リュミエール-9-
いつも悠然と構えている少女が今は何かに堪えるように地を眺め、小刻みに肩を震わせてさえいる。
隠しきれていない表情は見るからに赤く染まっていて、湧き上がる怒りに耐えているようにも見えた。
「すまない、今何て……」
震える少女の声色は確かに平時より聞き辛くあったが、決して聞き取れない物ではなかった。
にも拘らずケインが聞き返したのは、その内容が予想だにしなかった物だったからに他ならない。
けれど、喉から出かかっていた問いかけは最後まで言うより先に飲み下された。
「……いや、なんでもない」
大きな蒼い瞳に溢れんばかりの涙を溜め、羞恥に震えながらも気丈に睨みつけるセシリアを見て、再び先の発言を繰り返させるのはあまりにも不憫に思えたからだ。まさしく傷に塩を塗るに等しい。
――生理が来ました――。
このアバターはあらゆる意味で"本物"だ。ゲームで使っていた形だけのハリボテではない。
寧ろこの年齢で今まで何もなかったのは幸運といえよう。
皺になるのも気にせずスカートを両手で握りしめて何かに堪え忍んでいる姿はいつもより一回り小さく、無条件に慰めてあげなくてはという保護欲を掻きたてるのだが、ケインにはどうして良いか検討もつかない。
男である彼にそんな経験がある筈もないし、女性はこの手の話題を男性に話さないのが普通だ。
ましてここは異世界。もしセシリアがネカマをする上で多少の知識を持っていたとしてもここで通用するかは別問題だ。どうしていいのか分からないのは彼女も同じなのだろう。
「そうだね、一足先にリュミエールに戻るのが良いよ。回復が必要な場面があるとも思えないしね。頼れそうな人に心当たりがある。ポータルゲートは使えるかい?」
返事はなかった。ただ1度だけ小さく頷くに留まる。
餅は餅屋とも言うし、実際に経験している人に助言を乞うしかない。
先ほども蹴り上げたカイトに恥を忍んで尋ねたのだが、帰ってきた返事は「分からん」という実にそっけない物だった。
もう一度蹴り上げてやろうかとさえ思ったが、その気配を察したカイトは慌ててこう言い直した。
――現代ならともかく、男になったこの世界でその手の生理現象を気にする必要もなかった――と。
言われてみればその通りだ。
覚束ない足取りでセシリアが自分のテントへと戻ってくる。
目覚めてからずっと意気消沈しているセシリアにフィアもリリーも心配そうな眼差しを向けるが、今はそっとしておいてやった方が良いと身を持って証明したカイトの助言により様子を見るに留めている。
一番手っ取り早いのはリリーに尋ねる事だろう。両親の居ない彼女は村の女性によく可愛がられていた。
12歳の彼女が既に迎えているかはともかく、村の女性から事前に対処法を教えて貰っている可能性は高い。
だが、セシリアにだってプライドはある。現地の、それも年下の少女に尋ねる事はどうしてもできなかった。
自分の荷物を纏めて一足先にリュミエールへ戻る準備をする。
本当はカイトにも着いて来て貰いたかったがフィアとリリーを残す以上、護衛として信用のおけるカイトを連れて戻る訳にはいかない。
「大丈夫だって。ちゃんと訳を話せば力になってくれるさ。貢いでた輩はともかく、直結に辟易してたプレイヤーだっているんだからさ。そう気負う必要はないって」
カイトはそう言ってセシリアを励ますが、その心配はやや見当違いだ。
セシリアからすれば降って湧いたこの症状だけでも暗鬱たる気分だと言うのに、他人に、それも生粋の女性に、ネカマである自分が女性特有の現象について助けを乞うと言う輪をかけた羞恥プレイを、あろう事か自らの意思で行わなければならないのだ。
「考えてもみてよ……。ネカマが女性に生理の時ってどうすればいいですか? って尋ねる心境を」
今にも泣き出しそうな声色でセシリアが訴えると、カイトは暫く考える様な素振りを見せた後、確信に満ちた声で言う。
「完全に変態だな」
直後、容赦のない【スターライト】による逃れられぬ殴打でカイトの身体は空を舞い、ややの間をあけて墜落した。
リュミエールに戻ったセシリアは暗い面持ちのままケインに教わった部屋へ向かう。
面倒見のいい人だから頼ればきっと力になってくれる。ケインはそう言っていた。
服飾系のスキルを極めた製造特化のマスタースミスらしく、セシリアがこのギルドに入った時、必要ならば下着を複製して貰うと良いとケインが話していた人だ。
長い廊下を歩き、普段は近づかない女性向けフロアへ足を踏み入れながら一体どんな人だろうかと想像をめぐらせる。
このゲームは同じ職業でも設定されているコンセプトによってスキルツリーが大きく枝分かれしている。
例えば騎士なら片手、両手、槍、斧別にスキルが用意されており、どう頑張っても2系統までしか極める事ができない。
中には4系統をバランスよく振り、敵に合わせて効果的な武器へ都度スイッチするプレイヤーも居るが、大体は相性の良い槍と斧の重装甲型か片手と両手の回避型を選択する。
このようにスキルツリーは武器や、魔法の属性の数だけ系統が用意されているのだが、マスタースミスはもう一つ、製造特化と呼ばれる系統が用意されていた。
鍛冶師といえば代表的な生産職だ。当然、ゲーム内で材料を集めて武器や防具を作る事も出来る。
一見楽しそうな職ではあるが、製造に特化したプレイヤーは数えられるほどしか居ないと言われていた。
その理由の一つが製造に必要なスキルとステータスによる戦闘力の低下だ。
マスタースミスでも親方のように重量級の武器を振り回すパワーファイター型に育てれば立派なアタッカーとして活躍できる。
しかし製造スキルのツリーはとてつもなく深く膨大で、極めるには戦闘用のスキルのほぼ全てを諦めなければならない上に、Luk、Int、Dexのステータスを相当要求される。
必然的に前衛の戦闘に必要なStrやAgi、Vitが低くなりがちでレベル上げには全く適さないし、即席パーティーにも居場所は無かった。
苦行と言われるクレリックでもプリーストになればまだ救いの手があるのに対し、製造特化のマスタースミスは永遠の孤独と苦行がレベル上限まで約束されていると言っていい。
おまけにどれ程レベルを上げようとも製造職の作れる武器はボスドロップにどうあがいても勝てない劣化品だけだ。
それでも製造職を極めようとするのは【超強い釘バット】(鈍器)や【岩をも砕くツッコミハリセン】(両手鎚)といった見た目重視のネタ装備を作り出したいと言う、世にも奇妙な思考回路を持つ人だけである。
セシリアも何度か製造型のプレイヤーと話す機会があったが、総じて自分の欲望に限りなく忠実な奇人変人と言う評価が付き纏っていた。
果たして服飾系のスキルを極めた人物が如何なる性格であるか。不安は一向に尽きない。
「ここですか……」
薄っぺらい木のドアが重厚な鋼鉄製の扉に似た威圧感を放っている。出来れば開けたくない。自分の症状についても永遠に黙って黒歴史として押入れの奥深くにしまっておきたい。
でもそれは叶わない願いだ。訓練に出ているカイトは夜までに戻ってくる。何もしていないと知られれば……。想像できる結末は実にネガティブな物ばかりだった。
大きく深呼吸を繰り返してから覚悟を決めて扉を叩く。どうせなら居なければいいのに。セシリアの願いは虚しく、硬質な音のすぐ後に気の抜けた返事が漏ればせながら聞こえてきた。
「ありゃ、珍しいお客さんだね。あたしに何か用かな?」
開いたドアの向こうからセシリアより頭一つ分くらい大きな女性がひょっこりと顔を覗かせる。
肩先で整えられた緑色の髪と起伏に富んだ女性的なライン。
髪と同色のエメラルド色をした大きな瞳は突然の来訪者に驚きを表しつつも、向日葵のような溌剌とした笑顔を浮かべていた。
外見上は20過ぎといった所か。綺麗なお姉さんといった姿形をしているものの、笑顔や雰囲気からは無邪気さが抜けておらず親しみやすそうである。
一目見ただけで悪い人ではないと誰もが感じるだろう。だというのに、セシリアはその女性を見て唖然と固まっていた。
「どーしたの? まるで幽霊でも見たような顔をして」
あながち間違ってはいないとセシリアは思った。ただし、幽霊がモンスターの区分に該当するなら、ではあるが。
自分より頭上にある女性の顔のさらに上をじっと凝視せずにはいられない。始めに浮かんだのは疑問だった。
ぴんと張った三角形型の、白いふわふわの毛に覆われた触り心地の良さそうな器官。
「どうして耳が生えているんです?」
「可愛いから!」
多分猫の耳。人間に生えている筈のないそれを指さされた女性は弾けんばかりの笑顔で即答した。
緑と白の2色は異彩ながらも、整った顔立ちの女性が付けると確かに可愛いと思わなくもない。
深く考える事は止め、見上げるようなセシリアの視線が今度は女性の腰のあたりまで下げられ、再びぴたりと静止する。
「……どうして尻尾が生えているんです?」
「それも勿論、可愛いから!」
ミニスカートの裾から伸びた耳よりもやや長い毛で覆われた細身の、人にあるはずもない器官を見て無表情のままセシリアが問いかけても、女性は何を今更とばかりに楽しそうな声色で即答して見せた。
理由になっているようななっていないような理由にセシリアは再び考える事を放棄した。
猫耳も尻尾もMMORPG的に言えばそう珍しい装飾アイテムではない。それだけならセシリアもこんな風に固まったりせず一つのファッションだろうと流していた。
だが、これは一体どう言う事なのか。ややの間の後、意を決して気になっていた事を口にする。
「……どうして勝手に動いているんです?」
「それは君みたいな可愛い子が一人で尋ねてきて嬉しさが爆発だからさ!」
先ほどからずっと、まるで主人の帰りを待ちわびた子猫が嬉しさのあまり飛び跳ねるように、頭上の耳はぴょこぴょことせわしなく、腰から伸びる尻尾はスカートの裾がめくれるのも知ったことかとばかりにぱたぱた暴れていた。
ありえない。それがセシリアの第一印象である。
このゲームの種族は大人の事情、いわゆる予算と開発工数的な問題で人間しか選べないようにできている。
羽や尻尾といった本来人には存在しない器官をアバターに描くことは可能でも出入力機能がシステムに組み込まれていないのだから、自由自在に動かす事なんて不可能だ。
考えられる可能性は多分一つ。恐らくマスタースミスである彼女はこの動く耳と尻尾を如何なる目的かさっぱり理解できないが、どうにかして装備として作り上げたのだろう。
と同時にセシリアの脳裏を随分昔に聞かされた噂話が通り過ぎた。
この人はダメだ。ケインの勧めとはいえどこか頭のネジが外れている。
「ごめんなさい、部屋を間違えました」
そう判断したセシリアが余所向けの笑顔を作り上げた。身の安全を優先すべく、くるりと回れ右をして急ぎ足で部屋を去ろうとした瞬間。
「待って待って。そんな得体の知れない物を見るような眼で見られたまま返すわけには行かないんだよ! ささ、とりあえず入って。まずは誤解を解こう? その後は緊張を解いて、最後に全てを曝け出してくれればお姉さん的には満足かな!」
早口でそうまくし立てた女性はその細い腕からは想像できないほどの力でセシリアを部屋の中へ引きずり込む。
悲鳴すら上げる間もなく、閉じたドアが断末魔の代わりに小さな音を立てて閉じた。
広い部屋の中には簡素なベッドの他に大きな木製のテーブルが鎮座していた。
その上には色とりどりの布が山をなしており、鋏、針といった小道具が一つだけ置かれている椅子のすぐ近くに散乱している。
一体何事かと目を白黒させている内に彼女はセシリアをベッドの上に投げ出すと躊躇うことなく上から覆いかぶさった。
投げ出された手は指の1本1本を絡めるかのごとく握り締められ、逃さないとばかりにかけられた体重は小さな身体を柔らかなベッドに沈み込ませている。
「君があの"セシリア"だね。噂にはよく聞いてるよ。うわぁホント可愛いなぁ。アバターコンテストでぶっちぎりの個人優勝。中には運営の人間でアバターの上限容量を超えているなんて噂もあったくらいのずば抜けた完成度! あたしは観客だったんだけど、初めて見た時から一目惚れだったんだよ! 遠くからのSSなんて何枚集めたか! ゲームの時からヤバイって思ってたけど、生で見てみると相当ヤバイね。あたしの理性がヤバイ。今にもエロスの権化になりそう! でもネカマさんなんだよね? 同性愛者でもないんだよね? 男が好きなわけじゃないんだよね!? 良かった、本当に良かった。これが野郎に穢されるなんて耐えられない! あたしってば可愛い子が大好きでさ、君くらいの歳の女の子とか特に大好物なの! まだ女性になりきれていない身体! 不安そうに揺れる瞳! 流石だよ、パーフェクトだよ、マーベラスだよ! まさに長年求めてきたあたしの理想にして完成形! だからちょっとおねーさんと一緒にお布団で朝までイイコトしない? 心が男の子なら身体が女の子同士でもいいよね。大丈夫、あたしはそう言うの気にしなから。この際身体の関係だけでもいいから! さぁ君の色んな表情を余すところなくあたしに見せて!」
目を蕩けさせながら怒涛の勢いで喚く彼女を前に、セシリアの顔は徐々に引き攣っていく。
血走った目を向けて頬を上気させながら荒い息を吐いている彼女は誰がどう見てもまともじゃない。
か細い悲鳴をあげながらせめて理性的な話をすべく声を張り上げる。
「一体何なんですか! 最初から最後までつっこみどころしかないんだけど!?」
「そりゃあ女の子は男の子に比べて突っ込むところが多いからね!」
「最低だっ! しかも何上手い事言ったみたいな顔してるの!? 誇らしげなの!? さっさと離れてっ!」
人の良さそうな笑顔は何処へやら、今の彼女に浮かんでいるのは獲物を狩る蛇の表情だ。しかし幾ら暴れても逃れられる気配はない。それどころか見上げた女性はこの状況を楽しんでいる用でもあった。
「ふふふ、良いではないか良いではないか。これがたまってる、ってやつなのかな?」
「良い訳あるかっ!」
「そこはちょっと恥らいながら"しょうがないにゃあ・・"って言ってくれないと」
「どうかんがえてもネタで済まないじゃない!」
「分かってないなぁ。地雷を踏んでこそ本物なんだよ。ネタで流されたら意味無いし流すつもりなんて始めからない! さぁ言ってくれればお姉さんが天国へ連れて行ってあげよう!」
一人ハイテンションで騒いでいる女性を見て、セシリアはダメだと思った。何を言っても聞きそうにない。一応女性だから紳士的に会話でどうにかしようと思ったのが間違いだったのだと。
このままでは抵抗する力を弱めただけでも色んな意味でOKと取られかねない。
小さく息を吸った後、身体中の力を右手に集中させて一気に押し上げる。女性はすぐそれに気付き、押さえ込むべく力を篭めてきた。
製造特化といえども彼女は前衛職だ。支援職であるセシリアが力で勝てるはずもない。始めから右手はただ意識を逸らす為の布石だ。
「そんなに天国に行きたいなら……」
意識が逸れた一瞬の隙に素早く詠唱を通すと光り輝く槍を5本展開する。
「一人で行ってくださいっ!」
殺さなければ癒せる。それはつまり、殺さない程度なら攻撃しても良いという事だ。
曰く通り製造スキルをマスターしたならそれなりのレベルはあるとみていい。ホーリーランスの数発で死ぬ事はないだろう。
仮についうっかり死んだとしても事故だ。正当防衛だ。そんな思いを胸に槍の切っ先を容赦なく突きつける。
女性は周囲に浮かんだ槍に思ったよりも俊敏に反応して見せた。だが幾らなんでもこの距離で逃れるのは難しい。
不服そうに可愛らしく頬を膨らませた後、降参とばかりに両手を上げて残念そうにセシリアの上から離れていった。
「か、帰ります!」
身体が自由になった瞬間、弾けるように飛び起きたセシリアは油断なく槍を虚空に浮かべたまま、一刻も早く猛獣の檻から逃げ出すべく扉へ向かう。
しかし女性はセシリアに「待った」の一言をかけると襟首をしっかり掴んだ。
つんのめって締まった喉から苦しげな悲鳴が漏れる。目尻に涙を溜めながら咳き込むと振り返りざまに槍の切っ先を突きつける。
「ご、ごめんね、首を絞めるつもりなんてなかったの。そんな眼でじっと見つめられるとお姉さんの理性が本気で壊れそうだから、とりあえず落ち着こう? 君が今にも死にそうな顔してたからさ、最初はちょっとからかうだけのつもりだったの」
曖昧な笑みを浮かべながらそんなことを言った女性に向かって、思わずセシリアが叫ぶ。
「あれのどこが"ちょっとからかうだけ"ですか! 終始本気にしか見えませんでしたっ」
「だから最初だけだって。君が余りにも良い反応するから、やっぱり行けるところまで行っちゃおうかと思って」
「ひ、開き直った! 何でそんなに自信満々で居られるんですか! 少しは申し訳ないとか……」
「君ってツッコミキャラだったんだねぇ。その調子でお姉さんに突っ込んでいっちゃいなよ、ゆー。まぁ女の子が突っ込む為にはそれなりの準備が」
「……実家に帰らせてください」
あまりにも破天荒な女性に言いたい事が津波のように押し寄せてくるのに、そのどれもが言葉にならない。
結局出てきたのは今すぐこの場を去って平穏な日常を取り戻したいという切な願いだけだった。
けれど女性はセシリアの酷く冷め切った一言をあっさりと無視する。
「まぁそんな事は置いといて、あんな顔するくらい複雑な事情があるんでしょ? 話してごらん、力になるよ?」
「さらっと流せばなんでも済むと思わないでください。それから、今さら優しいお姉さんキャラを作っても底が透けて見えます」
本当に今さらだった。最初からこの態度だったならついうっかり、ころりと騙されていたかもしれないと思うと恐ろしくなる。
これ以上この部屋に居たら何をされるか。痺れ薬や眠り薬の類を盛られたとしても驚かないだろう。
そんな思いが表情にも出ていたのか、セシリアの視線を受けて女性が恍惚に染まった。
「美少女のジト目……。君はお姉さんの理性を試してどうしたいのかなっ。これはあれかな? 嫌よ嫌よも……」
「嫌の内ですっ! それ以上近づいたら本気で刺しますから」
一体どうしてケインは彼女を薦めたのか。多分彼の前ではそれとなく皮を被っているに違いない。
抱えている問題はどうにかする必要があるけれどもっと別の、例えばこの間助けた2人に事情を話して助けを乞うなりする方がずっといい。
まずはこの部屋から早く出よう。そう思って項垂れている女性の前を足早に通り過ぎようとして、再び抵抗を感じて足を止めた。
振り返るといつのまにか裾をしっかりと掴まれていて離す気配もない。1発くらい撃ちこんでおくべきだろうかと考えた瞬間、女性はにたりと笑って驚くほどあっさり手を離した。
「っ!」
突然の事態にセシリアが声にならない悲鳴を上げて再び硬直する。確かに女性は手を離したが、それは勢いをつけて思い切り上方向にまくり上げたとも言える。
長いスカートはその存在感に似つかわしくないくらい簡単にふわりと浮かび上がり、その下に隠されるべき物を余すことなく曝け出していた。
抑えた時にはもう何もかもが遅かった。思わずその場に座り込んだセシリアを女性はどこか楽しげに眺めていたのだが……。
「やっぱり君も……うん、ちょっと待って。あたしにも言い分があってさ、とりあえずこの槍を消してくれるとお姉さんとっても嬉しいんだけどなっ」
睨みつけるセシリアの視線に篭もった冷ややかな殺意と浮遊する槍によって、すぐに焦りの滲んだ苦笑いへと崩れた。
「まず自己紹介しとくね。あたしの名前リディア。見ての通りマスタースミスで専門は製造。ぶっちゃけ製造ってどう頑張ってもボスレアに敵わないからさ、ならプレイヤー向けの見た目装備を作ろうって思いついてね」
奇人変人はすぐに噂になる。セシリア然り。親方然り。リディアというマスタースミスの名前は噂に聞いた事があった。
武器や防具の性能はどう足掻いてもボスレアには勝てない。だから彼女はこの世界で可愛らしい衣装を作る事に没頭していた。
だがその為に必要なのはモデルだ。原動力だ。
彼女の通称はロリスミス。自分好みの可愛いキャラを見つけると手当たり次第襲い掛かり、噂では度重なるハラスメント行為によって運営から幾度となく警告を受けたとさえ言われている。
曰く、狩よりもストーキングの時間の方が長い。曰く、採寸を口実に部屋へ連れ込んでは如何わしい行為をしている。
どれも眉唾物だったが、こうして本物を前にするとあながち間違っていなかったのかもしれない。
リディアの作る装備、中でも女性向けの衣装は下手なボスレアよりずっと高価だ。
製造職の中でも莫大な儲けを叩きだせる数少ない例外人物。だというのに、彼女は殆ど装備を作らない。
廃プレイヤーがとんでもない金額で依頼を出した事もあったが、インスピレーションが生まれないから作りたくないと言い放ったのは有名な話である。
彼女の原動力は自分好みの可愛いキャラだけだ。
だから毎日飽きもせず眼鏡に叶うキャラを探し続け、ストーキングともいえる過剰なお近づきの後にありったけの手間と時間と費用をかけた服をタダで贈る。
「あたしの目標はかわいい装備を作って、かわいい子に装備して貰う事」
とびっきりの笑顔でそう宣言する彼女の姿は無駄に誇らしげで、何故か少し様になっていた。
「それでその子が笑ってくれたら、それはとっても嬉しいなって。そう思わない?」
このゲームに支援や製造職が少ないのは、誰もが舞台の中心に立ちたいと、物語の主人公でありたいと思うからだ。
そんな中で特殊な条件はあれど、誰かの為に服を作り続けていたリディアは稀有な存在なのかもしれない。
自然と誰かの為に何かができるのが生来からの性格なんだろう。ケインが彼女を面倒見のいい人だと言った理由はきっとそこにある。
「ゲーム内じゃ手出しできなくてスクショだけだったけど、この世界ではまだ先がある! だから最後にお持ち帰りするって決めたの!」
ケインもまさか彼女の本当の性格が"こんな"だとは思わなかった筈だ。
自己紹介が続くにつれてセシリアの目線に宿る冷気が強まるのを感じ取ったのだろう。幾度か咳払いをしてから本題へ戻った。
「強引だったのは認めるよ? でも途中までは本気じゃなかったから安心していいって。本当、最初はちょっと元気づけようとしただけなの。やっぱりこういうのはお互いの同意が必要だと思うし。で、どう? もし君が構わないなら……」
リディアの声は机の上に置いてあった鋭利な鋏の先端を突きつけられた事で尻すぼみに消えていく。
セシリアは無言かつ無表情だったが、その先を続けるなら刺すという明確な意思をしっかりと感じ取ったようだ。
「……千歩譲ります」
俯いたまま氷のような冷たい声でセシリアが呟く。
「最初のあれは気を紛らわせる為の芝居だったと、これ以上ないくらい譲歩したとしても……スカートを捲った理由は足りませんよね」
だからこのまま、ちょっと刺して気晴らしするくらいは当然許されますよね。どうせ治しますし。濁った瞳にそんな意思の片鱗を感じ取ったリディアが慌てて首を振った。
「待って待って! 女性の間でスカート捲りはなんていうか、1度は通る道と言うか、仲のいい子同士で捲くり合ったりする事もあって……あぁ、うん、話す、話します。もう後もなさそうだから単刀直入に言うけど、ぶっちゃけ生理で困ってここに来たんでしょ?」
刺すべきか刺さざるべきか。理性と欲求の間で瀬戸際の綱引きを行っていたセシリアの眼が僅かに開かれ動きを止める。
「分かるよ。男の子が女の子の日になったショックは。前例があるんだよ。これは秘密なんだけど、ネカマは君だけじゃないの。他にもあたしの知る限りこのギルドに2人居る。知ってるのはあたしだけなんだけ。明るみになってこじれるのも厄介だし、出来れば君にも他に居るって事は黙ってて欲しい」
不意に、リディアの眼差しが今までよりもずっと優しく、それでいて真剣なものに替わった。
異性アカウントの取得は規約で禁止されているのだから、当然褒められた行為ではない。
ましてセシリアという前例が自業自得とは言え怒りを募らせるプレイヤーに責め立てられた場面を間近で見たとしたら、ネカマだと告白するのを尻込んだのも当然といえる。
「そのネカマさんも君みたいに困ってたんだよ。ううん、ある意味君以上かな。今まで経験がないからさ、やっぱり動揺するじゃない? でもどうすればいいのか聞けないんだよ。聞いちゃったら自分がネカマだってバレちゃうからさ。今までネカマだって言わなかったのもあって精神的に追い詰められちゃったみたいでね。始めはこの世界に来て精神的に参っちゃったのかなって思って話を聞く事にしたんだけど、遂に耐え切れなくなったみたいで教えてくれたの。部屋の前で困ってた様子がその時とよく似てたからもしかしたらって思ってね」
面倒見がいいという前評判は困っていたネカマプレイヤーを放置できなくてあれこれ世話を焼いていたからかもしれない。
ネカマだと告白しにくい状況を作った自覚があるだけに、セシリアは何とも言えなかった。
「そういう理由なら、理解しなくもない、です」
間接的にでも彼女に借りを作ってしまい、セシリアは一際大きくため息を吐いてから手に持っていた鋏を机の上に置く。
普通に言葉で聞けばいいだろうとか、捲る必要性の説明になってないとか、思う所はそれこそ山ほどあったけれど何も言わず飲み込むことにした。
「あくまで、百歩譲ってですよ」
身を引く素振りをしてから睨むとリディアはもう一度どこか残念そうにごめんねと謝った。
「でもあたしの所に来たのは正解だよ。この世界のは何というか前時代的で合わない子が多くてさ、今は材料仕入れてあたしが作ってるの。製造スキル様々だね。流石にゲームみたいに何でも作れるわけじゃないけどね。ちょっとこっち来て」
「ちょっと待って、私はもう帰るって……」
「ここまで話して何言ってるの。この世界じゃ女の子なんだから諦めた方がいいと思うよ?」
始めは抵抗しようかと思ったセシリアだったが、彼女の言う通りもう全てを知られているのだ。その上前例も理解もあるときている。
引っ張られた先がベッドだったのには戦慄を覚えたが特に何をされるでもなく普通に座らされる。
「今後の為の勉強だと思えばいいんだよ。自分で対処できるようになればあたしに頼る必要もないでしょ? あぁでも分からなかったら頼っても良いからね。お姉さんいつでも歓迎するから!」
「できれば、今後がないことを祈りたいです……」
面倒そうに溜息を吐いたセシリアに、リディアは「それは厳しいかもね」と笑う。心の内で来月には元の世界への帰り方を見つけてやると意気込んだものの、すぐにそれは無理だろうと、他ならぬ自分自身がつっこみをいれていた。
「ちょっと待っててね。逃げちゃダメだよ。逃げたら君が初めてを迎えたのを張り紙にして公表しちゃうからね」
「そんな事したら貴女を殺して私も死にます!」
鬼気迫る返答に逃げる可能性はないと踏んだのだろう。リディアは悪戯っぽく笑ってから部屋を出ていった。
一人残されたセシリアはきょろきょろと部屋を見渡す。小型の台風に似た騒がしいリディアが居なくなった途端、急に世界から音が消えてしまったように思える。
暫く待ってもリディアは戻ってこず、どうにも落ち着かなくて机の上に築かれた布の山へ近寄る。よくよく見れば、それはほつれたり破けたりしてしまった服だった。
「お、さすが男の子、目聡いね! 女の子の着てた服や下着に興味あるのは正常なのかもしれないけど、持って行ったらダメだからね」
そこへ丁度よく戻ってきたリディアが興味深そうに衣服の山を眺めていたセシリアをからかう。
「随分と素晴らしい良識っぽい物をお持ちのようで。出来れば他人だけでなく御自分の行動にも反映されるよう願います」
タイミングの悪さに多少驚いたものの、ここで焦ったりムキになって否定すればリディアの思う壺だ。
セシリアが胡乱な眼差しと共に一蹴すると、思ったような反応が得られなかったどころか反撃までされてたじろぐ。
「ゲーム中で衣装の製作をしてたからっで修繕を頼まれててね。他にも色々作らなきゃいけないものがあって、お姉さん正直てんてこまいだよ」
失態を取り繕う為か多少演技臭さを感じた物の、疲れの覗く表情は本物のように思える。
これだけの服の山だ。数人で分担して事に当たっていると思っていただけに驚きを隠せない。
女性のマスタースミスは彼女一人しか居ないから、彼女にしか出来ない事もそれだけ沢山あるという事なのだろう。
「朝から晩まで格闘してると何やってるんだろうって気が滅入る時もあるんだ。待ってる子は沢山居るからサボるわけにもいかないしね。だからお客さんは歓迎だよ。他愛のない会話でも十分気晴らしになるからさ」
ずっと部屋に籠って終わらない仕事をたった一人でし続けるのは想像するまでもなくしんどいはずだ。
あの過剰なまでのスキンシップも、ひょっとしたらそんな寂しさを紛らわすための発露なのではと思わなくもない。
何も言えずに押し黙っているとリディアはインベントリから湯気の立つ盥を取り出してベッドの傍の床へ置く。
「最初に汚れちゃったところを拭くね。ドレスを脱いでくれた方が良いんだけど……乗り気じゃなさそうだし、裾を持っててもらうのでもいいけど、どうする?」
タオルを盥の中に浸してからきつく絞る。どうやらその為だけに食堂へ行ってお湯を貰ってきてくれたようだ。
脱ぐのは論外だった。好き好んで腹を空かせた猛獣の前に身を投じる人はいまい。仕方なしとばかりに足首近くまで伸びるドレスの裾を自分の手でたくし上げる。
消去法でこの方法しか残らなかったのだから、これは仕方のない事なのだ。そう言い聞かせても頬に集まる熱は引かない。
不意に目に留まった鏡には顔を赤らめ微かに震えている少女が長いドレスを自らの手でたくし上げ、その下に屈みこんでいるリディアに晒している様な、酷く気恥ずかしい姿が映り込んでいる。
すぐに目を逸らしたものの一度見てしまった場面はすぐに消えなかった。途端に頭を巡る血が倍増したように感じられて思わず叫ぶ。
「は、はやくしてくださいっ」
上擦った声を聞いて、リディアは不思議そうに顔を向ける。
「襲われるのはともかくとして、やっぱり元が男の子でもスカートの中を見られるのは恥ずかしい物なの?」
「そんなの……っ!」
叫び声は唐突に途切れた。赤くなっていた顔と思考が急激に冷めていく。
今、リディアに何を言われたのだろうか。何を言い返そうとしていたのだろうか。
「どうかしたの? もしかして痛かった?」
突然様子がおかしくなったセシリアへ、リディアは心配そうに声をかける。けれど返事も反応もなかった。
瞬きさえも忘れてただじっと虚空を見つめる様は不気味でさえある。
「ねぇ、顔色悪いよ。本当にどうかしたの?」
一向に反応を示さないセシリアに痺れを切らしたリディアが肩を揺すった。無表情が今にも泣き出しそうな物に変わる。
「私って、誰だっけ」
「何言ってるの。君はセシリアでしょ」
「セシリア……」
呆然とその名前を繰り返す。そうだ、この身体の名前はセシリアだ。女性で、苦心して作ったアバターで、今の自分の身体。
元の自分は男で、妹に着替えを見られても何とも思わない、そんな性格だった筈だ。なのにどうして、あんなに恥ずかしかったんだろうか。
どうして。その先を考えた瞬間、嫌な気配が全身を包み込んだ。
その先は知るべきじゃないと本能が告げている。でも、理性はその先を知るべきだと告げている。
「本当に大丈夫? もしかして生理結構重かった?」
知る為には一つだけ聞かなければならない事があった。
知らないでいる為には一つだけ聞かないでおかなければならない事があった。
まるで世界が回っているみたいで足元が覚束ない。
こんな状態で何ができるのかと理性は言っている。
こんな状態なのだから何も考えずに休むべきだと本能は言っている。
知る事と知らない事。不可逆の、一度しか選べない選択肢。
「あの……ネカマさん、他にもいたんですよね。こんな風に恥ずかしがったりしてました……?」
選んだのは知る事だった。理性的に、その先を求めてしまう。
「恥ずかしがってたよ。異性に身体を見られてる訳だし、抵抗感があったんじゃないかな」
安堵の息がセシリアから漏れた。他の人もそうなんだ。なら、それはきっと正常だ。
回っていた世界が元に戻る。歪んでいた足元も今はしっかりと地面を捕えていた。
それなのに、頭の奥深くで再び理性が問いかけてくる。本当に? と。
同時に本能が留めようとする。それでいいじゃないか、と。
リディアの回答に違和感があった事はとっくに気づいていた。
「じゃあ、私はどうですか」
それがどうしても無視できなくて、小さなトゲを抜くような感覚でセシリアは再び尋ねる。
自分では気付けない事だから、こればかりは他人の意見を聞くしかない。
「どうって?」
「私もその人達と同じように、異性に身体を見られてるから恥ずかしがってるって、見えますか?」
「うーん、君の場合は」
気付いた時には再び世界が回って、足元が泥沼のように不安定になっていた。
だから言ったのにと本能は告げている。
それでも知るべきだと理性は言っていた。
「なんだか本当に、女の子みたいかな」
あぁやっぱりと、セシリアは心のどこかで思う。
始めはセシリアを演じる事を躊躇っていた筈なのに、一体いつから進んでセシリアを演じていたのだろうか。
いや、演じるだけならまだいい。
こんな時、セシリアとしてならどうするか。そればかりを考え、演技が演技でなくなってしまったのはいつからだったっけ。
それは少しずつ本来の自分を侵食している。
まるで頭の中に2つの人格が入り混じっているようだった。
純粋に恐ろしいと思う自分と、それの何処に問題があるのだろうと思う自分が居る。
たった1ヶ月でこの有様だ。これが1年も続いたらどうなるのだろうか。セシリアから元に戻れるのだろうか。
このままこの身体に慣れ続けたりしたら、もしかして……。
「ひぃっ!」
突然太ももの内側を這った生暖かい感触とこそばゆさに、セシリアから悲鳴が漏れた。考えていた事が一瞬にして吹き散らされていく。
「な、な、何してるの!」
やっぱり刺しておくべきだった。しかし今は手の届く範囲に凶器がない。
仕方なく呪い殺さんばかりの怨念を篭めて睨みつけるが、リディアは不思議そうに首を傾げるばかりだった。
「汚れを拭いただけだよ? それに、さっきからずっとおかしいのは君の方。どうかしたの? 困ってる事があるなら相談に乗るよ」
安心させるように微笑むリディアを見て、そんな風に笑うこともできるのかとセシリアは思った。
セクハラばかりの色情魔の気配は不思議と感じない。
性格に難のある人ではあるが、頼れば力になってくれるのは本当なのだろう。
「良く考えればわざわざ拭いてもらう必要なんてありません。自分で出来ます!」
けれど逡巡したセシリアはどこか誤魔化すような口調でそう叫んでいた。
「今更!? お触りを許可してくれたんじゃなかったの!?」
「考え事してちょっと上の空になっただけです! 常識的に考えてそんな許可を出す人は居ませんっ」