第十四話「目を閉じたまま呼ぶ声」
パン屋「カランコエ」は、まだ開店前だった。
外は小雨。石畳が濡れ、空気には焼きたてのパンと焙煎豆の香りが溶け込んでいた。
だがその地下では、違う匂いが漂っていた。
血と、機械油と、焦げた電子部品のような――戦場の匂い。
「……これが、“アスターがいた部屋”だと?」
ガルビネアが低くつぶやいた。
テーブルの上には、ルピナスが持ち帰ったデータ端末。
ホログラムが再現したのは、真っ白な空間。そして、血文字。
「やつらは、“人格の書き換え”を試みていた。それも、獣人に対してだ」
「そりゃあもう、人体実験どころの話じゃないね……」
ガーベラは黙ったまま、地図の一点を睨んでいた。
アスターが連れ去られた“その先”――だが今はまだ特定できない。
「ルピナス。この先、どこへ連れてかれた?」
「データの末端に“アナザーシェル”という暗号名が出てきた。
コードごとに再配置されてるが、位置情報を“植物群コード”で管理してる」
「植物群コード……“ライラックの座標体系”か?」
ルピナスは小さくうなずいた。
その瞬間――
「……!」
小さな呻き声が部屋に響いた。
全員の視線が向いた先、ベッドに寝かされていたノヴァが、薄く唇を震わせていた。
「……ア……ス……た……」
ライラックがすぐに駆け寄り、そっと彼女の手を握る。
「ノヴァ……!」
彼女の額に再び汗が滲む。
神経波は乱れ、まるで何かを“拒絶する”かのように反応していた。
「苦しんでる……でも、これは体の痛みじゃない。“記憶が暴れてる”」
「アクセスはしてないはずだ。記憶スキャンは切ってある」
「違う。“外側”から何かが流れ込んでる……!」
ライラックの瞳が微かに濡れる。
彼女は、かすかに空気の“波”を感じ取っていた。
「……今、どこかで、アスターが“自分じゃなくなりそう”になってる。
それを、ノヴァが感じてる」
「精神リンクか……? 完全に切れてるはずじゃ――」
「ノヴァの中に、アスターの“感情の断片”が残ってる。
……心の端で、今も彼を見てるの。
だから、彼が崩れると、ノヴァも壊れる」
ノヴァが小さく震えながら、短くつぶやいた。
「……“白い部屋”じゃない……“黒い部屋”に……落とされる……」
ルピナスがすぐに端末を確認し、スキャンデータの中に“未解析領域”を発見する。
「……あった。“暗号化された層”だ。ノヴァの記憶から直接アクセスする必要がある」
「無理だ。これ以上、あの子の負荷を上げたら……」
「――私が行く」
ライラックの声が静かに響いた。
「私の力で、ノヴァの意識に潜る。“植物の感覚”で彼女を守りながら……記憶の中のアスターを見る」
ルピナスが目を見開いた。
「……危険すぎる。幻覚と現実の境界が崩れるぞ」
「それでも、今ここで繋がなきゃ、もう彼は“戻れない”」
ガーベラが黙ってうなずいた。
「行ってくれ、ライラック。……お前の“やり方”を信じる」
ライラックはノヴァの隣にそっと腰を下ろし、
静かに手を重ね、目を閉じた。
まぶたの向こう、ノヴァの記憶と繋がった瞬間――
そこには、ひとつのドアがあった。
重く、黒く、何も書かれていない扉。
その向こうから、ひとつだけ名前が呼ばれていた。
「……ユリ」
それは、アスターの声だった。