103 『アンリライアブル』
浮橋教授はなにも言えなかった。
これ以上の証拠はない。
審問官は得意そうに口の端をゆがめた。
「ふむ。裁判官が言うように、地動説の正しさ以上に、それを証明する資料の正しさの証明も怪しい。データ不足は明確。これではすべての人を納得させられない。それらしい論理だけ口にしても、証拠がないのでは……」
「まったくですな。盗人にも三分の理、とも言いますが、これは晴和王国のことわざでしたかな?」
フェルディナンド教授が冷たくあざ笑った。
これに応じて、
「どんなことでも、こじつければ理由がつけられる。それをする盗人の晴和人。皮肉なもんだな」
「ちょっと状況がピッタリすぎるんですけど」
と、聴衆が揶揄する。
ヒナはこれを言った男女の二人組を見て奥歯を噛みしめた。
この魔女裁判を成すために宗教側から呼ばれた聴衆だろう。
力の入ったヒナの手。
心配してずっと手を握ってあげていたチナミは、もう片方の手でそっと優しく包んだ。チナミの手は小さいからちゃんと包めないが、ヒナはその温かさに気づいて手の力を緩める。
「あ、ありがとう」
「はい」
今ヒナが怒りに任せて割って入っても状況が変わるかはわからない。
まだ裁判官たちの結論も出ていない。
裁判長も最終的な判断をしていない。
だが、このままでいいとはヒナには思えなかった。
「裁判が始まる前に判決はくだっていたようなものだが――」
重々しく、フェルディナンド教授は一拍の間を置いて、
「判決は変わらない。被告人の主張は認められませんね」
「裁判官のみなさんの意見を聞くまでもないようですね」
審問官がそうまとめようとすると、エドアルディ博士も賛意を示した。
「ええ。第一、法廷に出る者としての作法がなっていないのでは? 情報提供などすべきことも満足にやれていないではありませんか。裁判まで一年以上あって、その間にいくらでも研究できたはずなのに、データ不足。地動説を唱えてから何年になります? あとになってデータ集めを始めたにしても、未だに足りないでこの場に出てくるなんてことがありますかねえ? 盗人じゃあるまいし、だれかの研究を盗んだってわけでもないと思いたいですが」
ヒナはくちびるを噛む。
――お父さんの自由を奪って、見張りまでつけて、なにがいくらでも研究できたはずなのによ!
父がほとんど外出さえできない監視に合うことが予測され、満足な研究とデータ収集さえできない状況に追い込まれるのがわかっていたから、ヒナはひとり旅立ち、代わりにデータを集めて研究してきたのだ。
元々、浮橋教授はずっと昔に地動説を唱えたが、最近ではそんな話をまったくしていなかった。
近年地動説の研究を始めたのはウルバノで、宗教側は彼の家を火事で消し去り、彼を陥れ、彼をマノーラから追い出した。自分たちが作った世界観を守り、自分たちの権利を守るために、地動説は邪魔だったからだ。
それだけでは飽き足らず、ウルバノの研究が次の地動説論者の出現を駆り立てることを危惧して、過去に地動説を唱えた学者の中から見せしめに魔女裁判を開くことにした。
そこで白羽の矢を立てられたのが浮橋教授だったのである。
浮橋教授は別の研究をしていたし、やりたくてこの裁判を始めたのではない。
ただ、宗教側が「浮橋教授の研究が今までの地動説の中でもっとも危険である」と考えたからに他ならない。
つまり、浮橋教授は真実に一番近いところに行った人だったのだ。
「都合が悪いとだんまりですか。人々の幸せやそれを作る土台となる常識をひっくり返してやろうという裁判まで起こして、言葉足らずな……」
「データも足りていませんねえ?」
と、フェルディナンド教授がせせら笑った。うまいことを言ったつもりなのかもしれない。
「一人の妄想から人類の愛や幸せな生活を覆されるような裁判までして、結果はこの通りです。ここら辺で判決を出しませんか」
フェルディナンド教授が審問官に提案すると、
「そうですね。浮橋教授は言葉もないようですし」
と審問官がうなずく。
言葉もないと言われて、浮橋教授は言い返した。
「地動説の根拠は話しました。確かにデータは少し不足しているかもしれませんが、なにも矛盾はありません」
今度はエドアルディ博士が鼻で笑った。
「かもしれませんなどと。科学者が言う言葉でしょうか」
理屈を立場や権力によって押さえつけるとき、こうして作法や言葉遣いなどを指摘して取り合わないというのは、往々にして使われる手である。実際、浮橋教授の提示した資料に不備はないし、実験などによって目の前での確認を取れていないだけなのだ。
「ええ」
と、同調する笑いを含ませながら審問官が言った。
「それでは、判決に移りましょう」