後編
相談に来たのは、母親ではなかった。
小柄な少年だった。
年は、十歳前後。
ランドセルを胸に抱えたまま、椅子の端に座っている。
目線は下。
だが、逃げる気配はない。
「……母さんが」
「ここに行けって」
それだけ言った。
俺は、書類を出さなかった。
相棒も、何も聞かない。
「学校で、何があった」
少年は、少し間を置いた。
「……殴られました」
淡々とした声だった。
感情を出すのを、もう諦めている声。
「理由は?」
「……分かりません」
「毎日か」
「……時々です」
沈黙。
俺は、少年を見た。
姿勢は、悪くない。
言葉も、崩れていない。
逃げ癖も、見えない。
「聞くぞ」
少年が、うなずく。
「本当に」
「自分一人じゃ、どうにもならないか?」
少年は、少し驚いた顔をした。
「……だって」
「相手、強いし」
「何が強い」
「……人数」
「それだけか」
少年は、黙った。
「殴られた時」
「逃げられなかったか?」
「……逃げました」
「捕まった?」
「……いいえ」
「じゃあ」
「逃げ切れたことも、あるな」
少年の指が、ぎゅっとランドセルを掴む。
「言い返したことは?」
「……ありません」
「殴り返したいか?」
少年は、首を振った。
「……怖いです」
「だろうな」
それ以上は、言わなかった。
しばらくして、俺は続ける。
「なあ」
「相手は、お前を下に見てる」
少年の肩が、少し揺れた。
「だから、殴る」
「だから、試す」
「……」
「だがな」
「“下じゃない”ってことは」
「殴り返さなくても、分からせられる」
少年が、顔を上げた。
「どうやって……」
俺は、答えなかった。
代わりに、聞いた。
「お前」
「殴られてる時」
「何を考えてる?」
「……早く終われって」
「違う」
即答だった。
「お前は」
「“耐えてる”」
少年の目が、揺れる。
「耐えるのは」
「弱さじゃない」
一拍置く。
「だが」
「耐えるだけだと」
「相手は、調子に乗る」
俺は、少年を真っ直ぐ見た。
「殴られそうになったら」
「逃げろ」
「逃げられない時は」
「声を出せ」
「それも無理なら」
「目を逸らすな」
少年は、唇を噛んだ。
「……それだけ?」
「ああ」
「先生に言わなくて、いい?」
「言いたければ言え」
「親に頼っていい?」
「頼りたければな」
俺は、少し間を置いてから言った。
「だが」
「“自分は弱い”って」
「決めるな」
少年は、何も言わなかった。
だが、視線は下がらなかった。
「殴られたからって」
「君の価値は下がらない」
「逃げても」
「君の価値は下がらない」
立ち上がる。
「今日、ここに来た」
「それだけで」
「一つ、できてることがある」
少年は、少しだけ驚いた顔をした。
「……何?」
「考える力だ」
それ以上は、言わなかった。
少年は、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
扉が閉まる。
しばらくして、相棒が言う。
「助けなくて、よかったの?」
「助けたさ」
「え?」
「“弱い”って決めつけなかった」
相棒は、黙った。
「守ったつもりで」
「奪う力もある」
「だが」
「信じたら」
「残る力もある」
静かになる。
子供は、
守られるだけの存在じゃない。
立つ力も、
考える力も、
最初から、持っている。
それを信じるなら――
もう、証拠はいらない。




