9 『イヴァキュエイト』
このまま尾行者がフェードアウトしてくれればよかった。
そうすれば、父にこれを報告し、父に余計な心配をさせることもなかったのだ。
だが、もう何日も尾行は続き、終わりそうにない。
ヒナたち親娘が地動説の研究をしているという決定的な証拠をつかむまで、追いかけるのをやめないだろう。
「いや、見せしめの異端審問をやる口実を思いつくまで続くだろう」
アサヒはそう言った。
もうヒナに隠さず、アサヒも危険な可能性について少し触れていく時が来たのである。
「見せしめか。ムカつく」
「でも、そうしないと彼らの教義が守れなくなる。運良く、何事もなく何ヶ月も尾行だけで済ませて引いてくれればいいけど、一度危険視したら見逃してくれないよ」
「じゃあ、どうする?」
これからの行動方針が必要になる。
しかし、アサヒには最優先事項もあった。
――現状維持の様子見で、引いてくれるのを待って、本当に引いてくれればどれだけいいだろう。でも、それはあまりに希望的観測に過ぎない危険な賭けだ。ぼくにとっての最優先事項は、ヒナの安全、ヒナの命。
これ以上に大切なものなどない。
娘のためにしてやれることが多い父親じゃなかった。ヒナが尊敬してくれるほど立派な父親じゃなかった。
だが、アサヒにとってヒナ以上は存在しない。
ゆえに。
アサヒは、ヒナに告げた。
「お父さんはこれから、地動説が正しいことを証明するために裁判をすることになるだろう。やらなければならなくなった」
「裁判って……つまり、異端審問?」
「そうだ。異端審問からは、逃れられない」
「じゃあ、あたしも手伝うよ。ちゃんと、だれにも文句を言われないくらい完璧に証明できるように、手伝う!」
しかしアサヒは首を横に振った。
「え」
ヒナは悲しそうな目をする。
突き放されたような、そんな悲しみをたたえた目だ。
「とにかく、マノーラを離れるんだ」
「それじゃあ、お父さんはどうなるの?」
「お父さんが戦うことになる相手は、とても大きい。どうなるかはわからない。だからヒナはここから逃げなさい」
「やだ! お父さんひとりを残して行くなんて、できないよ!」
「それしか道はない」
それって、どこに続く道?
聞きたかったが、ヒナは言い返せない。
力なく問う。
「なんで?」
「あくまでお父さんの予想だけど、次の異端審問では裁判になる。裁判で証明してみせろと言われて、論理の不備を非難し証拠の不足を指摘し、地動説を完全に否定するだろう。そうなると、裁判の準備をしなければならなくなる。でも、証明するためにいろいろ準備をしたくても、宗教を冒涜したとして、厳しい監視の目がつく。尾行なんかじゃなく、行動を制限するような厳しい監視だ。そうなれば、自由には動けない。だから……今のうちにできることは、ヒナを逃がすことだけなんだよ」
きゅっと、ヒナはくちびるを結ぶ。
――宗教を冒涜っていうのは、建前かもしれない。それを言えば、宗教を信じる一般市民を味方につけて、自分たちが正義を名乗れる。お父さんを妬む学者とか、新たな学説が出ることによって不利益を被る教育者たちもいると思う。ほかにも、もっと後ろにだれがいるのかはわからないけど……なにが狙いなのかもわからないけど……でも、確かに、あたしがここにいてもやれることはない。あたしがいたらお父さんの心労を増やす。あたしがいたら……邪魔になる。
聡いからこそ、ヒナはもうわかってしまう。
自分がいたら父の邪魔になると。
――だったら、あたしにできることをする。あたしにしかできないことをする。あたしは、ただ逃げるなんて嫌だから!