89. 年明け始動 (その2 筑後~古諸)
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圧倒的な資金力を背景に、クライマックスシリーズの常連となった、福岡ファルコンズ。
四軍まである筑後市のファームは12球団随一の規模を誇り、多くの若手選手たちが一軍での活躍を夢みて、日々汗を流している。
そしてその中に、育成3位で入団した道雪も居た。
超大規模球団であるファルコンズは育成指名も10名獲り、今年の新人は合計で18人。
支配下の上位で指名された選手とは異なり、育成指名の道雪は期待値も低く、四軍のコーチが自主トレの手ほどきをしてくれた。
投手として指名された道雪であったが、キャッチボールの段階で早々にピッチャーは諦められ、野手に回る事になった。
「ドーセツはピッチャーやらん時、どこ守ったとかい」
「サードです」
「なら、やってみい」
ノックをしてみたコーチは、道雪の守備を一球見ただけで、目を覆って天を仰いだ。
「なんじゃお前、センスだけで野球やっとったんだなあ」
「いやぁ、そげん事なかですよぉ」
「褒めとらん。なんもかんもいけんわ。いいか、脚の運びはこう、グラブの出し方はこう。そいでこう投げる。やってみい」
「よっしゃ――こうですか」
指導を受けた道雪は、コーチの言ったとおりにやってみせた。
「やれば出来るやないか、おかしな癖付いとったな」
「うんにゃ、今初めて教わりました」
「そげん馬鹿な事あるかい――ほれ」
今度はわざとボテボテのゴロを打って、道雪を前進させた。
道雪は素早くダッシュして、これまたコーチの指導通りに処理してみせる。
「ほう……?」
コーチの眉が、わずかに上がる。
「なかなかいいが、グラブの出し方はこうした方がええぞ。ほれ」
そう言って寸分違わぬゴロを打つと、道雪はまたまた微調整を完璧にやってのけた。
「ドーセツはめっちゃ器用なんやなあ。これは教え甲斐があるぞ」
「はっ、恐縮っす」
「今のは褒めとるんじゃ、もっと嬉しそうにせんか――さぁ、いくぞ」
バッティングの指導でも、打撃コーチが似たような反応を見せた。
「あかんあかん。こんなんで、よう打ててたなぁ」
「はい、ありがとうございます」
「褒めとらんわ、おもろい顔しとる場合じゃないぞ……ええか、スイング自体は追い追い、自分のものを見つけていけばええが、腰の回転と体重移動には、基本ちゅうもんがあるんや。ええか、スイングと同時に、右足から左足にこう、重心を移していく、腰を回すタイミングは、ここじゃ……振ってみい」
「はいっ」
道雪のスイングが見違えるほどに鋭くなる。
「なんや出来るやんか。さては手ぇ抜いたとったな」
「そげん事なかです、今教わったばかりっすから」
「あほな事ぬかすな――まぁええわ、取りあえず素振り100回な。しっかりフォームを固めて、自分のもんにせえ」
「うっす」
元々体力には自信があったのに加えて、愛から貰った聖女の加護は、しっかりと道雪に根付いていた。
100回素振りをしても、ほとんどフォームが崩れる事なく、道雪はやり切った。
「やれば出来るやんか。じゃあ今度は、バットの出し方をアッパー気味にしよか、お前の体格ならそれがいちばん合っとるやろ、それで素振り、もう100回。それが終わったらティー行こ」
「ティーち、お茶飲むとですか」
「あほう、野球でティーちゅうたらティーバッティングに決まっとるやろ。お前ほんま何も知らんなあ」
「あはは、それほどでもなかですよぉ」
「お前ええ性格しとるなあ」
「ありがとうございます」
「そやから、褒めとらんて」
自主トレを始めて一週間も経たないうちに道雪は、四軍のコーチ陣から一定の評価を得るようになった。
基本も何もあったもんじゃないド下手くそであるが、教えると教えた分だけ吸収して、どんどん上手くなる。
高卒にしては身体能力は優秀だし、性格もプロ向きである。
コーチとしては教え甲斐があるばかりでなく、少し教えただけでこれなら、この先どこまで伸びていくんだろうと思われる、伸び代の塊のような選手、そういう評価であった。
試合に出してみないと実力のほどは分からないので、まだ四軍に据え置く方針にはなったが『3年で一軍のレギュラークラスまで育てる』、それがいつしかコーチ間での合言葉のようになっていった。
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処は変わって、古諸の祥倫寺。
居間でピアノを弾いている愛の元へ、今夜も亜蘭が遊びに来た。
敬と道雪がプロ野球に行ってしまって以来、毎晩の事なので、愛は目で挨拶しただけで、そのままピアノを弾き続ける。
亜蘭も浩輔さんに挨拶を済ませると、ソファの上で体育座りをしたまま、黙って愛の演奏を聴いていた。
今夜の曲目は『マイ・フーリッシュ・ハート』。
元は古い映画の主題歌で、ピアノジャズではビル・エヴァンズやオスカー・ピーターソンのカヴァーが有名な、ムードたっぷりの甘いバラードである。
元ネタの映画はさすがに知らないが、恋に流されそうな切ない女性の心情をうたった歌で、美しいメロディラインを引き立たせるよう、抒情性を意識して愛は弾いていた。
――恋、かぁ……
異世界で聖女として、10年余分に生きてきた愛であるが、積んだのは人生経験というより戦闘経験だった。
ひとつの世界を救ったのは誇って良いと思うが、現し世ではそんなの関係ない。
唯一の恋愛経験は勇者アラン、ここでは道雪とのそれだったが、やっと逢えたと思ったら、既にふられていた。
その相手というのが、愛の傍で演奏を聴いている亜蘭で、今やいちばんの親友と言って良い存在である。
――人生、ほんと分かんないもんね。
思っていたより貧弱だった自らの恋愛経験に、愛は苦笑するしかなかった。
亜蘭は相変わらず、道雪が筑後に旅立って以来、ずっと元気がない。
ひとりぽつんと残された串馬の家は、夜になるといっそう孤独感が増してしまう。
大切な人が居なくなったのは、敬がプロ入りした愛も同じ立場だが、養父の浩輔さんが居てくれる事で、寂しさも全然違った。
人の温もりはやはり、人を元気にさせる。
「亜蘭はさ、卒業したら元々、道雪とは離れ離れになる予定だったんでしょ」
「うん」
民宿たちばなの跡継ぎになるつもりの亜蘭は、卒業したら免許取得のために、調理師の専門学校に進学する。
宮崎か都城かでしばらく迷っていたが、わずかに交通の便が優る宮崎の学校を受験する事にした。
どこに行くにしても串馬からは片道2時間は掛かってしまうので、ひとり暮らしは必須である。
「離れ離れになる、覚悟は出来てたんだよね」
「出来とったよ」
「でも、いざドーセツが行ってしまうと、寂しくて仕方なくなっちゃった?」
「ちゅうか、も少し一緒に居れるっち思っとった。こげん早よ、ぼっちになるっち、思っとらんかった」
「ああ、それは私も同感」
まさか正月早々から招集が掛かり、それからずっと寮暮らしになるとは思いも寄らなかったが、それも含めてプロ野球の世界なんだと納得するしかなかった。
「愛は学校、どこにも行かんとね」
「行かない。これからジャズの道をずーっと歩いてくのに、今の私に何がいちばん必要かって考えると、うーん……多分、音大に行くとか、そういう事じゃないと思うんだよね」
「どげんすっと?」
「まずは松本に行く。亜蘭も名前だけは知ってるでしょ、ベーシストのトクさん。トクさんの喫茶店で働かせてもらいながら、ユニット組んで、まずは自分のフォームを固めてみようと思う。お母さんが残してくれた人脈は最大限に活用して、セッションあったら積極的に参加するつもり――無謀かも知んないけど、やるしかないでしょ」
「愛なら大丈夫よぉ」
「……プロってさ、一瞬で、その音だけで、人の心を掴めるようじゃなきゃ、やっぱ本物とは言えないわけよ。それでギャラを貰うからね、甘い世界じゃない――てのは母さんの受け売りだけどね。冷静に判断すると私は、その域どころか入口にすら立ててないと思う」
「あたし、愛のピアノ好いとる」
「ありがと。私ね、ライブを録画して配信もやってみようと思うの、トクさんからも許可はもらった。ジャズ愛好家だけじゃない、不特定の音楽ファンも相手にするから、もっともっと音楽の幅を広げたいな」
「亜蘭――少し前から考えてた事なんだけど、さ……」
「なんね」
「一緒に松本、住まない? 同じひとり暮らしなら、ルームシェアした方が経済的だし、家財道具はこっちで揃えるから、服だけ持ってきたら良いよ」
「ん? つまり松本の専門学校、受けろっち事?」
「そうなるね」
「考えもせんかったなぁ……うーん――あたしん家、海鮮がメインやから、そっちの修行したかとよ。長野は海が無かでしょ」
「そっか――でも松本は蕎麦が美味しいし、安曇野のワサビは超有名だよ。どっちも海鮮と相性が良いよね」
「おおー、蕎麦にワサビは魅力的やねえ……うーん、でもなぁ……確かに愛と一緒やと、寂しくならんけど……」
「無理強いはしないからさ、ちょっと考えてみてよ。もし親の説得が必要なら、私も一緒に頼んでみるから」




