92. 開かれた空
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四月、いわゆる球春到来。
プロ野球の新シーズンが数日前に開幕し、スポーツメディアは賑わいを見せている。
二軍戦のウェスタンリーグはそれに先立って三月下旬に開幕、筑後市にあるファルコンズのファーム施設も、どことなく慌ただしくなってきた。
しかしそんな喧噪も、四軍の育成選手である道雪には、ほぼ無縁の出来事であった。
四軍制を敷いている福岡ファルコンズだが、それぞれのクラスにははっきりした違いと格差が存在する。
まず一軍は、言わずと知れたチームの顔である。
年間143試合を戦ってシーズン優勝と日本シリーズ制覇を目指し、試合には3万人以上のファンが観戦に訪れ、毎度のように応援で盛り上がる。
優勝すると経済効果が産まれたりして、チーム状態が地元福岡の景気まで左右するほどだ。
二軍になると、注目度は比べものにならないほど低い。
しかしながら公式戦が存在し、イースタンとウェスタンに分かれてペナントを争い、1試合だけだが頂点を決めるファーム日本選手権がある。
三軍と四軍では公式戦はなく、練習試合のみ。
九州と四国に独立リーグのチームがいくつかあり、良い試合相手になっている。
そして福岡ファルコンズの場合、三軍が月10試合ほどに対して、四軍は5~6試合。
つまり試合にたくさん出て経験を積み重ねるのが三軍で、四軍は基礎的な育成やリハビリが中心になるという、はっきりした線引きが行われている。
そんなわけで四軍の道雪は今日も、観客の居ない練習場で猛ノックを受けていた。
「こらぁドーセツ、いつまで寝っ転がっとる。とっとと立たんかぁーい」
「ほいっ」
飛びついた打球を捕れずに悔しがっていた道雪が、何食わぬ顔でひょいっと起き上がる。
道雪に施された聖女の加護はなかなか絶好調で、実はノックをしているコーチの方がへとへとだ。
「いやぁ、喉が渇いたとです。水分補給して良かですか」
「やからもう一球捕れたら上がり、ちゅうとるやろがぁ。そお言うて10球やぞ、頼むからいい加減捕ってくれぇ」
悲鳴にも似た叫び声を上げながらコーチが放つノックはしかし、またしても捕れるか捕れないかギリギリの厳しいゴロだ。
「どっせええええいっ」
気合いを入れて横っ飛びの道雪が、今度こそバシッとキャッチする。
「よっしゃああああ――ありゃ?」
即座に立ち上がりファーストに送球しようとしたが、どういうわけか捕球した筈のグラブの中に、ボールの手応えがない。
「ありゃりゃ? ボールどけ行ったとけ?」
少しして、立ち上がった瞬間にグラブから真上に跳ね上がっていたボールが落ちてきて、スコーンと道雪の脳天を直撃した。
「あたたたたっ」
「ドーセツ、勘弁してくれよぉ……何やったら、こげん糞プレイが出来っとかい……野球でお笑いでもすっ気かいな」
「あっ、それ良かですね」
「そげなわけ、あるかぁーーい」
コーチはとうとう、バットを杖にしながら、その場にへたり込んでしまった。
そんなふたりの遣り取りを、四軍の同僚コーチたちが気の毒そうに眺めていた。
「ああ、またやらかしとるわドーセツ……」
「あいつのコーチはしんどいからなあ。楽しいし、やり甲斐もあるけど」
「そだな。ああ確かに、そうだ」
何しろ道雪ときたら超が付くド下手くそであるが、非常識なほどタフなのでいくらでも鍛えられるし、見かけによらず器用な処があって、教えた事はほぼ吸収して実践出来る。
「だけど、なあ……」
「教える事がたくさんあり過ぎて、こっちの目が回っちまうわ……」
打球を素手で捕ろうとしない、スライディングの時にベースをぶっ飛ばさない、なんじゃその刀振る時みたいな妙ちくりんな構えは、などなど、何から何まで規格外だった。
「高校ん時の監督、苦労しただろうなあ……」
「あれでフツーに野球やらせてたんやろ、尊敬するわ」
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そんなこんなで四軍では期待の星である道雪は、練習試合でもきちんとスタメンで試合に出してもらっていた。
当初は下位を打っていたのだが、エラーをふたつやらかしてはホームランを2本打って取り返し……という事を繰り返しているうちに、いつの間にか4番を打つようになっている。
宮崎の独立リーグチームを筑後に迎えての試合だったが、開始早々、道雪の守るサードに難しいゴロが転がり、味方ベンチにサッと緊張感が走った。
「あかん、ドーセツのとこやっ」
「頼むフツーに守ってくれい」
「俺じゃああああ」
やる気満々の道雪は猛ダッシュでカッコよくキャッチ、タイミング的にぎりぎりと判断して、ジャンピングスローで力いっぱい一塁へ送球する。
バッシーーーーン。
物凄い音をしてボールがミットに収まり、アウトが宣告された。
だがしかし次の瞬間、ドヤ顔の道雪に浴びせられたのは、味方からの容赦ない野次だった。
「ドーセツの阿呆がっ、ファースト殺す気か」
「フツーに投げんか、何をレーザービーム発射しとる」
「慌ててアウト取りに行くな。もっと考えて冷静にプレーしろ」
『アストロ球団に里子に出すぞ』という、以前より何度か言われている、謎のワードも飛び出した。
「うーっす、ドンマイっす」
「阿呆が、ドンマイの意味、分かっとんのかーっ」
ちなみに相手ベンチは全員腹を抱えて笑っていて、崩壊状態に陥っていた。
球審の提案により試合をいったん中断し、取りあえずは全員で深呼吸。
みんなで気を落ち着かせた処で試合再開、そして一回裏。
2アウト一塁で道雪の打順となった。
高校野球なら繋ぐバッティングも考えられるのだが、ここは曲がりなりにもプロ野球。
4番打者なら長打を狙うべき場面であり、ベンチからも自由に打って良し、というサインが出た。
このチームとの対戦は二度めだが、今投げている投手とは初対戦。
右投げオーバースロー、大学を出て3年めで、独立リーグだと古株の部類に差し掛かる年齢になる。
初めての打席は互いに手探り状態になる事が予想されたが、道雪の狙いは至ってシンプルである。
甘い球を逃さず、バットに乗せる。
それだけだ。
道雪が速球に滅法強いというデータを掴んでいるのだろう、ボールになる変化球を立て続けに二球、放ってきた。
道雪は昨日、打撃コーチからカーブの打ち方を教わったばかりで、一応モノにした気はしている。
スライダーその他は捨てとけ、今のお前にはどうせ打てん、と言われている。
――どうせなら昨日教わったカーブ、打ちたかなあ。
「カーブ来ーい、カーブ、来んけぇー」
「来いと言われてカーブ投げる馬鹿が、どこに居るんだよ」
あぁいけん、つい口に出しとった。
呆れ顔のキャッチャーに指摘されてようやく気付いた、道雪だった。
そのせいではなかったが絶好球だったストレートを見逃し、またも盛大に味方から野次られる。
これで2ボール1ストライク。
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――ドーセツがかなり馬鹿なのは、分かった。
相手チームのキャッチャーは、そんな道雪の裏をかく事に決めた。
四球めのサインは、カーブ。
しかし外に大きく外れる、クソボールだ。
――これに手を出すようなら、こいつの馬鹿は底無しだ。
これまで速いボールで攻めていたので、ここらで緩急を付けるのもひとつのセオリー。
一瞬怪訝な顔をしたピッチャーだったが、サインに肯いて投球モーションに入った。
投げてきたのは、さっきのストレートより10㎞/h以上遅い、外に曲がって落ちるカーブ。
しかしコースはボールコースからさらに曲がっていくような、誰が見ても完全なボール球だった。
ところがボールの軌道を見た道雪の眼が、きらりと光った。
「よっしゃあああ、カーブじゃあ、ありがとさーん」
がっちりと右足を踏み込み、外に大きく逃れるボールに付いて行こうとする。
「あっ、馬鹿ッ」
「なんちゅう球に手を出すんじゃドーセツっ」
ベンチの声ももはや耳に入らず、スイングの体勢に入った。
――溜めを作って、バットは最後に出すようにしてぇ。
「打ーーーーつ!」
ガッキーーン。
もの凄い音とともに、アッパー気味のスイングですくい上げられたボールは、ピンポン玉のようにとんでもない勢いで高く舞い上がり、バックスクリーンのボードを越えて、場外に消えていった。
球場の時が、止まった。
誰もがあんぐりと口を開けたまま、ボールの行方を見守っていた。
「やったっ。カーブ打てましたよ、コーチ」
してやったりの表情で、道雪が爽やかに歯を見せる。
「アウトっ」
しかし球審の軽やかな声が静寂を破り、ダイヤモンドを回ろうとした道雪は盛大にズッコケた。
「何ごっすか、今のスタンドインしましたがっ」
「アウトや、バカタレ」
ああ、ついに審判にまでバカと言われてしまった。
「お前の右足、完全にベース踏んどったやないか、反則でアウトや――まったく、バッターボックスからはみ出さずに打つとか、初歩の初歩やぞ。野球をせんか、野球を」
具体的には、打者はバッターボックスの中で打撃を行わなければならない、というルールが野球にはある。
足をはみ出した状態でバットに当てれば、その時点でアウトが宣告される。
多少の解釈の相違やお目こぼしはあるにはあるが、道雪の場合は右足がベースを踏むほど完全にはみ出していたので、どこからどう見てもアウトだった。
「はあ……反則、すね……」
返す言葉もない。
「まったく規格外の馬鹿やな、お蔭で助かったわ……それにしても飛びましたのぉ、ボール」
「ああ、160メートルは行ったんやないか」
短い会話を交わす球審とキャッチャーが、次第に笑顔になっていく。
「……あんな凄い打球、初めて見ましたよ」
「そやねえ」
ホームランを打ちながら、反則でアウトになってしまい、すごすごとベンチに戻って来た道雪を、チームメイトたちはこれ以上ないくらい手荒く出迎えた。
「馬鹿があんなクソボールに手を出しよって」
「今のは100パー見送りやぞ」
容赦ないパンチとキックが、四方八方から雨あられと飛んでくる。
「いたたたたっ。じゃっどん、カーブ打てましたがっ」
「ああ、予想以上の良かバッティングやったな。だがアウトになっちゃあ、全部台無しじゃ」
「そんなぁ……」
大変な目に遭っている道雪だったが、周りのみんなは次第に笑顔に変わっていく。
道雪を見ていると、野球がいちばん楽しかった頃を思い出すし、野球を大好きだった事に改めて気付かされるのだった。
四月の昼下がり、野球日和のいい天気だった。
道雪の頭上にある空は、ひろびろとどこまでも開かれていた。
第3部、完結です!
最後はなかなか筆が進まずに、失礼しました。




