監禁
目を開けたセシリアは木目の広がる天井を見て先ほどの出来事が悪い夢に過ぎなかったのだと安堵した。
自分はあの偉丈夫な老人が経営する宿屋の一室で気疲れして悪夢を見ていたに違いない。
靄のかかったような頭を振り払いつつ水でも飲もうと上半身に力を入れる。ところが何かに引っかかっているみたいで上手くいかない。
訝しげに首だけを上げて身体を見下ろすとベッド四隅に繋がれた鉄鎖が視界に映る。
対となる輪はセシリアの四肢に1つずつ繋がれていた。
寝惚けていた意識が一瞬にして覚醒する。あれは夢なんかじゃなかった。力任せに鎖を引っ張ったところでStrが初期値のセシリアに断ち切れるはずもない。
半狂乱で鉄の擦れる不快な金属音を響かせていると部屋の片隅に備え付けられた扉が押し開けられ誰かが顔を覗かせた。
「やっと起きたのかよ」
聞きなれない声に目を細めつつ、不自由な上半身を限界まで起こして視線を向ける。
薄ら寒い笑みを浮かべながら近づいてくる男の顔には見覚えがあった。かつて【ワイルド・キャット】の討伐を妨害してきたパーティーメンバーの一人だ。
それだけで自分の置かれている状況がどれほど鬼気迫るものかを理解する。
ヤケになって何度も鎖を鳴らすが、しっかり施錠されているうえに作りも頑丈で外れる気配はない。
男はそんなセシリアの無駄な足掻きを止めるでもなく愉快そうに眺めていた。
「そのなりでネカマなんだってな。リーダーの怒り狂いっぷりと言ったら、見せてやりたいくらいだったよ」
嗜虐的な独白を無視して辺りに視線を配り何か脱出する方法がないかと模索する。
ベッドの反対方向にドアが備え付けられているだけで家具はおろか窓すら用意されていない。
どこかの宿屋なのか、空き家なのか、間取りはセシリアが寝泊りしていたところよりずっと広いが生活感らしきものは感じられなかった。
扉近くの壁に取り付けられた小さな油ランプだけ唯一の光源で、頼りなく揺れる炎に浮かび上がる室内は隅が見通せないほど薄暗い。
拘束された状況も相まって陰鬱な雰囲気をこれでもかと醸し出していた。悪魔召喚の儀式部屋と言われても素直に信じられる。
「ま、今となっちゃネカマもクソもありはしねぇんだけどな」
男は一人ごちに呟きながらセシリアの脇へ歩み寄ると無骨な手を伸ばす。
触れられると思った瞬間、セシリアの口が咄嗟に動き真っ白な光を生み出すと無防備な男を弾き飛ばした。
光属性の単体攻撃魔法【スターライト】。元から攻撃が不得意な支援職が使える攻撃手段の中でも最弱。
小突く程度の威力しかないと嘆かれた魔法の威力はこの世界でも大して変わらなかった。
多少は怯ませられたようだけど猫騙しに近い。この隙に覚えている中でも最高位の攻撃魔法を放とうと意識を集中する。
この世界にも詠唱時間の概念はあるようだった。
身体から抜けた力が少しずつ形を成していくのを何となく感じられるものの遅々として進まない。
「ってぇな!」
セシリアの魔法が完成するよりも、スターライトの衝撃から回復した男が復帰して華奢な首を捻る方が早かった。
息苦しさに暴れた瞬間、集まりかけていた力が呆気なくも霧散してしまう。
ダメージによる詠唱中断。意識を集中できなくなってしまった時点で完成していない魔法は全てゼロからやりなおしを迫られる。
目の前の男がもう一度その隙を与えてくれるとは思えない。
酸欠により意識が遠のき始めたところで首を絞めていた手が離れ、セシリアは激しく咳き込む。
四肢を拘束されているせいで自由に動けない身体はいかにも苦しそうだった。
一思いに殺すつもりがないのか、他に有効活用しようと考えているのか、どちらにせよ、死ぬより辛い目に合わされる可能性は否定できない。
男はその間にセシリアへ再び手を伸ばすと、薄ら笑いを浮かべたまま魔法の詠唱に入った。
手足を拘束され、苦しみに喘いでいるセシリアに男を止める術はない。
完成した魔法は濃い紫色の禍々しいオーラを生み出し、男の手を幾重にも取り巻いた。
薄暗い部屋がほの暗い紫色に染まる。先ほどより明るさを増したはずなのに陰鬱さはより一層高まっていた。
「なに、それ……」
不気味な魔法を前に警戒の目を向けるセシリアを無視して男はひとりごちに愚痴を呟く。
「ったく、なんで俺がこんな面倒臭い真似しなきゃいけないんだか。あいつらは遊んでるってのに、分け前増やして貰わなきゃ割にあわねーよ」
ネカマとして積極的に直結の相手をしていたセシリアは一見すると怖いもの知らずで無敵にも思えるのだが、そんなセシリアにも関わりたくない相手がいた。
誰かに迷惑をかけることを、不快な気分にさせることを生き甲斐にしている手合いだ。
目の前の男達はその最たる例であり、ゲーム内でも出来ることなら赤の他人を貫きたかった。
ところがセシリアの容姿を気に入ったリーダー格の男にうんざりするくらい付き纏われ、そのしつこさと悪質さには随分と閉口させられたものである。
そんな相手がセシリアのことをネカマだと知り激怒している。まして今の自分は四肢を拘束され逃げることもできない。
「私を、どうするつもりですか」
彼らの悪意は度が過ぎるほど陰湿だった。拷問の一つや二つされかねない恐怖に声が震える。
「さぁてな。リーダー次第じゃね? もうすぐ帰ってくるらしいから知りたきゃそん時に聞けよ」
男の態度からは恨み辛みといった感情を伺えなかった。個人的に興味がないのだろう。異世界で一人になるのが怖いからなんとなく元の集団に付き従っているといったところか。
自力での脱出が望めない以上、希望があるとすればこの男だけ。ネカマとして騙した記憶もないので恨まれているわけでもなさそうだ。
言葉巧みに誘導できないものかと思い、まずは良心に訴えかけてみる。
「こんなの監禁と同じです。発覚すればあなたも無事じゃ済みません」
男はそれを黙って聞いていた。少しでも後ろめたさを感じてくれているのであれば説得できるかもしれない。
「今ならまだ……」
「あのさ、何言ってんの?」
ところが男は肝心の言葉の途中で呆れたように口を挟んだ。
「この世界に警察なんていねーんだよ。ルールを押し付ける目障りな奴等もな。いいか、ここじゃ俺らがルールなんだ。クソネカマの分際で俺に命令なんてしてんじぇねぇよ」
薄ら寒い笑みを口に張り付け、据わった瞳をじぃっと向けてくる男からは人間らしさというものが微塵も感じられず心の底から震え上がる。
彼はセシリアのことを同じ存在だと、人間だと思っていない。
異世界にやってきて、現実とはかけ離れた力を手に入れて、全能感に溺れてしまったのだ。あるべき倫理や常識なんて露ほども残ってはいまい。
不気味な色を纏う腕がゆっくりとセシリアに向かって伸ばされる。か細い悲鳴を上げながら身を捩るがすぐに鎖が伸びきりそれ以上動けなくなってしまった。
「あは、あんたホントにネカマだったのか? 随分と可愛らしい反応じゃん。それとも誘ってるわけ?」
くつくつと不気味に笑いながら男の指がスカートに触れる。
「さっきまでの威勢はどうしたんだよ。ま、無理もないか。でも安心しろよ、俺は何もする気ねーから。やっぱ女は巨乳に限るっしょ」
軽口を叩きながら男はスカートから視線を外し、拘束されていたセシリアの腕に触れた。
途端に薄紫色の文様が浮かびあがり、まるで氷を押し付けられたかのような冷たさが全身を包んでいく。
「【魂吸収】くらいお前も知ってるだろ」
魔術師系の最上位職の一つでもある呪術師や、悪魔系モンスターの一部が使用可能なスキルだ。
対象に接触している限り継続的にMPを吸収し、一定の割合を自分のMPに換算する効果を持つ。
レイドコンテンツの上位ボスは一撃一撃にこのスキルが設定されていることもあり、魔法職のセシリアも随分と苦しめられた覚えがある。
身体の中に満ちていた活力を無理やり奪われるような感覚はゲーム時代にはなかったもので、思わず短い悲鳴を漏らしていた。
「魔力さえなけりゃお前なんてそこらのNPCと変わらねぇからな。逃げられても困る、傷つけても商品化に差し支えるってんで、わざわざ俺が苦労させられてるんだよ」
セシリアの持つ【ポータルゲート】や【ホーリーランス】は男にとっても脅威だったが、そうした魔法はMPがなければ発動できない。
この世界はゲーム時代と違いMPの回復速度が異常に遅かった。
過ごし方にもよるのだろうが、滋養のある物をたっぷりと食べ、十分な睡眠時間を取ったとしても、1日くらいではプレイヤーの膨大な魔力を回復しきれないのだ。
ゲームバランス上の問題とはいえ、休めば数分で完全回復できたゲーム時代の方が異常だった言うべきなのだろう。
出会い頭にしたように、スリープパウダーを使って眠らせる手もあるが、効果時間は不鮮明でいつ起きるかもわからない。
かといって24時間体制で監視するのはいかにも面倒である。
男の持つ【魂吸収】に白羽の矢が立てられたのは、つまるところ面倒事の押し付けでしかなかった。
魔法を使うだけのMPがなければ、セシリアは見た目通りのまだ幼い少女でしかなくなる。
効果はゆっくりと、しかし確実に身体を蝕み始めていた。
最初は振りほどこうと虚しい抵抗を続けていた腕が段々と重さを増していき、今は持ち上げることすらできなくなっている。
あれだけ鎖を慣らしていた手足も今では完全に弛緩してだらりと投げ出されるばかりだ。
本来の【魂吸収】にこんな効果はなかった。
心と体は同じものだ。体力が失われれば満足に動けなくなるように、魔力が失われても動けなくなるのだろう。
ポーションに頼らずMPを回復できる【魂吸収】は一見すると便利な魔法に思えるが、相手に触れられなければ効果は得られない。
ゲーム時代では典型的なゴミスキルとして、他のスキルは性に必要な前提分しか取得されないのが一般的だった。
考えても見て欲しい。後衛の、それも体力が著しく低い魔術師系列が敵に触れ続けるなどリスクが高すぎる。
ステータスをIntとMidに割り振れば十分な回復量を確保できるのだ。わざわざ危険を冒してまで取得する意味がなかった。
男が取得しているレベルも必要最低限で、吸収効率はお世辞にもいいとは言えない。
膨大なセシリアのMPを吸収するには長い時間が必要になる。
身体の自由が徐々に奪われていく様は拷問にも等しく、セシリアは悔し気な表情で男を睨みつけていたが、男の方はただ面倒くさそうに、事務的に手を握り続けるだけだった。
一体どれくらいの時間が過ぎたのか。
魔力の低下はやがて意識にも影響を及ぼし、夢と現の境界を虚ろい始めていた。
男を睨め付けていた瞳も今はまどろむように半分近くが閉じている。
と、そこへ部屋のドアが乱雑に開けられ、誰かがドカドカと喧しい足音を立てながら入ってきた。
「いいザマじゃねぇか」
愉悦を隠そうともしない悪意に塗れた言葉に、閉じかけていたセシリアの瞳が僅かに開いた。
咄嗟に向けた縋るような視線は、しかしすぐにこれまで以上の絶望に染まる。
下卑た笑みを浮かべる男はセシリアもよく知る、関わり合いにもなりたくなかった粘着質なリーダーだった。
「謝るから。だから、もう許して」
大きな瞳にたまった涙がつぅと零れ落ちる。魔力不足のせいで身動ぎ一つできなくなった肢体は見るからに儚げで、幼い容姿と相まって庇護欲を掻き立てていた。
プロネカマとして鍛え上げた演技力は寧ろ無意識の時にこそ本領を発揮する。
しかしながら、弱々しく助命を懇願するセシリアの姿は男の嗜虐心に火をつけるだけだった。
「なんでお前があんな真似をしたのかさっぱり理解できなかったけどよ」
男のにやけや笑顔に潜む悪意のベクトルが跳ね上がる。
「今なら分かる気もするぜ。楽しいもんだよな、目の前で無力な奴が打ちひしがれてる姿はよぉ」
拘束され横たわるしかないセシリアの姿を無遠慮に隅々まで眺めまわす視線からは助けようという気概など欠片もありはしない。
「なにが、目的なの」
ともすれば掠れて消えてしまいそうな声を無理矢理に吐き出し、浅い呼吸を繰り返しながらセシリアは尋ねる。
たったそれだけでも泥の中に沈んで眠りそうになるくらいの疲労が押し寄せてくる。
そんなセシリアを男は楽しくて仕方がないといった様子で眺めてから耳障りな笑い声をたてた。
「お前が寝てる間にそりゃもう色々な復讐方法を思いついたんだけどな。今朝突然金貨が使えなくなったせいでお蔵入りだよ」
アルケミストが投げたスリープパウダーは今まで熟睡できなかったセシリアを随分と深い眠りに誘ったようだ。
金貨が使えなくなったという一言に眉をひそめるも今は考えている余裕がない。
「ふざけた話だ。おかげで食うもんにも困る始末でよ」
なんの説明もなく異世界へ飛ばされたプレイヤー達にとってお金は唯一の生命線だった。
コルト金貨が数枚あるだけで衣食住は十分に保証される。
ここがどこなのかを調べるにしても、元の世界に帰る方法を探るにしても、生活基盤の構築は必要不可欠なのだ。
廃人となれば誰でも十数M、金貨10枚以上は持っているはず。異世界転移という最悪な状況でも少しは心の余裕を取り戻せたはずだ。
それが突然使えなくなってしまったら、生活していく為には稼ぐか奪うしかない。
「でだ、当面の金を工面する方法を探し回ってたら行きつけの店でいい話を聞いたんだよ。何だと思う?」
男は楽しくて仕方がないといった様子でセシリアをみやる。別段、長い話が好きなわけでも、世間話をしたかったわけでもない。
言うなればただの時間稼ぎである。男の位置からであれば【魂吸収】で刻一刻と弱っていくセシリアの姿を余すことなく見渡せる。
「この世界には奴隷ってもんがいるんだよ。金貨1枚使うだけで愉しい一時を過ごせるぜ。あんたも男だったら愉しめただろうになぁ」
もはや彼にとってセシリアが自分の話を聞いているのかなんて関係なかった。
ただ独り善がりに、これからの目の前の少女の末路を想像するだけで堪えきれないほどの愉悦が湧き上がってくるのだ。
「そこでお前を売りたいって言ったら中々良い反応をしてくれたんでな。俺様直々に値段の交渉へ出張ってたってわけよ。嬉しいだろ? お前の中身を考えりゃ未来は2つの意味で"薔薇"色ってわけだ」
下らない即興の冗談に下卑た笑いを撒き散らす。
「誰に買われるかは知らねぇけど、売りに出されるなら情けで1度くらい買いに行ってやるよ」
彼らが取ったのはセシリアを後ろ暗くも権力を持つ輩に売ることで銀貨を得る方法だった。
「取引にも色々と段取りが必要らしいから暫くはここで寝てろ。次に起きた時には奴隷になってるかもしれないけどな」
男は言いたいことは全て言ったとばかりに、ケタケタと狂ったような笑い声をあげながら部屋を後にする。
人身売買。それも、考え得る最悪の場所へ。嘘を言っているとは思えなかった。かつてない焦燥感がセシリアの心を満たしていく。
どうにかしなければと思っても、既に身体は言うことを聞いてくれない。
それどころかこうして意識を保っていることすら難しくなっていた。
「おね、がい。お金なら、渡すから、離して」
金銭事情がひっ迫しているだけでセシリアに執着しているわけじゃないなら買収できるかもしれない。
しかし、交渉を始めるにはあまりに遅すぎた。
掠れた声は男に届くことなく、限界で踏みとどまり続けていたセシリアの意識もそれきり、ぷつりと途切れてしまった。