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75. 長野県大会 決勝戦(vs上田南2)



 七回表、炎天下での試合だが、敬に疲労の色はまったくなかった。

 足腰はもちろん、握力も充分、指先の感覚は常にほぼ新鮮な状態を保っている。

 ――女神さまのお蔭で、投げるのほんと楽しい、ありがたいよ。


 敬の現在の実力は、実際には鍛え抜いた足腰と、日頃の練習で磨いた変化球に拠るものであり、女神の加護は付随的なものに過ぎないのだが、本人はあまり認識出来てないようだ。


 上田南の攻撃は三巡めに入り、1番の松原まつばらから。

 今日は完全に抑え込んでいるが、上田南の上位打線はうるさい巧打者が多く、いつも手を焼かされている。

 敬は高遠のサインを覗き込むと、即座に投球動作に移った。


 基本的に、敬は高遠のサインに肯かない。

 99%は捕手のリード通りに投げるという暗黙の合意が、ふたりの間で出来ているからだ。

 敬のような技巧派ピッチャーは一球で仕留めるよりも、トータルの配球で打ち捕るという考えなので、捕手のリードやバッテリーの意思統一が、非常に重要になる。

 今年の春季大会あたりから敬は、高遠のサインに首を振らなくなっていた。




 左打ちの松原は、初球から仕掛けてきた。

 インコースのカットボールを、ドラッグバント。


 一塁寄りに転がったそれは、絶妙のバントだった。

 俊足の左打者、角度的に微妙に投手が捕るべきボール、左利きの敬は逆シングルで捕球となり、コンマ数秒のタイムラグが生じる。

 松原の、そして上田南というチームの魂が乗り移った、ほんとに良いバントだった。


 しかし冷静かつ迅速な敬のプレイが、それらのすべてを上回った。

 慌てず素早いダッシュで落ち着いて捕球、まったく無駄のない動作で一塁に送球し、少し際どいタイミングではあったが、アウト。

 リラックスした表情で、敬が指を1本立てて微笑んだ。




 2番の岩村田いわむらたはバットを短く持ち、敬が投げる変幻自在のボールに食らい付いていった。

 二球めから6連続ファール。

 ボールを受け取った敬が、両肩を上下に大きく動かす。

 高遠に、ムキになるな、という合図だった。


 我に返った高遠は、外のボール球を一球挟み、ストライクからボールに大きく変化するカーブを要求し、本日8つめの三振を奪った。


 続く3番、中込なかごみ

 初球のスライダーにバットを出し、ファール。

 そして二球め、高遠のサインに対し、敬は久しぶりに首を振った。


 ――球数を掛けても良い。急がずゆっくり腰を据えて、打ち捕ろう。

 方針を変えようという意志の顕れであり、その意図を高遠は汲み取った。

 ならば、とボール球や緩急を織り交ぜた従来のリードに変更し、五球めのカットボールを詰まらせてショートゴロ。

 久しぶりの野手に飛んで来た打球に、守備は躍動し、リズム良く21個めのアウトを取った。


 七回表まで完全試合ペース。

 敬の快投に、古諸のベンチも応援スタンドもボルテージは上がりっ放しだったが、敬自身は到って冷静だった。




 上田南の青沼はかなり消耗しているように見えたが、七回裏も続投だった。

 ここまで被安打は1ながら5四球が響き、投球数は110である。

 古諸の攻撃は7番から、強豪校のエース相手では力の差は歴然だったが、この回は食らい付き、三者凡退ながら16球投げさせた。


 一方、淡々とアウトを積み重ねているかに見える敬は、いつも通り、細心の注意を払いながらの投球だった。

 球速と球威が並の投手レベルである敬は、ひとつのコントロールミスが直接、取り返しの付かない結果へとしばしば繋がってしまう。

 そんな苦い経験を、これまで何度も味わってきた。


 とにかくしっかり投げ切る。

 そして、勝つ。 

 敬にとって完全試合はどうでも良く、それはしっかり投げ切った末の()()()以上のモノではなかった。




 八回表、上田南の4番、小海こうみが左打席に入った。

 県内でも指折りのミート力を持ち、身体が大きく長打も期待出来るという、古諸バッテリーが最も警戒しなければならない選手である。


 一打席めはウイニングショットの難しい球を打たせてレフトフライ、二打席めは得意コースを使った裏をかく配球で、空振りの三振。

 ここまでは敬の完勝だが、同じ手は通用しないだろう。

 高遠のサインを覗き込んだ敬が、にやりと笑った。


 初球、ほとんどぶつけて来そうなインハイから、地面すれすれのアウトローまで変化する、常識外れのスローカーブ。

 判定はもちろんボールだが、これは事実上、古諸バッテリーの宣戦布告である。


 二球めはインコースに食い込むカットボール、これもゾーンからはボール半個分だけ外す。

 敬のコントロールだからこそ出来る配球で、ひとつ間違えば、おあつらえ向きのホームランコース。

 三球めはツーシームが外角いっぱいに入り、これでカウントは2ボール1ストライクとなった。


 ここで並のバッターが相手なら、緩い変化球でタイミングを崩して打ち捕る処だが、小海はきっとそれを待ち構えているだろう。

 予想を上回るすごい変化球、というのも敬なら可能だが、それは奥の手として取って置く事にした。

 四球め、裏をかくつもりで、インローの厳しい処にフォーシーム。

 見送っても2ストライクになるだけだが、次はもっと厳しいボールが来るだろうと思ったのか、小海は振り遅れ気味ながらもバットを合わせてきた。

 その辺は敵ながら、さすがである。


 やや強い当たりのファーストゴロだったが、野手が身体で止め、ベースカバーの敬に送球する。

 1アウト。

 続く打者も球数を要したが難なく打ち捕り、完全試合は未だ継続中である。




「すげえな、おい。敬、マジですげえ」

 ブルペンでは宮田が興奮気味にまくし立てていた。

 軽く肩を作っては、また休み、を何度繰り返しただろう。

 暑さ対策もあり、ブルペン脇の椅子に腰掛けて小休止をしていた。


「宮田が言うくらいだから、やっぱノーノーって偉業なんだね」

「ノーノーじゃねえよ、完全試合。それより小海を打ち捕ったストレートの球速表示、見たか?」

「136km/h出てたよね」

 敬の自己最速、更新である。


「暑くてバテてるだろうに、この最終盤に自己最速、フツー出るか? ギアを上げた結果なんだろうけど、さ……この投球内容でさらに伸び代あるなんて、心底羨ましいぜ……」

「宮田だって伸び代あるじゃない。少なくともコントロールは磨けるよ」

 俺もストレートがもう10キロ速かったら、という言葉を、宮田は飲み込んだ。

 こんな処で、無い物ねだりをしている場合じゃない。


「きゃあ、やったぁ。川路、ナイスバッチー」

 八回裏、1アウトから2番川路の打球が、セカンドの頭を越した。

 古諸のヒットも、これでようやく2本めである。


 上田南はエース青沼をここまで引っ張っていたが、1アウト一塁で3番高遠を迎え、ピッチャー交代、背番号10の臼田うすだがマウンドに上がった。

 力投の青沼が拍手に送られてベンチへ下がって行く。




「もうひとり行くかと思ったけど、ここで交代かぁ」

「高遠には青沼が良かった、て事?」

「うん。高遠は配球読めるから、臼田くんとの相性は比較的良いと思う。だから高遠との勝負は避けて、要でゲッツー狙うんじゃないかしら」


 高遠には、青沼の時ほど露骨ではなかったが、厳しいコースばかりを攻めて、結局四球。

 1アウト一二塁、そして打席には4番土屋と、この試合最大のチャンスに、応援席から声も涸れんばかりの声援が届いてきたが、火の出るようなショートゴロで6-4-3の併殺打となってしまった。

「愛の言った通りになったな」

「こんなの、嬉しくないわよ。予想が外れて点が入れば良かったのに」


 そして九回は表裏とも、三者凡退。

 敬はとうとう、九回参考での完全試合を達成したが、試合はこれで終わりではない。

 0対0のまま、延長戦に突入となった。


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