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World's End Online  作者: yuki
第二章 異世界
36/83

リュミエール-5-

「お疲れ様でした。もう話して大丈夫ですよ」

 領主邸を足早に立ち去り、喧騒に包まれている商店街に出ると親方に向かって笑いかける。

 途端に厳めしい面が崩れ、うだつが上がらない中年といった様相に変わると、溜め込み続けていた色々な物を大きな吐息と一緒に吐き出した。

「何も話さねぇってのも疲れるもんだな。にしても嬢ちゃんが姫とは、何だってそんな勘違いをしたんだか」

 思いもよらぬ勘違いに吹き出しそうになるのを必死に堪える親方の形相は、主君に対する数々の非礼を前に耐え忍んでいる臣下の様に思えて勘違いの促進に一役買っていたのだが、本人に気付いた様子はない。

「交渉する上で立場が対等だと思わせるに越した事はないですから、色々と仕込みはしたんです」

 立場の有利不利と言うのは厄介な問題で、格下に思われてしまうとどうしても要求が一方的かつ傲慢な物になってしまう。

 時の権力者が横暴なのは格下相手に何をしても握り潰せるからだ。まずはその下地を払拭しない限りまともな交渉にならない。

 問題は相手に身分を勘違いさせる方法にある。自ら偽りの身分を口にした所で相手が信じるはずもない。

 何の根拠も示せなければ、裏にある「対等な立場に思われたい」という意図を見抜かれ一笑に伏されるのがオチだ。

 それどころか権力者相手に嘘を吐いたとして吊るし首にされても文句は言えない。

 だからセシリアはあえて自分から何も言わず、グレゴリーが曲解してくれる状況を整える事に専念した。

 この間一人で村長に会いに行ったのだって、立場上数多くの式典に参加した事があると話していた彼なら貴族式の礼儀作法を知っているのではないかと思ったからだ。

 案の定、彼は予想以上に豊富な知識を持っていて、セシリアが教えを乞うと快く引き受けてくれた。

 全ての作法を覚える時間はなかったが、他人との交渉に使う挨拶や、気をつけるべき言葉遣いといった狭い範囲を覚えるだけなら数時間で事足りる。

 その上で以前に換金した銀貨を使い、それなりに上等なドレスや装飾品で着飾ればアバター由来の作り物めいた容姿も合わさって、貴族の令嬢と思い込ませるのは難しくない。……けれど、それでは足りないのだ。


 一番の障害はセシリアの年齢にある。14~5の外見では貴族の令嬢と思われても頭首とは思われない。

 初対面で壮年の執事がセシリアを娼婦と罵倒したのもそのせいだ。

 まともな頭首なら自分の娘を陰気臭い交渉の場に連れてきたりはしないし、そもそも親方とセシリアを見て家族だと思う者もいないだろう。

 よって、会議に貴族式の礼儀を弁えた少女が同伴していたとしたら、不利な立場を自覚している相手が少しでも便宜を図って貰う為に連れてきた娼婦と判断するのが妥当である。

 貴族はプライドが高い事も多く、娼婦相手にもそれなりの教養や器量を求める。

 貴族との交渉用に使う娼婦はそれなりの訓練を受けている為、豪華な衣装やきちんとした作法を身に付けていても不思議はない。

 セシリアを貴族と勘違いさせるなら令嬢が居てもおかしくない場所、例えば華やかなパーティーの只中でなければならなかった。

 陰気臭い交渉の場という、ある意味貴族の令嬢に最も相応しくない場所で貴族と思い込ませるには、それなりの材料が必要になってくる。

 セシリアは幸運にも材料を始めから握っていた。いや、握っていたからこそ、この方法を取ったと言うべきか。


 率先して交渉役を務める事で娼婦である可能性を排した。

 その上で領主の人格を確かめつつ、問題ないと思われる範囲の嘘を織り交ぜ、人形に徹している可能性も排した。

 有能な領主様はセシリアが何を考えているのか、いったい何者なのか、さぞ気になるに違いない。

 500という途方もない人数。湯水の如く使われた金貨。オークを次々に屠る騎士達。

 その割には市場で食材を値切りする庶民的な価値観も持ち合わせている。

 これだけの大人数が一緒に旅をしているとは考えにくい。沢山の人が居るという事は沢山の思想があるという事で、意見の相違による内部分裂が起こり易いからだ。

 自由の翼の分裂はまだグレゴリーに知られておらず、同じ屋根の一つ下で暮らす大集団という認識しかない。

 これだけお膳立てが整っていても、それなりの立場にある貴族が何らかの問題に巻き込まれ、大量の使用人と護衛を従えて避難してきたと解釈できるように調整するのは骨が折れた。

 元からある要素は効果的に。ない物は作るなり演じるなりして補って、グレゴリーが自発的にそう解釈してくれるよう仕向ける。

 迷っている相手の鼻先に情報を間接的にぶら下げてやれば勝手に食いついてくれることを、セシリアは今までの経験で知っている。

 おまけにその情報は自分で見つけ出したと思い込んでいるのだから疑う筈もない。

「とはいえ、まさか一国の姫にされるとは思いませんでしたけど……」

 当初の目論見では公爵か侯爵くらいに思わせれば成功と踏んでいたのだ。

 王族と解釈されたのは嬉しい誤算と言える物の、もしばれたらを考えると内心穏やかではいられない。

 勝手に勘違いしたというスタンスを取るつもりではいるが、「何だ勘違いだったか」で終わるとはとても思えない。何か別の保険をかける必要が出てきてしまった。

 それも、出来る限り早急に。



「そいうやよ、勝手に立ち退きを決めたのは流石に不味いんじゃねぇか?」

 領主の勘違いの子細を豪快に笑っていた親方だったが、ふいに神妙な表情を浮かべて心配そうに尋ねる。

 いよいよ本題に差し掛かろうという所でセシリアが唐突に席を立ったのには親方も声を出しそうになったし、勝手に決めるにしては大きすぎる問題だ。

 リュミエールを出て行けば自由の翼に行く当てはない。他の街までどのくらいかかるかも分からないし、そこで上手く生活していけると言う保証もなかった。

 何より勝手に決めたセシリアへ非難が殺到する事くらい親方にも予想できる。

 ところがセシリアに気にする様子は欠片も見当たらない。あまつさえ悪戯っぽい笑みさえ浮かべながら自信ありげにこう言ってのけた。

「大丈夫です。立ち退く必要はありませんから」

「……どういうことだ?」

 領主の前で立ち退くと発言をしたのはセシリア本人だ。にも拘らず立ち退く必要がないと豪語している理由が分からず、親方は首を捻る。

「考えてもみてください。彼らはどうして今更になって私たちを呼び出したんだと思いますか?」

「街の者から不満が出たからだろ?」

 確かに領主ははっきりそう告げたというのに、セシリアは無言で首を横に振る。

「それ、ただのデマですよ。旅人の多いこの街でいちいち他人に構っている人がどれだけいることか。中はともかく、外で暴れる様な真似はしてないですし、これだけの人数が暮らす上で街の経済活動にもそれなりに貢献しています。市場じゃかなりの大口取引先みたいですからね、仕入れをしている人は大層人気者だそうですよ。かといって私達は他人の仕事を奪ったりもしていない。いわば純然たる消費者です。得をする人は多けれど、損をする人なんて殆どいない筈なんです」


 自由の翼はその特殊な成り立ちから自分たちの情報を表に出そうとしないし、街中でのトラブルにもかなり気を使っている。

 商人にとっては買い物をしてくれるお得意様の正体が気になったとしても、わざわざ探って気を悪くしたいとは思うまい。

 そんな事より銅貨1枚でも多く買って貰う為の売り文句を考えた方が建設的だ。

 かといって一般市民が自由の翼に不平不満を口にするとも思えなかった。

 この世界が封建制度で成り立っているのは暮らしていれば分かる。屋敷を買い取って住んでいる大所帯となれば連想されるのはそれなりの身分を持つ貴族だろう。

 秘密裏に情報を集める間諜部隊ならともかく、ただの市民が貴族相手に不満や悪口を吹聴しようものなら、不敬罪とみなされ投獄される可能性だってあるのだ。

 雉も鳴かずば撃たれまい。口は災いの元。藪蛇。何かされたわけでもないのにわざわざ危険を冒す意味はない。

「この街の領主様は優秀な方ですから、自分から本当の理由を話したりしないと思います。金貨の使用制限を数日で成立させるなんて、正直異常ですよ」

「俺たちが金貨を沢山持ってそうだからやべぇって話だよな。何でそうなるかは良くわかんねぇけどよ、金貨を規制するのってそんな難しい事なのか?」

「難しくないですけど、難しいですよ。そもそも凡人には金貨の使用を禁止するっていう発想自体出てきませんから」

 相当な価値を持つ金貨を身元不明の旅人風情が大量に持っていると知れば、普通は手に入れようと躍起になるからだ。

 領主と言う絶対的な立場を使えば難癖をつけてかなりの金貨を巻き上げる、なんて事も不可能ではない。

 実際、セシリアもその可能性を見越した上で金貨を大量に両替している。

 プレイヤーが不利益を被れば中にはこの街を出ようと思う人も出てくるだろう。それはセシリアの安全が高まる事を意味するからだ。

 ところが実際に行われたのは合法的なカツアゲではなく、禁止令。これはセシリアにとっても完全に想定外だった。

 この街の領主が予想以上に有能だったのだ。


 領主が金貨を禁止しようと考えさえすれば、持ちうる権限を使って領主内に特例を出すのは難しくない。

 でもそれは特例を出した"だけ"だ。

 問題なのは特例を出した後。どうやってこれを厳守させるかにある。

「彼は金貨の取引を禁止する事によって、私利私欲より街の安定を図りました。それ自体がもう凄い事なんですけど、金貨は高額すぎて一般市民には縁がない代物なんです。必然的に困るのは大きな権力を持つ人に限定されます。それを数日で説得して同意を得た。この街の権力者が20過ぎの若造に言われただけで律儀に守る善人だらけだとは思えません。彼にはそれを守らせるだけの背景があるんでしょうね」

 大量の金貨を懐にいれるチャンスと領主の命令を天秤にかけ、後者を選択させるほど絶対的な指導力を持っている領主。

 一体どのようにして権力者を纏め上げたかは分からなかったが、相当なやり手である事だけは確かだ。


「けどなぁ、俺にはどう見ても穏やかそうな若者に見えたんだが」

「相手に合わせてキャラを変えるくらいできなきゃ交渉なんて務まりませんよ。私だって気弱な少女を演じていたでしょう?」

 グレゴリーの見た目は線の細い色白の優男である。親方の言う通り指導力があるとは思えない。

 しかし、セシリアにはあれが領主の本性だとはどうしても思えなかった。本当はもっとえぐい腹黒に違いないと、自分の事を棚に上げて確信めいた思いを抱いている。

 キャラを演じるなんて、ある程度場数を踏んだ経験さえあれば幾らでもできるのだ。

 くすりと意味深な笑みを浮かべるセシリアには弱気な印象など微塵も感じられず、親方は渋面を作るしかない。

「腹には何を抱えてるかわかんねぇって事か……」

 常日頃から素の状態で居続けられる人なんてそう多くない。例えば人目を気にして、無意識の内に良い自分を見せようとするのは往々にしてよくある事だ。

 セシリアはそれをほんの少し複雑に演じるのが板についているのだと言った。

「親方みたいに単純な人はそう居ないって事です。私は表裏のない性格の人は好きですよ。そうなりたいとは思いませんけど」


 歩きながら逸れてしまった話題を元に戻す。

「じゃあなんだ? 領主とやらは今更になって金貨をせびろうって腹なのか?」

「それはないと思いますよ」

 規制をかけた本人がそんな事をすれば周りからふるぼっこにされても文句は言えない。

 あれだけ頭の回る人間がそんな愚策を犯すとは到底思えなかったし、それが目的なら迂遠すぎる。

「じゃあ注意を促したかったって事か?」

「一利あると言えばあるんですけど、それにしては色々と不可解なんですよね……」

 表面化していないだけで金貨の件は大問題だったに違いない。

 金貨の使用制限を行う準備で忙しかったとしても、本来なら規制が終わった段階、つまり、今よりもっと前に呼び出されていなければおかしいのだ。

「でもよ、今まで呼び出しなんぞ受けたことはねぇぞ?」

 けれど、親方の言うように呼び出された事は今まで一度もなかった。

 それでなくてもただでさえ目立つ大集団なのだ。あまつさえ屋敷を買い込み住み始める始末。不審に思われない要素を見つける方が難しい。

 これだけ情報収集の早い領主が気付いていないとは考えられず、2、3度呼び出されたとしても不思議はない。にも拘らず1度も呼び出しを食らわなかったのは何故か。

「多分、私達を呼び出せない、もしくは呼び出したくない理由があったんだと思います。ハッキリした事はまだ何とも言えませんけど、思いつく可能性なら一つあります」


 領主が金貨の件で何も言ってこなかったのは、自由の翼に何らかの"配慮"をしたからではないか。

 問題は領主ともあろうお方が何故、正体不明の一団に配慮したのかだ。

 突き詰めれば可能性は一つ。自由の翼が彼らにとって、多少の不利益を瞑るくらい有益な存在だったとしか考えられない。

「ぶっちゃけ、オークの討伐を率先して受けたからだと思いますよ。そもそも斡旋所にあった依頼自体、怪しさ満点ですし」

 依頼人の正体は明かせない。依頼の内容はモンスターの討伐とあったが、詳細は受けてからでないと教えられない。

 誰が見てもヤバイとしか形容できない依頼を一般人が受ける筈もなく、高額な報酬に釣られた自由の翼が多分何も考えずにゲーム感覚で受けた。

 依頼人が正体を明かさなかったのは何故か。襲われた街のリーダー的人物が依頼を出したなら名前を隠す理由はない。

 となれば依頼を出したのはそれ以外の名前を公にはできない人物に絞られる。

 そこに依頼の内容が遠隔地の村、ひいてはリュミエールの領地を守ると言う公共性の高い物だった事を加味すれば、依頼者が誰であるかは想像に難くない。

「討伐の依頼が劇的に増えた時期って覚えてます?」

「ああ。金貨の使用制限のすぐ後だったな」

 飴と鞭。領主はギルドから金貨を奪い、代わりに銀貨を稼ぐ方法を与える事によって討伐を受けざるを得ない状況に追い込んだ。

 徐々に報酬が落ち込んだのも、これだけの人数を維持するのにどれくらいのお金が必要かを計算した上で、ギリギリのラインを算出したのだろう。

 自由の翼への報酬は街の税金から支払われている筈だ。

 正体不明の集団に渡さなければならない市民の血税を可能な限り抑えようとする心意気には感動すら覚えるが、報酬を削られている身としてはたまったものではない。

「前に森の村に居た時、オークの襲撃を受けたんです。村長さんはリュミエールに討伐の依頼をすると言っていました。この間一人で村に行ったのはそれについて詳しく聞きたかったのもあるんです。思った通り、周辺の村々から税を取る替わりに盗賊やモンスターに襲われた場合、リュミエールの軍を派遣する約束を交わしていました」


 街や村がモンスターに襲われにくい場所に作られているとしても迷い込む事くらいあるだろう。

 かといって年に一度あるかないか分からないイベントの為に自警団を組織するのは割に合わない。

 そこで有事の際はリュミエールが持っている軍を迅速に派遣する契約を交わし、替わりに税を徴収していた。

 もしもの時の投資だと思わせる事で、ただ税を払えと言うよりかは反感を買いにくくなるという思惑が見え隠れするものの、合理的ではある。

 しかし、そうなるとどうしても腑に落ちない点が一つ生まれる。

「街から救援を頼まれたとして、それを誰とも知れない第三者向けに公募するなんておかしいと思いません? 誰がいつ受けるか全く予測できないんですよ? 明日かもしれないし、もしかしたら一年後かもしれない。あの村だって、あわや全滅の憂き目に合っていました」

 元はリュミエールの軍を即時派遣すると言う約束なのだ。

 小さな村と交わした約束を破ったくらいでは大した痛手にはならないかもしれない。でも、この街の領主がそんな愚策を取るとは思えなかった。

 第一約束を破るつもりなら討伐の依頼を、それも莫大な税金を使ってまで公募する必要なんてない。

 さらに、とセシリアは先を続ける。

「この手の割の良い依頼は自由の翼が全部押さえているのに不満の声が何処からも上がってこないのだっておかしいんです。私たちほどではないにせよ、モンスターが闊歩してるんですから、戦える人は他に幾らでもいる筈です。中にはモンスターの討伐を生業としている人だって絶対に居ます。彼らにとっての相場が幾らかはわかりませんが、大して強くもないオークを討伐するだけであれだけの額の報酬を貰えるなら、必然的にそう言う人達が集まっていなければおかしいんです。でも、今まで誰からも文句を言われませんでしたし、依頼の奪い合いも起こっていません。これって同業者がこの街に居ないって事なんだと思います。多分、今までは全てリュミエールの軍隊がモンスターの討伐を行っていて、そういう組織の居場所がなかったから」


 領主の静観も先ほどの交渉も、全てはここに集約されているとセシリアは思っている。

 第三者に高額で討伐の依頼を出したのは、彼らがそうせざるを得なくなるくらいの人手不足に陥ったからではないか。

 名前や内容を明かせなかったのは、領主が第三者に討伐の依頼を行っていると知られたくなかったからだ。

「彼らが私達に不干渉だったのは、モンスターの討伐を受け続けてくれたからだと思ってます」

「言ってるこたぁ大体分かるんだがよ、全然わかんねぇんだ。どうしてそんな遠回りな事をする必要がある? 人手が足りなくて困ってるんなら直接話を付けた方が早ぇだろ」

 思わぬ親方の一言にセシリアがくすりと笑い声を漏らす。だからセシリアは彼の事が嫌いではない。

 親方の言った事は正しいし、もしそうしたならもっとスマートに事が運んでいたはずだ。でも、正しいだけでは上手くいかない事だってある。


「人手が足りていない事を知られるわけにはいかないんです。周りの領地に助けを求めたが最後、これはチャンスだとばかりに攻められる可能性すらありますから。それに、もし助けてくれるとしても足元を見られるのは間違いありません。領主には自分の領地で暮らす全ての人の生活を支える責任があります。弱みを見せるなんて選択肢はないんだと思いますよ」

 あの討伐の依頼は、人々の事を思うが故に助けが求められない状況で唯一他者に助力を乞える手段だったのだろう。

 実際、あの依頼は少し考えれば領主の物である可能性に至れる危険な物だ。

 それを承知で公募する度胸と誠実さは彼の人柄の一端を示しているのだろう。

「ん? じゃあ領主は何で今更俺達を呼びつけたんだ? 関わり合いにはなりたくなかったんだろ?」

 親方の言うとおり、領主は自由の翼と交流を持とうと思って居なかった筈だ。

 領主は依頼を出して、自由の翼はそれを黙々とこなす。裏では確かに繋がっていながら、表では何も知らない振りをする。その関係こそが最後の砦だったのだから。

 けれど、セシリアからすればそれは困るのだ。

 分裂してしまったギルドを元通りの関係に戻す為に、どうしても領主と契約を結ぶ必要がある。

 かといってセシリアが直接領主に掛け合った所で門前払いにされるのは目に見えていた。

 【将軍】に関する噂を流したのはこの状況を変える為に他ならない。


「問題はリュミエール軍が人手不足に陥った理由です。最近の事情を鑑みるに、オークの拠点が関係している可能性が高いと思いました。幾つか拠点を見つけて攻撃してるとか、逆に襲われて負傷者、戦死者が続出したとか、もしくは睨みあいを続けていて軍を動かせないとかで、点在する村の救援に回す人手が不足している。もしそうだとすれば、たった数人で【将軍】を倒したという噂を無視する事なんてできないはずです。場合によっては抱えている諸々の問題が一気に解決するかもしれないんですから。そりゃ危険を冒してでも召喚状の一通や二通は出しますよ」

 もしセシリアの予想が正しければ、領地を守る為に危険を承知の上で自由の翼の力を借りにくる。

「結果はご覧のとおり、見事に食らいついてきました」

 【将軍】に関する何かによって致命的な痛手を負っているのは確実という訳だ。

「ならどうして何も言わずにここを出ていくなんて言ったんだ? 交渉次第では俺たちにとっても得になるだろ?」

「始めは私もそのつもりだったんですけどね……」

 交渉の場に持ち込んだ時点で目的は果たしている。

 相手の状況も大体予測できたし、交渉に必要な対等、あるいはそれ以上の立場だと思い込ませることも出来た。


「でも交渉は長引くことになりますよ。彼らは自分たちが寛大な処置をしてきたと再三出張してきました。その上で私たちに誠意を見せてほしいと要求する腹積もりだったんでしょう」

 領主はただ善良なだけではない。領地の利益の為なら傲慢な要求も我が物顔で通そうとするだろう。

「別に私たちが引け目を感じる必要なんてどこにもないんです。金貨は本物でした。入手方法が特殊だったとはいえ、それを使って咎められる謂れはないし、街に滞在しているのだって出て行けと言われた訳でもない。彼らは終始、自分達の立場が有利な物であるかのように振る舞っていました。自分たちは善であり、そこに突然押しかけてきた私たちは悪であるが、条件次第では受け入れる事もやぶさかではない。その為に彼らが指定する方法で誠意を見せろ。ただし誠意に納得するタイミングは彼ら次第。表現は変えていますし、柔らかい態度で臨んでいましたが、要約するとこういう事です」

 隣の頑固そうな壮年の執事にも辟易したがグレゴリーはそれ以上だ。猫を被っているだけに性質が悪い。それがセシリアの抱いた感想である。

 素直に困っていますと言えない気持ちも分かるが、それにしたってあの要求は人を馬鹿にしている。

 それに、セシリアには交渉に時間をかけている暇もなかった。


 グレゴリーは長引く交渉の傍ら、優位を取れる情報を死に物狂いで集めるだろう。

 セシリアが王族でない事を知られれば捕らえられてもおかしくない。

 もし内部分裂している事が知られれば形成は一気に逆転され、ギルドを立て直す夢も潰える。

「あの手のタイプは陰湿です。目的の為ならどんな汚い手でも何食わぬ顔で使ってきます。領地を守るなんて言う大義名分もある事ですし、交渉をわざと長引かせておきながら、裏で商人に物を売らないよう手を回す"兵糧攻め"くらいはするでしょうね。流石に食べ物を抑えられたら私達に勝ち目はありません。だから彼が核心に迫るより早く、ここを立ち去る決意を嘘でも示す必要があったんです。すぐに居なくなる相手に嫌がらせをしても意味なんてないですから。ついでに、どちらが優位なのか身を持って知れたと思いますよ?」

 声高々にここを去ると宣言したセシリアだが、当然ブラフだ。離れる準備をするつもりなんて最初からない。

 一方、領主からすれば数日後には街を去られてしまう可能性がある以上、結論を急がざるを得ない。

 自由の翼の力を借りなければ領地を守れない状況へ追い込まれてしまっているとなれば選択の余地はなかった。次に会う時は必ず態度を軟化させる。

 セシリアからすれば結論を急かせる上に立場も有利になる、これ以上ないくらい理想的な一手(チェックメイト)だった。


 当初、両者の関係は平衡を保っていた。小細工なしに腹を割って交渉するつもりだったなら、セシリアもある程度リュミエールの立場を汲み取っていただろう。

 しかし領主は虚勢を張って自分にとって有利な展開へ運ぼうとした。自由の翼を蔑にするつもりならばセシリアも手加減はしない。

「一言で言えば気に入らなかったんです。こっちは命の危険を覚悟してモンスターを討伐しているのに、なんだかんだ文句を言って安く押し付けようとする態度が。ひとまず冷や水を浴びせる事には成功しましたし、今度は向こうが頭を下げてきますよ。そうですね、遅くとも今日の夜までには必ず。どうです、賭けてみません?」

 親方がセシリアの申し出を断ったのは言うまでもないだろう。

「とんでもない嬢ちゃんだな……。最近はユウトも小賢しい真似を覚え始めたが、こうならねぇことを祈るばっかりだ。一体どこでそんなもん覚えたんだ?」

「ネカマっていうのはいついかなる時も冷静で客観的な判断が必要になるんです。言おうとしてる一言が相手にどんな感情をもたらすのか、これって凄く重要な事なんですよ。自分の望む方向に感情を誘導する為に状況と言葉を巧みに選ぶんです。同じように、相手の言葉の意図も探ります。何を言って欲しいのか正確に読み取って褒めてあげる事で、自分の事を分かってくれていると思わせるんです。そうやって相手の心の中に自分の存在を強く意識させる所からネカマの朝は始まります。って、聞いてますか? ここ大事な所ですよ! 試験に出ますよ!」

 若干引いた様子で足早に進む親方へ甘え盛りの小猫の様に纏わりつきながら話し続ける。

「中には性別確認用の質問(テンプレ)をそれとなく投げてくる不届きな輩も居ましてね、勉強済みの質問はいいのですが、もし分からなかった場合、即興で上手にはぐらかす算段を長くとも3秒以内には纏める必要がありまして……って、ちょっと、何で耳を塞ぎますかね!」

 理解できない単語をそこかしこに散りばめながら騒ぐセシリアを、街の人々は不思議そうな顔をして眺めていた。




 成立しなかった賭けはセシリアの勝ちに終わった。




 陽も落ち、リュミエールに夜の帳が下りる頃、自由の翼の拠点に使っている屋敷へ黒塗りの馬車が静かに止められる。

 御者台の男が恭しく頭を下げる中、半日ほど前に分かれたばかりの領主と見慣れない歳若い執事が門を潜る。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

 まるで始めから来る事を予見していたかのように、白いドレスを身に纏ったセシリアが裾を摘んで優雅に一礼した。

 上流階級の女性貴族がそれなりの格式ある場で使う物だ。足の組み方も頭の下げ方も実に堂に入っている。

 グレゴリーとて馬鹿ではない。彼等が出来る事ならこの街に留まりたいと思っている事くらい察しが付いている。

 廃墟だったとは言え屋敷まで手配したのだ。無駄にするのが惜しいと思うのは当然だろう。

 しかし同時に、交渉の内容が気に入らなければすぐにでもこの街を立ち去ってしまう可能性もある。

 特に問題なのが少女が姫だとすると、一人の一存で進退を決められてしまう点だ。これでは近しい人間を懐柔し、議論を有利に進めるといった手段も使えない。

 正真正銘の一対一。事前に下手を打っているグレゴリーの立場はとても良いとは言えなかった。

「こちらへどうぞ。粗末ではありますが席を用意させて頂きました」

 一度は捨てられた屋敷だけあってそこかしこに痛みが見て取れるが、補修を行った形跡はない。

 それがあたかも、「こんな屋敷、ただの経由地点としか考えていません」と暗に言っているように思えて、グレゴリーは眉をしかめた。

 常識的に考えれば言い値で買った屋敷を使い捨てるはずがない。だが相手は王族。グレゴリーの持つ常識が通用する自信はなかった。

 弱気になっていることを頭の片隅で感じ気を入れなおす。状況が不利であれ、グレゴリーは出来る限りの事をしなければならない。この街の領主として。


 案内された部屋には護衛と思わしき厳しい顔つきの大男の他にもう一人、眩いばかりの金髪をした、社交界に赴けば令嬢が放っておかないであろう、やや整いすぎた顔立ちの優男が居た。

 セシリアという少女も少々常識外れの容姿をしているが、この優男にも同じ物を感じる。

 特筆して似ている訳でもないのに容姿が整いすぎているという共通点だけで兄妹のように思えた。

「どうぞお座りください。この度はわざわざ自由の翼に御足労頂き感謝致します。私の名はケイン。このギルドの代表を勤めさせて頂いております。以後お見知りおきを」

 貴族式の礼と共に微笑を浮かべれば、あたかも絵画の世界から飛び出してきた登場人物のようだ。

 まさに王子という表現がぴたりと合うな、という間抜けな考えが頭を過ぎったというのに、グレゴリーは少しも笑えなかった。

「さて、下賎な売女の身です故、あまり夜遅くまで続けると仕事に差し支えてしまいます。早速本題に入らせていただいて宜しいでしょうか?」

 後に続く少女の、昼間のやり取りを逆手に取った一言には頬を引き攣らせるしかない。

 もしロウェルではなくバースを連れて来たら一体どう反応しただろうかと考えたグレゴリーは、少しだけ余裕が戻ってくるのを感じた。


「昼間の様な実の無い話は止めましょう。単刀直入に言います。領主様が組織されたリュミエール軍は大量のオークと、それらを統率する固体によって身動きが取れない状態にあり、本来の領地を守る活動に支障が出ている。そうですね」

 一体このセシリアという少女はどこまでリュミエールの事を把握しているのか、空恐ろしくなる。

 開始早々から何のためらいも無く確信を告げる辺り、どことなく交渉を急いでいる印象を受けるものの、告げられた内容は恐ろしく正確だった。

 勿論、この情報は一切外へ出していない。街を守る軍が危機的状況にあると知られれば住民の不安を煽るばかりに留まらず、他の領地から狙われかねない。

 確信を突いた一言にどう答えるべきか迷ったグレゴリーだったが、迷ってしまった時点でもう認めたも同然だ。今更誤魔化しても何の特にもなるまい。

「その通りだ。ここ最近オーク達の動きが活発化していて、元の住処からリュミエール方面へ移動しているらしい。報告を受けた時には既に3つの拠点が作られ、押し返すには遅すぎたよ。今はラインを作って睨み合いと散発的な戦闘を続けているが、オークの数は日毎に増すばかりでね。最低限の兵を街に残して、後は全て防衛ラインの形成に当たらせているけれどいつまで耐えられるか……」

 オークがどうしてリュミエールにやってきたのかは定かではない。それを調べる人手が足りないのだ。

 刻一刻と増え続けるオークはそう遠くない未来に防衛ラインへ攻撃を行うだろう。極度の緊張が続いて精神的にも限界が来ていると言う報告もあり、押し返せるとは思えない。

 そんなグレゴリーにとって、少人数でかのオークの群れと統率する個体を倒したという話は最後の希望だった。

 多少の危険を冒してでも食いつかざるを得ないくらいには。




 あっさりと現状を認めたのは、それだけ切羽詰った状況に立たされているからだろう。

 どうやらオークは種族全体で大移動を始めているらしい。不幸にもその移動ルートにあったリュミエールの領地が襲われた。

 散発的に村を襲うオークはもしかしたら偵察か何かの尖兵かもしれない。

「そこでオークを退ける為に私の騎士を借りたい、という事ですね」

「この領地には沢山の無力な民が居るんだ。私は領主として彼等を守らねばならない。その為に力を貸して欲しい」

 頭を下げるグレゴリーを見てケインは複雑な表情をしていた。【将軍】の討伐には少なくない負傷者が出ている。

 内心助けたいと思いながらも、ただでさえ人数が減り危険が増しているメンバーに3つの拠点を潰して欲しいとは頼めない。

「申し訳ございませんが、私達も善意で危険に向かうほど余裕があるわけではないのです」

「分かっているとも。勿論報酬は支払う」

 グレゴリーが隣の執事に目で合図を送ると、鞄の中から取り出した数枚の紙を渡した。

 そこには今後村へ出没したオークを討伐したり、確認された拠点を制圧した場合に報酬を出す旨が書かれている。

 単位はオークの数。今までの報酬と比較すると5%程度の値上がりが確認できる。

 グレゴリーは圧倒的な不利を認め、それなりの、恐らく彼の経験からすれば破格のテーブルを用意した。

 だがまだ足りない。セシリアにとっての交渉はここからである。


「20%」

 たった一言を、それは素晴らしい笑顔で、セシリアが呟いた。

 勿論、5%の値上げを20%まで引き上げろという意味である。グレゴリーの顔色が渋く染まった。

「流石にそれは……」

「これまでの値段と値下がりの傾向から領主様が自由に出来る大よその金額は算出できていますが、聞きますか? これでも多少の余裕は見積もってあるつもりですよ」

 難しい、と言おうとした所に間髪いれずセシリアの追撃が飛ぶ。

 一番初めの金額が領主として出せる限界額だったと仮定した場合、その後の件数と減額分を計算する事で、領主の懐事情にどの程度の余裕があるかは簡単に逆算できる。

 勿論、現代の数学の知識があってこそだが。

 領主との会談が行われるであろう数時間を、セシリアとて無為に過ごしたわけではない。

 ケインへの礼儀作法の徹底、相手に突きつける条件の計算と、準備は抜かりなく進めてある。

「一応、見せてもらえるかな……」

 冷静を装っているが、グレゴリーの顔色は誰がどう贔屓目に見ても青かった。

 交渉には口出ししないでほしいと言うセシリアの要望からケインは何も言わなかったが、気の毒そうな視線を送り続けている。

 計算が得意なメンバーに作らせた財政事情の予測は、どうやら予想以上に当たっていたらしい。

 グレゴリーどころか、隣の執事まであからさまに固まっていた。




 思えば目の前の少女にテーブルを壊された段階で負けは決まっていたのだ。今更足掻いた所で過去の選択は覆らない。

 彼女達にはこの街を離れるという逃げ道があるのに対し、自分にはないのだ。

「分かった。この条件で受けよう」

 背に腹は帰られない。値上げの交渉にしても、グレゴリーが許容できる限界ギリギリのラインをぴたりと言い当てている。

 情報の収集能力も交渉能力も、今の自分達では太刀打ちできない。

 自嘲の笑みを浮かべ契約書にペンを走らせながら、寧ろ多少の余裕を見積もってくれた慈悲の心に感謝すべきかと思いなおした瞬間。

「まだサインは早いですよ。懐事情を鑑みて多少の余裕を見繕ったのですから、その分は他で回収させていただかないと」

 続く少女の一言によって、グレゴリーは無残にも頭を抱えさせられていた。

 元々仕掛けたのはグレゴリーからなのだから、今更反論する余地はない。もしこじれるようなら少女は条件を積み重ねるだろう。朗らかな笑みを浮かべながら、それこそ何の情け容赦もなく。

「その条件というのは……?」

 恐る恐る尋ねたグレゴリーに向けて少女は相変わらず満面の、天使のようだと比喩できる微笑みを浮かべているが、今は獲物に嬉々として鎌を振り上げる死神にしか見えない。

「全部で2つ。一つは全ての仕事を斡旋所に経由するのではなく、自由の翼へ直接渡して欲しいと思っています」

 大抵の事なら飲むしかあるまい。そう覚悟していただけにグレゴリーは小さな違和感を感じた。

 元よりこの契約を結んだ後は言われなくともそうするつもりだった。

 斡旋所を経由するのは手間が増えるだけではなく、第三者に軍の状態を知られるリスクが高まるだけで良い事は何一つない。

 彼らにとってもわざわざ斡旋所まで出向いてやり取りする手間を省けるのだから損はないだろう。

 にも拘らず、少女はこの項目を契約に含めようとしている。あれだけの大立ち回りをしたのだ。意味がないとは思えない。

 これは紛れもなく少女が始めて見せた小さな隙だ。だが、こんな条件に何の意味があると言うのか。

 それとも、疑問に思わせる事こそが彼女の思惑なのだろうか? 本当はもっと別の何かを隠すために転がした分かりやすい罠なのか?

 様々な思いが頭を巡る中、解答を得るべく頭を働かせる。

 ところが、少女の発した次の条件によって些細な問題を考える余裕は綺麗さっぱり吹き飛んでしまった。

「もう一つは私共が領主様に金貨をお支払いする代わりに、市場に流通している食材を代理購入して頂きたいのです」

 まさに開いた口が塞がらないという表現がこれ以上ないくらい符合する。

「それはつまり、私に金貨による取引を行え、という事かい?」




 セシリアが相手の懐事情ギリギリまで踏み込まなかったのは手心を加えたからではない。

 慈悲の心で20%に留めてあげたのだから、他に条件を追加する。寧ろこちらの方が交渉の本命といえる。

 特に一つ目の"全ての依頼は直接自由の翼へ行う"は重要な意味を持つ。

 グレゴリー相手に正面からこんな提案をすれば怪しまれるに決まっている。彼にとってはわざわざ契約として明言する必要性を感じさせないくらい当たり前のことだからだ。

 けれどセシリアには何としてもこの一文を契約書に書かせる必要があった。

 それからもう一つ。グレゴリーに金貨の取引を行わせる事も。


 セシリアの立場は仮初の物に過ぎない。この交渉がセシリアの有利に終わったとしても、グレゴリーは弱みを握る為に身辺調査を続けるだろう。

 時間をかけてじっくりと調べられればいずれ粗が見つかる。

 そうなった時、自分達の身の安全と契約を保障して貰うには、決定的な弱みを握っておかなければならない。

 自らが制限を貸した金貨の取引を、自らが行っていた事を照明する自筆の契約書。公開されれば制限を課された商人や貴族は黙っていまい。契約尊守の抑止力として働いてくれるはずだ。

 同時に、彼にとって非常に大きな意味を持つ契約を突きつける事で一つ目の条件に対する疑問から目を逸らさせる目的もあった。

 結果は成功と言っていい。グレゴリーは特に2つ目の要求に対し、言葉にならないほどの衝撃を受けている。

「この2つ。特に後者の、領主様の弱みを握る条件は必要不可欠です。何せ私達は領主様に比べれば塵にも等しい存在。仮に全ての拠点を潰したとしても"そんな約束はない"と言われるだけでどうにもならなくなります。約束を反故にされるリスクを犯すわけには行きません。金貨10枚を先にお渡ししますので、その代金分の食材を定期的に用意して頂きたく思います」

 グレゴリーが苦虫を噛み潰したような顔をする。頷くにはあまりにも重すぎる条件だった。

 とはいえ、セシリアには何を引き合いに出されたとても、この条件だけは外さない。

 なにせ王族の身分を騙って交渉しているのだ。並大抵の手綱ではバレたリスクに対抗できない。

 しかしグレゴリーにとって、この条件はリュミエールを裏から牛耳られる可能性を意味する。

 誰だって権力は欲しい。今はグレゴリーに従っている貴族達も、もし何らかの不祥事が見つかれば結託し、グレゴリーを降ろそうとするだろう。

 大事なのはきっかけだ。セシリアの提示する契約書は、事を荒立てる十分な火種になりうる。

「領主様。私達は領主様が約束を守り続ける限り、この事を内密にすると、誰の手にも渡らないと約束します。どちらにせよ、そう遠くない未来にオークはラインを超えるでしょう。そうなれば軍への被害は計り知れません。文字通り壊滅する事になります。それによって発生する人的損失と立場。領主様はどちらを選びますか?」

 グレゴリーは領主として見た場合、悪い人間ではない。私利私欲に走らないし、領地を守る為に努力を続けている事をセシリアはよく知っている。

 そんな彼に向かって人命と自分の立場、どちらが大切なのか問う。えぐいの一言に尽きるが、これが決定的な一言になった。

「……結局、領地を自分の手で守れなかった時点で、領主たる資格を失っていたという事か」

 グレゴリーの気の抜けるような笑い声が木霊する。しかしそれも一瞬の事。すぐに気を取り直した彼は追加された2つの条件をその場で契約書に書き足すと迷う事無くサインする。

「頼む、街を守る兵には守るべき家族もある。できるだけ彼等に被害が出ない形でこの件を収めて欲しい。私に協力できることなら助力は惜しまない」

 グレゴリーの手から契約書が離れる、セシリアはインベントリへと格納した。これで情報が出回る事もない。

「勿論。ただ、準備を整える時間を頂きたく思います。それから、可能な限りの情報も」

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