75 『バックサイドチナミ』
ヒナがアルブレア王国騎士二人組から逃げ切る前。
数えると、その約一分ほど前のこと。
『王都』でヒナが会いたかったのは、次の三人になる。
地動説証明の鍵を握っていると思われる少年、城那皐。
天体望遠鏡を創ってくれた父の友人、『晴和の発明王』。
幼馴染みにして気心許した親友、海老川智波。
この中で。
たった今、ヒナの存在に気づいたのがチナミだった。
友人のナズナと士衛組に加入し、旅に出ることになったのだが、ヒナはむろんまだそのことを知らない。
つまり、サツキの仲間になっていたのである。
そんなチナミはナズナと歩いていた。
ナズナはついさっき行ったばかりの水族館のことを話していた。ずっと楽しかったねという話をしていたのだが、なにか思いついたように言った。
「超音……波って、出すの……難しい……かな?」
「……」
チナミは考える。
――私、詳しくないからわからないけど、たぶん難しいとおも……。
思考が止める。
「『緋色ノ魔眼』城那皐の居場所を吐いてもらうぞ!」
「そんなのこっちが聞きたいわよ!」
この先の交差点を左に曲がった通りから、そんな声が聞こえてきた。
荒々しい声は、サツキの名前を口にした。
警戒態勢に入る。
ただ、それだけでは済まなかった。
もう一つの声には、聞き覚えがあったからだ。
だから驚いた。
――ヒナさん!?
それは旧友の名前。
チナミにとって、ナズナ以外のもう一人の幼馴染み。
くいっとナズナの服の裾をつかみ、口に人差し指を当てた。
「?」
小首をかしげるナズナに、チナミは説明する時間もないというように、巻物を口にくわえた。
くノ一衣装に変身する。
巻物を口にくわえると、チナミは変身できる。
これは忍びの里でもらった特殊な巻物で、試練を乗り越え、免許皆伝の証としてもらったものだからだ。
巻物には、三つの忍術が内蔵されている。
影に関する忍術を、三つ使うことができるのである。
その一つが、
――《影身隠ノ術》。
人の影に隠れて潜む術である。
影に目あり。
潜んでいても、影に目があるように、その高さの視点からにはなるが、周囲を認知できる。
すなわち、ナズナの道端に立たせて、その影の中にチナミが潜んだ形になる。
「待ちやがれ!」
「待つわけないでしょーがぁー!」
また声が聞こえた。
――やっぱり!
角を曲がって走ってきた人物を見て、チナミはそれが旧知の幼馴染み・ヒナであるとわかった。
――ヒナさんだ。相手は、サツキさんを狙っている……?
どんなつながりなのか、想像がつかない。
ヒナが叫びながらまっすぐ全力疾走する。
「こうなったら先行逃げ切りぃー! うわあああああ!」
続いて、二人組が角を曲がってきた。
「お! いたぞ!」
「あっちだな!」
と、二人組が確認し合う。
――あの服装、アルブレア王国騎士だ。じゃあ、敵。
チナミは、騎士が自分の前を通り過ぎた直後、影から飛び出して、騎士二人の足首をつかんだ。
「《潜伏沈下》」
そっとつぶやき、ズボッと騎士二人を地面に引きずり込む。
下半身がまるまる埋まるほど深く沈め、チナミ本人はさっと地面から飛び出した。
地面に潜ることができる魔法、《潜伏沈下》。これは自分ばかりじゃなく、他者を地面に引きずり込むこともできる。しかも、そのあとで自分だけ地上に出てくることも可能だった。
「な、なんだ?」
「なにが起こった?」
「埋まってないか?」
「おまえは……」
「士衛組の『小さな仕事人』海老川智波!」
「そう! 小さな――」
目の前に現れたチナミを見上げる騎士二人に、チナミは「小さくないです」と言葉をかぶせて、扇子で風を送る。
「《砂異眠演舞》」
目に入ることで眠らせられる砂を撒いた。
何事かと目をしばたたかせる騎士二人組は、砂が目に入って「いてっ! いてて!」とか「うお! 痛い痛い痛い!」とかうめくと、次の瞬間には眠ってしまっていた。
「ぐごー」
「ずずずぅー」
見ているばかりだったナズナが、チナミの横まで来ておずおずと聞いた。
「騎士の……人たち?」
「おそらく」
ナズナがヒナの走っていったほうを見るが、もう姿も見えなくなっていた。
チナミもそちらに顔を向け、
「提灯、渡しそびれた」
ぽつりとつぶやいた。
ヒナの父の裁判が行われるであろうことはチナミも知っていた。新聞を見ていれば知ることはできる。だから、裁判での勝利祈願に『証明』と書いた提灯を手作りしたので、それを渡そうと思っていたのだ。
だが、今回は渡せなかった。
次に会ったときに渡したいとチナミは思ったのだった。
したがって。
結局、この出来事を知ることなく、ヒナは二人組からの逃げ切りに成功したのだった。