第十八話「ぼくは、ぼくになりたい」
“名前”は、泡のように浮かび、消えていく。
“記憶”は、紙のようにちぎれ、燃やされる。
“心”は、何度も何度も、砕かれては、接ぎ木のように別の誰かに塗り替えられた。
「ユリ……」
それだけが、消えなかった。
でも、それももう限界だった。
黒い壁が、さらに狭まっていた。
足元は何もない空間に浮いているのに、重力だけが異様に重くのしかかってくる。
> 「サンプル213、再調整プロトコル起動」
> 「情動記憶の除去、段階Dへ移行」
> 「“ユリ”に関連する視覚・聴覚・嗅覚イメージ、完全切断を開始します」
次の瞬間、アスターの脳内に――“花の香り”が消えた。
白い羊毛のようなやわらかさ。
その小さな指。
あの日、雨の中で差し伸べられた手のぬくもり。
「やめろ……やめてくれ……!」
叫んだ。
けれどその声もまた、再構成される虚無に溶けていく。
黒い部屋の天井が開き、無数の“声なき声”が降ってきた。
> 「お前はアスターじゃない」
> 「お前はサンプル213」
> 「お前は過去を失って、名前を持たない」
「違う……違うって言ってるだろ……!」
アスターは頭を抱える。
存在ごと、分解されていく感覚。
思い出せない。
でも、忘れたくない。
「……俺は……俺は、だれだ……?」
“誰か”が、昔言ってくれたことがあった気がした。
「名前なんかなくても、お前はお前でいいんだよ」
それが、誰の声だったか。
もう思い出せなかった。
でも、なぜだろう。
胸の奥に、小さな“火”が灯っていた。
それは、怒りじゃない。
憎しみでもない。
“誰かになりたかった”。
“誰かでいたかった”。
その気持ちだけが――どうしても消せなかった。
「おい……黒い部屋。聞こえてんだろ……」
アスターは立ち上がった。
初めて、自分の“足”でこの空間に立った気がした。
黒い壁に手を触れる。
感触はない。冷たさもない。
だけど、その向こうに“誰か”がいる気がした。
「オレは、俺を取り戻す。
記憶がなくても、名前がなくても――俺は“俺を選ぶ”」
> 「システム異常:反発係数上昇」
> 「意識階層に自我波形の再構築を検出」
> 「強制停止処理を準備――」
壁にひびが入った。
アスターは拳を握った。
そこに何の力もないはずなのに、何かが伝わる。
“俺は壊されない”。
“俺は、生きている”。
「……名前、思い出してやる。
ぜってぇ、思い出してやるからな……!」
次の瞬間――
“衝撃”があった。
遠く、遥か遠くの空間で、何かが“揺れた”ような感覚。
誰かが、自分の“外”から、この部屋の扉を叩いたような。
(ガーベラ……?)
アスターは、目を見開いた。
その目に、わずかに“色”が戻る。
「待ってるからな……来いよ、オヤジ」
黒い部屋の奥――
崩れかけた記憶の隙間で、アスターは今、再び“自分”になろうとしていた。