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過去と現在

 数時間後、一行はグランフォートの喧騒を抜け、再び万象契約院(冒険者ギルド)の最奥――ギルドマスターの執務室へと足を踏み入れていた。

「……なるほど。第十二階層の晶獣が気配を殺し、死角からの同時奇襲を仕掛けてきた、と」

 報告書に目を通した老マスターの顔から、いつもの好々爺とした笑みが消えていた。名はガラハド。組まれた両手の上に顎を乗せ、深くシワの刻まれた眉間をさらに寄せる。

「ただの本能の塊であるはずの晶獣に、軍隊のような統率力が生まれている。……ゼータくんの言う通り迷宮の生態系、あるいは魔力の流れそのものに何らかの異変が起きていると見るべきかね」

「ええ。単なる突然変異にしては、動きが洗練されすぎていました。まるで、背後に指揮官がいるかのように……」

 ゼータの鋭い推測に、ガラハドは重々しく頷く。自由を愛するこの国において、迷宮の氾濫(スタンピード)は都市の存亡に関わる最大の脅威だ。A級冒険者からのこの報告は、決して軽視できるものではない。

「早急に調査隊を編成し、各クランにも警戒を通達しておこう。よく無事で核を持ち帰ってくれた、感謝するよ。……それで?」

 深刻な空気から一転、ギルドマスターの顔に、ふっといつもの悪戯っぽい笑みが戻った。

「その異常事態に直面して、君たちは怪我一つ……いや、ソラス君の真新しいローブに至っては汚れ一つ付いていないようだが?」

 ガラハドの視線が、メルティナの隣でちょこんと背筋を伸ばして座っているソラスへと向けられる。その指摘にゼータは大きなため息をつき、カイルは天井を仰いで苦笑した。

「……マスター。この子が一緒じゃなきゃ、私たちは無傷じゃ済まなかったわ」

 ゼータが信じられないものを見るような顔で、ソラスを横目に見る。

「私たちが奇襲に気付くより先に、この子は空間の歪みだけで伏兵の位置を完全に把握してた。しかも、無詠唱の重力操作と自動迎撃の氷剣で、一瞬のうちに四十体以上の群れと伏兵を同時に殲滅したのよ。……私たち、文字通り"見てただけ"」

「俺の盾の出番すらゼロだぜ。いやはや、護衛対象に守られちまうとはな!」

「もうね! 後ろからギュンッて氷の剣が飛んできて! ソラスちゃん、本っ当に神様みたいにかっこよかったんですからっ!!」

 呆れるゼータ、大笑いするカイル、熱弁を振るうメルティナ。そしてハイネスがぽつりと総括する。

「……索敵も、火力も、常軌を逸している。S級で確定だろう」

 暁月のトップエリートたちが、揃いも揃って一人の少女に白旗を揚げている。その異常な報告を受け、マスターは"ふぉっふぉっふぉ"と腹の底から愉快そうに笑い声を上げた。

「あ、あの……私、何かいけないことを……」

 自分のせいで空気がおかしくなっていると感じたソラスが、オロオロとマスターとゼータを交互に見比べる。そのあまりに無垢な様子に、マスターは笑い涙を拭いながら首を振った。

「いやいや、素晴らしい戦果だよ、ソラスくん! 我がギルドの常識外れは伊達じゃないというわけだ。そして君を暁月の四星に預けた私の目にも、狂いはなかった」

 ガラハドは机の引き出しを開け、ずっしりと重い革袋を机の上に置いた。ジャリン、と硬貨の擦れる心地よい音が鳴る。

「今回の依頼達成報酬と晶獣の核の買い取り金、そして……異変の貴重な情報をもたらしてくれた特別報酬だ。遠慮なく受け取りたまえ。君の初任給だよ」

「しょ、初任給……!」

 ソラスの青い瞳が、ぱぁっと星のように輝いた。蔑まれるか、盲目に頼られるか――いずれにしても精神的に孤独だった自分が、自由の名の下で働き、誰かの役に立って報酬を得る。それはかつての魔女が決して得ることのない、何より現実味のある社会との繋がりの証だった。

「ふふっ。良かったね、ソラス」

 嬉しそうに革袋を見つめるソラスを見て、ゼータも先ほどまでの険しい顔を崩し、優しく微笑んだ。

「さあ、初仕事の成功祝いよ! 今夜は宿の食堂を貸し切って、盛大に宴会をしましょう! 一番高いお酒を開けさせてもらうわよ! みんなの稼ぎで!」

「おっ、リーダーの奢りじゃねえのかよ! まあいい、飲むぞォ!」

「ソラスちゃん、隣の席は絶対私だからねっ! 絶対だからね!?」

 賑やかに執務室を出ていく暁月の背中を追いかけながら、ソラスは革袋を胸にぎゅっと抱きしめた。地下迷宮の不穏な影は確かに存在している。しかし今の彼女の心は、新しく見つけた居場所の暖かさで、いっぱいに満たされていた。



 その日の夜、光樹の回廊の一階貸切フロアは、かつてないほどの熱気と歓声に包まれていた。

「それじゃあ、うちの型破りな新人と、その記念すべき初任給に――乾杯っ!」

「「「乾杯!!」」」

 ゼータの音頭とともに、琥珀色のエールがなみなみと注がれた木の大杯が打ち鳴らされる。カイルが樽のようなジョッキを一気に呷り、ハイネスが静かにグラスを傾け、メルティナがソラスの持つ果実水のグラスに自分のグラスをこつんと優しく当てた。

「ふふっ、おめでとうソラスちゃん! 初仕事、すっごくかっこよかったよ!」

「うう、ありがとうございます……っ!」

 ソラスは両手でグラスを持ち、甘酸っぱいベリーの果実水をこくりと飲んだ。テーブルの上には、迷宮の浅層で採れたという幻のキノコのソテー、香草をたっぷりまぶした巨大なローストボア、そして港町から取り寄せられた新鮮な魚介のパエリアなど、見たこともないようなご馳走が所狭しと並んでいる。

「ほれ、お嬢ちゃん。遠慮しないでどんどん食え! 自分の稼いだ金で食う飯は、この世で一番美味えんだからな!」

 カイルが豪快に笑いながら、ローストボアの最も柔らかい部位を切り分けてソラスの皿に乗せる。

「あ、カイルずるい! 私がソラスちゃんにあーんしてあげる予定だったのに!」

「馬鹿言えメル。お前さっきからフルーツワイン飲みすぎて目が据わってんぞ」

「据わってないもん!! 私はただ、ソラスちゃんの尊さを網膜に焼き付けようと……えへへぇ、ソラスちゃん、お耳が赤くなってて可愛いねぇ……」

 とろんとしたルビーの瞳で、メルティナがソラスの肩にすりすりと頬を擦り寄せる。どうやらアルコールが回り、普段隠そうとして隠し切れていない甘えた部分がさらに露呈しているらしい。

「め、メルさん、お酒臭いです……、それにくすぐったい……」

 困り果てて首をすくめるソラスの横から、スッ、と小皿が差し出された。見れば、ハイネスが無言のまま綺麗に取り分けられたパエリアと、食後の冷たい氷菓(シャーベット)を置いてくれている。

「……甘いものは別腹だろう」

「あ、ハイネスさん、ありがとうございます」

 ソラスがパッと顔を輝かせてシャーベットを口に運ぶと、彼は満足げに――しかし表情は変えずにコクリと頷き、自分の席へと戻っていった。

「ちょっとハイネス! 抜け駆け禁止っ!!」

「メル……あんた少し黙ってなさい。ソラスがご飯を食べられないでしょ」

 騒ぐメルティナの襟首をゼータが容赦なく引っ張り、自分の隣へと強制的に座らせる。

「……ソラス」

 ゼータはワイングラスを置き、テーブルの向こう側で美味しそうに食事を頬張る銀髪の少女を見つめた。

「エルディアでのあんたの生活がどんなものだったか、詳しくは聞かない。だけど、ここはアイオロス。稼いだお金は生きるためだけじゃなく、自分が楽しむために使っていいのよ。何の後ろめたさも抱く必要はないわ」

「私が、楽しむため……」

「そ。可愛い服を買うのもいいし、美味しいものを食べ歩くのもいい。冒険者ってのは、明日の命も分からない因果な商売だからね。今日という日を全力で楽しむ義務があるの」

 ゼータの言葉を受けたソラスは手にしたフォークを置き、じっと自分の手のひらを見つめた。

「……私」

 ソラスの青い瞳から、ふいにポロリと、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「えっ? ちょ、ソラスちゃん!?」

「お、おいおいどうした嬢ちゃん! 飯が口に合わなかったか!?」

「泣かせるようなこと言った覚えないわよ!?」

 突然の涙に、四星の面々が慌てふためく。メルティナに至っては酔いが一瞬で吹き飛び、ハンカチを持ってオロオロとソラスの顔を覗き込んだ。

「ち、違います……ごめんなさい」

 ソラスは慌てて両手で涙を拭うと、照れ隠しのようにへへっと笑った。

「ただ……すごく、嬉しくて。私、生きてていいんだなって。……皆さんと一緒に、ここにいていいんだなって思ったら、なんだか急に……っ」

 そのあまりにも純粋で、孤独の過去を感じさせる言葉に、暁月のメンバーは胸の奥を鷲掴みにされたように言葉を失う。一番最初に動いたのはゼータだった。彼女は席を立ってソラスの元へ歩み寄ると、その華奢な体を、不器用ながらも力強く抱きしめた。

「……あんたはもう、私たちの仲間なんだから。当たり前でしょ」

「ゼータ、さん……」

「うわぁぁぁんっ、ソラスちゃぁぁんっ!!」

 たまらずメルティナが泣き叫びながら背後からソラスに抱きつき、カイルも小さく鼻をすすりながら大杯を呷った。ハイネスは静かに目を伏せ、ソラスの涙に乾杯するようにグラスを掲げる。宴は夜更けまで続き、彼女たちの笑い声が空に柔らかく溶けていった。



 すっかり酔い潰れたメルティナとカイルをそれぞれの部屋に放り込み、ソラスは一人、最上階のバルコニーに出ていた。夜風が心地良い。アイオロスの夜空には満天の星が輝き、眼下には魔石の灯りが街を彩っている。

 ソラスは手すりに肘をついて寄りかかり、その美しい景色を眺めながら、今日一日の暖かな記憶を反芻していた。

 ――だが。

「……」

 彼女の空色の瞳が、ふと、街の各所にポッカリと開いた巨大な穴――逆さまの蒼穹の入り口へと向けられる。

 ぞわり、と背筋を冷たいものが這い上がった。昼間、迷宮の第十二階層で感じた嫌な感覚。それが今、何倍にも膨れ上がり、遥か地下の深淵から地表に向かって脈打つように響いている。彼女を守る世界の保護が、未知の脅威を察知して、微かに水面のような波紋を立てていた。

「眠れないの?」

 背後から静かな声がかけられた。振り返ると、薄手の上着を羽織ったゼータが、二つのホットミルクを持ったままバルコニーに立っていた。

「ゼータさん……。いえ、少し風に当たろうかと」

「そう」

 ゼータはソラスの隣に並び、温かいマグカップを一つ差し出した。

「気になってるんでしょ。あの穴の底から登ってくる……何かを」

「……ゼータさんも、感じますか?」

「ええ。冒険者の勘ってやつかしらね。……晶獣の異常な連携。そして、このざわつくような空気。近いうち、きっと何か大きなことが起こる気がする」

 ゼータはマグカップを両手で包み込み、碧い瞳を鋭く細める。街の英雄であり、リーダーとしての重責を背負う彼女の横顔には、昼間の宴会で見せたような笑顔はない。ただ、街を守る者としての覚悟が宿っていた。

「……ソラス。あんたの力は、神様か何かみたいに凄まじいわ。でも、だからって、一人で何でも抱え込もうとしないでね」

 ゼータはソラスの方を見ずに、夜空を見上げたまま言った。

「あんたは強すぎるから。きっと無意識に、"自分が犠牲になれば~"とか考えちゃうところもあると思う。……けどそれは禁止。あんたは私が守るべき後輩なんだから」

「……はい」

 ソラスは貰ったホットミルクをきゅっと握りしめ、力強く頷いた。

「私、もう一人じゃないって、分かってます。だから……何が起きても、皆さんと一緒に立ち向かいます」

 その言葉にゼータはふっと柔らかく笑い、わしわしとソラスの銀髪を少し乱暴に撫でた。

「上出来。さあ、冷える前に中に入りなさい。明日からは、本格的に迷宮の調査依頼が舞い込んでくるはずよ。……引き続きエルナの情報に気を配りつつ、ね」

 エルナという名前が落ちて、バルコニーを吹き抜ける夜風がソラスの銀髪をふわりと揺らす。カップの温もりに両手を預けたまま、彼女は遠く瞬くアイオロスの街明かりを見つめ、ぽつりと口を開いた。

「……今日、迷宮で皆さんの戦いを見ていて。少しだけ、昔のことを思い出しました」

「昔のこと?」

 隣に立つゼータが、夜空から視線を下ろしてソラスを見る。

「はい。……カイルさんの大きな背中や、ゼータさんたちの流れるような連携が、あまりにも綺麗で……」

 ソラスの瞳の中に、懐かしさと微かな痛みの色が混じる。脳裏に浮かんだのは、かつてエルディアで対峙した白耀剣の騎士たちの姿だった。

「私が元々いた場所にも、お互いの命を預け合って必死に戦う人たちがいました。……いつも苦しそうな目をして、それでも誰かのために重い剣を鋭く振るっていた、不器用で誠実な騎士隊長の人。その背中をどんな時でも真っ直ぐ支えようとしていた、凛として綺麗な副官の人」

 ソラスの声は、静かな夜に溶けるように穏やかだ。恨み言ではない。ただ彼らの生き様を尊ぶような響きだった。

「それに……あの中で私を最初に信じて守ってくれたハシバミ色の目の人や、故郷を去る直前までずっと付き添ってくれた、赤毛の女性のことも」

 名前を呼ぶその声が微かに震える。

「彼らも、今の皆さんと同じように……強い絆で結ばれていました。……でも、私はその輪の中には絶対入れなかったんです」

「……」

 ゼータは何も言わず、ただ静かに耳を傾けていた。

「私の力は、彼らが命懸けで守ろうとしているものを脅かしてしまうから。……誰のことも傷付けたくなかったのに、彼らの力になろうとしただけなのに……結果的に人々を傷つけて……遠ざけることしかできなかった」

 ソラスは、マグカップの水面に映る自分の顔を見つめた。強すぎる魔力。与える奇跡。意図せず発動してしまう世界の保護。それはかつて、アルベルトたちとの間に不可逆の亀裂を生み、彼女を決定的な孤独へと追いやった元凶だ。

「だから今日、皆さんが私を仲間だと言って背中を預けてくれた時……すごく、不思議な気持ちになったんです。私、誰かの背中を守っていいんだ。誰かと一緒に、同じ方向を見て戦っていいんだって」

 とつとつと語られる過去の断片。祖国で何があったのか、ソラスが誰とどう傷付け合ったのか、ゼータにはその全てを知る由もない。しかし、その細い肩が背負ってきた孤独の重さだけは、痛いほどに伝わってくる。ゼータはホットミルクを一口飲むと、小さく息を吐いた。

「……そっか。あんたのいた国にも、立派な人たちがいたのね」

「はい……。とても、優しくて、強い人たちでした」

 ゼータはマグカップを片手に持ち替え、空いた手でソラスの銀色の頭をポン、と軽く叩いた。

「なら、その人たちに感謝しなきゃね」

「え……?」

「その人たちがあんたの過去にいてくれたから。あんたは自分が傷付くことより、誰かを傷付けることを恐れるような、こんなにも優しい女の子であり続けられてるんでしょ」

 ゼータの碧い瞳が、真っ直ぐにソラスを見抜いていた。

「ソラス。あんたが彼らを大切に思っていた事実と、彼らが今のあんたの優しさの根幹を支えている事実は、絶対に消えない」

 ぽん、ぽん、と。少し不器用な手つきで、ゼータはソラスの頭を撫でる。

「ここはエルディアじゃない。そして、私たちはあんたの昔の知り合いじゃない。……私たちは暁月の四星で、あんたは私たちの仲間よ。強すぎる力があるなら、それを誰かを守るためにどう使うか、これから一緒に考えていけばいいの」

「ゼータさん……」

「だから、もう"自分は災害そのものなんです!"みたいな悲しい顔をするのは駄目。わかった?」

 少しだけおどけたようにウインクをするゼータに、ソラスは大きく目を見張り――やがて花が綻ぶような、心底ホッとした笑顔を浮かべた。

「はい……、はい。本当に、ありがとうございます。ゼータさん!」

「よろしい。ほら、ミルクが冷めちゃうわよ」

 二人は顔を見合わせ、静かにマグカップを打ち合わせた。カチン、と小さな音が星空のバルコニーに響く。かつての冷たい尖塔に置いてきた、アルベルトやラヴィニア、フラスニイル、ユスティナたちへの断ち切れぬ思い。その後悔と痛みを抱えたままでも前へ進んでいけるのだと、風紡ぎの国が優しく背中を押してくれた気がした。

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