最終話「エンディングノートに名前を」
春の風が、都市の縁をなぞるように吹いていた。
日差しは穏やかで、木漏れ日が窓を照らす。
ルピナスのラボでは、今日も静かな作業音が響いていた。
「データの断片が……まだどこかに残っている」
ルピナスは、ユリの記憶から派生した暗号化ファイルを慎重に解析していた。
そこには“ノクターン”とは別の、より深く隠された手口があった。
〈PROJECT:REQUIEM〉
「……見つけた」
このプロジェクト名は、ルピナスの記憶にもない。
だが確かにユリの再生カプセルと繋がっていた。
(この名は……記憶ではなく、“魂”に関わっている)
彼の手が止まる。
その時、ドアが静かに開いた。
「……入ってもいい?」
現れたのは――ユリだった。
彼女は、自力で車椅子を動かし、
ゆっくりとルピナスのもとへ近づいてくる。
「今日は……リハビリ、早く終わったの」
「そうか。順調そうだな」
ルピナスの声は少しだけ優しかった。
ユリは、ふとモニターに目を向ける。
そこに表示されていた“REQUIEM”の文字を見て、小さくつぶやいた。
「……それ、知ってる気がする」
ルピナスが、瞬時に表情を引き締めた。
「どこで?」
「夢の中。
“誰か”が言ってた。
“静かな場所で、名前を呼んであげて”って。
『レクイエムが終わる場所には、始まりがある』――そう言ってたの」
ルピナスの指が震える。
「……その言葉は、研究所の人間しか知らない暗号だ。
君の中に、まだ“アクセスされていない記憶”がある」
「じゃあ……私の中に、“何か”が残ってるの?」
「それが何かはまだ分からない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある」
ルピナスは小さく息を吐いた。
「それは――君自身が、選ぶものだ。
誰かに強制されるべきものじゃない。
君が、君の意志で、その“名前”を決めるんだ」
ユリはしばらく沈黙したあと、ふと微笑んだ。
「じゃあ、私の“エンディングノート”……
最初に書く名前は、“アスターくん”にする」
「……は?」
「だって……私の始まりは、あの子の笑顔だから」
ルピナスは一瞬、言葉を失ったように目を見開いたが、
やがて口元をわずかに緩めた。
「――なら、きっと“終わり”も、笑顔で迎えられるさ」
***
その夜。
都市の廃墟――誰もいないはずのエリアにて。
ひとつの黒い影が歩いていた。
その手には、小さなカプセルと、鍵のかかった書類鞄。
『PROJECT:REQUIEM』――その本体が、まだどこかに存在している。
そして、彼の口元は嗤っていた。
「咲かない花が、咲く時を見届けよう。
静かな星の夢の終わりで――本当の夜が始まる」