15 『ウォーニング』
マンフレード邸。
今も家は残っていた。
家の前で、ヒナは長く息を吐いた。
「やっぱり、もう何年も人が入っていないみたいね」
予想していただけに、落胆はない。
しかし、未来の自分の……マノーラの家を連想させて、少し胸が痛んだ。
右手で、ぎゅっと、セーラー服の左胸を握り、息を吸う。
「あたしは負けない。また、お父さんのところに戻ってきて、いっしょに戦うんだから」
だから、こうはならない。
こうはさせない。
そう思って、ヒナは右手を下ろして、それから玄関のドアをノックする。
……返事はない。
ドアノブをひねってみようかと思ったところで。
後ろから、声がかかる。
「その家になにか用でもあるのか?」
手を止めて、ヒナは振り返る。
「い、いえ。はい。ただ、ちょっと……久しぶりにヴェリアーノに来たから、知り合いに挨拶がしたくて」
「……へえ」
青年だった。
まだ二十歳くらいだろうか。
怜悧な鋭さは、理知的な雰囲気を与える。
シャープでクールな顔と声だ。整った顔立ちに、左目にかけたモノクルの特徴が目立つ。
――どうしよう。変に思われたかな?
ヒナがなにを言われるだろうかと不安を感じる中、青年は続けてこう言った。
「残念。その家の家主はもういないよ。空き家だ。いや、その家は元々の家主の息子に移ったが、彼もここには住んでいない」
「実家というか、別荘みたいな……?」
「まあ、そうなるか」
それこそ、のちのアサヒの家が同じことになっておかしくなかった。所有権がヒナに移ればいいほうで、没収されることもあり得るが。
「あの……あなたは、どちら様ですか」
「ボクは、名乗るほどの者じゃない。ただ、ここの家主のことはよく知っていたからさ」
「はあ」
言いたくないことでもあるのだろうか。なにか歯に挟まったような言い方に聞こえた。
「マンフレード博士のこと、知っているなら教えて欲しいんですけど」
「いいよ。答えられることなら」
敵か味方か。
彼もヒナを判断できていない。
そんな視線に感じる。
「博士は、異端審問にかけられたそうです。あたしの父が博士と知り合いで、それであたしも会ったことがあって、それで、博士がどうやって戦ったのか知りたいんです」
「そんなこと教えられるわけ……」
ヒナは力強い眼差しで青年を見つめる。
その目を見返し、青年は肩の高さに両手をあげた。
「わかった。でも、なんで知りたいの?」
「それは……言えません。もしまた会うことがあれば、時が来れば、あたしが戦場に出てくる時が来たら、話せるようになりますけど……今は、言えません。すみません……」
ふーん、と青年はヒナの話を聞いた。
「そ。わかった。まず、博士は研究が正しいこと、そして未来には環境問題への対策が必須になること、この二つを証明するデータを集めた。現に、それを提示した。しかし焚書となった。認められなかった。つまり、博士がしたのはそれだけだったのさ。仲間も募らず、正しさを主張しただけだったんだ。正しいだけじゃ勝てない。相手が正しさを問うているわけじゃないんだから、当然さ。博士の敵は、論理を求めてなどいない。実証実験とかで目に見える形で証明し、大勢の支持を得られれば、命くらいは助かったかもしれないな」
ぐっとヒナが拳を握る。
青年は冷静に、少し冷たいくらい落ち着いた声でなだめる。
「おい、怒るなよ。それがこの世界を、いやこのマノーラを支配する構造なんだぜ。したがって、やるべきは事を大きくして世間に広く周知させ、民意を得ること。実験でもなんでもして証明できる準備をすること。共に戦える仲間を募ることだったのかもしれないな」
それから、青年は小さく笑った。
「なにがおかしいの」
ヒナがにらむ。
が。
青年の笑いは、どこか自嘲的だった。
「仲間、か。言っていて、自分でも気づかされた。ああ、仲間を募るってことは大事かもしれない。でも、仲間か……」
「?」
怒りも引っ込み、頭に疑問符が浮かんだところで、青年は薄い微笑を浮かべた。希薄な、消えそうな温かさにも見えた。
「ボクからは、もう言えることはない」
「そ、そうですか」
「ああ。それじゃ」
背を向けた青年を見ながら、ヒナは両手を胸の前で握った。
――なんだか、寂しそうな音がしてた。あの人の心音、なんだったんだろう。
ヒナはマンフレード博士の家を再度見直し、それからここを立ち去ることを決めた。
「だれもいないなら、もういる意味もないよね。さあ、宿を探さないと」
そのとき、さっきの青年の声が聞こえた。
ただのつぶやきだった。
「戦場って言ってたな。『論理の欠片をすべて拾い集めれば、必ず結果が形成される』。そうなることを期待したいものだな」
ヒナはハッとして走り出す。
「今の、お父さんの言葉! あいつ、何者!?」
さっきの青年が歩いて行ったほうへと駆けてゆくが、角を曲がると、そこにはもう青年の姿はなかった。
足音もない。
「だれかわからないけど、そうしてやるわよ。あたしが、証明してみせるんだから」