第二話「記録されざる影」
登場人物:ガーベラ、ルピナス
夜明け前の都市は、まだ完全に目を覚ましてはいなかった。
雨は止んでいたが、空はどこか重たく、雲の向こうで太陽の所在を見失ったようにぼんやりと霞んでいた。
ガーベラは静かにビルの階段を上がった。
エレベーターはあるが、使わない。
それがこのビルのルールだった。
無機質な金属の扉の前で立ち止まり、軽くノックをする。
「ルピナス。……開けろ」
応答は数秒後だった。
「おはよう。まだ午前三時四十八分だが」
乾いた声とともに、扉がゆっくりと横に滑った。
室内は、まるで小さな宇宙船のように整然としていた。
天井からは無数のスクリーンが吊るされ、蛍光のインターフェースが空間中を泳いでいる。
部屋の中央、白衣姿の男――ルピナスが、薄い液晶タブレットを操作していた。
「やはり、昨夜の通報に反応したのか。足を使うのは、君くらいだな」
「好きで歩いてるわけじゃない。……情報を持ってきた」
ガーベラはポケットから、赤い布の切れ端を取り出して見せた。
ルピナスの瞳がわずかに揺れる。
「……これは。おそらく本人のものだな。繊維の摩耗具合からして、数年使い込まれたものだ。ナイロンとウールの混合、標準都市布地の一世代前の構造だ」
「それだけでアスターのだって断定できるか?」
「できない。だが、“可能性がある”というだけで、僕にとっては充分だ」
ルピナスは無感情な口調のまま、奥の卓上に布を置き、機械スキャナの上に広げた。
赤外線が布の中を走る。
「加えて、少年の証言がある。身長140前後、狼系の特徴。目つきは“静かで近づけない”。……一致する要素は多い」
「その少年の名は、シエル。廃墟に潜ってる。ここの座標だ」
ガーベラはメモリチップを渡す。
ルピナスは無言で受け取り、すぐにモニターへ投影する。
画面に映るのは、崩れかけた市街地の一角。
放棄されたアパート、焼け落ちた鉄骨、捨てられた自販機。
かつて獣人の子どもたちが住み着いていた場所だ。
「この地点は、2日前のドローン調査で異常反応が出ていた。……熱源反応が急激に“消失”した形跡がある」
「“消失”? 移動じゃなくてか?」
「ああ。……まるで、“存在そのものが一時的に途切れた”かのように」
ガーベラの眉がわずかに動いた。
「まさか、例の技術か」
「可能性はある。だが、アスターにそれが扱えるとは思えない。彼は“普通の子”だった」
“普通の子”――
その言葉に、ガーベラの胸に鈍いものが刺さる。
「なぁルピナス、お前、あいつのことをどこまで信じてる」
ルピナスは手を止めた。
そしてゆっくりとガーベラを見た。
「信じる、という言葉には感情が必要だ。僕にはない。……だが、合理性ならある」
「……はっ。お前らしい答えだな」
静かに笑ったガーベラに対して、ルピナスは一言だけ、短く言った。
「ただ――彼が、ユリを傷つけるとは思わない。それだけは、確信している」
名前が出た。
ユリ。車いすの少女。アスターの“光”。
だが、今その名を深く追うのは、まだ早い。
ガーベラは視線を外した。
「次は現場に潜る。廃墟内部を洗いたい。お前のドローン、貸してくれ」
「一機残っている。……だが、慎重に扱え。あれは僕の“右目”だ」
「分かってる」
タブレットから情報を転送し、ガーベラは再び立ち上がる。
その背を、ルピナスがふと問いかけた。
「もし、アスターが“本当に人を殺していた”としたら?」
ガーベラの足が一瞬止まる。
背中越しに、静かな答えが返る。
「その時は――“父親”として、最後まで見届ける」
それ以上、言葉はなかった。
再び閉ざされた扉の向こうで、雨がまた、遠くで静かに降り始めていた。