269 『ペーパージェイル』
右手の銃を先に処理する動き。
だからマルチャーノの右後方に出た。
剣の軌跡はマルチャーノの右手首を切り落とすように描かれるが、マルチャーノは驚くべき敏捷性でこれを回避する。
ただの回避ではない。
後ろを振り向くように、右足を軸に身体を回転。
当然、ここで銃を持った右手は回避成功。
同時に、左手でミナトに触れようとする。
ミナトは目を丸くした。
ミナトはおごっていた。
ミナトは油断していた。
自分の速さなら、必ず避けられると思っていた。
その確信は本来あって当たり前で、これまでの経験からの裏づけのあるものであったが、マルチャーノがそうであるように、サツキのようにミナトの動きを読める人間もいる。
それをあっさり失念していた。
あまつさえ。
触れられる直前、ミナトは《瞬間移動》をするか一刀を浴びせるか、それとも数センチ下がってから剣を振るか、迷った。
だから触れられてしまった。
肩だった。
さらっと、服の生地を撫でるように、辛うじて触れた程度の接触だった。
これによって。
ミナトは紙になってしまった。
薄っぺらい紙そのものになってしまった。
余白などはない。
等身大のミナトの形をそのままに、紙になってしまったのである。
目線の動きでそれを察する。
――やっちゃったなァ。あはは、まさか身体がこんなペタッと薄っぺらくなってしまうなんてね。
ミナトは試みる。
――動けるのかな? 声は出るのかな?
手を動かそうとしても動かない。
足を動かそうとしても動かない。
口を動かそうとしても動かない。
――まいったなァ。全身どこも動かせないや。
ただ呼吸はできているらしい。
いや、本当はできていないのだろうか。
――息は吸えてる? いや、息が吸えたら身体が膨らむから、薄っぺらいままのはずがないよね。ということは、呼吸もしていない? 一応、息苦しさもないし、生命活動に問題は起こらない仕組みみたいだけど。
それからミナトは思う。
――ごめんよ、サツキ。迂闊に動いてしまった。失態だ。反省しなければならない。
思い返せば。
――サツキは緊張状態で、なにかを察知していた。その正体を探ろうとしていた。それを待たないといけなかったんだ。
が。
ここは戦場。
反省したって時間は戻らない。
今更気づいても取り返せない。
――申し訳ないけど、僕はただ待たせてもらうよ。キミに救われるのを。キミならなんとかしてくれると信じるよ。相棒。
すべてをサツキに託し、ミナトはふっと考えるのをやめた。
サツキは。
少しずつ、状況が理解できてきた。
「マルチャーノさん。今、あなたが憑依した人間が持つ魔法は、人や物を紙にするものだ。自分の意思では動けない、しゃべれない、なんにもできないただの紙にしてしまう。違いますか?」
「まあ、見たままだな。その通りだ」
薄い反応だった。
薄っぺらい返しだった。
まるで紙のように薄く、淡白なリアクション。
さっきのミナトとの問答の時にも、中にあるマルチャーノ自身の感情は言葉の端々にあるばかりで、表面的には冷めたものだった。
「それにしても、誘神湊は過信していたな。自分の神速に。だが、オレに読めないわけがないだろう。いくつもの人格を自身に降ろして使いこなす、人間を知り尽くした男だぞ」
言われてみればそうだ。
最高の人間通。
そんなマルチャーノには、相手の考えや動きを読むのは至極簡単なものなのだ。
サツキは肩をすくめた。
「確かに、人を見ることにかけては一流。右に出る者がいない。そうかもしれません。でも、それだけで勝てるほど、魔法による戦闘は甘くない。俺が教えてあげます。すべてを見通すこの目で、あなたの戦術を打ち砕く」
顔に正面から手のひらを当て、指の隙間から緋色に染まった瞳を覗かせ、視線でマルチャーノを射抜く。




