9. 愛のピアノ、そしてセッション、新たな出逢い
*
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ピアノの椅子をスッと引いてくれたトクさんに礼を言い、愛が腰掛ける。
ポロンポロンと試し弾きをしながら、愛は眼前のピアノと対話していった。
「あ、このピアノ、好きかも」
「そりゃ良かった」
トクさんは店のテーブルを少し動かして椅子をふたつ並べ、ここがいちばん良く聴けるんだよ、と志乃さんに教えてくれた。
愛はこっちを向き、眼だけで『弾くよ』の合図をした。
トクさんも眼を細め、ゆっくりと肯く。
そうして弾き始めた曲は、愛の外見からは考えられないほどの激しい出だしだった。
スタンダードナンバー、ミュージカルの名曲『マイ・フェイバリット・シングス』。
あまりにも有名すぎるジョン・コルトレーンの情熱的な前奏、それをコピーしたピアノ・バージョンだ。
「はは……シビれるなあ……」
トクさんが眼の下を人差し指で拭きながら、ちいさく呟く。
このフレーズを好きなトクさんが、こんな感じで弾いてと母に度々リクエストしていた事を、愛は知っていた。
サキソフォーンと違ってピアノは、太く激しいロングトーンで圧倒させる事は出来ない。
しかしその代わりに、音の多重性とグラデーションで、奔流を作る事は可能だ。
雪解け直後の千曲川、ごうごうと荒れ狂う流れ、夜になると水の音以外は聞こえなくなる。
広くない店内に、愛の激しいピアノの音が響き渡った。
左手で奔流を作ったまま、右手で小気味良くメロディを奏でる。
ピアノとは歌であり、声であり、演奏とは声を繋げた、聴者との対話。
愛は自問自答しながら、トクさんに、志乃さんに愛の声を届けていった。
私の、好きなもの。
大好きだったお母さん、お父さんは奪われてしまった。
転生して記憶を奪われ、10年もの間、命の奪い合いをした。
異世界では、出逢いと同じ数だけの別れを繰り返した。
厳密に言えば、出逢いがひとつだけ多い。
アラン。
現し世では離ればなれだけど、まだ別れてないんだよね。
私、ピアノが好き。
誰も私からピアノを奪えはしないだろう。
私はピアノで歌い、話し、そして呼吸する。
私はピアノに、生かされていた――
私は野球が好き――になろうと、思う。
アラン、そしてお兄ちゃん。
私の好きな人が好きな、野球。
そんな野球を、私は好きになりたい。
私の、好きなもの。
好き、という感情。
私の、好きなもの。
「愛ちゃん、すごぉーい」
立ち上がり、ワンピースのスカートをつまんで礼をする愛。
夢中で拍手する志乃さんの傍らで、トクさんが立ち上がり、愛の元へふらふらと寄って行った。
「愛ちゃん、ひとつお願いがあるんだ」
「はい」
「何も言わず、このおじさんを抱きしめてくれないか」
「はい、喜んで」
愛がそっとトクさんをハグすると、トクさんも愛を抱きしめた。
「よく来てくれた……よく来てくれた……」
トクさんはぎゅっと両眼を閉じたまま、何度も何度もその言葉を繰り返した。
*
そこからトクさんが愛用のウッドベースを持ち出し、ふたりでセッションをしよう、という話になるのに、時間は掛からなかった。
「愛ちゃんのピアノ、シーナにそっくり、という言葉さえ失礼になってきたね。愛ちゃんのピアノは、愛ちゃんだけのもの。もう一人前のジャズピアニストだよ」
「だからトクさん、それは褒めすぎだって――志乃さん、なんかリクエスト、あります?」
「いやいやほんとあたし、曲知らないからっ」
野球部員にジャズの選曲させるとか、どういう拷問だよと思ってしまう。
「じゃあ誰もが知ってるナンバーが良いな――『枯葉』なんかどうだい?」
「トクさん、今時の若者は『枯葉』知らないですよ、シャンソン自体ポピュラーじゃなくなってるから。でも『枯葉』なら私、楽譜なしで弾けます」
「じゃあ『枯葉』行こう」
チューニングをしながらいくつかの打ち合わせを済ませ、トクさんのベースがリズムを刻み始める。
それを見つめていた愛の左手がベースに合わせて動き出し、やがて右手がメロディを奏でていった。
――あーあ、愛ちゃんと一緒に観光する筈が、すっかり予定が狂っちゃったなあ。
特等席にひとり座り、志乃さんは苦笑いをしながら頬杖を突いた。
正直な話、この店に入る直前までジャズなど聴いた事はなかったし、興味もなかった。
今でもジャズが好きかといえば――やっぱり微妙、である。
しかし愛の活き活きとした顔を見ているのは嬉しかったし、愛のピアノを聴くのも、非常に心地良かった。
――でも。
愛ちゃんは、野球部に居るのが良いんだろうか?
本人のやる気を否定するつもりはないけど、愛ちゃんはジャズピアノを弾いてるのが、いちばん似合ってるような気がする。
志乃さんはふたりのセッションを聴きながら、そんな事を思っていた。
実はここで、トクさんはひとつミスを犯している。
愛との再会、そしてセッションで頭がいっぱいになって、店をいったん閉める作業をしていなかったのだ。
今夜は店にトクさんひとりなので、トクさんがベースを弾いてしまうと、接客出来る人間は現在、ゼロである。
しかしそれが今夜、さらに新たな出逢いを産み出す結果となった。
*
小店が並んだ縄手通りの街道を並んで歩く、ジャージ姿の3人娘。
「いやいやぁ、今度の招待試合は、プレゼントだったねーっ」
「奈っちゃんてば、もう。試合は明日で、まだ始まってないっしょ」
月商三年のマネージャー山本奈月さんを、夕張三年セカンドの宮古菫さんがたしなめる。
「そですねぇ……したっけ、またふたりと一緒のチームで野球やれるなんて思ってなかったから、プレゼントですよねーやっぱり」
ふたりの真ん中に居た、ひときわ小柄な少女が、栗高二年になったレフト、間柴香奈だ。
試合前日の練習を終え、夕食も済ませた自由時間、仲良しの3人でこうして並んで歩くのも、掛け替えのないプレゼントだ。
松本城は昨日行ってきたので、今夜はレトロな中町で食後のスイーツを半ば無理やり楽しみ、女鳥羽川沿いまで足を伸ばしてみた。
「あ、屋台あるよぉ、お祭りでもないのに」
「奈月さん、まだ食べるつもりですか?」
「いやいや、さすがにお腹いっぱいっしょ」
何しろ普通に夕食を摂った後、プリンと鯛焼きの追いスイーツをハシゴしてしまった。
奈月さんは確か、下腹のぽっこりを気にしていた筈なのに、これでは元の木阿弥である。
「仕上げに何か飲んで、帰ろっか」
菫さんの提案にみんなで賛同する。
「そしたらさ、キッチャ店行こ、キッチャ店。ホテルの裏に、良さげなとこ見つけたんだ」
『あー、あそこねー』
松本への遠征中、時間を惜しむように3人ほぼ一緒に行動しているので、奈月さんがどの喫茶店を指して言っているのか、大体分かった。
「敷居は高そうだったけど、良い雰囲気だよね」
「この時間、開いてるかなあ」
「なんもなんも、行けば分かるっしょ――おー、開いてたっ」
ドアの向こうは灯りが点いていて『営業中』の札も吊してある。
「なーんか小粋な音楽が流れてるねえ」
「多分だけどジャズっしょ、これ――おおー、生演奏でないかい」
『おばんでーす』
こうして栗夕月奈の3人娘は、トクさんの店のドアを開けた。
*
カナたちが店に入って来たのは、一度めのメロディ提示、そして二度めの変奏が間もなく終わり、次にベースのソロへと移ろう、としていたその時だった。
『おばんでーす』
…………ええーっ。
お客さん、来ちゃった。
志乃さんは少なからず慌てながら立ち上がり、くるくると首を回し、栗夕月奈の3人娘とトクさんを交互に見比べる。
しかし。
トクさんと来たら、一向にベースを弾く手を休める様子がない。
それどころか志乃さんに対して、『頼むよ』的な感じで目配せをしてきた。
――トクさぁぁぁん。
こっ、これは、あたしに接客しろ、って事よね……
ええい、仕方ないっ。
コーヒーとケーキを御馳走になった恩義もあるからねっ。
「いらっしゃいませえ。お好きな席に、どーぞっ」
腹を括った志乃さんはカウンターに置いてあったエプロンをキュッと締めると、お盆にメニューとお冷やをみっつ乗せ、カナたちが腰掛けたテーブル席へと向かった。
――同年代の、可愛い女子たちね。
怖そうなおじさんじゃなくて、良かった。
ジャージ姿って事は、部活からの帰りかなあ……3人ともジャージが違ってるから、みんな別の学校なのかな。
「ごめんなさあい、今マスター、演奏やってる最中なんです、音楽をごゆっくりお聴きくださ……」
テーブル脇に寄って行ったその時、カナたちのジャージに記名されている『栗川』『夕張』『月形』の文字が、志乃さんの目に入った。
「ええええええええっ」
驚愕のあまり大声を出した志乃さんを、不思議そうに見上げる3人娘。
「あっ、あなたたちっ、栗夕月奈の、菫さんに……香奈ちゃんじゃないですかっ!」




