268 『エマージェンシーバック』
――止まるべきか?
それとも。
――進むべきか?
判断に迷う。
しかし。
迷える時間はほとんどない。
――なにが起こるかわからない《屍者憑依》に、無闇に突っ込む形になってしまった。一度攻めてみて情報を集めるのも手。だが、これは、望ましい展開じゃない。
ゆえに。
――緊急回避が吉だ。
サツキはまたミナトに呼びかける。
「ミナト」
「はいよ」
キッとサツキが止まると。
それに気づいたミナトが慣性のまま前に進みながらも消えてサツキの真後ろに現れ、サツキに飛び込むような格好で手のひらをサツキの背中に当てて、サツキを伴い《瞬間移動》した。
この一連の動きをたったの数コンマ二秒でやり遂げ、二人はマルチャーノから緊急回避してみせた。
ただ距離を二十メートルほど取っただけで、眼前にはマルチャーノが佇んでいる。
マルチャーノは右手では銃を持っているが、左手は奇妙にも胸の高さでなにか構えている。
――あれは、なにを狙ってのポーズだ?
見ようによっては柔道のようでもある。
――柔道っぽい? いや、少し違う。違うけど、やりたいことは同じなのか? つまり、相手をつかみにかかりたい? それとも、ただ触れることで発動する魔法を使おうとした? あるいは、今もその動きはなにかの途中……?
しかしマルチャーノの手は続けて動こうとはしていない。
その形のまま、マルチャーノは言った。
「まったく便利な魔法だな、その転移。誘神湊よ、貴様はその異能を持ちながらよくぞあれだけの剣術を備えているものだ。貴様のその魔法だけをオレが預かり、ただの剣士として人形にしたいとか、そんな妄想をいろいろとしてしまうくらいには、貴様の魔法にも剣術にも魅力を感じてしまうぞ」
「でも、そんなことはできないんでしょう?」
「ああ。できない。人形か肉体も滅びるか、二つに一つだ。まあ、どちらにしろ死ぬことにはなるが、貴様ら二人は生かして育つのを待つのも一興。実に悩ましい逸材だ。改めて、レオーネとロメオの代替品だと言ったことは詫びねばならないな」
その後もサツキはマルチャーノの手に注目するが、魔力反応の大きな変化はない。
――俺たちが近づかないから変化がないのか。だが、距離が縮まった際にもこれ以上の魔力の増大はなかった。したがって、あの魔力量でいつでも発動できてしまう魔法。その準備もできている。そう思ったほうがいい。ただし発動のための距離は未だ不明。
サツキは会話などする気はなかった。
今のマルチャーノはあまりに淡白で、表情が薄い。言葉の端々には、サツキとミナトへの期待と高揚があるのに、表面が冷めている。
これが新しい人格を降ろしたマルチャーノらしい。
会話で糸口を探るのにはまるで向かなそうなタイプである。
――次に憑依した人間には薄情というか、淡白な要素があるみたいだ。会話は諦めるとして、攻めかかるには早い気がする。
ただ戦い始めるにはなにかよくないような、そんなぼんやりと霧がかかった妖しいリスクが頭をよぎる。
直感でしかないのかもしれないが、疑惑が増す。
腕の一つさえ動かすのに注意して、ミナトにどう声をかけるかも惑い、緊張感が増してゆく。
――なにか、おかしなことをしようとしている。マルチャーノさんはなにかを狙っている。そんな予感がひしひしと……あっ!
ミナトを視界の端で捉え。
呼びかけよとする。
止めようとする。
が。
神速を極めたミナトはもう《瞬間移動》で消えていて、マルチャーノの右後方から剣を振るっていた。




