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輪廻

作者: 此花耀文

 瞳の上から下へ、間抜けな蛍光灯の光が流れた。

 あおむけに倒れた背中は、身体からフローリングへと急速に熱を伝えた。すぐにひどい寒気が襲う。感覚と感情はひとつになって、四肢から抜けるように胸のあたりで集まり、そこで針の頭ほどに結晶した。

 それが最後に残った私だった。いうまでもないが、私は殺されたのだ。

 犯人は妻である。籍を入れていないので、正確には内縁の、だ。私も妻も、このテレビやらで使い古された表現は好きでなかったものだが、こうなってしまっては、妻はどうあっても逮捕されるだろうし、そうなればでかでかと内縁の妻として報道されるのは火を見るより明らかだ。考えてみれば、私たちの生活というのもまるでチープなお昼のサスペンスに終わったから、この表現はある意味実に適切ともいえる。とそこまで考えた時、わずかに残っていた肉体の感覚がぷつりと断たれ、私は死んだ。

 死相でも浮かんだのだろう、妻も私の息絶えたのに気づいたと見え、悪意で赤黒いだんだらになっていた意識が形よく落ち着き、と思うと次の瞬間にはもう重力に負けたように崩れて、足元にぶわあと広まった。だらしのないやつである。

 妻は呆けた顔つきで、服の血のりもそのままに寝室へ消えた。まさか寝るつもりではあるまいと思ったが、いつになっても出てこないのを見ると、そのまさかかもしれない。私も思わず普段のままに起き上がりかけて、もちろんそう行くわけがない。魂が抜けたというのが一番近いか、体はそのままに、感情だけが抜け出したようだ。

 死んでも意識が残っているとは驚きだ。意識なんてものは脳みそにくっついている有象無象だから、死ねば当然消えてなくなると考えていたのだが、まるで外れだった。死のうが生きようが、私が私なのは変わらない。

「構造がね、転移してるんですよ。肉体の構造から精神の構造に」

 誰かに背後から、といっても精神だけの存在に背後などないのだが、とにかく意識の向いていなかった方向から話しかけられて、私はどきりとした。

「だっ、誰だ」

「誰かと問われると誰とも言いようのない、そういう存在です」

 答えになっていない答えだが、それを裏付けるように、声はすれども姿は見えなかった。

「これでもあなたを導きに来たのです。あなたは今死んだばかりで、まだ自分がどうすればいいのかも、どうなるのかもわからないでしょう」

 死神という言葉が心を走り抜けた。私は白く濁って薄く、紙を丸めたみたいになった。

「警戒する必要はありません。私はあなたを無理強いする力を持ちませんから」

「じゃ、じゃあまず姿を見せてみたらどうです」

「姿?」

 相手は笑ったようだった。

「姿などありましょうや。私にもあなたにも。針の上で天使が何人踊れますか」

 小馬鹿にしているのかと思いきや、つと納得がいった。なるほど、天使は知性であって物質ではない。私も謎の対話相手も同じ、姿形のない意識なのだ。

「つまりその、私があなたの存在を感じているということが取りも直さずあなたの存在しているということなんですか」

「そのとおり。存在とはそれ以上でもそれ以下でもない」

 相手はうなずいた、ような気がした。

「あなたはさっき私を導くとおっしゃった。姿が見えず死者を導く、もしかしてあなたは神ですか」

「違います。さっき言ったでしょう。私はいわく言い難いものです。最も近いのは、そう、あなたの望みでしょうか」

「望み? よくわかりませんが」

「ねえ、あなた。存在とは肉体ですか? それとも精神ですか?」

 なんとなく会話がはぐらかされる。いらいらしないこともないが、向こうのペースに乗せられているからつい答えてしまう。

「そりゃ精神でしょう。現に肉体はなくても、私はいるんだから」

「もしそれが正しいとするなら」

 そこで口調が、いや厳密には私たちはテレパシーみたいなので意思疎通しているわけだが、とにかくその調子が変わって、いくぶんの生まじめさを帯びた。

「肉体という物質に捉われない精神は、それだけで完全ですね。わかりますか。あなたは今、それと望めばあなたの夢想さえしなかった全き幸福の中にすらある」

「そうか」

 私ははたと手を打った。無論手はないがよほど打ちたかったと見え、エクトプラズムのようなのがその動作をしてくれた。

 つまりこうだ。これまで地上に生きてきた私というのは物理的な存在で、そうであればこそ地上の物理法則に従い、かつは衣食住によって物理的に継続しなければならず、それが私を拘束するのだ。ところが、今の私は何物からも縛られていない。それなのに私として存在している。これこそ古代の哲学者だのが言ったという、一にして全、全にして一というやつか。

「あなたは理解が早い。そのとおり、精神の構造は完全に自律的です。だからこうやって、ま、裏返るみたいな感じです」

 裏返るというよりは、カタツムリが自分の殻の中に入るみたいだ。私も試してみる。幸福感。体温と同じ泥の中に潜っていくような。

 我を忘れそうになったが、ふと気づいて元に戻った。

 どうしてか、相手はやけに寂しそうだった。

「今のやつ、個人差はあるんですか」

「あるにはありますよ。だが何故それを気になさる」

「いや、ただなんとなく。それから、もしさっきみたくならないで、今のままでいるとどうなるんでしょう」

「今のままではいられない。ああならなければ外の影響を受ける。つまり完全でない」

 いらだち、というか諦念に近い感情が私を捉えた。

「精神として完全でなければ、当然不完全なところから綻びます」

「消滅するということですか」

「否。不完全を補うために他の不完全と結びつく。見なさい」

 相手のいうままに見上げると、いつの間にやら天井は消えて青空である。そのほとんどを占めて、巨大な胎児が、いや、まだ胎児とすらいえない、未分化の両生類のようなものが漂っていた。ないはずの口から、あぐいい、あぐいいと鳴き声が聞こえる。懐かしい、醜い、暗い、健気な声だった。

「不愉快でしょう。さっきのほうがよっぽどスマートだ」

 誘うようなひと言にうなずくか否か。これがひとつの、重大な決断だ。だが、返事は自然に流れ出た。

「不愉快というなら両方とも不愉快だし、愉快というならどっちも愉快だ。けれどね」

 私を後押ししたものに、私は苦笑いしたかったが、どうにもうまくいかなかった。

「怪物といえど子供だ。泣いているのは寂しいからでしょう」

「あんたたちはいつもそうだ」

 相手は毒づいた。と、地面が割れてその姿、というか存在を、飲み込んでいく。

「おや、あなたは悪魔でしたか」

「違う。土くれのものは土くれの元に帰るのが幸せというだけのことだ」

「それもいいけど、やっぱりどうしても足りませんよ」

 言い終えた時には相手の姿はすっかり消えていたから、聞こえたのかどうかはわからない。

 私は浮かび上がった。青い空と怪物がぐんぐん近づき、不思議なことに、いつの間にかその区別はなくなった。すがすがしい気分だった。

 これからどんな生が待つか知れない。先だってのように惨めなものかもしれないし、ことによるともっとひどいかもしれない。だが、そうであるにせよないにせよ、いずれ生きるとはこのはてなき空であり、怪物もそこに待つ。私はいつかそれに会うのが、実に楽しみである。

 私は期待する。それはもしかすると、どうしようもない自家撞着だ。けれど。

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