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77. 長野県大会 決勝戦(vs上田南4)



 長野県大会決勝戦も、十五回裏を残すのみ。

 この回で古諸が点を取ればサヨナラ勝ちで試合終了。

 無得点でも今日の試合は終了で、明日再試合を行う運びとなる。


 先頭打者をショートゴロに打ち捕り、上田南の投手が派手なガッツポーズで雄叫びを上げる。

 マウンドに上がっているのは、十四回から交代した三番手ピッチャー。

 三番手といえども球威は充分で、今年の上田南は力量の拮抗したピッチャーを複数揃え、勝ち上がってきた。


 7番は敬の打順であったが、代打を送られ、お役御免となった。

「あー、最後の勝負したかったなあ」

「何言ってんの。あれだけ投げたら充分でしょ」

 残念そうな顔でベンチの奥へ向かう敬を、愛がそっとねぎらった。




 肩のアイシングを始めた敬の耳に、大歓声が届いてきた。

 打球が詰まりながらもショートの頭を越え、ヒットになったのだ。

 これで古諸のヒットはようやく6本めである。


 続くバッターにも代打、今度は小技の得意な選手で、送りバントで2アウトながらランナーを二塁に進める。

 そして9番打者に、またも代打。

 県立高校で選手層は厚くはないが、一応は二年の有望株である。


 ここでヒットがが出ればサヨナラ勝ちのチャンス、繋げば上位に打順が回る、という算段だった。


 上田南からタイムが掛かり、マウンドに内野手が集合している。

 内外野ともバックホームに備えての前進守備。

 両校の応援スタンドからは、声も涸れんばかりの大声援。

 ピリピリした緊張感とともに、球場全体が熱に浮かされたような、異様な雰囲気に包まれていた。




 だがすぐに、古諸高の声援はため息へと変わる。

 追い込まれてからの4球め、打者のバットは空を切り、三振。

 相手ピッチャーはマウンドで飛び上がって両こぶしを突き上げた。


 延長十五回、0対0の引き分け。

 明日の13時から再試合を行う事となった。




 試合を終えて祥倫寺に帰ってきた染谷兄妹を、道雪と亜蘭のふたりが出迎えた。

 宮崎大会準決勝で敗れた道雪は野球部を引退し、一足早い夏休みとなり、応援がてら古諸まで転移魔法で遊びに来ていたのだった。

「おう、のさんかったな」

「お疲れー。あたしたちに構わずゆっくり休んでね」


「全然、疲れてないんだけどね」

 女神の加護で疲れ知らずの身体になった敬が、苦笑する。

 試合中ずっとブルペン待機で、宮田の肩を作っていた愛の方が、どっちかというと疲れていた。


「うんにゃ、そげん事なか。試合中ずーっときばいよったから、身体は大丈夫やが、心がひんだれちょっど。はしとだれやめせんな」

 相変わらず道雪の方言がキツすぎるが、言わんとする事は大体汲み取れる。


「じゃあ私、お兄ちゃんが良く休めるように、ピアノ弾いたげる」

「愛だって頑張ってたんだから、ゆっくり休みなよ」

「逆よ、逆。ピアノ弾かないと私、多分眠れないと思う」

 えいっ、と愛が自らに『治癒リフィック』を掛け、居間のグランドピアノに座る。


「えーと、眠れる曲、何にしようかな……」

 そう呟きながら鍵盤に指を滑らせ、高音の煌めくようなメロディが、静かに奏でられた。




 曲目は『スターダスト』。

 古い映画音楽で、ジャズでは超が付くスタンダード・ナンバーである。

 当然、偉大な先達たちの名演が数多く存在するが、エラ・フィッツジェラルドのさり気ない情感が、愛は好きだった。


 柔らかな和音に乗って、しめやかに曲が流れていく。

「うわぁ、やっぱ愛のピアノ、良かねえー」

 うっとりした表情で亜蘭が、道雪の肩に頭を乗っけて寄り掛かる。

 道雪はといえば、腕組みをしながら目を閉じで愛のピアノを聴いていたが、やがてカッと見開いて敬を見つめた。

「敬、明日あけんひん投球制限、どげんすっとかい」


「どうもこうもないよ。残り55球、集中して投げていくだけさ」

「55球投げたら、交代やっど」

「そうだよ? あとは宮田みやだに任せる」

「プルペンで愛が球を受けとった、背番号10か」

「うん。実はさ、試合の後で、僕と宮田、高遠と愛が、監督に呼ばれて――」




 その遣り取りを聞いていたわけではないが、愛の奏でる音色が、次第に力強いグリッサンドとなっていった。

 ――ああ、ダメ。どうしても、気持ちの昂ぶりを抑えられない。

 鍵盤を叩き付ける強いハーモニーがメロディラインを掻き消していき、いつしか完全にリズムまで変わってしまった。


 力強く跳ねるような、ブルースのリズム。

 もはや『スターダスト』は、影もかたちもない。




「曲、変わったよね」

 道雪の肩の上で、亜蘭がわずかに顔を上げる。

「だな」

「何の曲?」

「俺が知っとるわけ、なかが」


 これもジャズではお馴染みのスタンダード、『ブルースマーチ』だ。




 ほんの少し前とは打って変わった、あまりにも激しいピアノに、道雪と敬は目を見合わせた。

「愛、らしかねえ」

「うん、そうだね」

 一見おしとやかに見えるが、内には誰よりも激しい情熱を抱えている。

 長年の付き合いで、道雪も敬もそれを熟知していたし、そこまでではない亜蘭だって、恋のライバルという関係上、本能的にそれを察知していた。


「愛、きばいよー。愛、きばいよー」

 気持ち良さそうに道雪に寄り掛かりながら、亜蘭はずっと呟いている。


「……明日あけんひん再試合、愛の出番が、あっとかい」

 道雪の問いに、敬が無言で肯く。

「――スタメンか?」

 敬はそれには応えず、にやりと笑うだけだった。




「――僕はそろそろ、寝るよ」

 一心不乱にピアノを弾いている愛を背にして、敬が立ち上がる。

「明日も球場、来てくれるんだろ? 今日は泊まっていきなよ」


「うんにゃ、家ん中ん事やっときたいし、それに……」

 道雪の腰をぎゅっと抱きしめながら、亜蘭が先に応えた。

「ちょっとでも良かから、ふたりきりの時間、作りたかもん……」

 そう言って潤んだ瞳で、道雪を見つめていた。


 道雪が野球部を引退して夏休みに入った頃から、亜蘭の雰囲気が変わったのには気付いていた。

 高校卒業後、道雪は串馬に残って漁師になり、亜蘭は宮崎か都城の専門学校で調理師の勉強をする、と聞いている。

 来春以降はしばらく離ればなれになるわけで、ふたりの思い出を出来るだけ作っておきたい、その気持ちは理解出来た。

 ふたりの間に、一線を越えた何かがあったような気はしないでもないが、それは訊かぬが華だろう。




「俺たち、愛んピアノ聴いとくから。敬、明日あけんひきばいや」

「うん。じゃあお休み」

「お休み」


 居間を出る敬をちらとも見遣りもせず、愛は全身で鍵盤を叩き続けていた。


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