました。

ぶっちゃけ見たほうが早いでs(ry

間違ってたらごめんなさい……!


今回はTSでよくある、心が身体に引っ張られる云々について書いてみました。

少し長くなってしまいましたが、楽しんでいただければとっ

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