8. 松本のジャズ喫茶で
*
愛が野球を始めて二週間ほど経った、六月中旬。
「お兄ちゃん、私、松本まで行って来て、いい?」
「えっ、わざわざ松本まで――どうしたの?」
「うん。監督に言われたんだけど、さ……」
春季大会の後、長野県では招待試合を行っていて、優勝校と準優勝校が、全国レベルの招待チームと対戦する事になっていた。
地元の野球振興と実力アップが目的で、田舎の県ではこうした試合が、ほぼ毎年開催されている。
「ああ、招待試合か。優勝したのが松本商業で、準優勝が長野大日だったよね――招待されたの、どこ?」
「それがすごいんだよ。センバツ大会の優勝校だって」
「え――栗夕月奈? あれって連合チームだから、解散したんじゃなかったっけ?」
栗夕月奈。
北海道は空知地方の、栗川高、夕張谷高、月形商高、奈井江高。
これらはいずれも生徒数60~130名という超小規模の道立高であり、当然のように野球部員も足らず、4校での連合チームを作ったのだった。
4校合わせても選手14名、マネージャー1名というチームが、秋季北海道大会を制し、エース穂波加南を中心に、甲子園でもあれよあれよという間に勝ち上がり、ついには超名門の大阪樟蔭まで倒して優勝、紫紺の優勝旗を手にしたのだった。
そして新年度になり、新入部員の入ったチームは連合の必要がなくなり、栗夕月奈は解散。
栗川単独と、夕月奈の3校連合に分裂した、と聞く。
「うーん、良く分からないけど……招待試合のためだけに再結成した、て話だよ?」
「へえ、そーなんだぁ。栗夕月奈ってエースだけじゃないんだよ。打線も結構良いし、女子選手がふたり居てさ、決勝戦なんか、宮古さんの決勝ホームランと間柴さんのスーパーキャッチで勝ったんだ――あっ、そうか」
「うん、それで監督がね、全国レベルの女子選手を観られる機会ってほぼないから、試合観に行って来なさい、って」
「あっ、いいな、それ。松本だったらスポーツショップあるから、愛専用のグラブと――それからキャッチャーミットも買ってくるといいよ」
「グラブの選び方とか、良く分からないから……お兄ちゃんのお下がりでいいんだけど」
「そんなわけ、いかないだろ。兄ちゃんのは左利き用だし、そもそもキャッチャーミットなんて、持ってないから。仕方ないなあ。兄ちゃんも一緒に、松本に付き添ってやるよ」
とても仕方ないとは思ってない顔で、嬉しそうに敬が言った。
「敬も松本に? ダメに決まってんだろ」
山本監督がぶっきらぼうに言い放つ。
「ダメ……ですか……」
「あったりめーだ。敬は休部から復帰したばかりで、こっから調子上げていく段階じゃねえか。お前がベンチ入り目指して頑張ってくれねえと、戦力の目途が立ってくれねえよ。練習休んでる暇なんか、ねえだろ」
監督の言い方は素っ気ないが、敬を大事な戦力として見ている、という意味に他ならず、ありがたい話ではある。
「監督。私は練習休んで、大丈夫なんですか?」
「それもあったりめーだ。愛は、野球はよちよち歩きの赤んぼなんだから、いろいろ勉強してこい」
「あっ、でもですね、監督。松本で、愛のグラブとキャッチャーミットも買おうと思っていて……愛ひとりだと、選び方が分からないと思うんです……」
「だからって、敬が行っちゃダメだろ。お前は野球頑張れ」
「じゃあ、あたし行きまーす」
後ろで元気に手を挙げたのは二年マネージャー、山浦さんだ。
「あたしなら一応、グラブとミットのアドバイス出来るし、松本は行った事あるから、土地勘ありますよっ」
「おいおい、志乃で大丈夫か? 愛ちゃんに合ったミットがどんなのか、答えられるか?」
「はーい、簡単でーす。愛ちゃんは手のひらに近い位置で捕るのが得意だから、縦型のポケットが合ってまーす。器用だから、手にフィットしたちいさめのが良いかな」
横から口を出してきた依田さんに、山浦さんが速攻で応える。
「――正解だ……」
「じゃあ愛ちゃん、一緒に行こ。宮沢さん、その間マネひとりになるけど、すんませんっ」
「仕方ないわね。志乃の方が愛ちゃんも気兼ねしないだろうし、いいわよ。行って来なさい」
「はーい」
*
今回の松本行きだが、山浦さんは一泊二日の小旅行を提案してきた。
「志乃でいいわよ。学校終わったらその足で松本行ってさ、グラブとミット買お。招待試合は午前午後のダブルヘッダーでしょ、試合終わってから買い物行ったら、すっごい駆け足になっちゃうから」
「いい、ですけど……練習、二日間休む事に、なりますよね」
「いいのいいの、宮沢さんにはオッケーもらっといたから。あの人とっつきにくけど、ほんとは優しいんだよ――実はホテルも予約したんだ。女子ふたりだから、セミダブルで良いよね」
「あはは……用意いいですね……」
「マネージャーやってるからね、用意は得意なのよ-」
古諸の東信州から松本の中信州まで、距離は近く見えるが、移動しようとすると時間が掛かる。
直通のバスはなく、鉄道で行くと、いったん長野に近い篠ノ井まで北上してから乗り替え、そこから松本まで南下しなければならない。
合計二時間の鉄道旅を終えて松本駅に着き、グラブとミット、それにキャッチャーマスク――先輩のマスクを被るのは、もうこりごりだった――など諸々の野球用具を買って、市街地のホテルにチェックインした時には、すっかり日も暮れていた。
「さあて、観光観光。愛ちゃん、松本城行こうよ――あれっ、どうして着替えてるの?」
愛は着ていた服を脱ぎ、白いノースリーブのワンピースにカーディガンという、少し大人っぽい恰好になっていた。
「母の相棒だった人が松本でお店やってるんで、今からそこに行きたいんです――私、電車の中で言いましたよね?」
「え? あっ? そーだったっけ、あはははは……」
「えーと、ここだったけな……」
女鳥羽川沿いをしばらく歩いていたふたりは、そこから少し離れた、人通りの少ない路地に入っていった。
老舗ホテルの裏にある喫茶店で、看板には店名の下に『Jazz is my life』と書かれてある。
「ジャズこそ我が命、かぁ……トクさんらしいな」
そう言って微笑む愛の姿は、志乃にとって、年下とは思えないほど大人びていた。
「ライブは――今日はないんだ……志乃さん、これがトクさんです。お母さんのピアノトリオで、ベースやってた人なの」
愛は店前の掲示板に貼られたポスターを指差した。
来月行われるジャズセッションの宣伝ポスターに、ウッドベースを爪弾いている初老の男性が載っている。
「徳川ノブオさん、て言うのね……それにしても愛ちゃん、こんなとこの常連だなんて、おっとなだなぁー」
「常連じゃないんですよ。トクさんを知ってるだけで、この店は母が生きてた時に一度行ったきり、ですから。でも松本まで来てトクさんのとこ行かなかったら、お母さんにも怒られちゃいます、から」
静かに微笑んだ愛は、すう、と息を吸うと、喫茶店のドアを開けた。
店の中は静かで、ひとりも客が居なかった。
「こんばんはぁ。トクさん、いらっしゃいますか?」
「はぁい、なんですかぁ」
野太い声がすると、店の奥からポスターの男性が顔を出した。
そしてトクさんは、ワンピース姿の愛を見ると、眼を見開いた。
「し……シーナっ?!」
*
カウンターに愛と志乃さん並んで座り、トクさんからコーヒーとケーキを御馳走になる。
「いやごめんごめん、愛ちゃんに逢うの、2……3年ぶりになるかなあ。すっかり大人になって、見違えたよ。だんだんお母さんに似てきたね」
「トクさん、お母さんの事、シーナって呼んでたんですね」
愛は、母が異世界時代の自分と同じ名前で呼ばれていたのを知って、くすくすと笑った。
「そうだよ、ああ懐かしいなあ……愛ちゃん、お連れの方は?」
「はいっ、わたくしっ、山浦志乃と言いますっ。愛ちゃんの先輩でありますっ」
「元気良いなあ――山浦さんは楽器、何かやってんの?」
「いやいやあ、あたしは野球部のマネージャーで……愛ちゃんも野球部員なんですよ」
「え――えええええっ?!」
またもやトクさんは眼を見開いて、愛をガン見した。
「そーなんだ、二週前から、野球を、ねえ……お兄ちゃんから影響受けたとか?」
「そーですねえ、どっちかと言うと、兄は私が野球やるの、反対してたんですが……」
「そりゃそうだよ、野球なんてやってもらっちゃ困るよ。愛ちゃんは僕らジャズメンの、希望の星なんだから」
「またまた、そんなぁ」
笑い飛ばす愛を尻目に、トクさんはチッチッチと指を振りつつ否定した。
「山浦さん、愛ちゃんはね、今時珍しい、ジャズ純粋培養のピアニストなんだよ」
「えっとあたし、ジャズは良く知らないんですが……」
「うん。ここ最近のピアニストは、クラシックの技法をしっかり勉強してきた人が多くてね。確かに上手いし楽譜も読めるし、テクニックも凄いんだけど、妙に行儀が良いのさ。そこんとこ愛ちゃんはスタートラインが違ってて、お母さんのシーナから、ジャズの魂をみっちり叩き込まれた独学だから。バドやモンクの系列、昔ながらの荒々しい魂を持った、ピアニストなのさ」
「そう……だったんですね……」
愛の母親が既にこの世の人ではない事を知っていた志乃さんは、やや歯切れ悪く応答した。
「トクさん、私最近、少しクラシックも囓ってるの。今ね、古諸高校にいるんです」
「諸高かぁ。するってえと音楽科のある――」
「そ。軽音でピアノ弾いてる時にナオちゃんセンセ――外浦奈緒美さんてピアニストから、いろいろ面白いテクニック教えてもらったんですが、トクさん知ってる? 県内では結構有名なピアニストなんだけど」
「とうら――? スラッとした若い女の子だろ? 長い髪を後ろで束ねてる」
「多分、そう。知ってるんだ、さすがトクさんだなあ」
「いや知ってるも何も、その外浦さん、ここ最近の常連なんだ。凄い音色を出す教え子が居て、ジャズを教えてください、ってさ」
愛と志乃さんが顔を見合わせる。
「確かソメヤって言ったかな、その教え子――同じ高校だし愛ちゃん、知ってるかい?」
「トクさん。その染矢愛って、私よ」
「話聞いててもしや、とは思ったけど……そうか、シーナが死んで苗字変わったのか……愛ちゃん、苦労したんだな」
「もう大丈夫。お兄ちゃんいるし、今こうして――仲良しの人も出来たし」
そう言って愛が志乃さんに寄り添い、スッと肩を抱きしめた。
「愛ちゃん……」
志乃さんが瞳をうるうるさせて、愛を抱きしめ返す。
「いやあ、ますます愛ちゃんのピアノ、聴きたくなったなあ」
「私も、そう。ピアノ弾きたくて、うずうずしてるの」
トクさんと愛は同時に、店の奥に鎮座しているグランドピアノに、視線を移した。
「ケーキいただきました――トクさん、今でもあの出だし、大好きかしら」
すっくと立ち上がってカーディガンを脱いだ愛の、ほっそりした肩と鎖骨が露わになる。
そうしてピアノに向かって行く姿は、志乃さんにはますます大人びて見えた。