第六話「耳を澄ませば、あの声が」
草花が揺れている。
まだ誰も目覚めぬ村の朝、
ライラックは花畑の中心に一人、静かに座っていた。
彼女の指先がそっと触れるのは、昨夜咲いたばかりの薄紫の花。
アンチューサ――。
それは、記憶を宿すと言われる花。
風の囁きと共に、過ぎ去った声が、ふと心に染みこんでくる。
「……ねえ、覚えてる?」
彼女は、花に語りかけるように目を閉じた。
その瞬間、風が吹いた。
ほんの一瞬、花たちが震え、まるで言葉を返してくるように揺れる。
(……“ありがとう”って)
それは、かつて救えなかった誰かの声。
この花畑には、もういない“名前のない命”たちの想いが、今も眠っている。
「悲しい声も、嬉しい声も、全部、風が運んでくれるの。
私たちが耳を澄ませば、どんな記憶も、まだここにある」
そう語る彼女の隣に、小さな気配が現れた。
足音もなく近づいてきたのは――ユリだった。
「ライラック。こんな朝早くに……」
「ごめんね、起こしちゃった?」
「ううん。なんだか、夢で呼ばれた気がして」
ユリの車椅子のそばに座り込み、ライラックは微笑む。
「ねぇ、ユリ。あたしたち、よくここで遊んだよね。
あなたが話して、私が聞く。風が吹いて、花が揺れる」
「……うん。あの頃は、世界のことなんて何も知らなかった」
「でも、今は知ってしまった。
だからこそ……“思い出す場所”が、必要だよね」
ユリは頷いた。
「この花畑は、もう“風景”じゃなくて、“記憶”なんだ。
あたしは、その“記憶”を守るためにここにいる。
たとえ全部忘れられても、誰かが覚えていればいいの。
たとえば、こうやって話すことで――ね」
ユリがそっと目を閉じた。
ライラックも、目を閉じる。
二人の間に、風が吹いた。
過去の声たちが、かすかに、柔らかく、吹き抜けていく。
“ありがとう”
“またね”
“痛い”
“嬉しい”
“ずっと、忘れないで”
その全てが、この場所に咲く、無数のアンチューサとなって。
「……また、話そうね。
あなたの声、ずっと聞いてるから」
そう言って、ライラックはユリの手を取った。
太陽が昇り始める。
夜明けの光が、花たちを照らし始める。
これは、想い出を紡ぐための“場所”。
そしてライラックは、それを守るために生きる“耳”。