リュミエール-3-
陽が傾き山に沈み始めると、頭上に広がる空は紅と紺の壮大なグラデーションで彩られる。
合間に浮かぶ雲も燃え上がるような光を受けて薄紅色に染まり、やがて深い海の色にも似た濃紺の空に幾つかの星が煌き始める頃になると、5人は荷物を片づけて帰路につく。
リリーとユウトはすっかり意気投合した様子だ。長い影を平原に落としながら楽しそうな歓声が暗くなりつつある夜空へと吸い込まれていく。
訓練に使っていた場所はリュミエールのすぐ近くだ。
数分も歩けば街と平原を仕切る頑強な塀にぶつかり、退屈そうに欠伸を漏らす兵士が2人、目じりに涙を浮かべつつ巨大な門を守っている。
騒がしい5人組を羨ましげに眺める彼らに、揃って軽く手を上げる挨拶を交わしてから街の中へ滑り込む。
風の音しかしなかった草原と違い、街では仕事も終わり人が増える時間帯も手伝って、飲食店や食料品店の呼び込みがうるさいくらい飛び交っていた。
「おかえり、思ったよりも遅かったね」
突然、5人の隣から聞き慣れた声がする。
門の近くで帰ってくるのを待っていたセシリアが手と髪を揺らしながら駆け寄ってきた。
「本当はもう少し早く戻るつもりだったんだけど、思ったより熱中してさ」
「みたいだね。3人とも全身真っ黒だよ。これは先にお風呂入らないと」
実戦的な訓練をしていた3人は何度も転げまわったせいか、着ている服や肌は砂にまみれて見るからに汚れている。
体中に貼り付いた砂は暑い陽射しの下で流した汗に貼り付き乾燥しており、手で払っても簡単には落ちそうもない。
「動いた後の風呂は格別ってもんだ。ユウトもひとっ風呂浴びてから飯行くだろ?」
始めからそのつもりだった親方が背後でリリーと話していたユウトに尋ねる。
彼らも火の魔法を練習していたせいか腕や頬に煤が付いて黒く染まって汚れている。当然だとばかりに彼も頷き返していた。
「風呂?」
その傍らでやりとりを聞いていたフィアが会話に出てくる風呂という単語が理解できず、不思議そうに首を捻る。
「あー、風呂ってのはだな、要するに熱い湯を溜めた大きな容器と言うか」
「熱い湯を溜めた容器……。何かの料理か?」
なんとか言葉で説明しようとしていた親方だったが、アバウトすぎる上に段々趣旨が逸れていくせいで、2人は益々何の事だと首を傾げるばかりだった。
やがて限界を迎えたのか、或いは説明を面倒に思ったのか、
「まどろっこしい! 実物を見た方がはぇだろ、ほら来い!」
と叫ぶなりフィアの腕を半ば強引に掴んでギルドに駆けだす。
「親方!? って、危ねぇ! ぶつかるから、人に!」
夕方の混雑する時間帯だと言うのに、巨体ながら持ち前のAgiを活かして人混みを掻い潜っていく姿は圧巻の一言に尽きるが、引きずられているフィアにとっては迷惑この上ない。
通行人にも迷惑そうな視線を向けられ、時々謝罪の言葉を口にしているのが遠目に確認できる。
残された4人はご愁傷様とばかりに苦笑を浮かべつつ見送る事に決めた。
どのみちギルドで合流するのだ。無理に急ぐよりもまだ小さなリリーやユウトの足並みに合わせてゆったりと歩く方が良い。
何より彼らの関係者だと思われ、冷たい視線を浴びせられたくなかった。
「カイトはさ、お風呂どうするの?」
不意に隣を歩くカイトの袖を引いたセシリアが声のトーンを僅かに落として尋ねた。
「入るよ。そう心配するな、もう慣れたよ」
セシリアの深刻そうな物言いや表情とは正反対に、カイトは事も無く笑って見せる。
慣れ、という物が本当にあるのかは分からなかったが、無理をしているようには見えない。
「この間の一件でお風呂の時間を決める必要とかなくなったの。出て行った体面があるからか、こっちの施設を使うつもりも今はまだないみたいで、貸切なんだよね。だからもし気になるなら一緒に使う?」
「誘いはありがたいけど遠慮しとくよ。突然誰か戻ってくる可能性は否定できないし、人目が気になるなら誰も居ない時間帯に入るって手もある。一緒に風呂に入るくらいなら問題ないどころか歓迎だ。眺める分には妄想のネタになるしな。いや、やっぱ実物以上の資料はないだろ?」
「あぁ、そう。ほどほどにね……」
実に良い笑顔を浮かべるカイトに蔑むような視線を向けるが気にした様子はない。
リアルのカイトはその容姿のせいで面倒事に巻き込まれる事が多かった。
ネットゲームという現実の姿に関係なく過ごせる世界に入り浸り廃人と呼ばれるまでになったのもそう言う理由があったからだろう。
男の身体を手に入れた彼女はそういった煩わしさから解放されて嬉しくもあるのだ。
ギルドに戻った後、部屋に寄って入浴に必要な物を用意してから風呂場へと向かう。
入口に吊るされた赤と青のそれっぽい暖簾。筆を思わせる大きな漢字1文字。定番ではあれど、だからこそ感じられる懐かしい雰囲気には鍛冶師たちの拘りが感じられた。
セシリアは一体何日ぶりのお風呂だろうかと感慨にふける。
身体は熱めの湯に浸したタオルで拭けばそれなりの清涼感を得る事ができたが、髪を洗うには冷たい井戸水を被るしかなく、寒い思いを強いられた。
そんな旧時代の生活とも昨日でお別れ、今日からは温かな湯に浸かれる文化的な生活が幕を開けるのだ。
思わず赤い暖簾の前に立ち尽してしまったセシリアのすぐ右側。
青い暖簾の前にはカイトが変えの服とタオルを持って実に楽しそうに、ともすれば嫌らしいと表現できそうな顔をしてセシリアを眺めている。
「おい、いつまでそうしてんだ?」
ここに集まってからは早5分。暖簾をくぐるだけにしては長すぎる時間を過ごしている2人にいい加減痺れを切らした親方が憮然と尋ねる。
この辺りが限界だと、自然にセシリアとカイトの視線がぶつかった。
「襲うなよ?」
「カイトこそ、ゲームと現実を混同しないようにね?」
互いに牽制するかの如く作り物めいた笑みを浮かべて対峙している。
事の発端は、セシリアのすぐ後ろでおろおろと2人を見比べているリリーにあった。
ギルドにいた女性陣は全て引き払ったが、ただ一人、リリーだけは残っている。
久方ぶりのお風呂に浮かれていたセシリアは日頃からリリーを女性と意識していなかった事も手伝って完全に失念していた。
慣れていないお風呂を一人で使わせるわけにはいかず、かといって任せられる女性は誰一人残っていない。
結果的に中身はどうであれ一応は女性となっているセシリアが同行するしか手はなかった。
親方が痺れを切らした事が契機となって、ようやく暖簾をくぐる。
その先には枯れ草を編んで作った敷物が床一面にひいてあり、壁には四角く区切られた棚と木の皮で編んだ籠が並んでいた。
流石に体重計こそ置いてなかったが、いかにも昔ながらの銭湯といった風情である。
「服はここで脱いで籠の中に入れておくんです。向こうにお湯が湧いてますから、そこで身体を洗うんですよ」
不思議そうにきょろきょろと辺りを見渡すリリーの為に低い位置の籠を抜き出す。
それから自分用にもう一つ、隣の籠を用意してから、手本を見せるようにさっさと服を脱いでタオルを纏った。
「こんな感じで……って、」
籠を仕舞ってからリリーの方を向くと、彼女は説明を聞いているのかいないのか、呆けた表情でじっとセシリアを見入っていた。
さしものセシリアも戸惑っていると不意にリリーの口からため息が漏れる。
「お姉様、真っ白で凄く綺麗です」
村で家畜の世話をしていたリリーの肌は日に焼けて健康的なのに比べ、この世界に身体が出来てからまだ1か月と経っていないセシリアの肌は設定した時のまま雪のように白い。
あまり外に出る機会もなく、家の中に引きこもって家事をしていたのだから当然と言えば当然だ。
「そ、それよりリリーさんも早く脱いでください、この格好は寒いですから」
あまりにもじっと見つめられたセシリアが視線を逸らしながらたどたどしい口調で言う。
本当は寒いどころか見つめられている恥ずかしさで暑いくらいだったけれど、リリーには気付かれなかったようだ。
自分の身体を見るのには慣れたものの、人前で一糸纏わぬ姿になったことはない。
それが年下の女の子であったとしても、裸身をじっと見つめられる羞恥心は耐えられない物があった。
リリーが脱ぎ終わるのも待たずにセシリアはそそくさと風呂へ繋がる扉を開けた。
飛び込んできた白い湯気の感覚に先ほどまでの羞恥心さえ忘れて思わず嘆息する。浴槽には香りのいい材木を使っているらしく、森の香りが充満していた。
ようやく脱ぎ終わったリリーと一緒に浴室へ入ると湯気で霞む視界に不安を感じたのか傍に擦り寄ってくる。
大丈夫だと手を引いてまずは備え付けられている洗い場へ向かった。
慣れてきた視界で辺りを見渡すと浴室はかなりの広さがあるものの、溢れる湯気でかなり視界が悪い。
元々屋敷の部屋だったものを無理やり改造したせいで換気機能が足りていないのだろう。かといって壁についている真っ黒に塗りつぶされた窓を開ける気にもなれない。
蛇口を捻るだけで温水が出る高度な設備はいかに高レベルの鍛冶師といえど作れなかったようだ。
とはいえ、湯船に作られたレリーフの口から出るだけでも十分すぎるとは思うが。
やや温めに調整されたお湯を木製の桶で掬い取り、頭から盛大に被るだけでも心から洗われるような心地よさに包まれる。
嬉しさに思わずリリーの頭からお湯をかけると室内に小さな悲鳴が反響した。
少しむくれた彼女がお返しとばかりに浴槽のお湯を手で掬い、セシリアに向かってかける。それからしばらくの間、黄色い歓声と共にお湯の掛け合いが始まった。
息が切れるまで楽しんだ後、2人は身体を洗うべく洗い場へ戻る。タオルで拭くだけに留まると思いきや、洗い場には幾つかの四角い固形物が並べられていた。
どうやら錬金術師は石鹸まで作りあげたらしい。リリーは次から次へと泡が出る物体を見て興味津々といった様子だった。
「舐めたりしたらダメですよ、お腹を壊しますから」
指先に纏わりついたふわふわの泡を口元に運ぼうとしてしていたのを寸での所で慌てて止める。
残念そうにしながらもまだ興味は尽きないのかしげしげと眺め、可愛らしく首を傾げた。
「初めて見ました。これ、一体どんな物なんですか?」
「んー、身体を清潔に保つ為の道具です。木の灰でお鍋を洗ったりしますよね、あれの人間用みたいな感じかな? ……多分」
石鹸を工業的に生成するには苛性ソーダ、いわゆる水酸化ナトリウムを製造できるようにならなければならない。
魔法が主体で科学の発展が遅れているこの世界ではまだ普及しておらず、目にする機会もないのだろう。
聞きかじりの知識を不意に思い出した瞬間、セシリアは思わず石鹸を取り落していた。
「お姉様……?」
床に転がった石鹸を拾って渡そうとしたリリーが何故か身動き一つせず固まっているセシリアに戸惑った様子で声をかける。
だが当のセシリアは拾われた石鹸に目もくれず、洗い場のさして広くもないスペースを見渡していた。
置かれていた石鹸の数は8個。型で作ったのか、どれもこれも同じ形をしている。
「もしかして量産できるとか……? いや、それ以前に苛性ソーダが作れるならもっと他にも……」
「お姉様」
今度は先ほどより強い口調で名前が呼ばれる。
「あっ、ごめんなさい」
ようやく差し出された石鹸に気付いて受け取りながらも心はどこか浮き足立っていた。
プレイヤーの中には元の世界で専門的な役職についていた者もいるはずだ。
元の世界とこの世界とでは技術水準に大きな隔たりがあるとはいえ、石鹸のように再現できる技術はあるかもしれない。
いや、再現できなくとも、発達した科学知識や業務知識は使いようによって利益を生み出す事も出来る筈。
もしかしたら財政難を救う一つの手立てになるかもしれない。
「それはさておき、背中を流しますからそこに座って背を向けてください。……後、できればタオルで前は隠してほしいと言うかなんというか……」
難しい事は後で考える事にして気を取り直す。目の前で立ち上がったリリーから目を背けつつ口ごもるが、前半部分しか聞こえていなかったらしい。
言われるがままに用意された椅子に腰を下ろした所で「何か言いましたか?」と振り返る。
「いえ、なんでもないです。冷たかったらごめんなさい」
泡だらけになったタオルで優しく背を擦ると擽ったそうに身を捩る。その姿がいつかの記憶と重なった。
「……私にも妹が居るんです。もう随分と前ですけど、こうしてると一緒に入ってた頃を思い出しますね」
まだ元の世界に居た頃の、今から何年も昔の記憶だ。
母親は忙しい人で遅くまで帰ってこない時もままあり、妹の世話をするのは"お兄ちゃん"であるセシリアの役目だった。
ホラー漫画の影響で一人でお風呂に入るのを怖がり、10歳くらいまでは一緒に入って欲しいとせがまれたのを覚えている。
「妹さんですか……。どんな方なんですか?」
「ん……。よくできた妹だとは思いますが、ちょっと我が儘、かも」
寂しい思いをさせまいと幼少の頃から何かにつけて過保護に接したせいもあるのだろう。
でも、色々な事があって引きこもってからもずっと、何一つ変わらずに接してきてくれたのは妹だけだ。
「是非会ってみたいです」
何気ないリリーの一言を聞いた瞬間、不意に強烈な寂寥感が胸に溢れてくる。
今頃は何をしているだろうか。夕飯を作ってやれなくなったがちゃんと食べて居られるかだろうか。ちゃんと元の世界に帰れるのだろうか。
そもそも、帰る手立てなどあるのだろうか。元の自分に戻る事ができるのだろうか。もしかしたらずっとこのまま……。
慌てて嫌な思考を振り切る。そんな事を考えても意味なんてない。もしもを考えるより今できる事をしようと、宿屋の硬い床の上で誓ったのだ。
今は味方が一人もいなかったあの時よりも事態が好転している。悲観する事なんて何もない。
「お姉様、どうかしましたか?」
「……ううん。なんでもないですよ。凄く遠い故郷に居るんですけど、機会があれば是非会ってやってください」
背をまんべんなく洗い終えるとお湯をかけて泡を流す。これで一段落かと思いきや、唐突にリリーが身体ごと振り返った。
なだらかな曲線や日に焼けていない白い肌が目に飛び込んできて、思わず目を背ける。
それがあまりにも露骨だったせいかリリーが沈痛な表情に変わった。
「あの、もしかしたら気のせいかもしれないですけど、お姉様は私の事お嫌いですか……」
「そんな事ある訳ないじゃないですか」
「でもさっきからずっと私を見てくれないです……」
セシリアの白々しい言い訳は何の効果もなかった。
勿論それはセシリアが内面的には男であったが為に、気を使った反射的な行動だったのだがリリーは知る由もない。
この身体が作り物である事も、中身が男である事も現地の人間であるフィアとリリーには話していない。
話しても理解されないだろうし、身体がセシリアの物である以上余計な混乱をきたすだけだ。
それになにより、最初から女性として接していたのに、今さらカミングアウトする勇気もなかった。
「見ても良いんですか?」
ここまで来たら後はもう開き直るくらいしか手はない。
悲しそうな顔をしていたリリーに正面から逆に聞き返す。キャラを演じるのはもう慣れっこの筈なのに今回ばかりは恥ずかしさが抜けきらない。
「ダメな理由なんてあるんでしょうか」
逆に聞き返されたセシリアが言葉に詰まる。それはそうだ。同性同士のリリーにとって見られて困る物ではない。
それならば、と彼女の身体を半ば抱きすくめるように腕を伸ばした後、吐息が耳に触れるくらいの至近距離で囁いた。
「言ったじゃないですか、私は女の子が好きなんですよ? そんなに無防備だと悪戯しちゃうかもしれません」
慌てるか怖がられた所で冗談っぽく流して空気を換えよう。
そう思いながらトドメとばかりに普段は滅多に浮かべるのことのない妖艶な笑みを作って見せた。
が、リリーはセシリアの期待した反応を見せる事なく不思議そうな顔をしている。
想定外の無反応を前に羞恥の炎がセシリアの胸を焼いた。冷静に考えれば12歳の彼女がこのやり取りの意味を理解できるとは思えない。
今頃になって何をしているんだろうと頭を抱えたくなる。お風呂で小さな子相手にこんな事をしていたと、もしカイトに知られたりしたら……自殺するしかない。
「ごめんなさい、なんでもないです、全部綺麗さっぱり水じゃなくてお湯に流して忘れてください」
平身低頭謝る姿を見て、リリーも悪気があった訳ではないと理解したようだ。ふっと表情が和らぐ。
「良かったです……。あの、背中ありがとうございました」
ようやく誤解が解けたとできるだけ目だけを見るように努めていたセシリアに向かって頭を下げた後、
「良かったら、前もお願いして良いですか」
風呂場の暖かい空気を一瞬で凍りつかせた。
「ありがとうございました」
「お粗末さまでした……」
清々しささえ感じる笑みを浮かべたリリーとは対照的に、セシリアは疲れ切った顔をしている。
流石に前は自分で洗う物ではと断ろうとしたが、リリーは「兄様は洗ってくれました」と引かない。
それはそれでちょっとフィアに一言物申したい気分にさせられたりもしたが、先ほどのやり取りの手前どうにも断りにくい。
結局背後から抱きしめる形で洗うと言う荒業で彼女の機嫌を取りつつ、自分で定義した超えてはいけない領域を半ば言い訳に塗れながらも守り通した。
「私は身体を洗いますから、リリーさんは先に湯船に入っていてください。暖かくて気持ちいですよ」
先の抱き洗いのせいでもう他人の裸身を見る事に関してはどうでもよくなっていた。
邪な感情を抱いている訳ではないのだから、文句があるならこの状況を作り出した何か、例えるなら神様にでも言えばいい。
「リリーさんがまだ子どもで助かりました……」
「はい……?」
リリーは思わず漏れたセシリアの本音に首を傾げていたが、もし彼女がセシリアと同じくらいか、それより少し高かったなら逃げ出していたかもしれない。
一度タオルをゆすいでから再び石鹸で擦っているとすぐ近くでリリーが覗き込む。
「やってみますか?」
終ぞ自分で身体を洗う機会がなかったリリーは嬉しそうにタオルを手に取るとわしゃわしゃと泡立てて行った。
「もし良ければ私が洗っても良いですか?」
背中は自分では洗い難いし、ここで断るのも変だろうと、セシリアはその申し出を有り難く受ける事にした。
背に流れる長い髪を持ち上げ、2つに分けて首筋から前に流す。洗いやすい様に少しだけ丸めて椅子に腰かけると床に膝立ちになったリリーがタオルを這わせる。
村で仕事を手伝っているだけあって力は弱すぎず丁度いいものの、タオルからはみ出した細い指が脇腹や首筋に触れると、くすぐったさに身悶えそうになる。
狭い背を洗うのにそう時間はかかるまい。どうにかして耐え忍んでいると案の定、終わりましたと声が届いた。
丸めていた背を伸ばしてお礼の言葉を言うべく振り返ろうとした瞬間にリリーが正面へとやってくる。
「それじゃこっちも洗いますね」
「え、あ、ちょっと!?」
止める間もなく腹部を擦られて思わず甲高い声が漏れる。
「待って、ちょっと待って!」
「お姉様、洗えないですから暴れないでください」
制止の言葉もなんのその、遠慮の欠片もなく、けれど優しい手つきでタオルを動かすリリーの手を滑る石鹸の泡にてこずりながらもどうにか捕まえる。
「いい、いいです! 自分で出来ますからっ!」
けれど、そう言って素直に聞いてくれるリリーではなかった。
彼女はきっと、何の他意もなくされて嬉しかったから返そうとしてくれたに違いない。
くすぐったさに笑いながら洗って貰うのも、彼女にとってはスキンシップの一種でしかない。
だというのに、幾ら余裕がなかったからと言ってこうもはっきり拒絶すればショックを受けるに決まっている。
「あー、いえ、その……。やっぱり洗ってくれると嬉しいです。お願いできますか……」
泣き出しそうな小さな女の子に勝てる理論なんて、多分ないとセシリアは強く実感していた。
まな板の上の鯉の気分とはつまりこういう事である。
この諺の由来は水中の鯉を捕まえようとしても激しく抵抗するが、一度水から上げると大人しくなる所から来ている。
鯉としては大人しくするつもりなどないのだろうが、えら呼吸の彼らにとって水の外は首を絞められているのとそう変わらないのだから大人しくもなる。
「お姉様、気持ちいいですか?」
「……丁度いい、です」
リリーは身体を洗う最中に何度も話しかけてきた。もし無視するようなことがあれば悲しませかねないので思考の海に溺れ、鋭敏すぎる肌を這う感覚を忘れる事も叶わない。
「隅々まで全部洗いますから、任せてください」
「ほ、程ほどにお願いします」
おまけに先ほどから言葉の選択がまるで狙っているかのように研ぎ澄まされていた。
勿論ただの偶然なのだが、小さな女の子に気持ちいいか尋ねられながら身体を擦られるのは一体どこの国の拷問だろうか。
遠慮の欠片もない攻めは宣言通り身体の隅から隅を過剰なほど這いまわり、時折押し殺した吐息や殺しきれなかった甲高い声が漏れる。
それに気づいているのかいないのか、せっせと無自覚な拷問を続けているリリーの表情は実に生き生きとしていた。
中でもリリーにはまだできていない胸にある2つの膨らみが気になるのか、タオルから外した手でそっと包み込んでからやんわりと力を籠める。
「あの、リリー、さん……?」
流石にそればかりは看過できず、今にも泣き出しそうな顔でリリーを睨むが、虚勢を張る子猫の様で全くサマになっていない。
それどころか、リリーはセシリアの視線と呼び掛けに気づきもしていなかった。
「私も成長すればこうなるんでしょうか」
「なりますから、成長した自分ので楽しんでください……」
触れている、というには大胆かつ力の入りすぎている手を払うと腕を組んでガードする。これ以上は、いや、今でさえ自分で定めた領域の線を踏んでいるか、超えているかの瀬戸際だ。
「もう洗い終わりましたよね! 早くお風呂に入りますよ! 風邪ひいてしまうと大変ですから!」
身体中について白い泡を押し流すべく、同時に何もかもを忘却の彼方に捨て去るべく頭から熱い湯を幾度も被る。
リリーは名残惜しそうにしていたが立ち上がったセシリアに手招きされ、すぐに後を追った。
ゆすいだタオルで髪を上げてから6畳ほどの広さを持つ湯船に浸かると2人の体積と同じ分だけお湯が溢れる。
熱い湯が好きな人には物足りない温度かもしれないが、セシリアに取っては丁度良かった。久々に浸かれた湯の心地よさに思わず恍惚の吐息が漏れる。
「暖かくてふわふわします。水とお湯でこんなに違うんですね」
リリーも初めてのお風呂にまんざらでもない様子だ。心地よさそうに目を細めている。
が、いかんせん小さなリリーの背丈に対して風呂が深かったようだ。端に用意されている段差に座ると鼻まで浸かって息が出来なくなってしまう。
セシリアは仕方なく膝立ちしていた彼女を手招きすると身体を抱えて自分の膝の上に座らせた。
背を預けながら力を抜いて弛緩しているリリーを見て、ようやくのびのびと湯を堪能できる。
そう思っていた所に突然、湯船と脱衣所を隔てる引き戸の開く軽い音が響いた。
まさか誰も居ないと思って男が入ってきたのかと咄嗟に声を上げる。
「誰ですかっ」
「ありゃ、先客さんがいらしたんですね」
しかし聞こえてきたのは甲高い女性の声。思わずほっとするが、湯煙の向こうに見えた顔を見てセシリアが固まった。
「貴女は……」
それは向こうも同じだったようで、湯船に浸かるセシリアを見て目を丸くしている。
「あの、これはなんていうか、こっちに入るしか無かったって言うか、確かに時間調整はしてなかったんですけど、女性が皆居なくなったって聞いたからであって……」
人影は2人。しどろもどろになって言い訳を垂れ流すセシリアは彼女達に見覚えがあった。何せつい最近ジェネラルオークに捕まっていた所を助け出したのだから。
2人はプレイヤーで、セシリアが有名なネカマプレイヤーであることを知っていてもおかしくない。悲鳴の一つくらい上げられても文句は言えなかった。
いや、それだけではない。今のセシリアの腕の中には小さな女の子まで居る。状況は最悪以外に表現のしようがない。
裸身を惜しげもなく晒している2人がすっと息を吸い込むのが見えた。
慌てて目を逸らしながら降り注ぐであろう罵倒の言葉に身構える。
「あの時は助けてくれてありがとうございました」
けれど、風呂場に響いた言葉は、セシリアの予想と正反対のものだった。
左右にはセシリアより幾つか年上の少女が、前には膝に腰掛けているリリーがおり逃げ場は何処にもない。
どうやら2人はセシリアがネカマだと知らない様子だった。
あの暴露イベントはそれなりの初速で知れ渡ったようだが、掲示板やその手の話題が好きな人でなければ知らない人だって当然居る。
が、それはそれでとてつもない罪悪感と居心地の悪さが襲ってきた。
今ここでネカマである事を正直に白状するべきか。いや、無理だ。そんな事をしたら反射的に魔法の1つや2つくらい飛んできかねない。
せめて2人を見ないように縁へ頭を預け、天井を眺める事に徹する。
「ジェネラルオークの事もお詫びしないとって思ってたんです」
「ごめん、倒れてるアイツ見たら我慢できなくて……」
「仕方ないですよ。立場が逆なら、きっと私もそうしていましたから」
2人はまだあの時の事を引きずっている様だった。
気にしないでもいいと幾度も言っているのだが、もしかしたら誰も責めない雰囲気が逆に余計な負担をかけてしまっているのかもしれない。
セシリア達にジェネラルオークを殺すつもりは無かった。
ポータルゲートを使った戦略、ゲーム内の情報を考えるとジェネラルオークは人の言葉を理解できるくらいの知能を持っている。
事実、捕まっていた2人も幾度かオークと会話した事があると話していた。
最近頻発しているオークの出没や、他にも同じような拠点があるのか、あるなら何処にあるのか、知りたい情報は山ほどある。
多少手荒な真似をしてでも知っている情報は全て吐いて貰うつもりでいたのだ。
けれど、制圧が終わり話を聞こうとセシリアが近寄るより早く、保護した魔術師の少女がジェネラルオークに止めを刺してしまった。
2人の境遇を考えれば無理もない。目の前に何度殺しても足りないくらい恨んでいる仇敵が居て、自分の手に相手を殺せるだけの武器があれば誰だって引き金を引くだろう。
恨みと喜びと虚しさが入り混じった空虚な瞳で燃え盛るオークを見て嗤う彼女を責める事なんて出来ない。
「ですから私達に何かできる事があればと、ギルドの活動に参加させて貰う事にしたんです」
レベル80台のプリーストとウィザードのコンビは戦力が低下したギルドにとって有り難い戦力だ。
ギルドの資金を使って娼婦に現を抜かす一部のプレイヤーに聞かせてやりたい決意だったが、あんな事があった後に戦闘へ参加させるのは抵抗もある。
結局はケインから療養を言い渡されており、てっきり女性達と一緒に向こう側へ移った物とばかり思っていた。
「私達を助けてくれたのはこのギルドですし、その……貴女もいると聞きましたから」
意味深な一言を告げると寄り添うように密着される。
先程から明らかにお風呂のせいではない汗をだらだらと流していたのだが、遂に色々な物が臨界点を突破した。
「えっと、のぼせそうなのでお先に失礼しますっ!」
リリーごと一気にお風呂から上がると駆け足でお風呂場を後にする。残された二人は顔を見合わせて不思議そうに首を傾げていた。
何かに追いたてられるかのごとく急いで着替えて自室に戻るとようやく安息を得られる。
が、こんなものは所詮現実逃避だ。
2人には近い内にネカマである事を教える必要があるわけで、その時の反応を考えると今から気が重い。
「お姉様」
布団の上で未来を憂いていたセシリアのすぐそばにリリーが擦り寄る。
「お風呂楽しかったです。また一緒に入りましょうね」
満面の笑みでそう告げるリリーに複雑な顔をしたセシリアが掠れた声で言った。
「お風呂怖い……」
「頼む、これも全てあいつの為なんだ。兄のような立場の俺が言うんだから間違いない、今度こそ必ず反応する。多少過激なくらいじゃなきゃダメなんだよ。寧ろこれで反応しなかったらもうどうすればいいのか!」
何もかもが曖昧に思える思考の片隅に、誰かの力説が聞こえてくる。
それがカイトの声だと気付くのに少しばかり時間が掛かった。
内緒話をしている様な囁き声なのに熱が入っているのか声は大きく、寧ろ目立つ。
あんな事があっても久しぶりのお風呂で身体は暖まり、リラックスできたようだ。セシリアはいつの間にか寝入ってしまっていた。
「分かった、俺に任せてくれ!」
眠り眼を擦りながら身体を起こすとフィアの心強い返事が聞こえてくる。
欠伸をしながら身体を伸ばして目を開けば既にカイトもフィアもお風呂から上がって帰ってきたようだった。
髪がまだ濡れている所を見るに、あまり時間は経っていないらしい。
急がなければ夕食の時間に遅れてしまうと、ベッドから降りたセシリアにフィアが立ち塞がる。
「どうかしたの?」
何か言いたげなフィアを見上げると、突然セシリアに腕を伸ばしふわりと抱きしめた。
「風呂上りのセシリアって言い匂いがするな」
首筋に風呂上りでまだ暖かな肌が触れる。一瞬身を硬くしたセシリアだったが、すぐに大声を上げた。
「思い出した! これって石鹸の匂いだけど、もしかして香料まで配合してるの? ちょっとケインと話してこないと!」
抱きしめられたままの体勢で何の抵抗もないどころか、思い出させてくれてありがとうと笑っているセシリアにフィアもカイトも呆然としていた。
それどころか逆にセシリアの方がフィアに密着して鼻を鳴らす。
「セシリア、目の前の状況に何か言うことはないのか……?」
「あ、うん。フィアのこの匂いって石鹸だよね? 男湯にもあったの?」
期待していた反応とまるで正反対どころか斜め上を行く疑問にカイトは反射的に答える。
「あったけど、それが何か……」
「やっぱりあったんだ! じゃあ作るのは難しくないのかも!」
訳も分からず今にも飛び跳ねかねない勢いで喜んでいるセシリアにカイトは益々首を傾げた。
「だから、一体何の話をしてるんだ」
「資金難を解決する方法だよ。材料が無くて採算合わなそうな物は作れないって言ってたでしょ? この世界に石鹸ってないみたいだし、量産できれば売れるかもしれないよ」
「あぁ、なるほど。そうか、こっちの世界にはまだ生まれてない便利な物があるかもしれないのか」
ようやく言っている意味が理解でき、思わず何度も頷くが、そもそもこんな話をしていただろうか。
「って、違ぇよ! フィアに何か言う事は!?」
「ごめん、夕飯前には戻るから!」
その質問には答えず、セシリアは小さな体躯を活かしてフィアの腕からするりと抜け走り出す。早速ケインに話をしに言ったのだろう。
残されたカイトは閉まった扉とそのままの格好で立ち尽くしているフィアを見て嘆息する。
「正直、セシリアを侮ってたな」
セシリアは30分もしないで戻ってきた。
「何かあったのか?」
咄嗟にカイトが声をかける。出て行ったときのような喜びではなく、真剣な表情をしていたからだ。
「これがケインのところに届いたって」
セシリアの手に握られていたのは手紙だ。召喚状と書かれた封筒の中には簡素な挨拶文と日時、サインと判らしきものが押されている。
時間は明後日の朝9時。自由の翼の責任者にリュミエール中央の領主邸まで来るようにとある。
「半分は賭けで、無理ならもっと別の方法を取る必要があったんだけど、ちゃんと食いついてくれたみたい」
召喚状は街の権力者が何らかの事情聴取を行う時に発行する書簡だ。無視すれば逮捕拘束されても文句は言えない。
「そこに私と親方の2人が行く事になったから」
てっきり自分も呼ばれるだろうと思っていたカイトが不満そうな顔をする。
「歓迎会って雰囲気じゃないんだろ? 2人で大丈夫なのか?」
「うん。あんまり大人数で行っても印象は良くないし、カイトは強いんだけど見た目のインパクトに欠けるから。ごめんね」
プレイヤーの大部分はアバターをゴツイ大男にするよりかは御伽噺に出てくる王子様然とした物を作る傾向にある。格好良くはあっても迫力があるとは言えなかった。
その点親方のアバターは殆ど選ばれないスキンヘッドに凶悪な面、筋骨隆々の身体と威圧感に満ちている。
「あ、でもね、明日朝一番に手伝って欲しい事はあるの」




