第九話「仮面の痕、狼の勘」
雨が降っていた。
しとしとと、夜明け前の街を濡らしていた。
ガーベラは黒いレインコートの襟を立て、静かに地面に膝をついた。
ライトのついていない路地裏。
アスターと“ユリ”が襲撃されたという現場だ。
「……匂いが、まだ残ってる」
濡れたコンクリートに顔を近づける。
雨に消されかけた微かな金属の臭い、薬品の揮発臭、そして――
「……硫化剤。古いタイプのスモーク爆弾か」
鼻をひくつかせながら、ガーベラは懐から手帳を取り出す。
現場のスケッチ、配置、残された痕跡を冷静に記録していく。
アスターのナイフの跡。
双剣による切り返しの痕。
攻防の流れを、脳内で再現する。
「奇襲。だが、アスターは即応している……つまり――」
ガーベラはふと、壁際に落ちていた欠けた金属片に目を止めた。
拾い上げて確認する。
表面に、ごく小さく刻まれた刻印。
《TSP-R04》
「……やっぱり、プロヴィス製か。第4世代。
もう廃棄されたはずの個体……いや、“個人”か」
コートの内ポケットから端末を取り出し、
ルピナスに送信せず、ローカルで照合する。
――反応あり。
《TSP-R04:対獣人暗殺用・特殊戦闘型義体。
プロヴィス旧開発ライン・N系統。凍結済み。》
「凍結、ねぇ……それで、動いてるわけだ」
ガーベラの声に、ひとつ冷たい皮肉が混じる。
この機体は、“殺すために”だけに生み出された兵器だ。
獣人の呼吸、心拍、さらには感情変動までを読み取り、
先読みで殺傷に至るシーケンスを完了する――まさに“沈黙の殺人者”。
ガーベラは、再び空を見上げた。
「目的はユリ……いや、正確には“その力”。
となれば――プロヴィスの中でも、相当上の判断だな」
雨の中、黒いサングラスの奥の目が鋭く光る。
「そして“影”は……試験。いや、“警告”か?」
ガーベラの脳裏に、かつて見たあの研究所の記録が蘇る。
アスターが囚われていた、“あの場所”の記憶。
「連中、動き始めたな……」
懐のホルスターから銃を確認する。
装填。セーフティ解除。
雨音の中で、微かに金属の音が鳴った。
「――アスター。……お前も、感じてるか?」
誰に聞かせるでもなく、ガーベラは呟いた。
血の気配が近づいている。
すぐそこまで。
だが今回は、
「すべてを守るための覚悟」が、
最初から整っていた。
雨音の中、ガーベラの背はすっと立ち上がる。
背中には、再び“探偵”としてではなく――一人の“父”としての決意が宿っていた。
「……よし。プロヴィスの下水ルートにもう一度潜るぞ。
目撃証言と一致する獣人の影も、この付近にいる……」
その視線の先には、
別の獣人がひとり、雨に紛れて、こちらを“見ていた”。