72 『ダッシュアクロス』
ヒナは船の上から、サツキを呼んだ。
呼ばれて、サツキは角を曲がる手前で振り返った。
「……」
「どうしたの?」
振り返ったサツキの様子に、彼の隣にいた少女・ルカが聞いた。
「いや。今呼ばれたような気がして」
「私にも聞こえた気がしたけど、なにもいないわよ?」
「だな」
「海から聞こえたし、どうせ河童か海坊主よ。行きましょう」
「うむ」
二人は角を曲がって歩いて行った。
対して、呼びかけたヒナは。
こちらもちょうど、角を曲がったところだった。
つまり、叫んだ瞬間に屋形船が角を曲がり、サツキが振り返って姿を探し始めたときにはこの屋形船自体が彼の視界から消えていたということだった。
ヒナは膝をつき、ガクッとうなだれる。
「もうっ! みんなしてあたしを馬鹿にしてぇ」
だが、ヒナはすぐに立ち上がった。
「ていうか、だれが河童か海坊主よ! あたしの《兎ノ耳》で全部聞こえてるわよ、あのオンナぁ。今度会ったら言い返してやるんだから。覚えておきなさい」
見えない少女に指差して、文句は言っておく。
――さて。
ふくらはぎを触って、うなずく。
――体力も回復してきた。サツキが行った方向もなんとなくわかった。行こう。
ぐるっと見回して、ヒナは一点で視線を止めた。
「よし。あそこになら陸地に飛び移れる。いくわよーっ!」
数歩ばかりの助走をつけ、ヒナはぴょーんと跳んだ。
高低差がある。
飛び降りればいい。
ほんの三メートルの高さから着地すればいいだけだから、ヒナは余裕を持って跳べた。
が。
ヒナが着地しようと右足を地面に伸ばした、ちょうどそこへ。
猛スピードで自転車が突っ込んできた。しかもその自転車は、パンダのおもちゃみたいなデザインだった。
「うそ!?」
自転車の運転手はヒナの存在に気づかない。
チャイナ服風の女騎士だった。
彼女は奇声を上げていた。
「ちゃあああああ! 《大熊猫加速》!」
叫ぶことで、力を出しているのだろう。
しかし、ヒナも叫んだ。
「避けてええええぇぇー!」
このままではぶつかる。
だから教えるために声を張り上げた。
「なにアルか?」
ヒナを見上げる。
なんとか、女騎士に声が届いた。
だが、届いただけだった。
女騎士は、ヒナの注意の内容を聞き取れたわけではなかった。
見上げる女騎士の顔面に、ヒナの右足の靴底がめり込む。
ヒナは女騎士の顔面をクッションにしてぴょーんと跳び、腕を広げて綺麗に着地した。
「ど、どうも。お世話になりました」
引きつった笑顔でお礼を述べて、ヒナはピッと一礼してくるっと身をひるがえらせて、ゆっくりと逃げるように歩き出す。
しかし、もちろん声はかけられる。
「ちょっと待つアル! そこのガキ!」
「んんー?」
と、ヒナは白々しく額に手をやって遠くを見るポーズで、周囲を見回す。
「おまえしかいないアルよ、黒兎」
ヒナはゆっくりと振り返って、引きつった苦笑いで頭の後ろをポリポリかく。
「で、ですよねー」
「アタシは浦町矢春。おまえは?」
「いいお名前ですね。あたしは浮橋陽奈っていいます。このたびは申し訳ないことでございました。はい。でも、今日はお日柄もよく。ええと、ですから……ご、ごきげんよーう!」
たびたび出くわした元気を振りまくサンバイザーの知人を思い出して、ヒナはあの挨拶を使ってみた。
すでにヒナは猛ダッシュしている。
当然、ヤーバルは許してくれなかった。
「浮橋陽奈! おまえ、あのくノ一のガキ以上にムカつくアルぅー! 待つネー! ちゃあああああ! 《大熊猫加速》!」
ヒナは再び、町中を駆け回ることになった。
「なんで今日はこんなに変な騎士がいるのよー!」