20 『サニティー』
――今、あたしを追っている人たちに、特殊な探知能力はない。
そう導き出した。
――もし、あたしみたいに音で聞き分けられるのなら、挙動が変わる。もし、匂いで辿れるのなら、歩く速度が変わる。もし、透視のようなことができるのなら……。そうやって考えてみると、あいつらには探知能力に長けた魔法の使い手はいないとみていい。
いたらとっくに見つかっている。
ラナージャに着くまでに捕らえられているだろう。
――逆に。もし、そんな使い手がいたら、あたしには聞き分けられない。でも、いたらとっくに見つかってる。だからいない。
単なる背理法だが、ヒナの仮説が正しい証明には必要充分な理屈になる。
角を曲がって、四つの足音がすべて遠くなったことを聞き取る。
「よし……これで、全員まいた。見つからずに済んだ。でも、ここがどこだかわからなくなっちゃった」
苦笑する。
土地勘のないラナージャで、方向感覚もわからなくなってしまった。
「だれか、教えてくれる人でもいれば、なんて……そんな都合良いことないわよね」
刹那。
風の音。
鋭い形状の物質に、風が巻く音がした。
「ひっ!」
「見事な瞬発力ね。アタシの剣を避けるなんて感心しちゃう。そんなアンタに、ここがどこか教えてあげようか? そして、連れて行ってあげようか? アンタの父親の元へ」
間一髪、ヒナは避けられた。
背後から、風を巻いたその音は、剣が突かれた音だった。もちろん、ヒナに向けて突かれたもので、足を狙っていた。歩けなくするのを優先しての攻撃であろう。
一瞬、心臓が止まったかと思った。
だが。
パッと前に飛んで、後ろの相手と距離を取って、振り返る。心臓がバクバク音を立てながら、ヒナは口を開いた。
「あたしがだれだかわかって言ってるのよね?」
「当然でしょ。アンタも、なんで剣を向けられてるかくらい、わかってるわよね?」
相手は、二十代半ばの女だった。
やはりイストリア人のようである。
「さあ? あたし、悪いことなんてしたことないからわかんない」
「まあ、国外逃亡くらい悪いことじゃないけどね。でも、アンタの父親が悪い研究してるってことは、アンタも知ってるでしょ? 国外逃亡してるんだしさ?」
「国外逃亡だなんて、あたしイストリア人じゃないのに? あたしはただ旅に出ただけ。そして、お父さんの研究は純粋な科学よ。お父さんは純粋な科学しか研究しないの。そもそも、今はもう研究してないことで突っかかってきて、鬱陶しいのよ!」
そう言って、ヒナはまたくるっと身をひるがえして駆け出した。
――やっぱり、足音が聞こえない! なんなのよ、あいつ! 足音を消せる魔法? 他の音も消せる? じゃあ、剣は? 剣に巻きついた風の音は消せなかったわよね?
考えをまとめようとしても、走りながらだと思考がうまくまとめられない。
ふと。
気になって、頭だけ振り返る。
そのとき――
「きゃっ!」
髪が切れて、ハラハラと宙に舞う。
頬を裂いたことで血飛沫が上がる。
しかしそれも軽傷と言える範囲である。
あと数センチで脳に剣が突き刺さり、命を落としていたかもしれない。
それでも幸い傷口は小さく済んだ。
恐怖で心臓が縮むような感覚がして、バランスを崩して転がるようになったが、女のほうを向いて構える。
「……」
真っ白になった頭を正常に戻そうと呼吸を整えているヒナに、女は笑いながら言った。
「おっと、危ない。殺しちゃうところだったわ。いきなり振り向かないでくれる? 耳を切ろうとしてたんだから」
「……っ」
くちびるが震えて声が出ない。
足もわずかに震える。
ひざから力が抜けそうになるのをなんとか堪えて、口を引き結ぶ。
まだ足は動きそうだった。
走る。
距離を取らなければならない。
「逃がさないよッ! 浮橋陽奈!」
「……はぁ、はぁ」
呼吸が再び乱れる。
この女の声がどうしようもなく怖い。
それとも走っているから息が切れているだけなのか。
走り出してから何秒経ったのか、ヒナはようやく頭の中に言葉が出てくるようになる。
――し、死にかけた……。危なかった……。で、でも、殺す気は無いらしい。でも、容赦はない。なんなの? どういうつもり? 耳から切るとかおかしくない? さっきまで足を狙ってたのに。
「正気じゃないでしょ、こいつ!」
つい独り言が出る。
が。
自ら言った言葉で、ハッとなる。
「いや」
違う。
そうじゃない、と気づく。
「正気だ。分析できてる。あいつの剣を避けた理由が、あたしの耳に秘密があるって考えたからやったんだ。あたしが音を聞き分けたって考えて、あたしの耳を狙った……」
足音こそ聞こえないが、きっと今も追いかけている女には、ヒナの声も聞こえていない。
「魔法による戦いは、相手を知ること、観察して分析することが大事だって、本では読んだことあったけど……」
――まさか、無策で戦うことって、こんなに危険だったなんて……。このままじゃ、殺されちゃう……! 一歩間違えたら、死んじゃう。
ヒナはまた振り返りたくなって、その気持ちを抑えて逃げる足に力を込めて、必死に考える。