第十五話「帰ってくると、約束して」
夜風が窓をかすめ、薄いカーテンを揺らしていた。
ユリの部屋。
灯りは落とされ、ランプの淡い光が小さく揺れている。
アスターは、扉の前に立っていた。
その表情は、どこか張り詰めたようで――
それでも、迷いはもうなかった。
「……入るぞ」
返事はなかったが、それでも静かにドアを開けた。
ベッドのそば、車いすに座ったユリが、
振り返ることなく月を見つめていた。
「……行くんだね」
「……ああ」
アスターはユリの隣に立ち、少しだけ背を丸めた。
いつもなら軽口のひとつも出るはずなのに、今日は何も言葉が浮かばない。
「怖い?」
その問いは、誰に向けたものだったのだろう。
アスターはわずかに笑って答えた。
「少しだけ。……でも、ユリがいるから」
ユリは、そっと目を閉じた。
「私、何もしてあげられない。足手まといにしかならないのに……
あなたが“私のために戦う”って言ってくれるの、ずっと……苦しかった」
アスターが口を開きかけたとき、ユリは首を横に振った。
「でもね、いまは……違う。
私のためじゃなくて、“あなた自身”のために戦ってる。そう思うの」
アスターは目を見開く。
「私を守ることは、きっと……あなたの心を守ることでもある。
だから、私は何も言わない。止めない。でも――」
ユリは、手を差し出した。
その細く、少し震えている指が、アスターの頬に触れる。
「ちゃんと……帰ってきて。
私、あなたがいないと――もう、夢を見られないから」
アスターはその手を包み込み、強く、強く握った。
「……約束する。絶対に、帰ってくる」
ユリの瞳が潤む。
けれど、涙は落とさない。ただ、微笑む。
「じゃあ、それでいい。
その“赤いフード”、ちゃんと帰ってくるまで脱がないでね」
「はは……わかったよ、“赤ずきんちゃん”」
ユリは笑って、そしてアスターの胸元にそっと顔を寄せた。
小さな声で、誰にも聞こえないように、呟く。
「あなたがこの手を離しても――
私は、ずっと……ここで待ってる」
アスターは黙って頷いた。
そして、そっと彼女の額にキスを落とし、
部屋をあとにした。
――戦いが始まる。
誰の記憶が奪われ、誰の想いが守られるのか。
運命は、すぐそこに待っていた。