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少し前まで俺は男だった。
碧眼になるため茶色いの目の上からカラーコンタクトを被せる。
下地を塗って毛穴を隠し、ファンデーションを塗る。昨日は寝付きが悪かった。目の下が黒いのでコンシーラーで隠す。パウダーをふわっと顔全体にのせてベースメイクは完成。
眉、目の周りをアイブロウ、アイシャドウ、アイライン、マスカラで整える。アイシャドウは強めだ。唇は薄く引く。
そんなこんなで顔はお絵描きでどうにかなる。だが、身体つきはどうしようもない。
痩せ気味なので平均より突き出ている喉仏はハイネックのブラウスを着ることで隠し、骨ばった手は手袋で隠す。
準備を終えると俺は立ち上がって姿見の前に立つ。
私物の金髪のウイッグが少しズレていたので直す。これまた私物のドレスは今日も可愛い。
うん、今日も完璧だ。世界一かわいい伯爵令嬢、オリーブ・ブランシェットが完成した。
「小千谷くーん! ちょっといいかなぁ?」
店長に名前が呼ばれた。ここは女子更衣室。この店で働いているキャストの男は俺だけ。営業開始よりかなり前に来て俺は準備をしているのだ。
「あ……はい!」
俺は慌てて立ち上がり更衣室を出る。
更衣室を一歩出るとそこは異世界に転生したかのような中世ヨーロッパ風の部屋。とはいえここは異世界ではない。何の変哲もない雑居ビルの二階。
ここはお嬢様喫茶『panda noir et blanc』だ。メイド喫茶のお嬢様版。俺、小千谷奏はここではオリーブ・ブランシェット伯爵令嬢という源氏名で働いている。
そんなオリーブになりきった俺を呼び出したのは最近赴任してきたマネージャーの津南さん。眼鏡をかけた女性で、この人は執事のような格好で普段は裏に引っ込んでいるので俺よりもメイクは地味だ。
「えぇ!? もう着替えたの?」
津南さんは俺の格好を見て大げさに驚く。この人はどんなリアクションも大袈裟。オタサーの姫のような人なのでどうにも好きになれない。
「あ……はい。他のキャストの人が来る前に男の俺だけは準備を済ませてるんです」
「なるほどね……まぁいいわ。いつまで続けるの?」
「え? あー……まぁ……高校を卒業するまでは。春休みが終わったら2年生なので……あと2年くらいですかね」
「了解」
「な、なんですか?」
「ううん。なんでも」
津南さんは俺とは目も合わせず、爪のささくれを見ながら奥の部屋へ引っ込んでいった。
津南さんは赴任してきてからまだ数日でよく知らない人ではある。ちょっと変な人なのかも、くらいで俺はこの時気にもとめなかったのだった。
◆
開店と同時に入ってきたのは常連客の一人の湯沢さんだ。仕事は何をしているのか知らないが、平日も休日も開店時間と同時に入ってくる。
「ユザワ公爵、ようこそおいでくださいましたわ。お飲み物はどうされますか?」
俺の声は中性的らしい。声変わりもそこそこに高めの声で留まったため、難なく女声が出せる。
「うん。コーラかな」
湯沢さんはいつも通りのテンションで答える。実は先週、この人に連絡先を聞かれた。
まぁ仕方ない。俺って可愛いし。中身は男なのでガチ恋しちゃって足繫く通う気持ちも良く分かる。
ただ、いくら男同士とはいえキャストと客がプライベートで繋がる事はご法度。俺は丁重に断ったが、それが尾を引いている事は無さそうで安心する。
「かしこまりました。お待ちください」
俺は腰を直角に曲げて伝票を持って裏へ下がる。
「お願いいたしますわ。コーラです」
「了解っす~。今日もオリーブさんは可愛いっすねぇ」
バックヤードの担当の小出さんは俺から伝票を受け取りざまにフヒフヒと気色悪く笑う。ボブカットくらいの短い髪の毛をいつも後ろで束ねていて下ろしたところは見たことがない。
「ど……どうも……」
注文が立て込んでいる訳ではないのでそのまま待っていると、すぐに小出さんはコーラを出してきた。
「どうぞ、コーラっす」
「ありがと」
俺はコーラを受け取ると近くにある布巾で再度水滴を落としてからトレーに乗せる。
なんだか今日のトレーはテカテカしている気がする。
そんな日もあるか、と俺は気にせずにコーラをもって歩く。
湯沢さんの近くに来たところで、俺は背後からいきなり『小千谷君!』と呼ばれた。
驚いて振り向いた拍子に躓き、俺はコーラをトレーに乗せたままこけてしまった。
ガシャン! パリン!
「うわっ! 冷たっ!」
床に這いつくばっているが、湯沢さんの声で我に返る。
見上げると、コーラは湯沢さんの服にこれでもかと言うくらいのシミをつけていた。
「もっ……申し訳ございま――」
俺は立ち上がって速やかに謝ろうとするが、それを引っ張って制してきたのは津南さんだ。
「湯沢様! 申し訳ございません!」
「あぁ……だ、大丈夫ですよ」
「小千谷、早く拭くものを」
「は、はい!」
俺がバックに戻ると、騒ぎを聞きつけていた小出さんがすぐに清潔な布巾を出してくれた。
「大丈夫っすか?」
「あ、うん。出来たら箒とちりとりも持ってきてもらえますか?」
「はいっす」
小出さんはテキパキと動いて準備をしてくれた。
布巾を持って戻ると津南さんが湯沢さんにまだ平謝りをしているところだった。俺のせいなのに申し訳なくなる。
「あの……すみませんでした……」
俺がしゅんとして謝ると湯沢さんはにこやかに「気にしないで」と言ってくれた。
だが、津南さんが俺に向ける顔は厳しい。
湯沢さんの機嫌が戻ったところで俺は無言で津南さんにバックヤードに連れて行かれる。
扉が閉まった瞬間、津南さんは「君、今日でクビだから」と告げてきた。
「はっ……え?」
「だから、クビ」
「い、いまの対応が良くなかったんですか?」
「それだけじゃないわ。お客さんと個人的に繋がろうとしてたんだって? 店のルールで禁止されているのは知ってるよね?」
「ち、違う! それは俺が聞かれて断っただけで――」
俺の弁解に津南さんは「キモっ」とだけ呟いた。
「は……な、なんて言いました?」
「キモいよ、君。鏡で見てみなよ。ブスな女装男がお嬢様のフリをシてるかと思ったら今度は『俺』とか言い出しちゃうんだよ。ほーんと見てらんない。早く辞めてよ」
「な……なにを……」
言っている意味が理解できなくて俺は固まる。この人は俺の何を知っているんだ? 会って数日の人にここまで言われる理由があるのか? ブス? 俺は世界一可愛いんだが?
あまりの嫌悪感に俺は津南さんと同じ空間にいられなくなる。
そのままバックヤードを出ると、荷物も持たず、着替えもしないままヒールで俺は店から春休みの学生でごった返す繁華街へと飛び出した。




