第十九話「おまえは、ぼくじゃない」
“黒い部屋”の奥に、扉が現れた。
そこには鍵も、取っ手もなかった。
ただ、彼の意志に反応するように――
ゆっくりと、音もなく開いた。
アスターは躊躇わずに踏み込む。
足元の闇が波紋のように揺れ、音を吸い込む。
そして、その部屋の中央に――少年が立っていた。
自分と同じ背丈。
同じ髪型。
同じ赤いフード。
けれど、瞳には何も宿っていなかった。
「……お前、誰だ?」
アスターが問うと、少年は静かに首を傾けた。
「ぼくは、“おまえ”だよ」
その声には、感情がなかった。
まるで誰かに吹き込まれたプログラムのようだった。
「ここで、ずっとおまえを見ていた。
おまえが“消えていく”のを。
おまえが“名前を捨てていく”のを」
アスターはその少年を睨む。
「……お前は、オレじゃない。オレはそんな顔、しねえ」
少年は淡く笑った。だが、その笑みは冷たく空っぽだった。
「違うよ。
おまえが“自分は誰かだ”って思ってるうちは、まだ“ぼく”にはなれない」
「なりたくねえよ」
少年は一歩、近づいてきた。
その足音はまるで“意識の中”に響いてくるようだった。
「ユリの名前を呼んでも無駄だ。
その子は、おまえを“化け物”だって思ってる。
ガーベラも、おまえを“止めるしかない”って決めた。
だっておまえは――誰よりも“壊れてる”から」
「やめろ……」
「ノヴァも、ライラックも、おまえを“元に戻すために”動いてる。
でももう、“元”なんてないじゃないか。
ほら――自分の顔、思い出せる?」
アスターは、目を見開いた。
顔が、思い出せなかった。
自分の目の色も、声の響きも。
少年が近づき、鏡を差し出す。
そこに映っていたのは、“のっぺらぼう”のアスター。
「……ちがう」
アスターは震える手でその鏡を払いのける。
「オレは、オレでいたい。たとえ思い出せなくても――オレのままで」
少年の表情が、少しだけ歪んだ。
「じゃあ証明してよ。
この“黒い部屋”を、壊してみせて。
“ぼく”を、否定してみせて」
その瞬間、部屋が揺れ始めた。
少年の背後から無数の黒い手が伸び、アスターに襲いかかる。
「……オレは――!」
アスターは叫ぶ。
「オレは、名前を忘れたくなかった!
オレは、誰かのために泣いて、怒って、笑いたかった!
オレは、“だれかの記憶”じゃなくて、“だれかの今”になりたかったんだよ!」
その叫びに呼応するように――
“赤い光”がアスターの胸元から走った。
それは、ユリがくれたリボン。
記憶の底に埋もれていたそれが、彼の核心を照らし出す。
少年の影が、光に焼かれて崩れ始める。
「……ぼくは……“ぼく”になれなかったのか……?」
アスターはそっと呟いた。
「お前も……オレだった。
でも、お前は“誰にも名前を呼ばれなかった”オレだ」
影は消えた。
ただ一筋、光の中で、微笑みのような残滓を残して。
そのとき、遠くから――誰かの声がした。
> 「……アスター……聞こえる……?」
ライラックの声だった。
アスターは、笑った。
「……やっと、呼ばれた」
黒い部屋に、音が戻り始めていた。