第四話「まだ歩けなくても、行ける場所がある」
「今日は風が気持ちいいね」
そう言ったユリの頬に、やわらかな風が触れた。
リハビリのあと、アスターに付き添われて外へ出たのは久しぶりだった。
花の香りがする。
土のにおいもする。
風が葉を揺らし、どこかで鳥が鳴いていた。
「……歩いたっていうより、立っただけ、かな」
そう呟くユリに、アスターは隣で腕を組んで言う。
「十分すごいだろ。初日で立ったやつなんて、あの病院にいたか?」
「……ふふ、いないかも」
「だろ?」
アスターは笑わずに言うけれど、どこか得意げだった。
それが妙におかしくて、ユリは小さく笑った。
ふたりは舗装された小道を抜け、少し先にある古い木の下にたどり着く。
そこは、昔――まだふたりが子どもだった頃、よく来ていた場所。
「懐かしい……ここ、まだ残ってたんだね」
「手入れされてた。誰かが守ってたんだろ」
ユリはゆっくりと車いすを停めると、
ふとアスターの方を見た。
「覚えてる? 昔ここで、あなたが木に登ろうとして、
足を滑らせて私の膝の上に落ちてきたの」
アスターはちょっとだけ目をそらしながら言った。
「……ああ。……オレの落下がきっかけで、お前が笑ったんだよな」
「そう。あのとき初めて“心から笑えた”って、自分でもわかったの。
病気のことも、車いすのことも、全部忘れてた」
アスターは言葉を探して、そして言った。
「これからも……そういう時間を作ってやりたい。
お前が“忘れられる時間”を。
辛いことも、悲しいことも、全部後ろに置いて、ただ笑える時間を」
「……ありがとう、アスター」
ユリは静かに頷く。
そして、ポケットから小さなペンとメモ帳を取り出した。
「ねえ、ひとつお願いがあるの。
今この瞬間を、言葉にして、覚えておきたいの。
“歩けなくても行ける場所がある”って、そう書いておきたい」
アスターはちょっと恥ずかしそうに言う。
「オレの名前は入れんなよ?」
「うん、分かった。
“赤いフードの優しい狼”って書いておくね」
「だからそれが名前だろっ!」
ふたりは笑い合った。
午後の陽ざしが、葉の隙間から差し込む。
風が吹き抜け、ページをふわりとめくった。
そのページに残された言葉――
> 「まだ歩けなくても、行ける場所がある。
> それはきっと、誰かと一緒にいる場所」
ユリはペンを置いて、空を見上げた。
「……わたし、きっと歩けるようになるよ。
だって、アスターが隣にいるんだもん」
「約束だな」
「うん、約束」
ふたりの指が、そっと絡まる。
歩けなくても、立てなくても。
この日この時、この場所は――
ふたりの未来の出発点だった。