アンチューサ -if-「ナイフの記憶」
雨が降っていた。
夜の街に紛れる赤いフードの影。
街灯も監視も、その姿を捉えられない。
今宵また、ひとつの事件が“無かったこと”にされる。
アスター――かつて優しい少年と呼ばれた狼獣人。
その名は、今や都市の地下記録からも削除され、“いなかった者”として扱われていた。
けれど、現実には確かに存在している。
しかも、犯罪という形で完璧に。
「見てろよ、世界……」
「これは俺の“正義”だ」
アスターの手にはナイフ。
だがそれは、もはや人を傷つけるための武器ではなかった。
証拠を残さない“記録の切除”の道具。
彼はルピナスの技術を盗み、
監視カメラの死角を完璧に読み、
プロヴィスすら欺いて“裁き”を下す。
彼の標的は、権力の陰に隠れた本当の悪。
少女を消した施設。
薬物実験の温床。
データの中にだけ生きていた、“声なき声”。
アスターは彼らを処刑し、
証拠も記録も、まるごと削除した。
警察も政府も気づかない。
「事件はなかった」
「誰も死んでいない」
そう報告される世界の裏で、
“正しい死”だけが積み重なっていく。
──ある夜、ガーベラの元に届いた黒い封筒。
中には一枚の紙と、何かを切り取ったデータコード。
そこにはこう書かれていた。
> 「親父へ。
オレはまだ、生きてるよ。
でも、もう“優しい息子”じゃいられなかった。
あんたが信じてる正義じゃ、誰も救えなかったんだ。
ごめんな。
でも、オレはやる。
世界が目を逸らしたものを、全部――切り裂いてやる。
アスター」
雨の中、ガーベラはその紙を握り締め、空を睨んだ。
「……バカヤロウ。
そんな道、ひとりで歩くもんじゃねぇんだよ」
──一方、ユリは知らなかった。
いや、気づいていたけど、目を逸らしていた。
風の中に残る“あの声”
そっと笑うようなナイフの記憶。
「……会いたいよ、アスター……」
彼女は今日も、誰もいない椅子の隣に座っていた。
そしてその頃。
アスターはまたひとつ、データベースから名前を消していた。
それは、かつてプロヴィスの高官だった男の名前。
消えたとき、誰も悲しまなかった。
だから、それでよかった。
ナイフは赤くも、鋭くもなかった。
ただ、淡々と。冷静に。
正義の抜け殻を切り裂き続ける――
これはもう一つの“アンチューサ”
大切な想い出を守るために、
世界そのものを騙し続けた少年の物語。
──終わらない。
これは“存在しなかった記録”だから。
けれど確かに、そこに咲いていた。