最終話「雨の音が消えるとき」
その夜、ガーベラは静かに空を見上げていた。
パン屋の屋上――手すりにもたれ、煙草に火をつける。
「……降ってねぇな」
煙の代わりに、白い吐息が夜空に溶けていく。
曇り空だった数日間。冷たい雨が続いていた。
けれど――今は違う。
風がやんで、空には星が瞬いている。
ガーベラのすぐ後ろ、誰かが階段を上ってきた。
「……アスター」
赤いフードを肩に下ろし、アスターが静かに歩み寄る。
「よう。父さん」
「“父さん”かよ。ずいぶん素直になったな」
「オレだって、ちょっとは変わるんだよ」
ふたりは並んで夜空を見上げた。
しばらく無言が続いたあと、アスターがふと呟く。
「ここ数ヶ月……ずっと、雨の音がしてた気がするんだ。
頭の中でも、胸の奥でも、どこかでずっと……止まなかった」
ガーベラは煙草を地面に落として踏み消した。
「それが……今は?」
アスターは目を閉じて、ゆっくりと答えた。
「……やっと、静かになった」
心をふちどる雨音が、ようやく消えて――
代わりに、あたたかい“声”が聴こえるようになった。
ユリの声。仲間たちの声。
そして――父の、静かな安心。
「ありがとう、父さん。……オレ、もう大丈夫だよ」
ガーベラはただ、黙ってアスターの頭をぽん、と撫でた。
その手の重さが、何よりの答えだった。
*
朝が来る。
静かに、透明な光が街を包む。
どこかでパンの焼ける香り。
子どもたちの笑い声。
そして、ユリの微笑み。
雨はもう、どこにもなかった。
それは確かに――
雨の音が消えるとき。
――第1章 完