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91. 未来へ



 長野県松本市。

 古諸高校の音楽科教師、外浦奈緒美は、市街地にあるジャズ喫茶の扉を開けた。

 まだ昼前の開店直後だが、店内からは既にピアノの音が聞こえてくる。


 音大卒の外浦は、教師でありながら、長野県内ではそこそこ名の知られたピアニストでもある。

 昨日は招待されたコンサートで難解なピアノ協奏曲を弾き切って、花束と賞賛をわんさか貰い、少なからずちやほやもされ、達成感は半端なかった。


 師匠関係の挨拶回りやら、人脈作りを兼ねたオーケストラ団員との交流やらは昨日のうちに済ませ、オーバーホールという名目で取った今日の有給休暇は、この店を訪れるためだった。




「こんにちはぁ」

「いらっしゃい」

 カウンターの向こうから喫茶店のオーナー徳川ノブオ、通称トクさんが笑顔で外浦を出迎える。

 ベテランのジャズベーシストで、ここ松本ではジャズ界の顔役と言って差し支えのない人物だ。


「やあ、先生、平日に珍しいね。学校は休み?」

「ううん、今日は有休取ったんです。昨日のコンサートが終わって、やっと解放された感じ」

「相変わらず活躍してて、何よりだね」

「えへへ、それほどでも」


 外浦は既にこの店の常連であり、クラシックとジャズの畑違いながら、音楽を志す同類として、トクさんとは互いに一目置く仲になっていた。


 そしてふたりとも、今現在、店奥のステージで演奏しているジャズピアニスト、染矢愛の大ファンである。




 曲目は『風の谷のナウシカ』。

 この曲がジャズナンバーとして成立するのも然る事ながら、これが外浦らが生まれる遙か前の曲で、映画音楽としては古典的な扱いを受けている事に、トクさんは改めて驚いた。


「そうなんだなぁ。考えてみれば、30年以上前の曲なんだよね。自分の認識とか常識とか、常にアップデートし続けなきゃ、いけないね」


 ゆったりした静かな曲の筈だが、低温のリズムが力強く、意外に荒々しい。

 メインメロディにしても、空を渡る風と言うより、岩壁に打ち付ける荒波のようだ。

 まったくのオリジナルに近い状態でありながら、曲の原型はしっかりと留められており、それだけでも愛の、ピアニストとしての力量が窺い知れるのだった。


「愛ちゃんてほんと、見かけによらないですよね」

「ピアノの前に座ると、人格変わるよね」

 そんな会話をしているうちに曲は完全なアドリブとなり、ふと気になるフレーズが耳に入ってきて、外浦は顔を上げた。

 見ると、ステージの愛も外浦を見て微笑んでいる。


 間違いない。

 昨日コンサートで外浦が弾いた、ピアノ協奏曲の一節だ。


「あっ、そうだ。愛ちゃん実は、昨日のコンサート聴きに行ってたんだよ。先生に逢えなくて少ししょげてたかな」

「えええっ。それだったら楽屋に来てくれて良かったのに――てか愛ちゃん来るって知ってたら、招待してたよっ」




 曲が終わるとほぼ同時に、外浦は待ち切れない感じでさっと駈け寄り、ほとんど抱きつかんばかりにして愛に頬を寄せた。

「愛ちゃん、やっと逢えたねー。今日は夜までここに居られるんだ、ゆっくりお話しする時間あるかしら」

「ええと大丈夫、ですよねトクさん――私ですね昨日、ナっちゃん先生のコンサート行ったんです。先生綺麗だったし、アダージョの解釈が素晴らしかったです」

 それはまさに、先ほど愛が弾いていたフレーズだった。


「ありがと。愛ちゃんだって、音色にずいぶん磨きが掛かってきたじゃない」

「あっ、嬉しい。それって今、私がいちばん力を入れてるとこなんです」

 そうしてふたりは、ピアニスト同士だけに通じる微笑みを交わし合った。


「もうすぐお昼時なんで、私はいったん接客に戻るんですけど……ナっちゃん先生、代わりにピアノ弾きます?」

「いいけど――私はクラシック曲しか弾けないよ?」


「ああ、構わないよぉ。先生に弾いてもらえるんならピアノも幸せだ」

 トクさんがカウンターから助け舟を出した。

「やぁねトクさん。愛ちゃんが毎日弾いてるからこのピアノ、とっくの昔に幸せになってますよ――そしたら遠慮なく」


 外浦が姿勢を正してピアノの前に腰掛けると、それだけで周囲の空気が変わった。

 優秀なピアノストってこういうものなんだな、と愛は肌で感じた。

 そして外浦は『子犬のワルツ』を弾き始めた。




「そうだ先生、うちの賄い飯、食べてみる?」

 ランチタイムが終了した休憩時間に、トクさんが声を掛ける。

「あ、いいかも。私ですね、同い年の友だちと一緒に住んでて、その子が仕込んでくれたカレーがすっごく美味しいの。是非食べてください」

「えぇー、いいの? それは楽しみだなあ」


 出されたのは海老と茸のカレーで、ひと口食べた外浦は目を見開いた。

「何これ。すっごく美味しい」

「でしょ」

 聞けばその子は宮崎からはるばる松本に引っ越して、調理師の免許を取るために専門学校に通っているそうだ。

「海の近くに住んでる民宿の跡取り娘でね、海産物の目利きと処理が半端なく上手いんだ。キッチン任せてみたら、とんでもない逸材だった」


 看板メニューのポークカレーと日替わりパスタのソースは彼女の担当で、音楽メインの喫茶店なのに、食事目当てで通ってくる常連がちらほら現れ始めた、との事である。




 ピアノの連弾をしたり、トクさんと楽しくセッションをしていると休憩時間はあっという間に過ぎ、学校から亜蘭が戻って来た。

「いらっしゃいませ。なんね、ふたりのお知り合いの方ですか、はじめましてっ」

 程良く日焼けした健康的な美少女で、服の上からでもプロポーションの良さは明らかだった。

 そして時折見られる、九州独特のイントネーションも可愛らしい。

 食事目当てじゃなく、この子目当てで通い詰める客も居るんじゃないかしら、と初対面の外浦は思った。


 ジャズ喫茶はどちらかと言えば夜の部の方が本番で、トクさんが好きなレコードを掛けたり、暇を見つけては愛がピアノ演奏を披露したりしている。

 平日なのに、店はそこそこ賑わいを見せていて、トクさんひとりがカウンターに居た頃の閑古鳥が嘘のようだった。


「若い女の子が居ると、全然雰囲気が違っちゃいますね」

「先生だって僕から見れば、若い女の子なんだけど」




 夜が更け、カレーとパスタも売り切れて、店はようやく落ち着きを見せ始める。

 トクさんが店の奥からウッドベースを出してくると、カウンターに並んだ常連客たちが、ささやかな拍手を送った。

 この店のメインイベント、トクさんと愛のデュオライブが、いよいよ始まる。

 少し離れた処では亜蘭が慣れた手付きで、配信用の録画装置を設置していた。


 ピアノの前に座った愛と、肯き合うトクさん。

 トクさんは満面の笑みだ。




「へえ」

 独創的な前奏の後にピアノが奏でたメインメロディを聴いて、外浦は短い感嘆の声を上げた。

 ロドリーゴ作曲、アランフェス協奏曲、第2楽章。


 非常に美しい旋律を持つ、ポピュラー界でも良く演奏される曲ではあるが、そもそもはギターがメインのオーケストラ曲で、デュオだとピアノはギターの伴奏に回るケースがほとんどである。

 ピアノとベースの組み合わせは異色とも考えられ、それを普通に演じるジャズの自由度を感じて、外浦は頬に手を当てて微笑んだ。


 ピアノがメインメロディを弾き終えると、今度はトクさんの出番だった。

 愛は伴奏に回り、トクさんの指がメインメロディを紡ぎ出していく。


 ――やっぱこの人、凄いわぁ。

 弦が太く小回りが利かない楽器の筈なのに、トクさんの魔法の指からは、見事なまでの美しい旋律が、まるでギターを弾いているかのような滑らかさで奏でられてきた。


 カウンターの常連客たちが、しきりに振り向いては肯き合い、身震いしながらうっとりと耳を傾けている。

 今夜のトクさんは、殊更に神がかっているようだった。




 交互にメロディの提示を行いながら、次第に曲はオーソドックスなバラードから、ジャズ独特のグルーヴ感が見られるようになった。

 アドリブ満載のふたりの対話とも言える掛け合いが、聴いていて心地よく、それでいて退屈させない。

 トクさんの神技が光る今夜の演奏だが、だんだんに愛のピアノも主張を強めてくる。

 そして曲の佳境、フルオーケストラでのメロディに繋がるギターのカデンツァで、ふたりは申し合わせたように、ユニゾンでの連打を開始した。


 わずかな溜めがあって、そして、クライマックス。

 外浦は、うっとりと目を閉じた。


 ――ああ、愛ちゃんにはこれがあるんだよなあ。

 暴力的なまでの、音の奔流。

 詰まる処は重音の多用であり、理論的には容易に理解出来るのだが、これほどの速さをしかもアドリブで弾き切ってしまえるのは、愛の卓越したセンスとテクニックが成せる業である。


 ――私が同じ事をやろうとすれば。

 オケのフルスコアを穴が開くほど検証して、ああでもないこうでもないと練習を重ね、それでようやく形になる、それをこの子は呼吸でもするかのように難なく、自分のモノにしてしまっている。

 間違いない。

 愛ちゃんはやがて、世界に羽ばたくピアニストに、なれる。




「おい、これって――」

「ああ」

 常連客たちが交わす短い遣り取りの内容を、外浦は完全に理解していた。

 今夜、私たちは、歴史に残るかも知れない名演奏を、耳にしている。


 ステージで楽しそうに演奏するトクさんと愛の姿を、外浦は眩しそうに見つめていた。


 


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