第九話「記憶の果て、心の始まり」
静寂。
電脳空間に作られた“精神層”の最深部。
そこにアスターは一人で立っていた。
目の前には、鏡のように自分の姿を映した「何か」がいた。
──赤いフード、血のように深い瞳。
──けれど、そこには一切の感情がなかった。
> 「俺……?」
「それは、“お前から奪われた感情”が形成した存在だ」
通信機越しに、ルピナスの声が響く。
「名前は《アスト=ゼロ》。
レクイエムが“最も効率的な感情制御の象徴”として構築した、もう一人のアスター」
アスト=ゼロは動かない。
ただ、アスターを見据えている。
「お前……俺のフリして、何になりたいんだよ」
──意味はない。
──生存のために、無駄な感情は排除されるべき。
──お前が持っていた“痛み”“怒り”“優しさ”は、矛盾だ。
「……矛盾でも、俺が持ってた“大事なもの”だ!」
アスターがナイフを構えると、ゼロも同じ動きをした。
だが、それは“完璧な模倣”であり、意志がない。
「お前には、“守りたいもの”がない。
だから、絶対に俺には勝てない」
アスターは前へ踏み出す。
記憶の奥底から、断片が浮かんだ――
──“ユリの笑顔”
──“ガーベラの手”
──“バコバの背中”
──“ガルビネアの焼きたてのパン”
──“ライラックの花”
──“ルピナスの冷たい優しさ”
──そして、“自分が泣いた夜”
「俺は全部、覚えてる……!
それがあったから今がある!
その全部が、俺を“俺に”してくれるんだ!!」
アスターが叫び、ゼロに突進する。
その瞬間、ゼロの動きに乱れが生じた。
──誤差発生。感情因子、干渉。
──処理不能――
「お前に足りないのは、痛みだ。
人を好きになって、裏切られて、それでも信じたいって思う……
そんな“めちゃくちゃな感情”を、俺は信じてんだよ!」
刃と刃がぶつかる。
だが、ゼロの手からナイフがこぼれ落ちた。
──理解不能。
──なぜ、痛みを望む――
アスターは最後の一撃を突き出した。
それは、敵を“殺す”のではなく、自分を認めさせる一撃だった。
「お前は、俺の一部だ。
だから、戻ってこい……“俺の中”へ!」
光が弾け、ゼロの姿がアスターの胸へと吸い込まれていく。
静かになった空間の中で、アスターは独り言のように呟いた。
「これで……俺は、もう一度、自分になれたのか?」
***
現実世界。
アスターの脳波が安定したことを確認したルピナスは、小さく頷いた。
「帰ってきたよ、君自身が。
……おかえり、アスター」
扉が開き、ユリがアスターの手を握る。
「……アスター、おかえり」
「ただいま、ユリ」
彼は静かに笑った。
その微笑みは、あの夜に“奪われなかった”たった一つの灯火――
そして今、確かに取り戻された“感情の光”だった。