越王勾踐世家より 文種 その一
楚の都市・宛に文種という長官がいる。
文種はある日、三戸の里に范蠡なる狂犬がいると耳にした。
(不憫な)
なんぞ里のものに意地悪でもされたのであろう。古来よりよく吠える犬は怖くて鳴くのだ。そう思った文種は、
「范蠡を我が家に迎えたい。誰かいって連れてきてはくれぬか」
秘書を向かわせた。が、
「文種さま。あれは国随一の狂犬で、生まれつきそういう病を患っているのでしょう。とても手なづけることはできません」
と秘書は半べそをかいて帰ってきた。
見れば腕にくっきりと歯型がついている。
「かわいそうに」
文種はますます范蠡を気の毒がった。
(賢い犬はそれ故に世間に疎まれる。その内に秘めた独自の見識を介さぬ者に「天然」や「不思議ちゃん」といってバカにされるうちに狂うのだ)
サンマは目黒に限ると言ったり、森林をモリリンと読んだり、そうした高度なボケをさばけない凡人のせいで才気あるボケが死んでいく。
(私のような腕のあるツッコミさえいれば、オモロなっただろうに)
秘書の腕についたハートマークの歯型。文種は「どうしてこれを笑いにできないのだろうか」とひどく残念がった。
「文種さま。すごく痛かったです」
「おお、よしよし。痛かったね」
文種は秘書をよしよしして、今度は一緒に范蠡を捕まえにいくことにした。
三戸にある商家、の脇に掘った穴を范蠡は寝床にしてる。
「ほら。范蠡でておいで。宛の長官・文種が来たよ」
文種が穴の前で「ちっちっち」と指をちらちらする。のそのそと范蠡がでてきた。
ひどく汚れてみすぼらしい。
范蠡はおもむろに「うー」と伸びをすると、うずくまり「わん」と吠えた。
「文種さま。ほら、やっぱり無理でしょう? 帰りましょうよ。みんな見てますって」
秘書は文種の袖を引く。
道行く人が他所者がまた范蠡をからかっていると、ふたりを面白がっている。
「良い番犬は人が来ると吠えるものだ。いま范蠡は番犬として我々に礼を尽くしているのだよ」
范蠡が伸びをした瞬間、さりげなく地面に「五萬」と掻いた/書いたのを、文種は見逃さなかった。
「これは鳴くか迷うね」
文種が言うと、秘書は「えっ、文種さま、范蠡に合わせて犬の鳴き真似するの? 頼むから止めて」といった顔をする。
「ここは通しだな。そうそう、こちらからも君にプレゼントがあるんだ」
と文種はふところからでっかい一本の骨を取り出し、「いや、どこにそんなもんしまってんねん」と驚く秘書はさておき、范蠡の前に置いた。
「どうだい。気に入ってくれるかな」
「うー」
范蠡は骨の臭いを嗅ぐと、
「わんっ」
とそっぽ向いて穴へ戻っていた。
(ほほう。貴様のようなどこの馬の骨ともわからぬもののすねはかじらぬと)
そう感心する文種の隣で秘書は「まったく可愛げもない」とイライラする。
「話は終わりましたね。帰りましょう」
視線に耐えられなくなった秘書は強引に文種を連れてひきあげた。
それから数日後。
「また范蠡に会いにいこう」
文種が言う。
「え~、止めましょうよ」
秘書は露骨に嫌がる。
「そう言わず。ささっ」
文種はしっかり衣冠を正して準備する。
「そんなめかしこんでも、相手はあの狂犬ですよ?」
「ふふっ。そんなこと言ってると一本とられるよ。君もしっかり正装して」
秘書は理由もわからずにまるで高官にでも会いに行くような格好をさせられた。
そして馬車に乗り、范蠡のもとへ。
三戸の商家、の脇の穴。見ると范蠡の姿がない。
「あれ、いませんね」
ふたりが顔を見合わせていると、
「あの、文種さまでしょうか?」
穴の脇の商家から若旦那が出てきた。
「はい。そうですが」
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
そして商家の中へ案内される。
商売が繁盛しているのだろう、立派な屋敷である。
その最奥にあるしずかな房にふたりは通された。
「お待ちしておりました」
そこには身なりを整えた男がいる。
「えっ、范蠡!?」
秘書が目を白黒すると、范蠡と文種は声をあげて笑った。
余談だが「山城道三と信長御参会之事」、いわゆる「聖徳寺の会見」で織田信長は道中うつけの格好をしながら、いざ会見に臨むと正装をして道三の興をさまし「山城が子共、たわけが門外に馬を可繋事案の内にて候」と言わしめたが、これは昔に流行した、新卒で就職活動をする者に対する「カジュアルな服装でお越しください」の原型で、習いある嫌がらせである。
もし話の秘書のように相手を侮って、略装でもすれば一本とられるのである。




